学習通信040117
◎矛盾・運動……生きているとはどういうことで、死んでいるとは、どういうことか
 
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からだは自然のもの
 
 死んだ人は、ヒトだろうか。「死んだら、モノ」だという人は多い。ほんとうか。
 自分のおじいさんやおばあさんが、死んだ。そういう経験がある人も、いるかもしれない。死んだあと、おじいさんやおばあさんは、モノになっただろうか。
 
 もちろん、なりはしない。やっぱり、自分のおじいさんであり、おばあさんである。
 
 でも、相手は死んだ人でしょうが。
 そこに問題がある。しかし、考えてみよう。死んだ人だって、人間ではないのか。それを、死んだら「人間」とはなにか別なものだ。そう思うから、ぶきみに感じるのではないだろうか。
 
 なぜ、死んだ人は、人間とは思えないのか。
 なにを言っても、返事をしないからだ。
 でも、ぐっすり寝ている人や、意識のない人は、なにを言っても返事がない。
 
 そうではなくて、死んだ人は、息をしていないし、呼吸も止まっている。心臓も動かない。
 
 だけど、見ただけでそれがわかるか。
 だから、それは、医者に見てもらう。
 では、医者は、生きているか死んでいるか、どうやって判断するのだろうか。
 
 第一に、呼吸をしない。第二に、心臓が止まっている。第三に、明るい光を目にあてても、瞳が動かない。生きている人なら、瞳が縮む。これを瞳孔反射という。
 
 そうやって、ていねいに見ないと、生きているか、死んでいるかわからない。いまでは脳死といって、呼吸も自分ではしないし瞳孔反射もないが、人工呼吸器をつければ、心臓は無事に動く。そういう人まである。こういう人は、日本では死んだとは認めないが、アメリカやヨーロッパ、あるいはその他のいくつかの国では、死んだと認めている。
 
 生きている、死んでいるといっても、そのギリギリの填では、話がはっきりしない。そんなバカな。そう思うかもしれない。でも、そうなのである。生死とは、自然の現象である。自然の現象は、人間が地球上に発生する以前からある。それより後から、人間が現われて、生きてるとか、死んでるとか、いろいろなことを言うようになった。
 
そうした自然現象が、われわれに完全に理解できるかといえば、そうはいかない。生と死のように、その区別があまりにもあたりまえに見えることですら、その区別はあたりまえではない。よくわからないところが、どうしても残るのである。
 
 人間のからだは、車とは違う。車は人間が設計して作ったものである。だから、それが故障すれば、どこがおかしいか、必ずわかるはずである。部品はすべて、人間が考えて、そこに入れたものしかない。だから、故障したときに、その理由がわからないとすれば、わからないほうがわるい。故障の原因は、最後には必ずわかるはずなのである。
 
 ところが、である。人間のからだは、そうではない。車とは違う。ここは難しいところだが、車のように「人の作ったもの」か、からだのように「自然のもの」かで、わかる、わからないに違いがある。このことは、あたりまえと言えばあたりまえなのだが、いまの人はあまり気づかない。
 
なぜなら、回りにあるものが、「人の作ったもの」ばかりだからである。身の回りを見わたしてごらんなさい。たとえば、自分の家や学校であれば、目に入るものは、ほとんど人が作ったもののはずである。建物、椅子、机、電線、電話、車、などなど。
 
 私たちの身の回りは、いまではすべて人の作ったもの、つまり「わかる」ものばかりなのである。そういうものばかり見ているから、人のからだのように、「自然のもの」を見たとたん、どう考えるのか、それがわからなくなる。それが「わからないもの」だということが、なんだか変な気がするのである。
 
 からだなんて、だれでも持っているじゃないか。それがわからないはずがなかろう。それがわからない。すでに説明したように、極端に言えば、生きているか死んでいるか、それだって国によって意見が違うくらいなのである。
 
 そういうわからないもの、人が作ったわけではないもの、それを自然という。人のからだは、自然である。だから、からだは、根本的には理解できないものに属する。車なら、作る人に、ある「つもり」があって作っている。ちゃんと動かなくてはならない。すぐ故障しては困る。走る機械なのだから、それなりにさまざまな装置が必要だ。
 
 からだのほうは、そこがはっきりしていない。なんのためか。まずそれがわからない。車なら走るためだが、人のからだは、なんのためにあるのか。いくらでも説明はできるが、その説明に終りはない。どの説明も不十分である。こう言われると、因ってしまうであろう。
 
えらい人にきいたら、なんでもわかっているんじゃないか。そうはいかない。どんなえらい人でも、よくわからないところが必ずあるもの、それが自然なのである。人のからだは、その自然である。
 
 生死は自然の現象である。だから、それは、理屈ですべてわかるというわけにはいかない。
 
「死んだら、モノ」
 
 人は死んだら、モノか。それは違うと言った。なぜか。
 
 モノだと思えば、生きているうちから、モノである。なぜなら、そもそも場所をとる、体重がある。だれかにぶつかると、壁にぶつかったのと同じで、通りぬけるわけにいかない。こういうことはすべて、モノすなわち物体の特徴である。それなら人は、生きているときから、物体としての性質を持っている。死んだ後も、その性質にはまったく変わりがない。それだけのことである。死んだから、急にモノになった。そういうわけではない。
 
 そこがとても不思議だ。死ぬって、どういうことか。だから、自然のことは、すべてがわかるとは限りませんよ。そう言ったのである。それを「わかろう」として、自然科学を勉強する。勉強したら、どこかで「わかって」終りか。それが終らない。どこまで行っても、わからないことが残る。どうせわからないなら、勉強はやめた。そう思う人は、とても多い。でも、そう思ったら、わかるところまでも、わからなくなる。
 
 母親にそうじを手伝えと言われて、うちの娘が言う。
「どうせまた汚れるんだから、そうじなんか、しなくてもいいじゃない」
 そういう人は、どうせ死ぬんだから、生きてなくてもいい。そう言うのであろうか。どうせまたおなかがすくのだから、食べたって同じよ。そう思うのだろうか。
 
 学校で与えられる問題には、普通は答がある。自然の問題には、しばしば答がない。答がある問題ばかりに出会っているから、答がない問題を出すと、怒りだす。答がない問題を考えさせるなんて、けしからん。
 
 だから、言ったのである。「人の作ったもの」、そればかりに慣れているから、「自然のもの」にはわからないところがあるということが、わからなくなっている。学校の試験問題は、「先生が作ったもの」である。これは「人の作ったもの」だから、普通答がある。
 
相手が自然だと、そう簡単にはいかない。自然に質問を投げかけると、答が返ってくることもあるし、返ってこないこともある。ヘタクソな質問をすると、答が返ってこない。上手な質問をすると、たとえばノーベル賞がもらえる。聞き方次第なのである。
 
 生きているとはどういうことで、死んでいるとは、どういうことか生きているとはどういうことで、死んでいるとは、どういうことか。この質問に、自然はなかなかきちんと答えてくれない。そうかといって、この問題は、社会的には大切な問題である。わかりません、では済まないところがある。だから、「脳死および臓器移植に関する臨時調査会」という、長い名前の委員会を政府が作った。そこでえらい人がいろいろ相談したが、結局、意見が完全には一致しなかった。
 
 それが自然なのである。自然はしばしば割り切れない。それが割り切れるのは、運がよかったか、割り切れると「思っている」だけである。もっとも、その話は少し難しいであろう。
 
 死んだ人は、生きている人とはちょっと違う。死んで時間がたつほど、その違いははっきりしてくる。でも、生きている人だって、時間がたてばどんどん変わる。だれでも、以前は赤ん坊だった。それが、いつのまにかことばを覚え、本を読む。いつのまにか、年をとり、おじいさん、おばあさんになるであろう。時間とともに人が変化していくのは、死んだ人に限らないのである。
(養老孟司著「解剖学教室へようこそ」筑摩書房 p46-53)
 
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「ピカソは独創性がない。彼はつねにだれか昔の大家、アングルとかロートレックとかの作品の傍らに身を置いている」と主張する芸術批評家もいて、この主張にも一理ある。しかし、絵画の世界にかぎらず、文学でも哲学でも音楽でも、完全な独創性といったものがあったためしがあるだろうか。
 
すべてのものは何らかの影響の産物であり、他人からの借用の成果にはかならないと言うこともできるのではなかろうか。
 
 モーツァルトの章ですでに触れたが、独創性や個性をことさら強調する現代の教育の風潮のなかで忘れられがちなのが、真似をする能力やものごとを鮮明に記憶する能力である。こういった能力を高めるにはどうすればいいかと言えば、たくさん真似をして、たくさん記憶するしかない。ある能力を高める最善の方法は、その能力を酷使することである。
 
ピカソを親しく知る人びとの証言によると、彼は一度見たものはけっして忘れず、必要に応じてこれを自由に再現することができて、意識的あるいは無意識的に自分の作品に利用したという。これも画家にとっては立派な「学習効果」のひとつである。
 
 ピカソのスタイルの変化も、真似といって悪ければ同化能力と借用能力からおのずと生み出されたものである。
(木原武一著「天才の勉強術」新潮選書 p168-169)
 
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 私が小澤さんの指揮による、若い演奏家たちの練習を聴き、また見もして感動したのは、そこにエラボレーションのすばらしい実例があるからでした。
 
まだ少女のようなヴァイオリンの弾き手、ヴィオラやチェロの若者の弾き手たちと、四重奏の演奏をしては、中断し、どのような音楽を作りたいのかを考え、そのためにどのように弾き、また仲間たちの音をどのように聴くかを、小澤さんが、本当によくわかる言葉と表情、身ぶりでみちびいてゆきます。
 
生徒たちはしっかりした技術と練習の積み重ねでそれについてゆき──自分で作りだし──ついには、さっきより優れたものとわかる音楽を仕上げてゆきます。
 
 それを見守りながら、かつ音楽を楽しみながら、私にはこの若い人たちの人間そのもの、人生自体がエラボレーションをひとつ達成する、その大切な時に立ち会っている、という思いもしたのでした。
 
 私は、小澤さんが、自分の心臓の鼓動がとまった時、これらの若い人たちの胸に新しい命がやどって動き続けるようにと、それを心からねがって教えている、と思いました。
 
 もう時間がない、セッパつまった気持なんだ、とも小澤さんはいいました。もともとヨーロッパの人間の作り出した音楽を、日本人が世界的な水準で自分のものにしてしまい、ヨーロッパの人たちにも認めさせた、その最初のひとりが指揮者小澤征爾です。
 
かれは、それを若い人たちにつないでゆきたいと思い立って、働いているのです。世界じゅうを充実した仕事をして飛びまわる、大変な生活のなかで、この高原に来て、心から楽しそうに……
 
 そして、私には日本にいるかぎり現場で教える機会はないのですが、これまで小説家として知ってきたことを、もっとひろげて、若い人たちにつたえたい、と思いはじめたのでした。
(大江健三郎著「「自分の木」の下で」朝日新聞社 p30-31)
 
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小中学校の授業をすべて「ことばの時間」に
 
 うんと思い切ったことを言いますと、そしてここまで申し上げたことにもとづいて言うなら、ナイフで教師を刺す男の子や、二人がかりで老人を殴り殺した女の子の出現に、大人たちが驚くのはまちがいじゃないでしょうか。彼らにそのような世界観を形成させるに至った「胎内」のほうに問題があったのではないでしょうか。
 
なにしろ、彼らを育てた胎内、家庭──その周囲の共同体──学校──社会、ひっくるめてわたしたち大人の世の中は、およそ貧弱なことばしか持っていませんし、その素行ときたら欲望まる出し、目を覆うばかりのひどさです。
 
 その大人たちで、とくに欠けているのは、もちろん自分も勘定に入れてですが、自分の権利を主張することばと、他人のことば(彼もまた自分の権利を主張しています)を聞く態度でしょう。わたしたちがことばを正確に誠実にゆたかにおもしろく使おうとしないかぎり、子どもの教育なんてできやしません。
 
 ここまでを前提にわたしなりの青写真を描くと、小中学校の義務教育の期間は、脳の言語野の発達に歩調を合せて、授業をすべて「ことばの時間」にしてしまいます。なぜなら、いま説明したように、ことばは世界を認識する枠組だからです。
 
そこで、広く、かつ、深い世界認識の枠組を持ってもらうために、算数、理科、地理、歴史などすべてことばの問題に転換して教えます。こんなことはどこでもやっていることで、外国の学校を調べると、理科の試験に「教室の外に落葉が舞っています。その落葉が桂から地面に落ちるまでの様子をお書きなさい」(イタリア)なんてのが出ます。
 
なお、この時期には決して感想文(「……をどう思いましたか」など)は書かせない。これは大人だって往生します。書かせるのは観察文(「あなたには……がどう見えましたか」など)だけ。
 
 とくに小学校の六年間に力を入れるのは、自分たちの問題をしっかりしたことばでつかまえ、それを講義する力を養成すること。ことばの勉強を兼ねて日本国憲法を体得すること。憲法がわたしたちの社会の統合力ですから、これにはうんと力を入れる。この二つを身につけるからこそ、義務教育なのです。
 
 この二つができたら、子どもたちはそのままで、すでに大人たちよりよほど上等な人間、公人になります。
 
 ぜんぶ「ことばの時間」にしてしまうと時間があまります。それに教育とはもともと強制ですから子どもの根気がつづかない。そこで授業は午前中でおしまい。午後は、音楽、読書、運動、社会活動など、なんでも子どものおもしろいと思うものをやらせます。英語がやりたければ「どうぞ」、コンピュータも「どうぞ」、ぽんやりしていたいなら「どうぞ」です。
 
「受験はどうする〜」とおっしゃる方もおいででしょうが、いまの、<よい幼稚園⇒よい小学校⇒よい中学校⇒よい高校⇒よい大学⇒よい会社>という悪い連鎖を切ってしまいます。つまり、大学人学資格は高卒でなくとも取得できるようにします。その代わり資格試験はうんとむずかしい。そして論文一本です。
 
 「なにを夢のような……」という批判は甘んじて受けますが、いまの子どもたちを暗記能力だけで評価するのはもういい加減にしないと、この国は芯から腐ってしまいます。また、「いまはつらいけど、いい中学校に入れば楽しいことがあるから」といい、中学校に入れば「いまはつらいけど、いい高校に入れば、そこでいいことが」、高校に入れば、「いまはつらいけど、いい大学に入ればきっといいことが……」。
 
いいこと、たのしいことをずっと先送りして子どもを騙すこともやめたほうがいい。人生の、いちばんいいときを灰色に塗り潰す権利はだれにもありません。
 
 いま小学校や中学校で起こっていることは、十年先、二十年先に世の中で起こること。
 小学校や中学校は未来の鏡なんです。それを考えれば、立派な都庁舎や区役所は建てる金はあるがボロ校舎を修理する金がないという人たち、そしていまの学校地獄をかえようとしない人たちは、「いまさえ、よければいいんだ。世の中の先行きなぞ、おれたちの知ったことか」と居直って、洞喝していることになりますね。
 
そういう人たちは、りっぱな未来泥棒です。(井上ひさし)
(不破・井上著「新 日本共産党宣言」光文社 p265-268)
 
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 ここには、だから、「事物と出来事そのもののうちに客観的に存在し、いわば肉体をそなえたものとして出会える」矛盾があるわけである。ところで、デューリング氏は、これについてなんと言っているか? こんにちまでのところおよそ「合理的な力学では、厳密に静力学的なものと動力学的なものとのあいだの橋がない」、と主張している。
 
読者は、いまついに、デューリング氏のこのお気に入りの文句のかげに隠れているものがなにかに気づく。それはつぎのことにすぎないのである、──<形而上学的に思考する知力に、静止の思想から運動の思想に移ることが絶対にできないのは、この場合、前記の矛盾がこの知力のゆく手をふさいでいるからなのだ>、と。
 
こういう知力にとっては、運動というものは、一つの矛盾であるからまったく不可解なのである。そして、この知力は、<運動は理解できない> と主張することによって、自分でこの矛盾の存在をいやいやながら認めており、つまり、<事物と出来事そのもののうちに客観的に存在している矛盾というものがあり、そのうえそれは事実としての力である>、ということを認めているわけである。
 
 単純な力学的な<場所の移動>すら一つの矛盾を自分のうちに含んでいるのなら、物質のもっと高次の運動諸形態はなおさらそうであり、有機的生命とその進化とはとりわけそうである。さきに見たとおり、生命というのは、なによりもまず、或る生物がどの瞬間にも同一のものでありながらしかも別のものであるという、まさにこのことなのである。
 
生命も、だから、事物と出来事そのものとのうちに存在していて絶えず定立(ていりつ)され解決される、一つの矛盾であるわけである。そして、この矛盾が終わったとたん、生命も終わり、死がやってくる。
 
同様にわれわれは、思考の領域でも矛盾をまぬかれることができないことを見た。
 
たとえば、〔=方で〕人間の認識能力が内的に〔それ自体としては〕制限を受けていないということと、〔他方で〕その認識能力が現実には外的に制限を受けた・限局された認識しかできない人間のうちにだけあるということ、この両者のあいだの矛盾は、われわれにとって少なくとも実際上は終わりがないと言ってよいあいつぐ世代の継続のなかで、この無限の進行のなかで、解決されるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p172-173)
 
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◎わたしたちの周りに沢山の未来泥棒≠ェいます。私たちが学ぶことが人類の認識発展の力でもあるのです。矛盾≠フどちらの側面に組するか……矛盾・運動の基本をとらえよう。
 
◎小澤氏、大江氏の立場がいま重要だと思います。いまの若い者は……≠ニ、では歴史はすすまない。