学習通信040108
◎恋愛  互いにいろいろな利害が一致し、一致しない部分も……
 
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不純な年代
 
 見合いの話は置いておいて、まずは恋愛結婚のことを考えてみることにする。
 二十代の恋愛は結婚に直結しやすい。二十代の男女が相思相愛でつきあっていたら、よほど「私は誰とも結婚はしない」という固い意志を持っていないかぎり「この人と結婚をしたらどうかな」と意識するはずである。
 
 十代であったり、二十代でもまだ前半であったりすると、結婚なんてずっと先のこととして、つきあっている相手が「結婚するのはちょっとな」という感じでも、今が楽しければそれでいいやと気楽に思える。
 
 しかし社会に出て、二十代の階段を上がってゆくにつれ、つきあっている相手の素行を「結婚するかも」という想像に照らし合わせてしまい、友達だったら気にならないどうでもいいことがいちいち気になって、イライラしたり落ち込んだりして恋愛のダークサイドを見ることになる。
 
 そして二十代後半から三十を越えて、それが半ばになってくると、また不思議と男の人とつきあうのが気楽になってくるというケースが多いように私は思う。何故ならば「別にこの人の妻にならなくてもいいんだ」と思えてくるからだ。相手が貧乏だろうが浪費家だろうが、田舎がどこであろうが長男だろうが、結婚しないのなら大した問題ではない。
 
 そういう意味で、二十代の恋愛は、なかなかそう純粋にはなりきれない。
 つきあっている相手の仕事や将来性や、どんな家庭で育ってどんな価値観をもっているのか、まさか親と同居する気なんじゃないかとあれこれ気になる。でもそれは当たり前のことだ。もし、その相手と結婚するのであれば、諸条件がこちらの人生にも大きな影響を及ばすのだから、気にしない方がおかしい。
 
 女性がそうして男性を査定しているように、男性の方だって「この子はちゃんと料理はできるか、金銭感覚はどうか、思いやりはあるか」などと、なに食わぬ顔をして観察しているのだ。
 
 そしてお互いにいろいろな利害が一致し、一致しない部分も「この人と家庭をつくるためなら譲歩してもいい」と思えた時、二人は結婚に至るのである。
 
 この過程が三ケ月だったり、二、三年だったり、十年かかったりするのはそのカップルによるだろう。そして多くの人は、この人と結婚するのは運命だったと思ったりするものだ。
 
 私の場合は、運命どころか天が与えて下さった奇跡だと思った。こんなにも理解しあえる(=利害の一致する)人が世の中にいて、一億人以上いる日本の中で知り合って、しかも相思相愛になったなんて奇跡としか思えなかった。その奇跡に私は心から感謝していたし、好きな男の人と結婚できて本当に幸せだった。
 
 その気持ちには、嘘や偽りはなかった。
 
 けれど、今冷静に振り返ってみると、結婚相手に巡り合ったことを奇跡とか運命とかいうのは大袈裟だったなと思う。ただ結婚したい盛りの男女が出会って、共通の友達も多くて、いろいろ話題も合って、お互い家から自立したくて、一応社会人にもなっていたのでここらで結婚してみるか、という、ありふれた諸にすぎなかった。もちろん相手のことが好きだから結婚したのだが、どうしてもその人でなくてはならないということもなかったのだ。
 
 たかが二十数年で出会える異性の数は、想像以上に限られる。極端なことを言うと、クラスの中でどの子か一人を選んで結婚しなければならない、というくらいの狭い範囲で、人は恋愛や結婚の相手を選んでいるのだと思う。
 
 そして、そんな狭い範囲の中からでも、案外気の合う相手を見つけられるものだし、クラスの中にどうしても気に入る男の子がいなかったら(あるいは、クラス中の男の子が誰も気に入ってくれなかったら)、隣のクラスに行けば一人くらいは相思相愛になれる相手を見つけられるものなのかもしれないと思う。
 
 赤い糸は一本ではなく、一本切れたらまた次の糸をたぐりよせられるのが、二十代の恋愛だと私は思う。
 
 もちろん二十代でも、打算のまざらない恋愛や、計算のない結婚をする人はいる。そういう人は何かしらに恵まれているのだと思う。それは生活の心配がない経済力だったり、生活の心配なんかしない心そのものの純粋さだったり、自己犠牲をいとわない献身的な性格だったりとかいうものだ。
 
 しかし大抵の人間はそんなに恵まれてはおらず、小さく臆病で弱いものだと私は思う。微力な者同士が力を合わせて生きていこうとするのが結婚で、それはとても普通で自然でたくましくもあるなと私は思う。
(山本文緒著「結婚願望」角川文庫 p21-24)
 
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 恋愛というのは意識よりやや深い部分で進行したり停止したりする。つまり、この人はいい人だから好きにならなきゃ、と意識して異性を好きになる人はあまりいない。この人は大企業の社長の息子だし好きにならなきゃ、みたいなことを思う人は確かにいるかも知れない。
 
この人は医者だし都心に広いマンションも持っているので好きにならなきや、と思うような古いタイプの人もまだまだ多いかも知れない。だがそういう途上国型の考え方は、日本ではいずれ下層階級に限られたものになるだろう。
 
 たとえば前述した外資系の金融機関に勤める年収千二百万・二十九歳みたいな女性は、彼が医者だからとか、金持ちの二代目だからという理由だけで男を好きになる必要がない。自分で好きな男を選べるからだ。そういう先進国型の恋愛の場合、意識よりやや深い部分で、相手を好きになることが多い。どうしてあの人を好きなのかわからないけど好き、というケースが多い。
 
 尊敬があるのかも知れないし、セックスがいいのかも知れないし、母性本能をくすぐられるのかも知れないし、どういうわけか和むということかも知れない。誰が見ても絶対に別れたほうがいいというような、たとえばまったく生活力のない男とか、暴力団員とか、自分でもどういうわけかわからないまま相手を好きになることは少なくない。
 
自分でもわからないこと
 
 わたしは一度、アメリカ人の女性彫刻家から、あなたのことが気になるんだけど自分でもどうしてかわからない、と言われたことがある。LAのマリブに住むその画家は三十代前半のきれいな人で、かなり有名なアーティストだった。わたしは日本人で、妻帯者で、五十近い歳で腹も出ているし、身長も彼女のほうが高かった。LAと東京でそれぞれ二度ほど一緒に食事をした。
 
あなたと話していると気が落ち着くし楽しい、というようなことを言われたりしたが、わたしはどうして誘われるのかまったくわからなかった。
 
 そのあと彼女からメールが来た。
「なぜあなたが気になるのか。セラピストと話してやっとわかった。小さいころに別れたきりなので、ほとんど記憶がないんだけど、わたしの父は無名の小説家だった。それで中年の作家、つまりあなたと一緒にいると楽しくて落ち着いた気分になれたのだと思う」
 
 わたしたちが人を好きになるとき、理由がわからない場合が多いのは、意識よりやや深い部分が働いているからではないかと思う。つまり普通の生活で使っている意識より深い部分で好き嫌いが決定されている。よく言われていることだが、普段わたしたちは脳の十パーセントくらいしか使っていないし、記憶のすべてを意識的に把握しているわけではない。
 
 その映画のストーリーも主演女優の顔をよく憶えているのに、主演女優の名前が出てこない、みたいなことがある。意識が脳の働きのすべてをコントロールできていないことの小さな証拠だ。
 
 さて、前述の外資系金融機関の女性に話を戻すが、恋人の年収が自分の半分だったことがわかって彼女は引いてしまった。自分が本当に彼のことが好きかどうかを疑うようになってしまった。単純に考えるとその女性は、男の価値を年収で判断してしまう計算高い人、というようなことになってしまう。しかし、恋人の年収が自分の半分だった、と知ったときの彼女の心の動きはそれほど単純ではないだろう。
 
「この男は、年収がわたしの半分だということが平気なのだろうか。妻の半分しか稼げなくてもそれでいいと思っているのだろうか。男女の関係というものはそれぞれの年収なんかに関係がないと考えているのだろうか。年収が半分だということは、悪い表現をすると、わたしにたかる、ということになるのかも知れないと思わないのだろうか。
 
この男は、年収には関係ない魅力があると思っているのだろうか。ひょっとしたらこの男はわたしの経済力に惹かれているのではないだろうか。わたしの経済力が目当てではないということをどうやって証明するつもりなのだろうか。どうやらこの男はそんなことはどうでもいいと考えているようだ。そういう男を一生の伴侶としてもいいものだろうか」
 
 その女性は、そういったことを意識よりやや深いところで思ったのかも知れない。意識よりやや深いところで思ったことは、普段の生活の中ではなかなか言葉にすることがむずかしい。なぜ彼氏を嫌いになったの? と友人から聞かれてうまく答えられない場合があるのはそのためだ。
 
 本当に彼のことが好きかどうか自分でもわからないこともある。自分の気持ちを確かめる方法で、もっとも一般的なのは他人に相談することだ。不思議だが、仲のいい友人や親友よりも、たまたま電車で隣り合わせた人に対してのほうが率直なことを言えることがある。一般的ではないが、カウンセラーやセラピストに話してみるという方法もある。
 
 また意外に効果があるのは、自分の気持ちを文章に書いてみることだ。だがその場合は決して自分の気持ちを飾ってはいけない。率直に、相手の好きなところ、嫌いなところ、改めてもらいたい態度、不快に思ったこと、いいなあと思ったところ、などを書いてみる。書くことで自分の気持ちがはっきりすることは多い。悩んでいる人は、夏休みの作文を書く感じで一度試してみたらどうでしょう。
(村上龍著「恋愛の格差」青春出版社 p27-30)
 
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愛について

 性と愛
 
 動物には、性はあるが愛はない。少なくとも、人間的な意味での愛はない。なぜならば、人間的な意味での愛とは、人格相互間の関係であるからだ。
 
 男女間の愛は、もとより性に基礎をおいている。しかし、それは、たんに性的欲望の関係にすぎないものではない。
 
 愛をたんなる性に還元してしまうと、その性までがゆがんでこざるをえない、というところに、人間の人間たるゆえんがあらわれている、と私は思う。
 
 「ゆがむ」というのは、動物的な純粋性さえ失う、ということだ。動物における性のありかたは、つねに単純・率直・明快に動物的であって、その意味ではつねに純粋な美しさと生の充実を示し、「ゆがみ」などというものを知らない。
 
しかし、人間の場合の性は、愛からきりはなされてひとり歩みしだすと、かぎりなくみにくく、かぎりなくうそ寒く空しくなってしまう。そして、こんなふうにかぎりなくひとり歩みできるというのも、人間の性だけの特徴だろう。
 
「かぎりなく透明に近いブルー」などというときこえはいいみたいだが、それは人間の色でないのみか、動物の色でさえもない。それは、およそ生命の色ではない。
 
 人間的な性の美しさとよろこびのためにも──そのためにも人間的な愛を!
 
 鏡の論理
 
 人間における性、あるいは愛の問題は、人間としての生きかたの問題だ、ということを、青年時代のマルクスが書いている。
 
 「男性対女性の関係は、人間対人間のもっとも自然の関係だ。だから、この関係のなかで、人間の自然のふるまいがどれだけ人間的なものとなっているかが、目に見えるかたちであらわれる。
 
異性にたいする態度、関係は、その人の人間としてのありかたを如実に示すものだ」──およそ、こういう趣旨の文章であった。これは真理だ、と私は思う。愛の対象としての異性は、その人の人格をうつしだす鏡、とこんなふうにいってもいいだろう。
 
 「お金もちだから、あの人が好き…」
これは自分が、金銭を最大の価値とする、そのていどの人格だ、ということを示しているわけだ。
 
 「肉体美人だから、グラマーだから、彼女が好きだ」
 これは、自分が肉のかたまりだということの告白だ。
 
 「顔がキレイだから…」
 その「顔」というのが、たんなる顔面皮膚の状態、すなわちツラの皮のことであるならば、これは自分がツラの皮ていどの人間だということの証明だ。
 
 「女性も人間的に成長していかなきゃならないと思うし、そんな女性でなければぼくは魅力を感じない。だけど、男性よりちょっとずつおくれて成長していってほしいな」といった男性がいた。
 
 おくれたカガミにつねに自分をうつしたがっているかぎり、その男性にも人間としての真の成長がありえないことはまちがいあるまい。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p46-48)
 
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 人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。
 
君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。
 
人間にたいする──また自然にたいする君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。
 
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。
(マルクス著「経済学・哲学草稿」岩波文庫 p186-187)
 
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◎恋愛……愛とはなにか。学習通信031004 とあわせて学び取ってください。自分の思想まで高めるのです。
 
◎私たちの周りでも、いくつもの恋愛が見えます。マルクスの指摘することは難しい≠ニ言っていられるでしょうか。そんな恋愛は……。