学習通信040112
◎NHK大河ドラマ 新撰組! がはじまりました。 なぜいま……。
 
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 新選組の誕生は、文久二年(一八六二)にさかのぼる。
 庄内藩の富裕な郷士の出身で尊王壊夷の急先鋒であった清河八郎が、全国的に攘夷をとなえる浪士たちの扱いに困っている幕府に取り入り、浪士隊結成の募集をする。清河が付け込んだ幕府の弱みは、朝廷に対して攘夷を誓言したことである。幕府は、手をやく攘夷論者を集め浪士組を結成する、という清河の策をむげにはできない立場にあった。
 
 同志であった尊王攘夷論者にとっては、幕府と手を結んだ清河の変節が許せなかった。しかし「自分の心は死んでから天下に明らかになる」と平然としていたという。
 
 翌文久三年二月二十三日、集まった浪士二三四名とともに、将軍家茂の上洛警護先見隊として京に入る。
 
 そして京都到着の夜、宿舎となった新徳禅寺で全員を集め、清河は言った。「われわれの目的は天皇の仰せに従い攘夷の先駆けとなる。将軍の護衛ではない」と。浪士たちも驚いたが、江戸の幕府も驚いた。清河は宮中へもこの旨を示し、関白から陛下もお喜びとの返事をもらう。
 
 幕府は急遽浪士隊の江戸復帰を命じる。江戸帰還を拒否した一三人を残して、浪士とともに清河は江戸に帰る。稀代の策士といわれる清河の真骨頂である。清河にとって、少なくとも攘夷派を組織すること、宮中に認めさせることの二つができれば尊王攘夷の運動が江戸で展開しやすいので、まずは合格点である。浪士二二一名を引き連れ、清河は江戸に帰った。
 
──略──
 
八木源之丞宅に泊まった一三人が京都に残る。その一三人とは、江戸士衛館道場近藤勇ら八人と、水戸脱藩浪士芹沢鴨ら五人。彼らは京都守護職に、京での将軍家の警護をと嘆願書を出し、認められた。衣食住はもちろん、その身分も「松平肥後守御預」となり保障された。
 
 このメンバーで新選組を結成することになるが、結局、両派の溝は埋まらず、近藤派が芹沢派をすべて抹殺することになる。
 
 その後、隊士が増え、一〇〇人を超えたころに階級が決められた。そしてあの有名な(ダンダラの)制服もできるのである。
(竹山峯久著「龍馬と新撰組の京都」創元社 p54-56)
 
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 清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。
 
 おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士粗を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。
 
 しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである。幕臣とまじわり、といっても、当時の幕府内には、山岡鉄舟や松岡万、関口良輔といったれっきとした尊攘家がいたのであり、また浪士組の一件では、八郎ははじめからそのつもりで幕府に接触し、人のふんどしで相撲を取ったのである。八郎の思想的な立場は一貫していて、変節のかけらも見出すことは出来ない。
 
 また、出世主義者ということも、当を得ない批判のように思われる。八郎の家は、身分的には十一人扶持、一代御流頂戴格の、いわゆる金納郷士にすぎなかったが、五百石を超える田地を持つ一方で、荘内最大の醸造石数を誇る酒造家でもあり、その富ははかり知れないといわれた素封家であった。
 
 八郎がその家の跡とりの身分を捨てて、出奔をくわだてたとき、祖父や父は、学問の何たるかを解しないひとたちではなかったが、何を好きこのんで一介の儒者を目指す、と思ったかも知れない。八郎を家郷出奔に駆りたてたものは、出世とは別の、一種の閉塞感だったと思われる。
 
 また八郎は、士身分を欲しがったわけでもなかった。八郎が仕官をのぞんだことは一度もない。献策して幕閣に近づいたころ、幕府は八郎の罪を赦すと同時に、しかるべき役に召し出そうとしたが、八郎は受けずに浪士組の外にとどまった。もし八郎が変節漢であり、出世主義者であったなら、この時の召し出しは、めでたく幕臣にでもおさまる好機であったはずだが、八郎は一顧もしていない。
 
 そうは言っても、八郎が浪士募集で、いわば幕府を罠に嵌めたやり方を、快く思わないひとはいただろうし、現在もいるだろう。たしかにこの策を思いついたとき、八郎は自分の奇策に酔ったかも知れない。権力を相手どって、放胆な奇策を打ち出すことを快とするのは、八郎の一性格であった。快としたその分だけ、八郎に徳がないとも言える。
 
 だが、八郎はいたずらに策を弄んだわけではなかったろう。幕府から大赦をかち取ったものの、八郎はなお幕府の監視下にある眇(びょう)たる孤士であった。浪士募集はこうした幕府の緊縛を脱し、同志を握って再起するための、いわば起死回生の策だったといえる。大方の八郎評は、この時期の八郎の苦境を、十分に理解していないように思える。
 
 八郎は、さきに幕府の罠にはまって同志をうばわれ、妻をうばわれ、長く潜行の苦しみを嘗(な)めた人間である。今度幕府を罠にはめて、これでおあいこだと思ったかも知れない。こういう考え方は、当時の幕藩体制の仕組みの内側にいる人間には、理解しがたく不快なものにみえたに違いないが、八郎は、坂本龍馬が姉にあてた手紙の中で「一人の力で天下を動かす」と記したような、徒手空拳、恃(たの)むはおのれ一人といった型の志士だった。権力を利用はしたが、その内側に組みこまれることを嫌った。幕府という権力機構に憎まれたのは、当然である。
 
 筆者は長い間、清河八郎ははやく来すぎた志士で、そこに彼の悲劇があったのではないかと考えていた。八郎が最終的に到達した倒幕挙兵という考え方が真に熟するのは、慶応二年の薩長同盟以降だろうと思われるからである。
 
 しかしその後考えは変って、八郎の悲劇は、八郎が草莽の志士であった事実そのものの中に、すでに胚胎していたのではないかと考えるようになった。維新期の草莽の末路がどういうものであったかは、高木俊輔氏の「幕末の志士」に明瞭に記述されている。明治維新は、草莽からあますところなく奪ったが、報いるところはまことに少なかったのである。
 
 八郎は策を弄したと非難される。だが維新期の志士たちは、争って奇策をもとめ、それによって現状の打開突破をはかったのである。策をもって人を動かすのが山師的だとするなら、当時の志士の半分は、そのそしりを免れないのではなかろうか。
 
 一、二例をあげよう。謹直な真木和泉でさえ、大和への攘夷親征を画策する中で、守護職松平容保を京都から遠ざけるために、偽勅の工作をした。慶応三年十月、薩摩藩の西郷、大久保は、幕府を挑発するために江戸から関東一帯に騒乱を起こし、また岩倉具視とはかって討幕の密勅なるものを偽造し、薩摩、長州二薄の藩主父子にくだした。
 
 これを山師的策謀と言わないのは、時代が煮つまって釆て、手段を顧みるいとまがなかったという一面があるにせよ、西郷や大久保が結局は当時の幕藩体制の内側にいた人間だったからだとは言えないだろうか。
 
 ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか。
 
 八郎は草莽の志士だった。草莽なるがゆえに、その行跡は屈折し、多くの誤解を残しながら、維新前期を流星のように走り抜けて去ったように思われる。
(藤沢周平「回天の門」文春文庫 p562-565)
 
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 「世直し」一揆の特徴と、矛盾する民衆行動
 
 この「世直し」一揆は、幕末から明治初期にかけての一揆の特徴である。一八六六(慶応二)年はその一揆のピークをなし、百八十五件が数えられている。一八六六年六月中旬、七日八晩にわたった奥州信夫・伊達両郡(総高十九万八千八百五十石、村数百九十四ヵ村、幕領・私領・分領が入り交じる。現福島県福島市二帯)のいわゆる信達(しんたつ)一揆の特徴をみよう。
 
 この一揆勢の総数は十数万に及び、四十九ヵ村以上の村々の村落支配者層=豪農商に攻撃がかけられた。
 
一揆の行動を示した史料(『民衆運動の思想』所収)の一節を引こう。
 
 「やあゝ者共、火の用心を第一にせよ。米穀は打ちらすな。質物には決して手を懸(か)けまじ。質は諸人の物成るぞ。又金銭品物は身につけるな。この働きは私欲にあらず。是は万人のため成るぞ。この家の道具は皆悉(ことどと)く打こわせ。猫のわんでも残すな」
 
 ここには、一揆は私欲でおこしたものでないことがはっきりとうたわれている。
 
「火の用心」を第一にせよ、という指示とともに一揆の行動には、きびしい禁欲が要求されている。質物には手をかけるな、金銭は奪ってはならないという倫理も求められているのである。米穀は散らかすな、というのも注目してよい。米や麦を大切にする農民の心がそこにはある。しかし、攻撃の対象となった家の道具類はひとつ残らずぶちこわし、「猫のわん」さえも残すな、といって怒りを爆発させているのだ。
 
しかも、こういう指令をくだす指導者がいる以上、行動も組織的だったことを推測させる。厳格な規律と「万人のため」という目的意識、禁欲的な倫理などには、一揆という行動に思想性のようなものをよみとることができるではないか。
 
 だが、反面、同じこの一揆は、それとはまったくちがう別の様相をみせる。質屋におしかけて勝手に質物を奪いとり、質物の衣類を片っぼしから身にまとい、あるいは質入れをした者たちが、質物の何倍かの金銭を要求した、という記述がある。暴徒まがいの行動のあったことは否定できない。一揆の行動は複雑な側面をもち、矛盾にみちていたのである。
 
 それは人間もしくは集団化した人間の心理に根ざす矛盾である。禁欲と限りない欲望、革新性と保守の両面とが共存し、葛藤している。それは、人間と人間集団の自然の姿であるかもしれない。
 
 伊達郡生まれの中農上層ないし豪農に近い菅野八郎は、この一揆のリーダーと目された人物(自身は否定)であった。彼は二度目のペリー来航には、神奈川まで出かけて「黒船」を目撃し、幕府の海防政策に疑問をもち、権力に鋭い批判を浴びせた。安政の大獄には連座して八丈島までの遠島処分を受けている。
 
しかし、その八郎も他面では、既成の道徳や秩序には保守的な従順意識の持ち主であったことが指摘されているのだ。このような相反する側面をもちつつも、彼は民衆生活を何よりも優先すべきだと考え、民衆の立場からの行動をとろうとしていたのである。
 
 問題は、そうした矛盾する存在としての個人や、個人の集まりとしての民衆集団が、歴史のそれぞれの時点の状況のなかで、その矛盾を克服しっつ、いかに歴史の担い手となり、歴史をおしすすめるか、ということである。歴史の大きな流れでみれば、この苦闘する民衆こそが、歴史をおしすすめていく。
 
「世直し」の窮極の理想と「ええじゃないか」
 
 こうした民衆のめざす願いを代弁するかのごとく、一八六六(慶応二)年八月、江戸小石川にひとつの捨訴(すてそ)があった。捨訴は「すてぶみ」ともいわれ、幕府の役所や役人の屋敷の前にひそかに訴状をおいてアピールすることである。
 
捨訴はもとより厳禁されていたのだが、張訴(はりそ)(門などに訴えを張りつける行為)などとともに幕末期にはさかんになされていた。右の捨訴は「六十六州安民大都督大河辺主税、同副業竹田秋雲斎」の名で書かれている。内容から察すると幕府寄りの人物で、儒者か浪人なのだろうか。肩書からみると民衆を安んずることをみずからの使命としている、とみられる。
 
万民が平和を楽しみ、夜の戸締りもいらない、落し物は誰も猫ばばをしない、行き交う者がお互いに道を譲り合うような「世界第一の善国」にしたい、というのである。それは「世直し」「世均(なら)し」の窮極の理想ともいえる。
 
 この 「世直し」をめざす民衆の行動が、一転、倒錯したかたちであらわれることがある。「世直し」一揆のたかまりから、一転、翌一八六七(慶応三)年の「ええじゃないか」への変貌はそのひとつといえる。
 
 「ええじゃないか」は、空から伊勢神宮のお札が降ったことをきっかけに、東海道筋・名古屋一帯から京・大坂にひろがった民衆の集団乱舞の行動をいう。江戸から芸州(広島県)あたりまでの人びとをまき込み、さらには北九州でもそのきざしがみえるから、その範囲は広い。ほぼ六十年周期の伊勢神宮への集団参拝であるお蔭参りの伝統が、かたちを変えたものだというのが一般的な説明だが、東海地方の農民の信仰を集めていた伊勢神宮の別宮伊稚宮(「いざわ」とも。
 
志摩国〔三重県〕にある)の御鍬祭(おくわさい)の百年祭がこの年六月頃より三河一帯で行なわれ、それが「ええじゃないか」へのきっかけになったという意見もある。
 
 ともかく、人びとは緋縮緬の着物や青や紫の衣服を身につけ、男は女装し、女は男装して入り乱れ、太鼓・笛・三味線などで囃(はやし)し立て、手を振り足をあげ、「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂った。そしてこの囃し言葉のなかには、「世直し」「世均し」を願う要求が織り込まれていた。
 
 宗教的な色合いをもつ民衆の集団行動としてのこの「ええじゃないか」の広がりとともに、その年の「世直し」一揆の件数は、前年六六年のピーク時の半数が数えられている。
 
とすれば、「ええじゃないか」と「世直し」一揆とは、共存していたのであり、一揆のエネルギーがすべて「ええじゃないか」に転じ、吸収されたわけではない。そして、この集団乱舞の狂騒が倒幕をめざす政治工作の煙幕になったといわれているのである。
(田中彰著「明治維新」岩波ジュニア新書 p35-40)
 
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 討幕派の論理
 
 幕末の「志士」たちは、彼らの手紙のなかで、天皇のことを隠語で「玉」と表現し、倒幕への画策を「芝居」といった。「玉」を奪われては「芝居」は総くずれになる、という。
 
 彼らが「玉」をどうよんだかはわからない。この「玉」には「ギョク」という側面と、「タマ」とよぶ側面とがあった、と私はみる。ギョクは将棋でいえば王将である。敵方に奪われてしまえば負けである。
 
だから、ギョクは絶対を意味する。タマにももっとも大切なものという意味があるが、タマには策略などの手段に用いるものという政治的利用の意味もあるのだ。
 
とすれば、ギョクは尊攘運動のなかで強烈にうち出された天皇への絶対的な価値観であり、タマは公武合体運動における相対化によって生まれた政治的利用性なのである。天皇をさす隠語としての「玉」には、この二つの意味が内包されていたのである。
 
この二つの意味を内包する「玉」を、慶応期の討幕運動は表象とした。いうなればそれは、尊攘運動と公武合体運動を止揚(アウフヘーベン)したものであった。
 
 一八六五(けいおう)元〉年九月、大久保利通は在坂の西郷隆盛にあてて手紙を書いている。いわく、「至当の筋をえ、天下万人がご尤もと奉ってこそ勅命であって、非義の勅命は勅命ではないから奉じなくてよい」と。これは第二次征長(長州征伐)を許した朝廷への批判を込めたものであった。
 
 大久保は、天皇の命令は絶対だという前提に立ちつつも、義にかなっていない勅命は勅命ではないというのである。そこには勅命それ自体の絶対性とは別のところに判断の基準が求められている。別の判断の基準とはなにか。それは天下万人が納得する、つまり天下の世論(公論)をさす。なにを天下の世論とみるか、そこに討幕派の判断が入る。いうところの公論は朝廷(公)と重なり合う。
 
討幕派は天下の公論をふりかざすことによって、みずからの主張を天皇と結びつけ、至当の筋をえた勅命とするのである。勅命は討幕派の価値判断を通してはじめて勅命となり、天皇は討幕派の政治操作によって絶対化される。ギョクとタマのこの交錯した論理は、慶応期の「玉」としての天皇のなかで凝縮されているのである。
 
「玉」=天皇のなかに凝縮されたこのギョクとタマの論理こそが、討幕運動の論理だった。
 
 一八六六(慶応二)年十二月二十五日、孝明天皇は急死し、翌年一月、幼少の睦仁(のち明治天皇)が即位した。天皇の急死をめぐっては、痘瘡だったとする説と毒殺されたのだという説とがある。
 
当時、いち早く宮中から毒殺の噂が流れ、主謀者に討幕派に属するメンバーの名が挙げられたのは、毒殺が事実であるかどうかはともかく、攘夷に固執する「玉」を除き、新しい「玉」に代えるという、まさに討幕派の論理がそこに読みとられたからであろう。
(田中彰著「明治維新」岩波ジュニア新書 p55-58)
 
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◎新撰組……。ドラマになることによって彼らが美化されるのです。アイドル歌手が演じています。
 
◎藤沢周平の「回天の門」がお勧めです。