学習通信040113
◎戦後が終わった……という意味
 
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 ──小泉純一郎という政治家についての評価は。
 
 「小泉さんについて言えば、個人の資質をどうのこうのというより、今が小泉さんという存在が出現する時代だということだと思います。小泉さんの登場で本当に『戦後』が終わったんだな、としみじみ感じる。そして新たな実験として『兵隊を送る』ことをやらなければならない時代になった。ただ、国民も小泉さん自身もその意識がない。
 
 小泉さんの存在は都会的でありその特徴である『個』というものを表に出す。(永田町という共同体の中では)長く『公』に対するものが『私』しかなく、『個』の部分がなかった。しかし、政治家としてその『個』を初めて打ち出したのが小泉さんだと思っています」
 
 ──そうした意味で、小泉さんの「個」としての政治手法をどうみるか。
 
 「政治家は人間関係で成り立っており、『個』として振る舞っていても、いろいろと難しい問題が出てくる。『個』でできることば何かを考えると、小泉流のマキャベリズムの人事をやるとか、民問人を集めて(道路公団民営化のための)委員会をつくったりするとか。でも、永田町という、『個』のための基盤がないところで『個』を出すのはやはり難しい。うっかりすると、田中真紀子さんのような存在になってしまう。人気取り、大衆政治(ポピュリズム)と批判される」
 
 ──「ポスト小泉」には、どんな人材がなるべきか。引き続き「個」を打ち出す政治家が求められるのか。それ上も、元に戻るのか。
 
 「それは日本国民の選択でしょう。僕にとっても、そこに一番の興味があります。みんなが何を望んでいるのか。ただ、僕は、日本人は『個』として生きていくほど、強い『個』を持ち合わせていないように思う。日本に天皇制が残っている限りは、集団志向でやっていくしかないのではと思っています。天皇は日本全体の共同体の家長ですから」
 
 ──その家長が、女性になることについては。
 
 「かつてもそうだったし、成り立ちますよ。そんなことは気にすることはないです」
 
 ──リーダーの条件については、どう考えるのか。
 
 「人の痛みが分かること。小渕恵三さんが割合、評判が良かったのは、それが分かる人だったからでま『あいつに責任を負わせているんだ』と国民に思わせるような人がリーダーであってほしいと思います」
(養老孟司氏が語る「バカの壁」的小泉論 YOMIURI Weekly 2004.1.25 p24)
 
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第一章 焼け跡ヤミ市第一号
 
 転換工場並びに企業家に急告! 平和産業への転換は勿論、其の出来上がり製品は当方自発の%K正価格≠ナ大量引受けに応ず、希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来談あれ
 淀橋区角苦一の八五四 (瓜生邸跡)新宿マーケット
一九四五年八月十八日  関東尾澤組
 
 記録的なスピードである。
 終戦のわずか三日後、アメリカの先発隊が日本の土を踏む十日も前に、日本初のヤミ市の広告が新聞に載ったのだ。新聞に一般広告が載ることなどめったにない時代に、しかも空襲で焦土と化した東京で、これほど早く商談の呼びかけがあろうとは、だれが想像しただろう。
 
 日本の首都──木と紙でできた家がところせましと並んでいた、かつての城下町〜は、B29のすさまじい集中砲火を浴びて、見渡すかぎり燃えかすと残骸だらけの広大な廃墟と化していた。
 
 街の東側にあたる東京湾寄りの人口密集地帯は、今や跡形もない。この地域は、おもに商人や職人たちの生活の場であり、同時に仕事の場でもあった。南に隣接する産業都市川崎も、港町横浜も、大半が焼け野原。
 
 焼けのこった数少ない車を運転する人々は、しばしば道に迷う。割れた屋根がわらの山や、焼けおちた家屋で、道路がほとんど識別できないからだ。ちらほらと焼けのこっているのは、首都のビジネス中心街である丸の内、銀座、日本橋あたりの、大理石や石のビルディングばかり。しかしその建物は、占領軍が個人的に使用している。
 
 東京の住人の大半は、地獄のような生活を強いられていた。
 数百万人が住む家を失った。ある者は、金網や岩やベニヤ板を組みあわせただけの、吹けば飛ぶようなバラックに住み、ある者は、地下鉄の構内や防空壕で寝泊まりし、またある者は、道路にぽっかり空いた爆弾の投下跡に身を寄せている。食べる物もろくにないから、数時間かけて地方まで脚をのばし、貴重な家宝と引きかえに、農民からわずかばかりの農産物をゆずり受けるしかない。
 
 ところが八月二十日、日本が公式に敗戦を認めてからまだ五日目だというのに、尾津組の青空マーケットは、せっせと開店の準備を進めていた。
 
 立地条件は申し分がない。なにしろ、通勤客の西の玄関口といわれる新宿駅だ。「駅の残骸」というべきか。だいいち、品揃えがすごい。鍋、釜、やかん、皿、銀器、食用油、お茶、米、革製品、電気製品、下駄などが、木枠の中にところせましと並べられている。大量の軍需品や服まである。
 
 マーケットの名は<光は新宿より>。
 ずいぶんロマンチックな名前だが、商品の大半は軍部からの盗品だ。
 
 アメリカ軍が本土に上陸した場合に備えて、日本軍はひそかに四百万人分の物資を各地に蓄え、敵を迎え討つ準備をしていた。ポツダム宣言浸よれば、日本政府はそのような物資をすべて放出すべきだった。しかし、降伏後の混乱地獄に、まともな責任者など存在するわけがない。全国の兵端部に蓄えられた軍需品のうち、七〇パーセントあまりが略奪されたと思われる。
 
──略──
 
 九月二日、横浜港に停泊する米国戦艦ミズーリ号の船上で、降伏文書が交わされ、アメリカの占領政策が正式にスタートした。
 
 GHQ(総司令部)は、皇居に面した要塞のような第一生命ビルに置かれ、SCAP(連合軍最高司令部)としての権限を行使した。とはいえ、陣頭指揮にあたったダグラス・マッカーサー最高司令官は、実際には連合軍にほとんど相談することなく、独自の判断で事をすすめた。
 
 占領軍兵士たちは、表面的には秩序をたもっていた。何か問題が起こっても、日本の老練な官僚たちによる傀儡政権が、巧みにもみ消してくれたからだ。
 
 一方、ヤミ市の親分たちはあいかわらずやりたい放題。都の当局も黙認し、それまでどおり、彼らに政府公認の税金とりたて役をまかせ、半分を報酬として与えた。
 
 図にのったヤクザたちは、都の行政府にかわって消防署をとりしきり、道路清掃や公共交通機関などの業務を、一手に請けおうようになる。建設工事の作業員や港湾労働組合にも幅をきかせた。ぞんざいな工法でいい加減に建てては、続々と開店していく新興のバーやそば屋にも、権力を誇示した。もはや、街全体を手玉にとったも同然だった。
 
 同じころ、GHQは、軍国主義日本の民主化という、遠大かつ困難きわまりない課題をかかえていた。戦争放棄をかかげた新憲法を作成し、帝国軍司令部を解体し、戦犯を逮捕しなければならない。さらに、政治的、宗教的、市民的自由を抑圧するものを一掃するという、途方もない使命だ。
 
 しかし蓋をあけてみれば、アメリカ人は日本人に、まったくべつの分野で、さらに具体的な影響を与えることになった。ヤミ経済がそのひとつだ。
 
 マッカーサーは、残虐行為、蛮行、個人的復讐などはいっさい容認しないことを明言している。したがって、占領軍の先発隊六十万名を選ぶにあたっては、太平洋諸島のジャングルで血戦をかさねたことで、日本人に激しい憎悪をいだいている兵士は避けた。
 
 選ばれたのは、戦闘経験などほとんどない、顔にまだあどけなさの残る新兵ばかり。日本占領を「生まれて初めての大冒険」ぐらいに考えている、ティーンエイジャーたちだ。
 
 こうした若い占領軍兵士たちは、日本人が渇望している日用品の、またとない供給源だった。配給制限のきびしいタバコ、砂糖、塩、チョコレート、石鹸、ゴム、ビールなどをはじめ、それよりは入手しやすい缶詰や粉ミルクにいたるまで、軍から湯水のように支給される日用品を、たっぶり持っていたからだ。
 
 新橋に、<野村ホテル>と呼ばれる建物があった。オフィスビルをブランケットで仕切り、数百人のアメリカ人を収容したホテルだ。非公式な調査によれば、そこをねぐらにするGIの九〇パーセントが、連日、非番の時間帯に外へくりだし、ホテルの軍用売店で手に入れたアルコールや日用品を売りさばいていたという。
 
 この統計は、占領軍一般の実態とみていいだろう。
 アメリカの豊富な物資を暴力団のヤミ市に送り込む、おもな流通経路となったのは、若い女性の集団だった。<特殊慰安施設協会 RAA>と呼ばれる日本政府公認の団体が、アメリカ兵の性の防波堤として急遽かき集めた、数千人の女性たちである
 
 RAAは、戦争が終わったとたんに結成された。≠、ら若き純潔なやまとなでしこ≠フ接待によって、ヤンキーたちのおそるべき性欲を満足させるのが目的だ。大半の女性は、少なくとも身分だけは秘密にされた。
 
 協会は、愛国心の名のもとに、女性たちを動員した。空襲で焼けだされたクラブや、バー、置屋の経営者にあたったり、直接、売春宿の扉を叩いた。そのすばやさといい、集めた人数といい、彼らの動員力には目を見張るものがあった。
 
 九月初旬、北九州大村にあるローカル空軍基地を補強するために、沖縄から到着した第四十四海丘師団の先遣隊五十名は、着物姿の女性たちにいそいそと出むかえられ、基地の外のゲイシャハウスへと導かれた。
 
 男たちは二、三週間、ビールをあおったり、火鉢で焼いた魚をつついたり、若い女性たちと遊びたわむれてすごしたものだ。──その結果、被占領民から没収して小型トランクいっぱいに詰め込んだ円を、ホステスたちを通じて日本に返還するハメになる。
 
 九月の下旬に、たまたまGIたちを目撃した海兵パトロールの一人が、一瞬、戦争捕虜の収容所に迷いこんだかと、目を疑ったという。兵士たちはみなヒゲぼうぼうで、半袖短パン姿のまま、近くの浜辺で日光浴していたからだ。
 
 九月二日、東京に進駐した米国陸軍地上パトロール隊第一陣は、一台のトラックに行く手をはばまれた。めかし込んだ娼婦たちを荷台に満載した、RAA(特殊慰安施設協会)のトラックだ。代表者の説明によれば、彼女たちは占領軍の性欲を満たすためにはせ参じた<{ランティア″だという。
 
 十月になると、RAAは売春宿を開設した。柱のないそまつな長屋を、天井からぶら下げたシーツで仕切り、その小さな四角いスペースに、ベッド代わりの布団を敷いただけの代物だが、これだけ大規模な売春宿は、おそらく世界でも比類がない。
 
 東京の東、船橋という町にできたこの売春宿は、「インターナショナル・パレス」の俗称で呼ばれ、精力旺盛なGIたちを、一日に数百人単位で処理した。まるでベルトコンベアのようで、米兵が入り口で靴を脱ぐと、出口にたどりつくころには、ぴかぴかに磨かれて用意されている。
 
 GHQの建物に隣接する皇居のお堀端の西側から、野村ホテルにかけてひろがる、全長八百メートルほどの一角も、たちまち「売春通り」として知られるようになった。数百人の若い乙女たちが、ふらふらと徘徊していたからだ。
(ロバート・ホワイティング著「東京アンダーワールド」角川書店 p8-15)
 
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 最初に私が、なぜ子供は学校に行かねばならないかと、考えるというより、もっと強い疑いを持ったのは、十歳の秋のことでした。この年の夏、私の国は、太平洋戦争に負けていました。日本は、米、英、オランダ、中国などの連合国と戦ったのでした。核爆弾が、はじめて人間の都市に落とされたのも、この戦争においてのことです。
 
 戦争に負けたことで、日本人の生活には大きい変化がありました。それまで、私たち子供らは、そして大人たちも、国でもっとも強い力を持っている天皇が「神」だと信じるように教えられていました。ところが、戦後、天皇は人間だということがあきらかにされました。
 
 戦っていた相手の国のなかでも、アメリカは、私たちがもっとも恐れ、もっとも憎んでいた敵でした。その国がいまでは、私たちが戦争の被害からたちなおってゆくために、いちばん頻りになる国なのです。
 
 私は、このような変化は正しいものだ、と思いました。「神」が実際の社会を支配しているより、人間がみな同じ権利をもって一緒にやってゆく民主主義がいい、と私にもよくわかりました。敵だからといって、ほかの国の人間を殺しにゆく──殺されてしまうこともある──兵隊にならなくてよくなったのが、すばらしい変化だということも、しみじみと感じました。
 
 それでいて私は、戦争が終わって一月たつと、学校に行かなくなっていたのです。
 
 夏のなかばまで、天皇が「神」だといって、その写真に礼拝させ、アメリカ人は人間でない、鬼か、獣だ、といっていた先生たちが、まったく平気で、反対のことをいいはじめたからです。
 
それも、これまでの考え方、教え方は間違いだった、そのことを反省する、と私たちにいわないで、ごく自然のことのように、天皇は人間だ、アメリカ人は友達だと教えるようになったからです。
 
 進駐軍の兵隊たちが、幾台かのジープに乗って森のなかの谷間の小さな村に入って来た日──そこで私は生まれ育ちました──、生徒たちは道の両側に立って、手製の星条旗をふり、Hello! と叫んで迎えました。しかし私は学校を抜け出して、森に入っていました。
 
 高い所から谷間を見おろし、ミニチュアのようなジープが川ぞいの道をやって来、豆粒のような子供たちの顔はわからないけれど、確かにHello!…と叫んでいる声が聞こえてくると、私は涙を流していたのでした。
(大江健三郎著「「自分の木」の下で」朝日新聞 p8-10)
 
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ぼくは戦争を忘れない
 
 戦後四十余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。
 
 当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに戦争≠フほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。
 
 正義≠フ名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。
 
 人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家による暴力が、すべて正義≠ニしてまかり通っていた時代が現実にあったことが、いまの若者たちには、遠い昔の歴史ドラマでしかないかもしれません。でも、女も子どもも無残にあっけなく殺されていったのは、ついこの間の厳然たる事実なのです。
 
 ぼくたちは、この世の中が百八十度転換して、昨日までは黒〃だったものが、きょうは白≠ニ、国家によって簡単にすり替えられた現実を日のあたりにしている世代ですから、その恐怖をなんとしてでも伝えたかった。
 
 ぼく自身は、暗い昭和初期という時代の中でも、じつに恵まれた子ども時代を過ごしたと思います。けれども、それも青春期には空襲と窮乏生活によって、ほとんど失うことになってしまいました。
 
 小学校の時に日中戦争が始まり、中学に入るころ、太平洋戦争が始まりました。
 
 東京都では一九二八年から児童映画の日というのが設けられていました。文部省とか都が主催して、学校を巡回し、子どもたちに半強制的に映画を観せようというわけです。
 
 ぼくの住んでいた大阪でこれができた時は五十校が加盟し、八年後、ぼくが小学校に入学したころには五百校くらいに増える。さらに、ぼくが中学入学時には、五千校にまで増えました。非常に普及したわけです。
 
 講堂でばかりでなく、映画館にも教師が引率して見せに行くのです。「五人の斥候兵」とか「かくて神風は吹く」「肉弾三勇士」なんていうものもあって、戦意を高揚させるような映画ばかり。ベルリンオリンピックの映画も見せられました。
 
そんな映画の前に、国産の短編マンガが一本付くのです。太陽が出ていてその下をうさぎがピョンピョンはねていく、それだけの五分ほどのアニメの黎明期のものですが、こっちのほうが、ずっと楽しいのです。
 
 そこで、本編が始まるとトイレに行くからと言って、全然かえってこない生徒がずいぶんいたものでした。
 
 当時、そんなふうに戦意高揚のための映画教育を、文部省が率先してやり始めたということは、記憶にとどめておくべきだと思います。一九二五年にラジオ放送がJOAKとして初めてできてから、ほんの数年で学校放送〃というものがラジオで全国放送されましたが、それ以前にもうすでに、学校巡回映画会が行われていたのです。
 
 いかに、視聴覚による子どもへの時局教育が重要視されていたかがわかるわけです。子どもに限らず、耳で聞くより目で見るイメージのほうが、何百倍も強烈です。
 
 アドルフ・ヒットラーのナチス教育のほとんどが、この映像教育でありました。とくに青少年のナチス組織、ヒットラー・ユーゲントを教育するのに、ふんだんに映画を使ったのです。
(手塚治虫著「ガラスの地球を救え」知恵の森文庫 p48-51)
 
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 終戦後二十年たちました。そのあいだに、築きあげたものはたくさんあります。もちろん、いまふりかえってみれば、まだこうもできたのにやれなかった、と思うこと、遺憾に思うこともたくさんあります。現在の状態がこのままでよいとは、毛頭いえません。
 
しかし、二十年の間に私たちが、もう失ってはならないというものを獲得した、二度とふたたび手放してはならないものを手に入れた、ということはたしかです。そして、その新しいものが、終戦の日、この八月十五日という日に、単に古い時代の終りというだけではなく、新しい時代のはじまりという意義を与えていると思います。
 
その新しいものとは、すでにいい古されたことですが、第一に、やはり基本的な人権の尊重が、私たちの社会生活の原則として承認され、犯すことのできないものと認められたことだと思います。民主主義という思想も、制度も、世界史の上ではけっして新しいものとはいえませんけれど、私たち日本人の歴史の上で、それが国づくりの根本と認められたということは、二十年前の敗戦を経てはじめて可能となり、はじめて実現されたことであります。
 
それこそ、日本歴史はじまって以来の出来事だったのであります。民主主義という言葉さえ、公然とは口にできず、民本主義という言い方でしか主張されなかったのは、つい、三、四十年前までのことだったのです。
 
ひとりひとりの人間にかけがえのない尊さのあること、譲ることのできない権利のあることを、言論の上で主張することすらはばかられたというのが、終戦までの現実であって、私たちの存在の意義、生きている意味は、ただ国家への奉仕によってのみ認められるという思想や、それに基づく強制が、公然と大手をふって行われていました。
 
それは、私たち日本人にとっては遠い昔のことではありません。民主主義は思想や言葉としては、或いはすでにいい古されたといえましょうが、それが私たちの現実を支配する原理となったということ、この歴史的事実は、私たち日本人にとっては、まだ最近のことであり、実に斬新のことなのであります。終戦の日を記念するとすれば、この新しさを思いおこすことなしに、これを記念することはできません。
 
 第二に、人権の尊重が平和の尊重と結びついて、私たちに受け入れられたということがあります。個人の生涯が国家への奉仕によってのみ意義をもつ、天皇への献身によってのみ全うされる、という原則の下に、一部の人々の恣意のままに、私たちの同胞何百万が死んでゆきました。無数の家庭が破壊されました。
 
敗戦は全国民を飢餓の淵に陥れました。こういう非人間的な原則が否定されたということ、これは大きな歴史的な出来事でした。これも、恐らく日本の歴史はじまって以来のことでしょう。人間が人間らしく生活してゆくために、平和こそ大切なのだ、という当然のことすら、二十年前の八月十五日までは、公然と口にすることができなかったのです。それが今日私たちの憲法の原則となっています。
 
この変化の大きさ、そのすばらしさは、戦前に大人となり、戦争の中を生きのび、今日生きている私のような年齢のものにとっては、激しい感動を伴わずには思いおこせないことであります。しかし、これは私のような世代にとっての大きな出来事であるというだけでなく、実に、このアジア大陸の東の列島で何千年昔から生活して来た日本民族にとって、画期的な意味をもつ出来事であります。
 
また、それだからこそ、私などにも激しい感動を呼びおこしたのでした。終戦の日を記念するとすれば、それは同時に、この新しい原則の確立と自覚とを記念することにほかならない、と思います。
 
 第三に、もう一つだいじなことがあると思います。いま申しましたような、二度と手放してはならないものを私たちが手に入れたのは、痛ましいあの敗戦を経てでありましたが、敗戦はやはり敗戦で、それにつづく占領下の生活を離れてではありませんでした。
 
日本の人民は歴史上はじめて主権をもつことになったとはいえ、それは占領下においては、制限された主権でした。基本的人権は獲得したけれど、民族として自分の運命を自分で決定する権利は国際的に抑えられていた、ということは否定できない事実であります。終戦のころを思い出しますと、残念ながら私たちは、それを主張するだけの気概を十分もちあわせていたとはいえません。
 
虚脱状態という言葉があてはまるような、一時的な無力の状態にありました。戦争でたたき負かされたのですから、それも無理はなかったかもしれません。しかし、それにしても、なさけない状態がかなりつづきました。片山内閣ができました後でも、閣僚の一人がGHQに呼び出され、廊下でしばらく待たされてからやっと面会ができる。
 
しかも、その相手は課長級の大佐ぐらいの人物である、というようなことがありました。また、私が目撃していまでも忘れられないことですが、アメリカの特務機関の隊長が帰国することになって、別れのパーティがありました。そこへ多くの人が呼ばれて出席していましたが、旧貴族院のお歴々といわれる人々から、皇族までが来ていました。
 
そして、吉田首相や二、三の大臣までが挨拶にかけつけました。パーティの開かれている庭にのぞむ二階の窓から、戦前までの旧支配階級の代表的な人々、日本の上層といわれた人々を眼下にして、その隊長が手をふっている光景を私は今でもあざやかに覚えています。
 
私は、日本人として非常になさけない気がしました。占領下にあるということは、この光景がよく象徴していました。だからといって私は、敗戦と敗戦につづく一切のものを民族の屈辱だと考えてそれに反抗する、というつもりはありません。そのときも、それはありませんでした。しかし、敗戦を通じて開かれた新しい時代、そこではじめて確立された原則を、私たちは、改めて自分の力でつかみ直さなければだめだ、とはつくづく感じました。
 
自分たちの力で、この原則を貢いてゆきたい。それだけの勇気を私たち日本人は回復したい。私は心からそう思いました。ところで、何がその勇気を与えてくれたか。何が私たちを立ち直らせたか。──私は、それこそ、ほかでもない、平和主義への徹底だったと思います。
(吉野源三郎著「同時代のこと」岩波新書 p52-57)
 
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◎戦後培ってきた基本≠ェ壊されようとしている……。それが戦後は終わった≠ニするなら、どこに日本はすすむのだろうか。
 
若者の一人ひとりに問われています。