学習通信031226
◎あなたはどのように現実・現状≠とらえるのでしょう……。
 
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■問題発見能力が求められている
 
 これからの社会では独創性が必要だと言われる。工業力では、人件費も土地代も運賃も安い中国などに太刀打ちできない。これからの日本が生き抜く道は、次々と新しい技術を開発し、新しい文化をリードしていくしかない。そのためにも、独創性は不可欠だ。これまでとは違った技術、文化を作り出す必要がある。
 
 では、それはどうやって作り出せるか。問題発見能力による。
 物事を考えるのは、問題点を見つけ出すところから始まっている。いや、それどころか、問題点を見つけ出したときには、すでにあらかた解決の目途がたっていると言っても言い過ぎではないだろう。
 
 みんなが議論していることについて自分の意見を加えることも、もちろん大事だ。防衛問題、ゆとり教育問題、グローバル化にかかわる問題、そして、それ以上に、もっと身近な、自分の所属する組織の抱える問題など、自分の意見を明確にしておくべきことはたくさんある。自分の会社の弱点を見つけ、立て直す方法などについて、考えておくべきではある。
 
 問われていることにきちんと答えることも大事だ。そうすることによって、知的と見られ、論理的に見える。上司に何かを問われたとき、即座に答えることは、知性をアピールするには絶対に必要なことだ。
 
 だが、実を言えば、人に与えられた問題だけを考えていたのでは、いつまでたっても独創的な着眼点を見つけることは難しい。与えられた問題について考えるということは、半ば以上を、他者に考えてもらったことを意味する。スタートラインを定められ、それに乗っかって走っているにすぎない。そこから、独創的な発想が生まれることは少ない。
 
 人が当たり前と思っていること、何も気づかずに通り過ぎるようなこと、もう慣れきったために誰も不思議に思わなくなっていることにも、実は、おかしなことがたくさんある。それを疑問に感じ、その理由を考える。そうすれば、これまでとは違った視点から、物事を見ることができる。
 
 そうすることによって、独創性をアピールできる。それ以前に、ユニークでおもしろい人と見てもらえる。そして、そこに鋭い指摘があれば、思考力をアピールできる。
 
 新しい発見、新しい発想、それらは、みんながこれまで当たり前と思っていたことを疑問視し、新しい角度から見なおした結果によると言っていいはずだ。
 
 コペルニクスの地動説など、まさしく、見慣れていた光景をまったく逆の視点から読み取った例と言っていいだろう。
 
 それほど世界史的でなくても、もっと身近な例がたくさんある。
 故伊丹十三監督の処女作、映画『お葬式』も、それまで映画の題材になるとは誰も思わなかった葬式を、別の角度から見てドラマ仕立てにしたものだった。だから、新鮮なショックを映画界に与え、ヒットにつながったわけだ。伊丹監督の映画のほとんどが、あまりに日常すぎて誰も光を当てなかったテーマに光を当てて、ドラマにしたものだった。
 
 ひところ大流行だった「たまごっち」も、ペット・ロボットも、それまでそんなものが必要とされているはずがないという常識を否定し、他人と違う角度から物事を見た結果、生まれたものと言っていいだろう。ホンダやソニーが世界進出を果たしたのも、それまで大きいことが良いこととされていた常識を真っ向から否定して、小さくて性能の良い製品を作ろうとしたためなのだ。そもそも、芸術作品も商品も、他人と違った見方をしたところから生まれたものを、新しいものと呼ぶわけだ。
 
 では、どのようにして、問題を発見できるのか。先にあげた発想はどれも天才的に見えるが、それほど常人からかけ離れた発想ではない。
 一言で言えば、現状に「ノー」と言えばよいのだ。見慣れた光景を無条件に受け入れるのではなく、もっと別の考え方、もっと別の見方を探すということは、現状に「ノー」と発することにほかならない。口に出す前に、少しの間しっかり考え、現状にノーと言ってみること。それが独創的な思考の第一歩と言えるだろう。
 
■問題発見能力とは、ノーと言うこと
 
 あらゆることにノーがある。イエスに決まっているということはない。第一章で述べたように、顕在があれば、潜在がある。イエスがあれば、ノーがある。ある出来事が起こっているとしたら、まだ起こっていない反対の出来事があるはずだ。ある意見があるとすれば、それに反対の意見があるはずだ。そう考えることによって、現在の出来事を絶対視しないですむ。
 
 もちろん、自然現象そのものには、ノーはありえない。自然法則を否定することはできない。だが、人が自然を認識する段になると、そこに解釈が含まれる。したがって、ノーが生じてくる。かつての人間は、自然を見て太陽が動いていると解釈していた。だが、コペルニクスによって、それは否定された。同じように現在の科学で自明の理とされていることも、将来、否定されることはたくさんあるだろう。いや、そもそも、すべての学問は、それ以前の常識に対してノーと宣言するものだと言って間違いない。
 
 ノーという視点が生まれないと、停滞する。現状にノーを突きつけることによって、新しい展望が見えてくる。もっと言えば、ノーという言葉によって、発展する。
 
 物事にノーを突きつけて、「現状はおかしい。改めるべきではないか」というイエス・ノーの二項対立の形にすることが、問題発見能力と言っていいだろう。
 
 みんなが当たり前と思っていること、今さら疑いを抱かなくなっていることにも、おかしなことがたくさんある。それを見つけるわけだ。たとえばみんなに親しまれている野球にも、おかしなところがたくさんある。それにノーと言ってみる。
 
 「巨人・阪神戦」、あるいは「巨神戦」という表現をとってみよう。もう誰も怪しまなくなっているが、考えてみると、これはおかしな表現だ。「巨人・阪神」というのは、もちろん、「読売ジャイアンツと阪神タイガース」の意味だ。だが、もしそうだとすると、「読売・阪神戦」とか「ジャイアンツ・タイガース戦」と言うべきではなかろうか。なぜ、読売ジャイアンツだけ、ニックネームを日本語に訳して「巨人」と呼ぶのか。「巨人」という言葉をどうしても使いたいというのなら、「巨人・虎戦」「虎・燕戦」などと言うべきだろう。
 
 ルールにもおかしなところが多い。
 たとえば、ストライクは三つでアウト、ボールは四つでフォアボールになって一塁に進めるというルール。誰もが疑問なく、そのルールを受け入れ、当たり前のこととしている。だが、考えてみると、不思議なことだ。なぜ、公平に両方とも三にしないのか。そのほうが、わかりやすいし、合理的だ。
 
 私がこのように疑問を口にすると、多くの人は「ストライクはストライクゾーンに入りにくいので三つにしている」と答える。だが、よく考えてみると、それでは納得いかない。ストライクが入りにくければ、ストライクゾーンを広げればすむことだ。ほんの少しストライクゾーンをいじるだけで、ストライクが入りやすくできるだろう。
 
 ところが、そう答えると、「ストライクゾーンが広がると、バッターに不利で、点がとりにくくなる」という反論が出る。だが、それもおかしな話だ。点が入りにくいというのなら、守備の人数を減らして、たとえば、ショートとセンターをなくせばよいではないか。そうすれば、もっとヒットが増え、点が入るだろう。どう考えても、ストライクは三つでアウト、ボールは四つで一塁へというのは、かなり不思議なルールだと言っていいだろう。
 
 このように、おかしなことは、周りに転がっている。そうしたことを考えることで、ときに様々な問題が見えてくる。
 
 少なくとも、雑談などで、そのような疑問をロにすることによって、会話も活気づく。ユニークな視点を感心してもらえるだろう。少なくとも、おもしろい人という評価が得られるに違いない。
 
■問題を見つけ出すためのコツ
 
 では、どうやって、ノーの視点を見つけ出すか。
 現状を肯定せず、今の状況を過渡的だと考えることだ。現状に満足して生きるというのは、ある意味で人間の理想だ。現状に不満をもつということは、常に満たされないということであって、決して勧められる生き方ではない。だが、新しい発想を見つけ出そうとするのなら、現状に満足してはいけない。
 
昔はひどかったが、今はすべてが良くなった、などと思っていたら、独自の発想は出てこない。これからいくらでも工夫の余地はある、まだまだ今の状況は良くない、と考える必要がある。そして、常にもっと良くすることを考える。
 
 したがって、あらゆることを自明の理と考えるべきではない。先ほども述べたとおり、自然法則以外、様々なものが疑わしい。いや、「太陽が動いている」という現象さえ、事実ではなかったのだ。様々な自明の理が疑わしい。そして、我々が「自然」だと思っていることにも、そうでないことが多い。
 
 男がネクタイをしてズボンをはくのが自然で、化粧をしてスカートをはいたら不自然だと考える。だが、言うまでもなく、そうしたことは約束事でしかない。いや、それどころか、くしゃみですら、自然に属することではない面があると、私は考えている。
 
 かなり以前のことだが、パリの道を歩いているとき、後ろでくしゃみが聞こえてきた。その瞬間、私は「あ、日本人だ」と思って振り返った。思ったとおり日本人がいた。パリには、韓国人や中国人など、骨格が日本人と似た民族もたくさんいるが、日本人だけが日本人風のくしやみをしていた。
 
 くしゃみだけではない。咳にも、日本特有の流儀がある。朝鮮半島の人は、「アイゴー」といって泣くと言うが、それと同じことだ。我々はそれを自然な行為と考えているが、両親や周囲の人の咳やくしゃみの仕方を学習して、日本人として好ましい咳やくしゃみをしているにほかならない。
 
 自然なことも自明の理と思われていることも、そうとは限らない。すべてをとりあえずのものと考える姿勢が必要だ。
 
 子どものころは、誰もが様々な疑問をもつ。だが、徐々にそれを押さえつけて、大人になり、その道のプロになっていく。そして、疑問をもたなくなる。
 
 大人になるということ、その道のプロになるということは、言ってみれば、特殊な考え方を身につけるということだ。カメラマンならカメラマン、営業マンなら営業マン、学者なら学者というように、それぞれの価値観がある。プロになるということは、その価値観を身につけるということだ。
 
 もちろん、プロになることは大事なことではある。だが、そうなりきってしまうと、初めに抱いた素朴な疑問を忘れてしまう。
(樋口裕一著「ホンモノの思考力」集英社新書 p42-49)
 
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 若き論客たちの現実主義
 
 日本の言論界にここ数年、明快な論理で 「現実主義」の立場に立ってさまざまな社会問題を論じる論客の登場が続いている。そのひとり、政治学者の村田晃嗣は、「若い世代の改憲論」の中で、改憲の必要性をきわめて前向きな姿勢で述べる。
 
 改憲は一国の大事である。それは戦前派や戦中派のルサンチマンを癒すためになされるべきものではない。それは人生の大半を二十一世紀に過ごすであろう世代のためになされるべきものなのである。
(『中央公論』 二〇〇〇年六月号)
 
 つまり、「アメリカから押し付けられた憲法なのだから改正が必要だ」などと改憲の必要性の根拠を歴史に求めようとするのはナンセンス、あくまで現在の現実を見つめ、未来を志向した上で改憲は必要なのだ、と言う。そうやって歴史から「切り離し」された地点に立つ村田が提示する「『改憲』のための基本的な考え方」は、非常にシンプルである。
 
 たとえば、集団的自衛権行使を認めよ、という箇所を抜粋して紹介しょう。
 
 実際、単独での自主防衛より同盟を通じての安全保障のほうが、非挑発的で安全、かつ安上がりである場合のほうが多い。個別的にしろ集団的にしろ、大切なことは、自衛権は慎重に行使されるべきだということであって、それは政治的叡智に属する問題である。法律があらかじめその行使を禁じるのは筋違いである。
 
 集団的自衛権の行使が危険視されるのは、「安保巻き込まれ」論によるところが大きい。しかし、日米安保の有無にかかわらず、日本が近隣諸国の軍事的紛争に巻き込まれる可能性は、少なくない。そのような事態の発生を未然に防止し、不幸にして発生した際にその被害を極小化する、というのが日米安保の目的なのである。(前掲論文)
 
 この主張に対して、村田と同じ地平──つまりコスト感覚などを大切にする現実主義的な立場──で反論を試みるのは、大変にむずかしいことであろう。「個別的自衛より集団的自衛のほうが安上がり」というのも「日本が近隣諸国の軍事的紛争に巻き込まれる可能性は少なくない」というのも、たしかにその通りだからである。
 
 村田の「若い世代の改憲論」は、掲載された翌月の『毎日新聞』「論壇時評」でも担当記者により「今月のベストの論文」に選ばれるなど、各方面で評判を呼んだ。
 
 しかし、「集団的自衛のほうが効率もいいし」といった理由で、現憲法が成立した歴史などもすべて「切り離し」をして、あっさり改憲をしてよいものなのだろうか。実は、こういう批判に対する答えも村田は論文中にすでに用意している。「筆者は一九六四(昭和三十九)年の生まれである。(中略)昔風に言えば『戦争を知らない』世代であり、少し前の流行り言葉では『新人類』である」。
 
 「私は戦争のことなど知らない。そんなことより、いまにも近隣諸国が改めてくるかもしれないのだから、集団的自衛権の行使の禁止、などといった筋違いなことはやめてほしい」といったこの主張は、「戦時下の愛国詩暗誦運動なんて知らない。
 
それより、いま、美しい日本語を暗誦して心身を鍛えたほうがいいじゃないか」という日本語ブームや、「歴史のことなどよくわからないけれど、いまニッポンチームを応援するための『日の丸』を振るのが、どこが悪いの〜」というW杯サポーターなど、ぷちナショナリズムに傾いている人たちの動きとも、ぴったりシンクロしているのではないだろうか。
 
 「右翼とか左翼とか関係ない世代」と自認する斎藤孝は一九六〇年生まれ、「昔風に言えば『戦争を知らない世代』」と言う村田晃嗣は一九六四年生まれである。論理の明快さと現実主義を特徴とするこのふたりの論客のちょうど中間の年齢、一九六二年生まれの経済学者が西部忠だ。その西部の論文「地域通貨の意義と可能性」もまた、非常に明快な論理で「自由主義と個人主義の時代の地域通貨の必要性」を訴えかける。
(香山リカ著「ぷちナショナリズム症候群」中公新書ラクレ p112-115)
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現実世界は豊かな可能性をもっている
 
 次に現実性と可能性の連関について考えてみましょう。日常普通に用いられることばとしては、現実性とは、現に事実として目の前にあることを意味し、可能性とは、できる見込みはあるが、まだ実現していないことを意味しています。
 
したがって、形而上学的思考からすれば、両者は単純に別種のことがらで、現実性は現にあること、可能性はありうるけれども、まだないということ──というように、両者を別々に切り離します。
 
●現実性をふくんでこその可能性
 
 しかしよく考えてみるならば、現実性と可能性は別々のものではなく、密接な連関をもったものだということに気がつくでしょう。可能性とは、まだ現実には存在していないが、やがて実現されて現実性になりうる傾向のことをいうわけですから、可能性のなかには、そもそも現実性が萌芽としてふくまれています。
 
ものごとがやがて現実性となりうる傾向や要素をふくんでいないのであれば、それは可能性をもつとはいえないわけです。
 
 現実世界のものごとは、それぞれ豊かな可能性をもって存在しており、それらは一定の条件が成熟するならば現実性に転化するべきものです。可能性は現実性への転化の傾向をふくんでこそ可能性といえます。
 
●現実的可能性と抽象的可能性
 
 ただし、可能性というときに、それが現実性に転化する条件をもたない(あるいはその条件がまだととのっていない)可能性があります。このような可能性を、抽象的可能性(あるいは論理的可能性)といいます。たとえば、だれであっても、金もうけをして大金持ちになれる可能性をもっています。
 
しかし実際には、だれもがその条件をもっているわけではなく、これは抽象的可能性でしかありません。これにたいして、実現の条件のある可能性を現実的可能性といいます。この二つの可能性を区別すると同時に、その相互関係について考えることが重要です。
 
 たと、えば、当初、小泉内閣の支持率は高くて、憲法違反の自衛隊の海外派兵をやっても人気は衰えず、小泉内閣が倒れるといったことは、おこるようにも見えませんでした。ところがその後、小泉内閣が自民党を変革するどころか、大企業のリストラ支援、医療保険の改悪こ国民の負担増、ムダな公共事業の継続、「ムネオ問題」の放置など、国民収奪、大企業・大銀行支援、金権腐敗といった旧来の自民党政治をそのまま続け、いっそう推進している実態が明らかになりつつあります。
 
このなかで国民の見方が大きく変わり、小泉内閣の支持率低下は現実的可能性へと転化しつつあるどころか、急速な小泉内閣離れがすすんでいます。
 
●「現状追随」では本当に現実をとらえたことにはならない
 
 ここで「現実主義」といわれている傾向について述べておきたいと思います。理想ばかり追い求める現実無視の態度にたいして、あくまで現実に立脚すべきことを説く考え方といえるでしょう。しかし、現在の日本の政治状況のなかでは、「現実主義」の名のもとに、未来への展望を見いだしえず、現状に甘んじる態度、要するに現状追随主義がすすめられています。
 
 この現実主義は、哲学的にいえば、未来への可能性を見失い、現実性と可能性とを単純に切り離してしまう形而上学的思考におちいっているということができます。同時に、ここでいわれている現実とは、ただ目前にあらわれている現象にすぎないものを現実と取りちがえていることも指摘しなくてはなりません。
 
現象とは、先に述べたとおり、本質との関連で把捉されるべきものです。そして、本質と現象を統一してとらえてこそ、現実をつかむことができます。ヘーゲルは、現実は「本質と現象との統一」としてとらえなければならないと強調しましたが、マルクスもこの考えを継承しています。
 
 それは、たとえば次のようなことです。現代社会を見てみると、さまざまな社会現象がくりひろげられています。一方に経済不況があり、大リストラがあり、青年の就職難があります。他方で、そうした悪政をすすめているはずの小泉内閣が高い人気をえた時期がありました。この現象面だけを見ると、日本は展望のもてない、どうしようもない世の中だということになります。これが現象面です。
 
 しかし考察をすすめて、もう少しくわしく考えてみると、現在の不況も、失業者の増加も就職難も、資本主義の矛盾のあらわれであり、小泉首相の人気は「自民党を変えます。日本を変えます」といっていることへの期待のあらわれであったことがわかります。
 
これらは、日本資本主義の現状は肯定できるものではなく、否定的に評価するしかないという実態のあらわれだったといえるでしょう。このように、ものごとの本質と先の現象を統一したものが現実です。したがって現実をとらえるとは、ものごとの現象の多様な姿をよく観察し、その背後にひそんでいる本質を見抜き、この本質と現象とを統一してとらえることです。
 
 こんにちの日本の政界ではやっている現実主義なるものは、社会の当面の姿(現象)だけを見て、本質を見失っているものが多いので、本当に現実を正確にとらえた立場とはいえないと思います。
 
私たちは、たんなる夢や幻のような空想を追い求めるのではなく、現実を直視して活動すべきですが、その現実というのは右のような意味の現実でなければなりません。そのようにとらえてこそ、現実のなかにひそんでいる変革の可能性や、その可能性を現実のものにするための条件も、しつかりととらえることができるのです。
(鰺坂真著「科学的社会主義の世界観」新日本出版社 p109-113)
 
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◎私たちは日常どこにでもある現実・現状≠どのようにとらえているのでしょう……。TVに登場する売れっ子「学者」達のとらえる現実・現状=c…。
 
◎この学習通信≠最後に休刊に入ります。04年1月5日に再開します。
 
そこでみなさんにお勧めです。大江健三郎著『自分の木」の下で』『「新しい人」の方へ』(どちらも朝日新聞社)の2冊を深く読んで考え込んでください。素晴らしい新春がやってくるのではないでしょうか。ではまた……。