学習通信040116
◎結婚とは……恋愛と結婚
 
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一人で生きられる時代に二人で暮らす理由
 
 最近、周囲の年下の友人が何人か結婚することになった。どういうわけか、単純におめでとうと言えない。周囲には、恋人と何年も付き合っているけど結婚しないという友人もいる。そっちのほうが理解できるというか、自然な感じがするのはなぜだろうか。
 
 もちろん周囲の年下の友人たちといっても一括りにはできない。仕事も違うし、年収も違う。おそらく結婚を決めた要因も微妙に違うだろう。どうして結婚に対し単純におめでとうと言えないのだろうか。
 
 わたし個人のことを言うと、結婚したことを後悔しているわけではないが、結婚生活は決して単純に楽しいことばかりではなかった。共に生きていくというのは、簡単ではない。誤解されると困るのだが、苦しいというわけでも、辛いというわけでも、我慢が必要だというわけでもない。共に生きていくためにはお互いの信頼を得る必要がみって、それは簡
単ではないということだ。
 
 日本では実に長い間、安心と安全を得るためには、価値があるとされる集団に受け入れられることが必要だった。東大に入りさえすれば、大蔵省(当時)に入りさえすれば、名門の大企業に就職できさえすれば、ほとんど一生安心できて、安全が与えられた。そういう価値観は結婚にも影響している。つまり、結婚すると男も女も安心してしまう、という傾向があった。
 
 男は家庭に無頓着な「会社人間」「仕事人間」になり、女は家と公園と近所のマーケットを往復するだけの「主婦」になりがちだった。要するに結婚は終着駅だったのだ。また、一昔前は、離婚に多大なコストがかかったので、我慢する女が多かった。離婚して、一人で生きていける女の数は少なかった。社会的に女性の職業が限られていたし、雇用機会も均等ではなかった。
 
 さらに離婚する女の絶対数が少なかったので、出戻りなどと呼ばれて、世間体が悪かった。出戻りからバツイチと呼称が変わることによって離婚ははるかに容易になったと思う。離婚が容易になると、結婚生活にそれなりの緊張が入り込むことになる。結婚していないと世間体が悪い、というような曖昧な利益では結婚を維持することが不可能になっていて、そのことは悪いことではない。
 
 おそらく昔は、結婚においてもっとも重要なことは我慢だったかも知れない。今はどうだろうか。今、結婚において重要なのは、一人でも充分に充実して生きていくことができるが、二人だとさらに充実するし、危機にも有効に対処できる、というようなことだと思うが、非常にわかりづらい。
 
括婚≠フ最大のメリットとは
 
 世の中は少しずつ変化していて、その変化の内容も少しずつアナウンスされつつある。良いと言われている大学に入りさえすれば安心、良いと言われている大企業に入りさえすれば安心、良いと言われている企業に勤める男と結婚できればそれで安心、というような構図はしだいに過去のものになりつつある。
 
 国が銀行や企業を庇護し、企業が家庭を庇護し、結婚という制度が女を庇護する、という社会の枠組みが変わろうとしている。実はすでに相当な部分で変わってしまっているのだが、そのことを伝える文脈がないので、アナウンスがされていないというだけだ。
 
 ところで、変化には常に痛みが伴う。痛みを不安と言い換えてもいい。企業が個人を庇護しない社会、つまり企業に入ってもその内部で競争があり、格差が生まれる社会をほとんどの日本人は経験していない。結婚後に、努力不足だという理由で離婚されでしまうような社会も経験していない。
──略──
 
 結婚を予定している若い友人たちに単純におめでとうと言えないのは、それが単純に幸福を約束するものではないから、というのがもっとも大きな理由なのだろう。それと、経済力の問題もある。
 
 昔は、一家を養う、という言葉があった。家族を食わしていく、という言い方もあった。要するに結婚をする男には金が必要だったわけだ。今でも金が必要なことに変わりはないが、今は女のほうも働くことができる。何かさっきから当たり前のことばかり書いているような気がするが、要するに二人で家計を維持することが可能になってきたわけだ。
 
 二人の収入を足せば、一人で暮らすより良い暮らしができる、というのは結婚のメリットかも知れない。しかし、それだけなら同棲すれば済む。わたし個人の考えだが、好きな異性と一緒に住むメリットの最大のものは、たとえば風邪を引いて高熱を発したときなどにリンゴのすり下ろしを食べさせてくれる、というようなことに尽きるのではないかと思う。弱っているときに、肉体的に、精神的に、助けてもらえるということだ。
 
 ひょっとしたら将来的に、一人暮らしの人が高熱を発したときにリンゴのすり下ろしを作って看病してくれるというビジネスが誕生するかも知れない。また、弱っているときに、元気を出して、と慰めてくれるビジネスはおもに男性相手に現在も風俗や水商売が担当している。女性相手に、セラピーのようなものも含め、寂しさを癒してくれたり、相談に乗ってくれたり、弱っているときに励ましてくれたりする、ハイレベルのホストクラブのようなビジネスを興せば案外成功するかも知れない。
 
 つまり、これからは、昔は結婚に求められていたことがビジネスとして成立するかも知れないということだ。現在ネットで流行しているらしい出会い系のサイトはもっと発展するかも知れない。病気の看病のための一ヶ月だけの疑似夫婦、地方赴任になったときに、生活をやりやすくするための一年間だけの疑似夫婦サービスのようなものも現れるかもしれない。結婚が提供していたサービスを、市場が代替することになるわけだ。
 
 ひと頃大ブームになって、今はすっかり定着してしまった女子高生の援助交際も、寂しい青年やおじさんの需要に女子高生が応じて市場が形成されてしまったわけで、介護サービスのように、今後それらも合法的なサービスに変化する可能性もある。
 
結婚したくない女が増えていく
 
 病気のときの看病も、落ち込んでいるときの慰めも、傷ついたときの癒しも、すべて代金さえ払えばサービスを受けられるような時代が来たとき、結婚という制度は大きな変化を迫られるだろう。男も女も、もし結婚を望むなら、そういうビジネスと競争して相手を探さなくてはならない。
 
 現代の結婚を巡る状況を二言で言い表すなら、結婚できない男が増えていて、結婚したくない女が増えている、ということになるのかも知れない。もちろん、一度は結婚してみたいという女がまだ大勢いるというのは確かなようだ。それは、結婚ってどんなものだろうというような一種の好奇心と、親が安心するからというような外部要因と、老後が不安だから、というような不安からだろうと思う。外部に委託することでそのすべてが解決すかようになると、結婚という制度はますます必要性が乏しくなってくるだろう。
 
 別に結婚なんかしたくない、という人のほうがどうしても自然な感じがするのだが、実際のところ、若い女性たちはどう考えているのだろうか。(村上龍著「恋愛の格差」青春出版社 p101-107)
 
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 イベントVS生まれ変わり
 
 結婚難の原因を考察する前に、結婚意識の男女差を考察しておかねばならない。
 
 男女平等意識が広まり、女性の社会進出が進んでいる現在でも、「結婚」の意味の男女差は大きい。
 
 一言で言えば、結婚は、男性にとつては「イベント」、女性にとつては「生まれ変わり」なのである。この点は、結婚問題のみならず、家族関係や女性問題を考察するに当たって、もつと強調されてよい。
 
 男性にとつての結婚は、人生にとつての一つの「イベント(出来事)」である。といっても、女性には理解しにくいかもしれない。
 
 男性は、結婚によって、また、結婚相手によって自分の人生のコースが変わるものだとは思いもしない。確かに、人によって、予定する人生のコースは違う。人生のコースを長期的な「生きがい」と言い換えてもよいだろう。ある男性にとつては、仕事で成功することが生きがいかもしれない。別の男性にとつては、家を買って明るいマイホームを作ることが予定のコースかもしれない。
 
また、趣味の世界を極めることかもしれない。ボランティアに生きがいを見出しているかもしれない。しかし、男性は、人生のコースや生きがいが、結婚というイベントや結婚相手によって変化するものだとは考えない。
 
 結婚はあくまで、彼らの人生のコースの通過点、もしくは人生のコースを実現する手段なのである。仕事を生きがいにする男性は、結婚によって仕事が変わるなどということは考えない。
 
政略結婚(上司の娘を妻にするなど)の場合は、結婚相手によって仕事に影響が及ぶかもしれない。この場合でも、結婚そして結婚相手は、あくまで、人生のコースを実現する手段なのである。マイホーム志向の男性も、楽しい家庭を実現するための手段として結婚があるのである。
 
 それに対して、女性にとつての結婚は、「生まれ変わり」の機能を持っている。この感覚は、私を含め、男性にはなかなか実感しにくいもののようだ。女性は、結婚によって、今までの人生をチャラにして、新しい人生を送ることが可能なのだ。
 
 私の回りでも、優秀な能力を持って、会社で活躍し、将来を嘱望されていた二〇代の女性が、結婚した途端、あっさりキャリアを捨て、専業主婦におさまり、趣味にボランティアにと生活を楽しんでいる女性を何人も見かける。小和田雅子さんが、外務省キャリアを捨てて、皇太子妃として「生まれ変わった」例は記憶に新しい。
 
 そこまでドラスティックな生まれ変わりではなくても、女性は、結婚する相手の職業や経済状況、価値観、家族の状況などによって、自分の人生のコースの修正を迫られる。男性は、結婚するからといって妻の実家の親の干渉を心配したりしないし、妻の仕事が忙しいから自分の仕事を軽いものに変えようとは思わない。

しかし、女性の場合は、結婚に当たって、相手の親と同居するかどうか、仕事を今まで通り続けられるかどうか、子どもができたらどうするかを心配しなければならない。結婚か、自分のやりたいことかという選択を迫られる。生まれ変わらずに、自分の希望通りの人生のコースを継続する女性もいるだろう。それは、本当に運がよいと表現される状況なのだ。
(山田昌弘著「結婚の社会学」丸善新書 p42-44)
 
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魅力の性差 − 身体化した性役割分業
 
 この結論に対して、次のような反論が来るかもしれない。「恋愛結婚が主流になった今、経済力の比較で相手を選ばないのではないか?」と。
 
 ある研究会でこの話をしたところ、ある女性研究者から「私は、結婚相手を経済力で選んだわけではない。話があうから選んだら、たまたま自分より年齢や学歴や収入が上だっただけ」と反論された。
 
 しかし、ここで、考えなければならないのは、異性を「好きになる」という無意識の過程に働く社会的な力である。現在の日本で、たまたま好きになった結果を観察してみると、みごとに、夫の経済力が上、妻の経済力が下ということになっているのだ。
 
 異性としての魅力の基準は、男女によって違う。「たで食う虫も好きずき」ということわざはあるが、だいたい、男性の魅力、女性の魅力とされるものは、人によってそうは違わない。
 
 男性の魅力として語られるのは、「たくましさ、体力、指導力、知識の豊富さ、会話の巧みさ、人生経験の深さ」などである。これらの特徴は、社会的に成功する能力を示している。たくましく体力があれば、バリバリ仕事をこなせるだろうし、指導力があれば管理職に就きやすいだろう。知識、会話のうまさ、人生経験などは、社会的に成功するには必要な能力である。
 
 つまり、男性としての魅力がある相手は、結果的に、よりよく生まれ変わらせてくれる男性なのである。精神分析学の知見によると、女性は、父親をモデルとして理想の男性像を作り上げる。父親以上の社会的能力を身につけた男性でないと、魅力を感じない構造になっている(父親以上というところに、「父親とは別の分野でのすぐれた能力」という要素を付け加えた方がよいかもしれない)。
 
 先ほどあげた女性研究者の例でも、高学歴の女性研究者と話して楽しいと感じる男性は、彼女と同等以上の高学歴の男性以外に考えられないとも言える。自分では話して楽しい人と結婚したと思っていても、結果的に、自分より経済力が上の男性を無意識的に選んでいることになるのだ。
(山田昌弘著「結婚の社会学」丸善ライブラリー p56-57)
 
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 騎士道精神は女性を理想化しただけの趣味恋愛
 
 ファブリスとクレリアの恋が情熱恋愛であるのはいうまでもない。ファブリスは一時、ジーナにも恋心を抱きかけていた。クレリアとジーナは、いわばファブリスのアニマというわけ。ジーナが母親タイプのアニマなら、クレリアは真の恋人のアニマ。逆にクレリアやジーナにとっては、ファブリスがアニムスといえるだろう。
 
 しかし、マリエッタやファウスタへの恋はどうか。ファブリスと彼女たちの恋は、それだけで一編の小説に仕上げることができるほど興味深い。フランスやドイツでは、実際にそのような小説が書かれている。ファブリスの彼女たちへの恋心は、スタンダールが『恋愛論』でいう趣味恋愛や虚栄恋愛といっていい。愛するというよりは恋敵を刺激して、相手を倒したり、決闘することに喜びが見出されているようだ。
 
 スタンダールより少し前のフランスの作家ラクロは、ナポレオン配下の将軍でもあり、スタンダールは十七歳のときにミラノのスカラ座で彼に出会ったと記している。そのラクロが書いた『危険な関係』は、趣味恋愛の極致といった小説だった。
 
 美貌の悪女メルトイユ公爵夫人とヴアルモン子爵が、未亡人で貞淑なツールヴエル法院長夫人と可憐な少女セシルを誘惑し、破滅させるためだけに恋愛遊びをする。ところが、ヴアルモン子爵はツールヴェル法院長夫人を本気で愛してしまう。
 
 この小説は、表面的には貴族社会の趣味恋愛を描いているようであるが、もう少し深く読み解いていくと、ヴアルモン子爵とツールヴエル法院長夫人との、この世ではかなえることができなかった純粋恋愛を描いているといってもいい。
 
 ところで、このラクロは『危険な関係』を書くにあたり、書簡体を採用している。書簡体というと、私などは、中世に公にされたアベラールとエロイーズの往復書簡をつい思い出してしまう。神学者アベラールと修道院長エロイーズ、この二人の関係は、エロイーズがアベラールへの愛を赤裸々に告白したことで有名となった。
 
 二人の往復書簡を下敷きにして、ルソーは『新エロイーズ』と題する書簡体の小説を書き、当時のヨーロッパでベストセラーとなっている。
 なぜ書簡体の小説が善かれたのかと考えると、ヨーロッパ中世の騎士たちの間に広まった女性崇拝に起源を見出すことができる。中世の騎士たちは女性という性を理想化し、女性のためには命を賭けることも辞さない騎士道文化をつくりあげた。
 
 ラクロの『危険な関係』にも、スタンダールの『パルムの僧院』にも決闘場面が出てくるが、これはヨーロッパの騎士道の流れを如実に示している。いってみれば、騎士道では女性は決闘の道具にすぎないわけだ。スタンダールは、女性のために命まで賭けていながら、実際には女性を愛していない趣味恋愛、もしくは虚栄恋愛を暗に批判しているのだろう。
 
 手紙は微妙な恋愛心理をさらけ出す
 
 騎士道物語といえば、『ローランの歌』『ニーベルンゲンの歌』『トリスタンとイズー』『アーサー王物語』など枚挙に暇がない。これらはとてもおもしろいし、高い文学性を備えている。しかし、登場人物は紋切り型で、その心理を表現するには不適切な形式といえる。
 
 そこで、これらの騎士道文学には見られない一人ひとりの人間心理、男女の恋愛における細やかな心情の揺れ動きを存分に描いてみたいと考えるのは自然な流れだろう。それには、騎士道文学にはない文体技術を加えることが必要である。そこで登場してきたのが、書簡体形式を代表とするフランスの心理小説だった。つまり、フランスの恋愛心理小説は、騎士道文学の恋愛的要素をさらに深め、磨き上げることで成立してきたといえるだろう。
 
 手紙という形式は、恋愛のような込み入った人間心理を表現するには適している。ルソーの『新エロイーズ』を読めば、そのことがよくわかる。
 
 フランス心理小説の始祖はラ・ファイエット夫人の『クレーブの奥方』であるが、その心理描写はまだまだ貧弱で、騎士道文学の要素を色濃く残していた。本格心理小説へと大きく舵取りしたのがルソーであるといっていい。『新エロイーズ』は手紙文学の傑作だと思う。
 
 ラクロも当然、このフランス心理小説の流れに位置している。ラクロが書簡体で『危険な関係』を書いたのは、騎士道的な俗悪趣味恋愛を徹底的に描きながら、書簡は人間の真の気持ち、肉声だからこそ裏の部分をさらけ出してしまうという、きわめて深層心理的な要素を見抜いていたからだろう。
 
 ヴアルモン子爵は結局、ツールヴェル法院長夫人を愛してしまった。その彼の死は、ある種の崇高さすら感じさせる。もっとも俗悪な調子でもっとも美しいものを描くという、前代未聞の振幅の大きさがラクロの魅力である。
(梅香彰著「「恋する力」を哲学する」PHP新書 p158-161)
 
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 だが、この進歩が生まれたのは、ドイツ人がまだ対偶婚家族のなかに生活していて、この家族に照応した女の地位を可能なかぎり一夫一婦婚に接ぎ木したという事情によるにちがいなく、伝説的な、驚くほど道徳的に純潔なドイツ人の素質によるのでは決してなかったのであって、この素質なるものは、対偶婚がじつは一夫一婦婚のように顕著な道徳的対立のなかで進行するものではないことを表わすものでしかない。
 
それどころかドイツ人は、その移動中に、とくに黒海沿岸の草原遊牧民のもとへ南東にむかって移動するうちに、道徳的にひどく堕落し、この遊牧民のもとで彼らの乗馬術のほか、ひどく自然にもとる悪習をも取りいれてしまったのであって、これについては、アンミアヌスがタイファル族について、またプロコピウスがヘルル族について、はっきり証言している。
 
 だが、たとえ一夫一婦婚が、既知のすべての家族形態のうちで、近代的異性愛を発展させることのできた唯一の家族形態であったとしても、そのことは、近代的異性愛がもっぱらこの一夫一婦婚のなかだけで、ないしは主にそのなかでのみ、夫婦相互の愛として発展したことを意味するものではない。
 
男子支配のもとでの堅固な個別婚という性質全体がそのことを不可能にした。
 
すべての歴史的に能動的な階級、すなわちすべての支配階級にあっては、婚姻締結は、対偶婚以来それがそうであったもの、つまり親がとりきめる打算の問題であることに変わりがなかった。
 
そして恋情としての、しかもどの人間(少なくとも支配階級に属する人間)もいだくのが当然な恋情としての、性的衝動の最高形態──この形態こそが異性愛の特性をなすものであるが──としての異性愛が、歴史上に登場する最初の形態、異性愛のこの最初の形態すなわち中世の騎士の恋は、決して夫婦愛ではなかった。
 
その反対である。プロヴァンス人のあいだに見られたその古典的な姿では、騎士の恋は帆に帆をかけて姦通へとつきすすみ、そして彼らの詩人たちがこの姦通をほめたたえる。
 
プロヴァンスの恋歌の精華はアルバalba ドイツ語で言えばターゲリーダーTagelieder〔後朝(きぬざね)の歌〕である。
 
それは、騎士がその恋人──他人の妻──と共寝(ともね)し、一方、外には、最初の曙(alba)が現われるやいなや騎士が人目につかないうちに逃げられるよう声をかける役目の見張りがたっているさまを、燃えるような色調でえがいている。
 
これにつづく別れの場が山場をなす。北フランス人も、律気なドイツ人までもが、同じようにこの歌法を、それに照応する騎士の恋の手管ともどもとりいれた。
 
そしてわが老ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハは、これと同じみだりがましい題材についてすばらしく美しい三つの後朝の歌を残したが、私は彼の三つの長編英雄詩よりもこのほうを好む。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p96-97)
 
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◎「そして恋情としての、しかもどの人間(少なくとも支配階級に属する人間)もいだくのが当然な恋情としての、性的衝動の最高形態──この形態こそが異性愛の特性をなすものであるが──としての異性愛」と。
 
◎これまでの学習通信≠ナ恋愛(異性愛)・家族についてとりあげています。それらと重ねて深めてください。