学習通信040118
◎労働組合とストライキ……労働者の賃金はどのようにして決まる
 
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奥田会長が「家庭の生保見直しを」と提言 業界に波紋 
 
 日本経団連の奥田碩会長は14日の労使フォーラムの講演で、生命保険について「家計が保険に対する正確な知識をもつことで、過大で重複した保障を見直すことが可能だ」として、「生保の見直し」を各家庭に求める異例の発言を行い、生保業界に波紋を広げた。
 
 奥田会長は04年春闘で賃下げの必要性に言及する一方で、住宅ローンや教育費など家計に過重な負担となっている支出を見直すべきだと提言。生保についても「(大手生保の主力商品の定期付き終身保険など)積み立てを組み合わせた保険が主流となっているため、保険料が高くなる傾向にある」と見直しの必要性を強調。
 
「昨今は優れたノウハウをもつ外資の参入もあり、保険商品も高度化している」「全トヨタ労連なども組合員へ生保の見直しを推奨している」などと述べた。──略──<毎日新聞04.01.14>
 
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 ふつうの労働の賃金がどのようなものであるかは、どこでも、利害がけっして同じでないこれら両当事者のあいだで通常結ばれる契約による。職人はできるかぎり多く手にいれることを、親方はできるかぎり少なく与えることをのぞむ。前者は労働の賃金を引き上げるために団結しようとし、後者はそれを引き下げるために団結しようとする。
 
 しかし、通常のすべてのばあいに、両当事者のどちらがこの紛争で有利であるか、どちらが相手側を自分たちの条件に服させるにちがいないかを、予見することは困難ではない。親方たちは数が少ないから、はるか容易に団結できるし、しかも、法律は職人たちの団結を禁止しているのに、親方たちの団結を認めており、すくなくとも禁止してはいない。
 
われわれには仕事の価格を引き下げるための団結を禁止する議会法はないが、それを引き上げるための団結を禁止する議会法は多い。このような紛争のすべてにおいて、親方たちははるかに長くもちこたえることができる。地主、農業者、親方製造業者、あるいは商人は、職人を一人も雇用しなくても、既得の資本で一年や二年は生活できる。
 
雇用されずに一週間生きていける職人は多くないし、ひと月生きていける職人は数少なく、一年間生きていける職人はめったにいない。長期的には、職人にとって親方が必要であるのにおとらず、親方にとって職人は必要だろうが、その必要性はそれほど直接的なものではないのである。
 
 職人たちの団結についてはしばしば耳にするが、親方たちの団結についてはめったに耳にしないといわれてきた。しかし、だからといって、親方はめったに団結しないなどと思う人がいるなら、それはこの問題についてはもちろん、世間についても無知な人である。親方たちは、いつどこでも、一種の暗黙の、しかし恒常的かつ一様の団結を結んで、労働の賃金を実際の率以上に上昇させまいとしている。
 
この団結をやぶることは、どこでも、きわめて不人気な行為であり、親方が近隣や同輩のあいだで一種の非難のまとになることである。たしかに、われわれはこのような団結をめったに耳にしないが、それというのも、だれもが耳にしないほどそれが通常の、ものごとの自然の状態といっていいものだからである。親方たちはまた、労働の賃金をこの率よりもさらに引き下げようとして、特定の団結を結ぶこともある。
 
この団結はつねに実行の瞬間まで極度の沈黙と秘密をもってすすめられ、じじつ職人たちがときどきそうするように無抵抗で屈服するとき、こういう団結は職人たちによって痛切に感じられはしても、けっして他の人びとの耳にははいらない。しかしこのような団結はしばしば、職人たちの、これとは反対の防衛的な団結の抵抗を受ける。彼らもまた、この種の挑発がまったくなくても、自分たちの労働の価格を引き上げるために、自発的に団結することがある。
 
彼らの通常の主張は、あるときには、食料品の価格が高いということであり、あるときには、親方たちが自分たちの仕事によって大きな利潤をあげているということである。だが彼らの団結は、攻撃的なものであれ防衛的なものであれ、つねにいくらでも耳にはいる。争点をすみやかに解決するために、彼らはつねにやかましくさわぎたてるという方法に訴え、ときにはもっともショッキングな暴力や乱暴に訴えることもある。
 
彼らは必死なのであり、そして必死の人びとの愚かさや無謀さをもって行動する。彼らは飢えるか、さもなければ親方たちを脅かしてただちに自分たちの要求を受けいれさせるかしなければならないからである。こういうばあい、親方たちは相手側にたいしてこれにおとらずさわぎたて、官憲の援助と、使用人や労働者ややとい職人の団結をあれほどきびしく禁止する法律の、厳格な施行を声高く求めてやまない。
 
したがって職人たちがこういう騒然とした団結の暴力から何かの利益を引き出すことはきわめてまれであり、こういう団結は、一部は官憲の干渉のため、一部は親方たちの頑強さがまさっているため、一部は職人たちの大部分が当面の生計のために屈服する必要にせまられているため、一般に首謀者の処罰か破滅という結末にしかならないのである。
 
 しかし、職人との紛争においては親方は一般に有利であるとはいえ、最低の種類の労働の通常の賃金でさえ、多少とも長期にわたってそれ以下に引き下げておくことは不可能だと思われる一定の率がある。
 
 人はつねに自分の仕事によって生活しなければならないし、彼の賃金はすくなくとも彼を扶養するにたりるものでなければならない。賃金は、たいていのばあいに、それよりもいくらか多くさえなければならない。さもなければ、彼は家族を養育できないだろうし、そういう職人たちの層は一代かぎりとなってしまうだろう。
 
この理由でカンティロン氏は、最下層の者でさえ、平均して二人の子どもを育てるためには、どこにあっても自分自身の生活維持費のすくなくとも二倍は稼がなければならないと考えているようである。そのさい妻の労働は、子どもたちを世話しなければならないために、彼女自身を扶養するにたりるだけだと想定されている。しかし生まれた子どもの半数は、成年に達するまえに死ぬものと計算されている。
 
したがってこの計算によれば、二人の子どもがともに成年まで生きる機会をもつためには、もっとも貧しい労働者でも、平均してすくなくとも四人の子どもを育てようとしなければならない。しかし四人の子どもの必要生活維持費は、成人一人の生活維持費にはば等しいだろうと想定されている。
 
壮健な一人の奴隷の労働は彼の生活維持費の二倍に値するものと計算されると、同じ著者は付言し、もっとも卑賤な労働者の労働でも一人の強健な奴隷の労働以下の価値しかないことはありえないと考えている。一家族を養育するためには、ふつうの労働の最下層の種類においても、夫妻あわせての労働が、自分たち自身の生活維持に正確に必要なものよりむ、いくらか多くを稼ぐことができなければならないということまでは、すくなくとも確実だと思われる。
 
しかしこのいくらかというのがどれほどの割合でなのか、つまり上述の割合なのか、それとも他のいずれかの割合なのか、わたしはあえてそれを決定しないことにしよう。
 
 しかしある種の事情があって、それがときどき、労働者に有利にはたらき、彼らが自分たちあ賃金をこの率よりも、すなわち明らかにふつうの人間たることに反しない最低の率よりも、かなり高く引き上げることを可能にする。
 
 賃金で生活する人びと、すなわち労働者、やとい職人、すべての種類の使用人にたいする需要がある国でたえず増加しているばあい、すなわち毎年、前年に雇用された者よりも多数の者にたいして雇用が与えられるばあいには、職人たちは賃金を引き上げるために団結する必要がない。
 
人手の不足が親方たちのあいだに競争を生む。親方たちは職人を手にいれるためにたがいに競いあい、このようにして賃金を引き上げまいとする親方たちの自然の団結を自発的に被ってしまうのである。
 
 賃金によって生活する人びとへの需要は、明らかに、賃金の支払いにあてられる基金の増大に比例してしか増加しえない。こうした基金には二種類あり、第一は生活維持に必要なものを超える収入であり、第二は親方たちの仕事に必要なものを上まわる資本である。
 
 地主、年金受領者、あるいは金持が、自分の家族を扶養するのにたりると判断するよりも多くの収入をもつとき、彼はこの剰余の全部あるいは一部を一人またはそれ以上の使用人を扶養するのに使う。この剰余が増加すれば、披は自然にそうした使用人の数を増すだろう。
 
 織物工や靴屋のような自営の職人が、彼自身の仕事の材料を購買し、製品を売りさばくことができるまで生計を維持するにたりる以上の、資本を手にいれたときには、その剰余ぶんで彼は自然に一人またはそれ以上の職人を、彼らの仕事で利潤をあげるために雇用する。この剰余が増せば、彼は自然に職人の数を増すだろう。
 
 したがって賃金で生活する人びとへの需要は、それぞれの国の収入と資本との増加につれて必然的に増加するのであり、それなくしてはけっして増加しえない。収入と資本との増加は国富の増加である。したがって賃金で生活する人びとへの需要は、国富の増加とともに増加する
のであり、それなしにはけっして増加しえないのである。
 
 労働の賃金の上昇を引き起こすのは、国富が実際に大きいことではなく、それがひきつづき増大していることである。したがって労働の賃金がもっとも高いのは、もっとも富裕な国ぐににおいてではなく、もっとも繁栄しつつある国ぐに、すなわちもっとも急速に富裕になりつつある国ぐににおいてである。
(スミス著「国富論-上-」岩波文庫 p121-127)
 
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──しかし、こういう組合と、そこから生じたストライキとの独自な重要性は、それが競争を廃止しようという労働者の最初のこころみだということにある。
 
組合もストライキも、その前提となっているのは、ブルジョアジーの支配は労働者同士の競争を、つまり、一人ひとりの労働者がたがいに対立してプロレタリアートが分裂しているということを、もっぱら土台としているという認識である。
 
そして組合とストライキは、たとえたんに一面的であるにせよ、たとえかぎられたやり方であるにせよ、競争にたいして、また現在の社会秩序の中枢神経にたいして、反対しているのだから、まさにそれだからこそ、この社会秩序にとってきわめて危険なのである。
 
労働者は、ブルジョアジーと、それとともに現在の社会秩序の全体とを攻撃するにあたって、これほど効果のある急所はない。
 
もし労働者間の競争が阻止され、すべての労働者がもはやブルジョアジーには搾取されないと決意すれば、所有の王国は終わりなのである。
 
労働者の賃金が需要と供給の関係に左右され、労働市場のそのときどきの状態に左右されているのは、これまで労働者が売買の対象となる物としてあつかわれることにあまんじていたためである。
 
労働者がもう売買されないと決心し、ほんらい労働の価値とはなにかということを決定するにあたって、労働力だけでなく、一つの意志をもつ人間として登場するならば、今日の国民経済学の全体と賃金法則とは終わりとなるのである。
 
もちろん、もし労働者が彼らのあいだの競争の廃止だけにとどまっているなら、長いあいだには賃金法則がまた働きはじめるであろう。しかし
それは彼らがこれまでの運動をすべて放棄し、労働者同士の競争を復活しないかぎり、不可能である。
 
すなわち、彼らは、およそそういうことはできないのである。
 
彼らは必要にせまられて、競争の一部分だけでなく、競争全般を廃止せざるをえなくなる──そして彼らはそうするであろう。
 
労働者はすでに今日、競争すればどうなるかということを、毎日毎日ますます理解しており、有産者同士の競争も商業恐慌をひきおこして労働者を圧迫するということ、そしてこの競争もまた排除すべきだということを、労働者はブルジョアジーよりよく理解している。
 
彼らはまもなく、どのようにしてこれをはじめるべきかを理解するであろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -下-」新日本出版社 p51-52)
 
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◎「賃金があがらない。企業はリストラをやっている。労働者も生活のリストラをやるべきだ」と日本経団連会長・奥田碩氏の発言をTVで聞いたと思った。聞き違えているが、本心は聞き違えた通りではないのか。
 
◎何回目かの資本論・第1部の学習会を始めた。今回はスミスの「国富論」を並読しようとおもっています。最初の抜粋をおとどけします。
 
◎労働組合に団結すること、ストライキで闘うことの必然性とその役割……深くとらえてください。できれば……是非この際「イギリスにおける労働者階級の状態」を一緒に読みましょう。