学習通信031224
◎常識≠ノとどまっていられない……。
 
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 批判を拒否した「へんじゃない」は無責任になる
 
「へんじゃない」の多数派を代表するものは「常識」だが、「常識」というものは、自分がひっくり返されることがあるなどとは、夢にも思わないものである。しかし、その「常識」だって、いつかは硬直してしまう。「自分はへんじゃない、へんじゃない」と言い続けていれば、いつかは、そのこと自体が「へん」になるからである。
 
 自信を喪失した男達から無際限に近い自由≠与えられて、女達は「へん」から「へんじゃない」に変わった。女達にそれを与えることによって、男もまた「へんじゃない」の位置を確保し続けようとした。その結果、二十世紀末の日本には、男と女と二つの「へんじゃない」が存在してしまう。
 
「へんじゃない」ばかりがあって、「へん」がどこにもない。「へんじゃない」を主張するのは、男と女の二大勢力ばかりではない。人間には、「年齢」という立場もある。大人が自分を「へんじゃない」と規定すれば、子供も自分を「へんじゃない」と規定する。子供の時期を過ぎてまだ大人にはなっていない若者も、「へんじゃない」を主張する。
 
どこもかしこも、誰も彼も、自分の立場を主張して「へんじゃない」と言い、「正当」だと言う。それはつまり、批評されることを拒否する人間達が増えたということであり、つまりは、自己中心的な無責任人間がやたらと増えたということである。
 
 だからこそ、へんな犯罪が多発する。他人を平気で殺す。犯人の頭の中に「自分=へんじゃない」の正当性がしっかと根を下ろしているのだから、たまったものじゃない。通り魔犯罪のようなものが続出するのは、そのためである。
 
自分だけが「正しい」──「自分=へんじゃない」のまま孤立して、他人の批判に遭遇することがなかったら、その人間は異常事のし放題である。「自分=へんじゃない」がその根本にあるから、一向に悪びれない。だからこそ、平気でその類似犯のようなものが続出する。批判を欠いてしまった世の中というのは、恐ろしいものである。
 
 「へんじゃない」は批判の拒否で、「へん」とは、これに対する批判票なのである。これがなくなったら困る。「へんが減ったからまともが増えた」とは、「へんじゃない」の立場から見ただけの多数派肯定理論で、正当なる批判票は、常になければならないのである。
(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p57-58
 
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 「わかっている」という怖さ
 
「常識」=「コモンセンス」というのは、「物を知っている」つまり知識がある、ということではなく、「当たり前」のことを指す。ところが、その前提となる常識、当たり前のことについてのスタンスがずれているのに、「自分たちは知っている」と思ってしまうのが、そもそもの間違.いなのです。この場合、それが男女の違いに顕著に現れた。
 
 女の子はいずれ自分たちが出産することもあると思っているから、真剣に細部までビデオを見る。自分の身に置き換えてみれば、そこで登場する妊婦の痛みや喜びといった感情も伝わってくるでしょう。従って、様々なディテールにも興味が湧きます。
 
一方で男たちは「そんなの知らんよ」という態度です。彼らにとっては、目の前の映像は、これまでの知識をなぞったものに過ぎない。本当は、色々と知らない場面、情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。
 
 本当は何もわかっていないのに「わかっている」と思い込んで言うあたりが、怖いところです。
 
 知識と常識は違う
 
 このように安易に「わかっている」と思える学生は、また安易に「先生、説明して下さい」と言いに来ます。しかし、物事は言葉で説明してわかることばかりではない。いつも言っているのですが、教えていて一番困るのが「説明して下さい」と言ってくる学生です。
 
 もちろん、私は言葉による説明、コミュニケーションを否定するわけではない。しかし、それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、というのがわかっていない。そこがわかっていないから、「聞けばわかる」「話せばわかる」と思っているのです。
 
 そんな学生に対して、私は、「簡単に説明しろって言うけれども、じゃあ、お前、例えば陣痛の痛みを口で説明することが出来るのか」と言ってみたりもします。もちろん、女性ならば陣痛を体感できますが、男性には出来ない。
 
しかし、それでも出産を実際に間近に見れば、その痛みが何となくはわかる。少なくとも医学書だの保健の教科書だのの活字のみでわかったような気になるよりは、何かが伝わって来るはずです。
 
 何でも簡単に「説明」さえすれば全てがわかるように思うのはどこかおかしい、ということがわかっていない。
 
 この例に限らず、説明したからってわかることばかりじゃない、というのが今の若い人にはわからない。「ビデオを見たからわかる」「一生懸命サッカーを見たからサッカーがどういうものかがわかる」‥‥・。わかるというのはそういうものではない、ということがわかってない。
 
 ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は、常識≠雑学=@のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがあります。私は、「そうだよ、その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得たりというところでした。
 
 日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。出産ビデオの例でも、男たちは保健体育で雑学をとっくに仕込んでいるから、という理由だけで、「わかっている」と思い込んでいた。その延長線上から、「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもらえるはずだ」といった勘違いが生じてしまうのも無理はありません。
 
 現実とは何か
 
 もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、「そもそも現実とは何か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなのか、ということです。ところが、誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはいない。
 
 たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というものも極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしょう。
 
 世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の小説『薮の中』や黒澤明監督の『羅生門』のテーマだった。同じ事件を見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主題です。まさに現実は「薮の中」なのです。
 
 ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。
 
 だから、テレビで見たというだけで、二〇〇一年九月十一日にニューヨークで何が起こったか、「知っている」「わかっている」と思ってしまう。実際にはテレビの画面を通して、飛行機が二棟の高層ビルに突撃し、その結果ビルが崩壊していったシーンを見ていただけです。その後、ニュースではテロの背景についての解説も繰り返されました。
 
 しかし、テレビや新聞を通して一定の情報を得ただけの私たちにはわかりようもないことが沢山あるはずです。その場にいた人の感覚、恐怖だって、テレビ経由のそれとはまったく違う。にもかかわらず、ニュースを見ただけで、あの日に起きた出来事について何事かがわかったかのような気でいる。そこに怖さがあるのです。
 
 現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。
 
 実際には、そうではありません。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教は、現実というものは極めてあやふやである、という前提の下で成立したものだと私は思っています。
 
 つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握してくれる存在が、世界中でひとりだけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼らは科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追求出来るのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。
 
 ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万(やおよろず)の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖が無い。それは当然のことで、「絶対的真実が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p16-21)
 
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 もろもろの事物を、静止した・生命のないものであると、個々別々に、横に並べ縦に続けて、考察するあいだは、確かに、そうした事物について矛盾にぶつかることはない。
 
そこには或る種の特性があって、共通なものもあれば違ったものもあり、それどころか、互いに矛盾しあうものさえあるけれども、この場合にはそれぞれ違った事物に配分されているので、それ自身のうちに矛盾を含むということはない。
 
この考察領域でこと足りる限りでは、普通の形而上学的な考えかたでもなんとかやっていける。
 
しかし、もろもろの事物を運動し変化し生きていて交互作用を行なっている姿で考察すれば、そのとたんにまったく事情が変わる。
 
そこでは、われわれはただちに矛盾におちいってしまう。運動そのものが一つの矛盾である。
 
すでに単純な力学的な〈場所の移動〉でさえ、〈一つの物体が同一の瞬間に或る場所にありながら同時にもう一つ別の場所にある〉ということ、〈同一の場所にあるとともにそこにはない〉ということ、ただこのことによってだけ行なわれることができるのである。
 
そして、こういう矛盾を絶えず定立しながら同時に解決していくことこそ、運動なのである。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p171-172)
 
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◎「もろもろの事物を運動し変化し生きていて交互作用を行なっている姿で考察すれば、そのとたんにまったく事情が」……と。
 
変化しないものはありませんね。多くの人がだれがやっても同じ≠フ政治でも変わらないということはありません。あなたはどのように見えますか。