学習通信040109
◎労働組合……人間として生きなければなりません。
 
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佐藤 今の女性の職場復帰の話で言うと、もし、ある女の人が子育てが一段落して、前に勤めていた会社に戻りたいと言っても、実際問題として会社がノーと言えばそれまでですよね。会社の方が明らかに立場が強いわけですよね。
 
竹中 雇い主と雇われ入っていうのは力の関係があるわけですよね。どうしてもお金を貰って雇われる方が弱くなります。これは、社会のあり方として猛烈な反省点になりました。特に多くの国では二〇世紀の最初二〇年くらいの問に、これを強化するための様々な仕組みができました。労働組合、団結権というのが典型です。
 
特に、日本では単純に雇い主の事情で被雇用者の首を切れない、つまり不当解雇ができないことが厳密に決められています。
 
 つまり、法律でもって雇う方をすごく縛ってるんです。たとえば派遣従業員みたいなものは、昔の労働組合の考え方からいうと、どこに行かされるかわからないし、どういう使い方されるかわからない。そうすると雇い主と雇われ人の間でそういう力関係があるんだから不利になる。だから、職種などいろいろと制約するわけです。
 
 ところが今のように、世の中が変わってくると、とにかく明日までに人を派遣してほしいということもたくさん出てきます。逆に、もっと柔軟に少しだけ仕事したいという人も増えています。そんなときに、国がこの業種は派遣は認めるけど、この業種に関して派遣やパートタイムは認めないなんて言ってたら、チョイスがなくなるわけですよね。
 
 ですから今、派遣従業員を認めろとか、パートのあり方を規制緩和しろとか、そういう面での議論が非常に活発になってきました。まさに労働のアロケーション、つまり、配置を自由化することです。同時に、実は人間としての生き方のチョイス、すなわち多様化を認めるということにつながっていきますね。
(佐藤正彦・竹中平蔵著「経済ってそういうことだったのか会議」日本経済新聞社 p312-313)
 
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国会論戦と働くルールの確立
 
 みなさん、こんにちは。日本共産党の山口富男です。私は国会論戦という角度から、働くルール確立の課題について考えたいと思います。
 
 労働法制改悪をめぐる国会論戦
 <♂雇自由規定≠修正>
 
 私は、今度の労働基準法改悪の問題で国会論戦に立ちましたが、この論戦の中心点の一つは、政府案では解雇は原則自由≠ニいうことになり、こんな規定を労基法に盛り込めば、労働者保護法としての労働基準法の基本を変質させてしまうということでした。
 
ですから、労基法にふさわしいまっとうな解雇規制のルールに変えるべきだという論戦を行いました。労働基準局長への質疑はありましたが、こういう角度から坂口力厚労相と本格的に論戦をしたのは、私たち日本共産党だけでした。
 
 この論戦での坂口大臣の答弁は、「おっしゃることは理解できる。私も政府案は上下逆にならないかと思ったぐらい」というものでした(五月二三日、衆院厚生労働委員会)。政府案は、最初に「解雇できる」とあって、その後に、こういう場合は無効というものでした。これを逆にしたほうがいいというのですから、いわば、腰砕け≠フ姿勢を示した答弁でした。
 
 ここに象徴的に表れたように、労働運動、法曹界を含めたたたかいにおける「的確で本質を突いた批判」が、ボディブローのように非常に強く効いていたと感じます。
 
 労働法制改悪反対の世論と共同の広がりも大きな力を持ちました。私自身もナショナルセンターの違いを超えていろいろな集会であいさつ、交流をしましたが、これらは、野党の共同を進める力になりました。
 
 このことは、修正をめぐる経過にも表れました。私たちは裁量労働と有期雇用の拡大も含めて修正すべきだと主張して野党と協議しました。協議を三回やりまして、少なくとも解雇規制については修正の必要があるという合意に達して、自民党と野党第一党ということで民主党の修正協議が始まるのです。
 
民主党は野党の合意を代表して自民党と対応し、その結果について私たちに報告する。そうやって、今度の修正に実ったのです。自民党の関係者からは、共産党のイニシアでやられたようなものだ≠ニいう声が届きましたけれども、それは当事者としての実感にもとづく感想だったのではないかと思います。
 
 こうして「一八条の二」の解雇ルールについては、正当な事由がなければ、解雇は乱用であり無効だという方向で修正されたわけです。
 
 私が、国会答弁で大変重要だと思っているのは、解雇をめぐる客観的な合理的な理由というなかに、「整理解雇の四要件」が含まれることを政府側に認めさせたことです(五月二三日、衆院厚労委)。
 
これまで政府は、整理解雇の四要件について「下級審の判例」ということで対応しました。今回、「一八条の二」の修正に関わって、整理解雇の四要件も含まれると明確に答弁し、参院厚生労働委員会の附帯決議にもそれが反映しました。
 
 これは、今後のたたかいのなかで生きてくるものだと思います。
(「月刊:労働運動 03年10月号 p37-38)
 
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 強い労働組合の組合員たちは、そうでなくても、もともと高い賃金・俸給を支払われてきたというのが実情であれば、ここで出てくる当然の質問は、次のようなことだろう。
 
すなわち、このように高い賃金や俸給を手に入れることができたのは、組合が強かったからなのか、それとも逆に、組合員がもともと高い賃金や俸給を支払われている人びとなので、労働組合が強い結果になっているのか、ということだ。
 
労働組合の弁護者たちは、そのような組合員の高い賃金・俸給こそが、労働組合の能力がいかに大きなものであるかの証明であり、もしすべての労働者が労働組合の組合員になりさえすれば、すべての労働者がそのように高い賃金や俸給を支払われることになるだろう、と主張する。
 
 しかし、実情ははるかにもっと複雑だ。高度な技術をもっている労働者たちの組合は疑いもなく、その組合員たちの賃金を上昇させることができた。しかし、どんな場合でも高い賃金を支払ってもらえる人びとは、強い労働組合を組織するのに好都合な立場に立っている。
 
そのうえ、労働組合の能力は、ある特定の労働者たちの賃金は上昇させることができても、すべての労働者を労働組合員にすればすべての労働者の賃金を上昇させることができる、というわけにはいかない。それどころか、ひとつの基本的な誤解が存在している。
 
すなわち、ほんとうのところは、強い労働組合がその組合員に対して獲得する賃上げは、主として他の労働者の犠牲においてである、という点が見落とされてしまっている。
 
 この点を理解するための鍵は、経済学のもっとも初歩的な原理、すなわち需要の法則だ。どんなものであってもその価格が高くなればなるほど、これを喜んで買おうとする人びとの数は減っていく。どんな種類の労働であってもその賃金が上昇すればするほど、その種類の仕事の数は不可避的に減っていく。
 
たとえば大工の賃金を高価なものにすれば、そこで建築される住宅の数は減少していき、また建築される住宅も、大工をより少なくしか必要としないような材料や方法を使用していく傾向がでてくる。
 
また、航空操縦士の賃金を上昇させれば、空の旅行はますます高価なものとなっていく。その結果、飛行機で旅行する人びとが減り、航空操縦士に対する仕事は、どうしても減少することになる。
 
また逆に、大工や航空操縦主の数を減らせば、これらの人びとはより高い賃金を手た入れることができる。医者の数を減らせば、医者はますます高い料金を請求することができるようになる。
 
 労働組合がその活動において成功を収めれば、その労働組合が支配している種類の仕事の数は減少していく。その結果、労働組合水準の貸金で、そのような仕事に就きたいと思う人びとは、もはやその仕事に就業することができなくなる。
 
それらの労働者は、どこか他の分野で求職しなくてはならなくなる。その結果、他の仕事に対する労働者の供給が増大していくにつれて、それらの仕事に対する貸金は引き下げられていく。労働者全員を労働組合の組合員にしたからといって、この事情になんの変化も起こらない。
 
もちろんその際に、就職することができた人びとの賃金は高くなるが、それにつれて、もっと失業が発生する、という結果がでてくるかもしれない。これよりももっと現実に発生すると思われる状況は、強い組合が今日すでにそうしているように、弱い組合の組合員たちの犠牲において、より高い賃金を獲得していくということだろう。
 
 労働組合の指導者たちは、企業の利益の犠牲において高い賃金を獲得していく、ということをつねに主張する。しかし、これは不可能なことだ。企業の利潤はそれに十分なほどけっして大きくはない。
 
アメリカの国民総生産の約八〇%は、賃金や俸給やその他労働者の特別給付を支払うために消費されている。残りの半分以上は、家賃とローン利息の支払いとに向けられる。労働組合の指導者たちがつねに指弾している企業利潤は、国民所得全体の一〇%以下でしかない。
 
しかもこれは課税以前のことでしかない。税金を差し引けば企業利潤は国民所得の約六%ぐらいにしかならない。このような企業利潤を全部吸いとってしまったとしても、より高い貸金をまかなうための余地は、きわめて少ないものでしかない。しかも、このようなことをすれば、金の卵を産んでいた鷲鳥を殺してしまうことになる。
 
小幅の利潤があればこそ、工場や生産設備に対する投資をする刺激ともなり、新しい製品や方法を開発するための激刺ともなる。このような投資と技術革新こそが、過去何年にもわたって、労働者たちの生産性を上昇させ、ますます高くなってきた賃金を実現するために必要な手段を提供してきたのだ。
 
 ひとつのグループの労働者に対する高い賃金は、主として他の労働者の犠牲においてしか、達成することができない。ほとんど三十年ほど前にもなるが、筆者の一人が行った計算によれば、アメリカにおける労働者の約一〇%から一五%が、労働組合やアメリカ医師会のような労働組合に似た団体を通じて、そうでない場合の賃金水準よりも約一〇%から一五%高い賃金を獲得することができていた。
 
しかしこれは、労働総人口の八五%から九五%の人びとが稼いでいる賃金を、そうでない場合よりも四%ほど引き下げる、という犠牲においてであった。また、この計算だけでなく、もっと最近になされた研究に従えば、このような数字が、労働組合の影響力を表わす今日でもほぼ有効な数字であることを示している。
 
すなわち、高い賃金を支払われている労働者たちには、ますます高い貸金がもたらされ、低い賃金を支払われている労働者には、ますます低い賃金が支払われているというわけだ。
 
 高度に労働組合によって組織化されている人びとも含めて、われわれのすべては消費者として、高い組合賃金が消費財価格に及ばす影響によって、間接的に被害を被ってきている。
 
住宅の価格は住宅建築労働者たちも含めたすべての人びとにとって不必要に高すぎるものとなってしまっている。労働組合があるために、かえって労働者は自分たちの技術をもっとも高い価値をもっているものを生産するために使用するのを妨げられるようになってきた。
 
労働者は、自分たちの生産性が低くなるいろいろな活動に従事しなければならないようにさせられてきている。その結果、われわれにとってすべての入手可能な財貨の全体は、このような組合活動がなかったときに比べて、より小さいものとなってしまっている。
(M&R・フリードマン著「選択に自由」日本経済新聞社 p370-373)
 
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 これらの組合がその目的を達成するためにいつも用いる手段は次のようなものである。一人、あるいは何人かの親方が、組合がきめた賃金の支払いを拒否すれば、そこへ代表を派遣するか、あるいは請願(これを見ても、工場主たちがその小国家のなかで絶対的権力をもっていることを労働者もみとめていることが分かる)を送る。
 
これが役に立たなければ、組合はストライキを命令し、労働者はみんな家に帰る。このストライキ(turn-outあるいはstrike)は、組合の提案にしたがって賃金をきめることを拒否する同じ業種の雇主が二人、あるけは若干名であれば、部分的となり、全雇主であれば、全般的となる。
 
ストライキはつねに事前に通告されるとはかぎらないけれども、事前に通告されていれば、それが組合の合法的手段の限界である。しかしこういう合法的手段は、組合に加入していない労働者がいたり、あるいはブルジョアの提供する目先の利益によって組合から脱退する労働者がいたりすると、きわめて弱いものとなる。
 
とくに部分的なストライキの場合には、工場主はこういう黒い羊(スト破りknobsticksと呼ばれる)から容易に労働者を補充することができ、そしてこれによって団結した労働者の努力を効果のないものとすることができる。そこでふつう、これらのスト破りは組合員から脅迫されたり、ののしられたり、なぐられたり、そのほか、いろいろいじめられ、ようするにあらゆる方法でおどかされる。
 
次に訴訟がおこされる。そして、法律好きのブルジョアジーはいまなお権力をもっているので、なにか不法行為があったり、組合員にたいしてなにか訴訟をおこされたりすると、組合の力はほとんどそのたびにうちくだかれてしまう。
 
 これらの組合の歴史は、ところどころで数少ない勝利によって中断されてはいるが、長期にわたる労働者の敗北の連続である。当然のことながら、こういうあらゆる努力も、賃金は労働市場における需要と供給の関係できまるという経済法則を変えることはできない。
 
したがって、この関係に影響をおよぼすすべての大きな原因にたいしては、これらの組合は無力である。商業恐慌の場合には、組合はみずから賃金を引き下げるか、あるいは完全に解散してしまわなければならない。
 
そして労働力の需要がいちじるしく増大する場合でも、資本家の競争によって賃金が自然に上がる以上には、賃金を上げることはできない。しかし、もっと小さな、個別的に影響するような原因にたいしては、組合はもちろん強力である。
 
もし工場主が労働者の団結した強力な反対を考えなくてもよいならば、自分の利益のためにますます賃金を引き下げるであろう。彼はほかの工場主たちとの競争戦に耐えぬくために、賃金を下げざるをえず、賃金はやがて最低限にまで落ちこむであろう。
 
しかし、工場主相互間の競争は、ふつうの状況であれば、もちろん労働者の抵抗によって阻止される。工場主は誰でも、彼の競争相手と同じ状況にありながら、その状況のせいにはできないような賃金引き下げをやれば、その結果はストライキになるということを知っている。
 
ストライキは彼に確実に損害を与える。なぜなら、ストライキのつづくあいだ、資本は遊んでおり、機械はさびてしまうからである。一方、彼はこういう場合に賃金引き下げをつらぬきとおすことができるかどうか不安であり、もしつらぬきとおすことができれば、彼の競争相手も賃金を引き下げ、製品の価格は下がり、そのために賃金引き下げの利益がなくなってしまうのは確実だからである。
 
また組合は、組合がない場合にくらべれば、恐慌のあとでいっそう急速に賃金を上昇させることが、もちろん多い。工場主は、仲間の工場主との競争のためにやむをえなくなるまで、賃金を上げない方が得であるが、一方、労働者は、市場の状態がよくなればより高い賃金を要求し、そういう状態で労働者をえらぶ余地が少なくなると、しばしばストライキによって工場主に賃金引き上げを強制することができるのである。
 
しかし、すでにのべたように、労働市場を変化させるような、もっと重要な原因にたいしては組合は無力である。このような場合には、労働者は飢餓のためにどんな条件のもとでも仕事にもどり、そして数人が仕事にもどれば組合の力はうちくだかれてしまう。
 
というのは、これら少数のスト破りと、まだ市場に残っている在庫品とを利用して、ブルジョアジーは事業中断の最悪の結果を避けることができるからである。組合の基金は、援助を必要とする人が多いためにすぐなくなり、小売商人が高い利子つきでみとめてくれる掛け売りも、長くつづくと断られ、そして困りはてた労働者はまたブルジョアジーのくびきのもとへ帰っていく。
 
しかし工場主は自分自身の利益のために──もちろん、労働者の抵抗があったからこそ、彼の利益となったのだが──不必要な賃金引き下げはいっさい避けなければならないし、一方、労働者は商売の景気に左右されて賃金が引き下げられるたびに、自分たちの状態が悪化すると感じて、全力をあげて自分たちを守らなければならないのだが、たいていのストライキは労働者に不利に終わるのである。
 
そうだとすれば、その方法が無効だということがはっきりしているのに、労働者はなぜストライキをするのか、と問われるであろう。それは簡単明瞭である。
 
それは彼らが賃金の引き下げに抗議し、引き下げの必然性そのものにも抗議しなければならないからであり、また、彼らは人間として、現状に順応するのではなく、現状こそが彼らに、人間に、順応すべきだと宣言しなければならないからである。
 
それは、労働者が沈黙することは現状をみとめることであり、そのことは、好況期には労働者を搾取し、不況期には労働者を飢えさせるブルジョアジーの権利をみとめることになるからである。
 
これにたいして労働者は、彼らがまだあらゆる人間的感情を失っていないかぎり抗議しなければならないし、彼らが、ほかの形ではなく、この形で抗議するのは、彼らがイギリス人であり、自分の抗議を行動であらわす実践的な人間だからであって、ドイツの理論家のように、その抗議が適切に議事録にのせられてファイルされ(ad acta)、そこで安らかに眠りにつくと、自分も安らかに眠りにつくというようなことはないのである。
 
これにたいしてイギリス人の実際的な抗議は、ブルジョアジーの金銭欲をある程度制限し、有産階級の社会的政治的な全能の権力にたいする労働者の抵抗を活気づけ、もう一方で、ブルジョアジーの支配をうち破るためには、労働組合やストライキ以上のなにかが必要だということを、いやおうなしに労働者にみとめさせるという効果がある。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p48-51)
 
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◎「ブルジョアジーの支配をうち破るためには、労働組合やストライキ以上のなにかが必要だということを、いやおうなしに労働者にみとめさせる」と。
 
◎労働組合の役割とはどういうものだろうか。団結し闘わなければ賃下げ攻撃を押し返すことはできません。