学習通信031222
◎自由について……自由ということを、我々は自分勝手と思ったのだ
 
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 そういういろいろな問題を抱えながら、この国は駄目になっていくと思う。
 
 第二次世界大戦、あの戦争に負けてからだ。
 あの戦争で、アメリカはこの国を見事に骨抜きにした。それはもう見事としかいいようのないくらい。
 
 憲法とかなんとか関係なく、見事に骨抜きにした。アメリカ人は日本をほんとうに戦えない国にした。これでは何があっても絶対に日本は戦えない。戦争が起こっても、自衛隊の二十三万人と、あと有志が五万人くらいしか集まらないと思う。
 
 アジア諸国は、この国のことを脅威に思って、軍国主義が復活するんじゃないかっていってるけど、そんな心配は絶対にない。
 自由というものをはき違えて、日本人はアメリカ人から教わった。
 
 自由ということを、我々は自分勝手と思ったのだ。
 その昔、日本に自由はなかった。自由な思想や、自由に考えるということはなかった。だからこれからは自由だといわれたときに、何をやってもいいと勘違いした。
 
 自由というのは心の問題であって、自分勝手に行動しなさいということではない。自分に責任を持たなければ、この社会で自由なんて享受できるわけがない。
 
 それをはき違えてしまった。俺は自由だ。権利がある。他人にとやかくいわれることは何もないんだって。それぞれに責任を負った人間が、みんなで支えてこそはじめて自由な社会が保たれるというのに。
 
 そうでなければ、自由なんてただの絵に描いた餅なのに。
 
 責任を負えない者に享受できる自由なんてない、ということを誰も考えない。
 子供に自由なんてないのだ、本来は。それを親までが勘違いして、子供を放ったらかしにして好き勝手にさせているだけなのに、「ウチは自由にさせてる」なんていってしまう。
 
 政治家が本とか書いて、日本の教育を考えなおさなければい悪いとか、そういうことをいろいろいっているけれど、そんなの無理だと思う。
 半世紀かかって骨抜きにされてしまったものを、そんな教育とかで何とかできるわけがない。大人からして間違ってるのだから。
 
 大人が責任をとらない。官僚も政治家も、誰も自分のしたことに責任をとらない。そんな大人たちが、自分に責任を持てと子供にいったって、そんな話、聞くわけがない。
 
 だから日本はどんどん駄目になっていく。自由の国<Aメリカ、そして自分勝手な国″日本になっていくんだろうと思う。
 
 今のこういう日本には独裁者が必要なのだろうか。
 僕が独裁者になったら、絶対にこの国を建て直す。
 子供は携帯を待ったらいかんとか、迷惑メールを打った奴は死刑に処すとか。いきなり飛躍するけど、悪いことした官僚はもちろんみんな死刑。
 
 それこそ織田信長みたいにやっていかないと、絶対この国は良くならない、と思う。
(島田・松本著「哲学」幻冬舎 p193-195)
 
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「ひらたく言えば、いやになっちゃうとか、むかつくとかいうこと?」
 
「そうだね。サルトルは二〇せ紀の都市の人間を描いた。ルネサンスの人文主義者たちは、人間の自由と独立を高らかにうたいあげたよね。ところがサルトルにとっては、人間の自由は呪いだった。
 
サルトルは『人間は自由の刑に処されている』と書いた。自由は人間にとっては運命なんだ。人間は自分で自分を自由であるようにつくったわけではないからだ。世界に投げ出されていながら、何をしても自分の責任になってしまうからだ」
 
「自由な個人にしてくださいって、だれかにお願いしたわけじゃないものね」
 
「サルトルもそう考えた。なのにぼくたちは自由な個人であるのだ、そしてその自由のために、ばくたちは自分でなにもかも決めるように、死ぬまで運命づけられている。頼りになる永遠の価値も基準もない。ぼくたちがどんな決断をするか、どんな選択をするかが、とてつもない重みをもってくる。
 
人間は、自分がしたことの責任からぜったいに逃れられない、サルトルは言った。この責任は軽くいなすわけにはいかない。仕事だからしかたないとか、どう生さるべきかは世間の期待にそうよりしかたないとか、言ってはいられないんだ。そんなふうにして顔のない群衆のなかにずるずるとずり落ちてしまう人は、人格や個性を失った大衆の一人になってしまう。
 
そういう人は自分というものから逃げて、自分で自分をだましている。でも、人間の自由はは黙っていない。ぼくたちに、自分自身で何かをするよう、真に実存して本物の人生を送るよう強いているのだ」
「なるほどね」
(ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」NHK出版 p581-582)
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自由からの逃走
 
「何からの自由?」そんなことにはツアラトゥストラは関心がない。
君の日が私にはっきりと尊げねばならぬのは「何のための自由」ということだ。
 ニーチェ著『ツァラトクストラかく語りき』
 
 長年の会社勤めから解放され、余裕のある年金生活にはいったとたん、「さて、なにをしたらいいのだろうか、いったい自分は何をしたいのか」と戸惑う──もし、そういう人がいるとしたら(たくさんいると思われるが)、それは、自由を重荷と感じている証拠である。
 
 束縛されていない状態が自由なのであるから、本来、自由は軽やかなはずである。「さあ、これからは何でもできる」という気分、それが自由である。ところが、その自由そのものを重荷と感じることは、日常生活でもしばしばある。
 
たとえば、食事時、和洋中なんでもありのデパートの食堂でメニューを選ぶ場合などがそうだ。ソバにしようかラーメンか、カレーもいいが、スパゲティも捨てがたく、天麩羅定食か刺身定食か……思い悩むことしばし、いっそのこと連れの誰かに決めてもらったほうがいい、といった気分になる。
 
 子供の頃、デパートで親戚の叔母さんから、「オモチャをひとつプレゼントするから、好きなものを選びなさい」と言われたときのことを思い出す。たくさんのオモチャがありすぎて、なにを選んだらいいのかわからない。自分は何がほしいのかわからない。「これがいい?」「あれにする?」と、急かせるような叔母さんの声に、ますます、わからなくなってくる。何かその場を抜け出したいような気分。
 
結局、何を買ってもらったのか覚えていない。記憶に残るのは、何か不安な気持だけだった。そのとき私が求めていたのは、「自分で選択しなくてもいい自由」とでも言ったらいいだろうか。つまり、「選択からの自由」である。
 
 人間という哀れな動物は、もつて生れた自由を譲り渡せる相手を見つけたいという、強い願望しか持っていない、とドストエフスキーは言っている。誇張された言い方ではあるが、場合によっては、そういうこともありうる。
 
ヒトラー支配下のドイツで見られた人びとの行動を分析した、心理学者のエーリヒ・フロムは、自由を重荷と感じる人間の心理を「自由からの逃走」と表現した。人間には、他人を服従させたいという心情と表裏一体の関係で、権威に服従したいという心情があり、ひとりの強力な指導者があらわれるや、あっさりと自由を捨て、それに服従してしまう、その典型的な例がナチスに服従したドイツ人に見られる、とフロムは言う。
 
 このことをニーチェはすでに指摘していた。
「自分に命令する力のない者ほど、自分を命令する者を求める」(『華やぐ知恵』)
 
 命令すること、とくに自分自身に命令することに較べると、他人に服従することのほうがはるかに簡単である。他人に服従すれば、自分の頭で考えなくて済む。もちろん、このようなことはヒトラーの時代のドイツにのみあらわれた現象ではない。むしろ、マスコミが飛躍的に影響力を持つようになった現代こそ、「自由からの逃走」現象が顕著となったのではあるまいか。
 
日本のみならず世界中で、多くの人びとが「強力な指導者」、奇跡を起こすような「リーダーシップ」を求めていることが、その何よりの証拠である。あるいは、スポーツやポップ・ミュージックなどの世界で見られる大衆的熱狂も、同様の現象である。「われを忘れて」みんなと感動をともにすることに無上の喜びを感じる──そこには、ヒトラーの時代の「ファシズム」に共通するものがある。
 
大勢の人間がひとつに束ねられる現象、それが「ファシズム」である。ヒトラーの時代は「政治的ファシズム」だったが、現代は、「社会的ファシズム」の時代と言ってもいいだろう。
 
 人びとは命令されない状態(自由)を求めながら、いったんそれを手に入れるや、自由をもてあます。その自由を何かのために生かす術を知らないからである。ツァラトゥストラの言う「何のための自由」とは、要するに、自分自身に命令することにほかならない。他人に服従したり、他人に命令したりすることよりはるかに難しいのが、自分自身に命令すること、自分を自分の思い通りに動かすことである。
 
 自分を思い通りに動かすことがいかに難しいかは、こんな実験をしてみるとよくわかるはずである。就寝前に、明日しなければならないこと、あるいは、したいことをメモする。そして、翌日の就寝前に、どれだけのことができたか点検する。計画と実行の差に自己嫌悪すら覚える人が少なくないはずである。かく言う私自身も、そんな自己嫌悪の日日である。
(木原武一著「人生を考えるヒント -ニーチェの言葉から」新潮選書 p132-134)
 
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「すべての誤った自由論を捨てて、一方における合理的洞察と他方における本能の形をとった諸規定がそのなかでいわば合体して一つの合力になる。そのような関係の経験上知られる性状を、これに代置しなければならない。
 
この種の動力学のもろもろの基本事実は、観察から取ってこなければならず、そして、まだ起こっていない崇事を予測するためにも、できる限り、その種類と大きさとについてあらかじめ全般的に評価しておかなければならない。
 
これによって、何千年ものあいだ人びとがかじりつき食べつくしてきた・内的自由についての馬鹿みたいな空想が根本的に一掃されるだけでなく、さらに、生活を実践的に調整するのに使うことのできるなにか積極的なものが、それに取って代わることにもなる」。
 
──これによると、<自由とは、実質的には、合理的な洞察が人間を右のほうへ引っばり、非合理的な本能が人間を左のほうへ引っぱり、こういう《力の平行四辺形》によって現実の運動が対角線の方向に起こる、ということだ>、ということになる。そうだとすれば、<自由とは、洞察と本能との、分別と無分別との、平均であって、その度合いは、天文学上の一表現を借りれば「個人差」を用いて、各個人ごとに経験的に確定しなければならないものだ>、ということになろう。〔これが、<自由>の第一の規定である。〕
 
しかし、その数ページあとにはこう言われている、──「われわれは、<道徳的責任は自由にもとづくものだ>と主張するけれども、われわれにとって自由とは、生まれながらのまた習得された知力に応じて意識的動機を感受する能力を意味するものにほかならないのである。〔これが、<自由>の第二の規定である。〕
 
すべてこうした動機は、行為における対立がありえることが知覚されているにもかかわらず、避けることのできない自然合法則性をもって作用する。しかし、われわれが遺徳の挺子(てこ)をあてがう場合には、ほかならぬこの避けられない強制をあてにしているのである」。
 
 <自由>の第一の規定にまったく無遠慮に平手打ちを食わせるこの第二の規定は、これまたヘーゲルの見解を極度に浅薄化したものにほかならない。
 
ヘーゲルは、自由と必然性との関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。「必然性が盲目であるのは、ただそれが概念把握されていない限りにおいてのことでしかない」〔『エンチエクロペディー』第一四七節、補遺〕。
 
自由は、もろもろの自然法則に左右されないと夢想している点にあるのではなく、こうした法則を認識するという点に、そして、これによってこの諸法則を特定の目的のために作用させる可能性を手に入れるという点に、ある。
 
このことは、外的自然の法則についても、人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則についても、そのどちらにもあてはまるのである。
 
──この二つの部類の法則は、せいぜいわれわれの観念のなかで切り離せるだけで、現実には切り離すことのできないものである。
 
<意志の自由>とは、だから、事柄についての知識とともに決定をくだすことができる、そういう能力を言うものにほかならない。したがって、或る特定の問題点についての或る人の判断がますます自由になればなるほど、この判断の内容は、それだけ大きな必然性をもって規定されていることになるわけである。
 
他方、無知にもとづいた不確かさは、異なった互いに矛盾しあう多数の決定可能性のなかから気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、自分の不自由を、自分が支配するはずの当の対象に自分が支配されていることを、証明しているのである。
 
自由のなかみは、だから、<自然必然性の認識にもとづいて、われわれ自身と外的自然とを支配する>、ということである。
 
自由は、したがって、どうしようもなく歴史的発展の一つの産物である。動物界から分離したばかりの最初の人間たちは、本質的に重要なすべての点で、動物そのものと同じように不自由であった。しかし、文化におけるどの進歩も、自由への一歩であった。
 
人類史のはじめには、力学的運動が熱に転化することの発見すなわち摩擦火の産出があり、これまでの発展の終点には、熱が力学的運動に転化することの発見すなわち蒸気機関がある。
 
──そして、蒸気機関が社会生活のなかで巨大な解放的変革──それはまだ半分も成就されていない──をなしとげているとはいえ、世界解放の効果という点では、摩擦火のほうが蒸気機関よりもまさっていることは、なんと言っても疑いない。と言うのも、摩擦火が人間にはじめて一つの自然力にたいする支配を与え、それによって、人間を最終的に動物界から切り離したのだからである。
 
蒸気機関はと言えば、人類の発展のうえでけっして摩擦火ほどの巨大な飛躍をもたらすことはないであろう、──もはや階級の区別がなく、個人の生活の資を手に入れるための心配もなくなって、はじめて真の人間的首由を、認識された自然法則と調和した生活を、話題にすることのできる、そういう社会状態が、蒸気機関に依存する巨大な生産力に助けられてだけ可能となるのであって、蒸気機関は、そうしたすべての生産力の代表者としてわれわれにとってきわめて重要なものではあるけれども。
 
しかし、<これまでの歴史全体は、力学的運動が熱に転化することの実地の発見から熱が力学的運動に転化することの実地の発見までの期間の歴史であると言いあらわすことができる>、という簡単な事実から見ても、人類史全体がまだどれほど若いか、そして、われわれの現在の見解を或るなにか絶対的な妥当性をもったもののように考えることがどれほどばかげているか、ということがわかる。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p162-164)
 
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◎自由ということ。「反デューリング論」の抜粋を何回も何回も読んでみてください。仲間との論議をしてください。最初の3つの抜粋はそこらに溢れている見解です。何処が問題で、何が不足しているのだろうか……。