学習通信040121
◎続けるということ……「ふと湧く疑問が力を奪うことがある。この道でいいのだろうか」
 
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 自分にもなにかできることがあるはずだ。それはなんだろう。
 探しっづけているとき、いつもわたしの頭に浮かぶのは、中学校時代トップで走った快感だった。それは心のなかで消そうとしても消えない原風景を、一瞬とはいえぼやけさせてくれた。忘れさせてくれた。
 
 人はみな心のなかに風景を持っている。その風景のなかで自分を癒せる人は幸せだ。生まれ持って描かれている才能という地図に沿って歩いていけば、いつかは到達点にたどり着ける。そんな地図をあらかじめ与えられている人は幸せだ。
 
 けれどその地図を自分で探し、どんなに不恰好でも自分で作り出さなくては一歩も前に進めない人間もいる。
 
 わたしのなかにある風景には道は描かれていない。行き止まりの景色しか描かれていない。何もない荒野が広がるなかで、自分の力と意思だけで耕し、道を作っていかなくてはいけない。けれど、耕し、道を作っている最中にもふと湧く疑問が力を奪うことがある。
 
 この道でいいのだろうか。間違った道を進んでいるのではないだろうかと。
 でも、わたしには、ほかに耕す場所はない。作るべき道はない。だからともかくその道に進むしかなかった。行き止まりのなかで、ただ立ち止まっていることはできない。そうでないと途方に暮れてしまう。道に迷ってしまう。自分がどこにいるのかさえ、わからなくなってしまうから。それでは生きることにならないから。
 
 「走る」ということ。それがようやく見つけた、わたしのただ一つの答え、地図だった。この地図を見失いたくなかった。
 
 だからわたしは、必死だった。断られることくらいわかっていた。ダメだと言われることはわかっていた。だからといって諦めることはできなかった。「ここから先には進めません」と言われても、「そうですか」と簡単に引き下がることなどできないのだ。
 
 だからわたしは、連日監督のもとを訪れ、話を聞いてくれるのを待つ。教員室で、体育教官室で、先生のまわりをうろうろし、声をかけてくれるのを待つ。練習を見ながら、先生にわたしの姿が目に入るところに立ち、近づいてくれるのを待つ。
 
 母は、よく言っていた。
 「眉の少し上くらいの目標を持って」と。 あまりに目標が高いとくじけてしまうということではなく、そのときどきに、「眉の少し上くらいの具体的な目標に向かってやれ」というふうに、わたしは解釈していた。
 
 そのときの「眉の高さくらいの目標」とは、とにかく陸上部に入ること。(有村裕子著「わたし革命」岩波書店 p39-41)
 
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 初めは「なんだかやけにやる気だよ、紀香」と遠目に見ていたクラスメイトたちも、真剣な練習を見ているうち「いけるかもしれない」とその気になり、はっぴやうちわを作り始めた。
 
 クラス全員が協力体制に入りチームワークが出てくると、メンバーたちにも気合いが入ってくる。様子を見ていた高三チームからもマークされ、ムードはいやがうえにも高まった。
 
 いざ勝ち抜き戦が始まると、私たちは決勝戦まで進出した。対戦相手は高三。もし私たちが勝てば下剋上だとばかり、学校を二分しての大騒ぎになった。もはや「アタックNO.1」。スポ根の世界だ。
 
 結果は、なんと私たちの優勝。学校始まって以来の嬉しい事件にクラス全員がその瞬間抱き合って泣き、興奮冷めやらず日が暮れても教室に残り、誰も帰ろうとはしなかった。
 
 私は、「どうせ〜だから」とか「私って〜だから」というやってみる前からあきらめるような、自分の枠づけをする考え方が嫌いだ。やるからにはトップを目指したい。あの優勝は、まさに負けず嫌いのなせる業だったのだと思う。
 
 子どもの頃は感情むき出しで口にしていた思いを、今は心のなかで反窮している。
 
 ダイエットでもそうだ。仕事で海外に出かけると、私はその土地土地のおいしい食事を堪能しようと思うため、日本に帰る頃にはたいてい三キロ以上は体重が増えている。けれど、日本に帰ったらまた食生活をコントロールし、すぐに元の体重に戻す自信がある。
 
 スタイリストさんに「もうすぐコマーシャルの撮影だから、頼むわね」などと言われると、太ったままで映ってなるものかと思うのだ。遅く帰宅した日は入浴が面倒でも、翌朝後悔したくない一心で、這ってでも入る。
 
 負けず嫌いの性格を上手に操り自分を奮い立たせるのは、自己プロデュースの一環とも言える。のせられやすい単純な性格を、前向きに活用しないテはないのだから。
 
 あなたは自己プロデュースが得意ですか?
藤原主義 「とうせ〜だから」というフレーミング人生はやめる
(藤原紀香著「藤原主義」幻冬舎 p216-217)
 
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人生には、こうして自分の知恵や理想の限界を素直に認めたとき、はじめて己の居る場所、居たい場所、そして居るべき場所が見えてくることがあるのではなかろうか。
 
 私一人の知恵には、自ずと限界があろう。私一人の考えには、自ずと偏りや欠点があろう。だから、普通校入学という夢へのこだわりを進んで裁ち切ったとき、私には別の大きな道が開かれた。健常者と同じ貢献度を無理に目指すという気負いから離れたとき、私は人類の一人として生きるという新しい視野を与えられた。
 
それらの転換は、生涯のうちに成し遂げたいと思う夢を捨てたり、「それまでの自分」を否定することとは違っていた。小林氏の言うように、自分のちつばけな知恵から解放されることによって、自分自身の限界からも解放され、人間として本当に追い求めるべき何かを垣間見ることができたような気がしたのだった。
 
 しかも、ただ居場所を見つけて自己完結するだけでは、真の意味における己の存在意義は感じられないのだった。願わくは、見つけた居場所を拠点に、社会や自然と確かな関わりを持ち、どんなに小さくてもそこでできる貢献をしていけたらよいと思ったのである。
 
 居場所がないと感じたら、まずは現在地をしっかりと見つめてみよう。そしてそこを拠点に進むために、まず信念とこだわりを見極め、要らぬ執念から速やかに解放されよう。人と比べて目立っているかといったみかけだけの自分らしさを追い求めたり、「これは本当の自分じゃない」などと言って自分の限界から逃避するのではなく、「我はいま何をすべきか」「いまはどの道を選ぶべきか」とはっきり自問してみよう。
 
 やりたいことばかりを追えばこだわりになる危険があるけれど、やるべきことを視野に入れて歩んでいけば、きっと道が開けてくると思う。どんなときも、「私にも居場所がある」と信じて、物事を素直に受け入れ、学んでいけばよいのではないだろうか。
 
 そのときもしかしたら、人のために何かをするなどということは大変で、ときには損をしたと思うこともあるかもしれない。しかし後には必ず報われるときが来るだろう。自分の一生の中でやるべきことが分かったら、たとえそれがやりたいことでなくても、きっといつか意味をもってくるだろう。物事の価値は、単なる好き嫌いの時限を越えた判断基準で見つめなければ分からないのではないかと思うのだ。
 
 居場所の探求とは、そんな遥かなる旅なのではないだろうか。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」言わないジュニアー新書 p30-32)
 
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 元富士銀行の頭取で、プロ野球のコミッショナーも務められた金子鋭さんから聞いた話だ。
 
 入行したばかりの新人の頃、金子さんは上司からある会社との取り引きを命じられた。さっそく、その会社を訪問してお願いすると、ていねいに断られた。一週間後、「もう一度行ってこい」といわれてその会社に行くと、経理担当者から今度は「この前、断ったはかりじやないか」とけんもほろろの扱いだ。
 
 するとまた二、三週間して、上司に「この間はえらい目に遭ったらしいな。しかし、また行ってこいよ」と命じられる。また行くと担当者は「いったい、何度いったらわかるんだ。これじゃあ暴力団と同じじゃないか」と、もうかんかんだ。帰って上司に「無理ですよ」と報告するのだが、上司の方は「そりやあ大変だったな」と、少しも驚いたふうがない。
 
 金子さんは「部下の気持ちなんて一切無視だ。こんな人の使い方をするような銀行では見込みがない。もう辞めようか」と思ったが、母親から「世の中に出ると思うようにいかないこと、苦しいこともあるけれど、そこを突き抜ければなんとかなるんだよ」と諭されたのだという。
 
「駄目でもともと、やるだけのことはやってみよう」と腹をくくつて、四度目のお願いに行くと、今度は先方の態度ががらりと変わった。「おう、よくきたな。おれの部下を見ても、お前みたいなのはひとりもおらん。まあ、たいしたことはできんが、とにかく取り引きをさせてもらうよ。あんたの熱心さには負けたよ」といってくれたのだという。
 
「こっちが苦しんでいる時は、同じ人間として向こうもある若さを持って対応している。しかしそこには何かが生まれかけているんですね。だから簡単にあきらめて、引き下がっては駄目なんですね。駄目だと思っても、さらに追求していけばなんとか道は開けるものだということを、わたしはその時に体験したんです」というのが金子さんの述懐だ。
 
 いつもこうなるとは限らないのだが、ここでは金子さんよりも金子さんの母親や上司に目を向けてもらいたいと思う。安易なアドバイスや指示はしない。ただ苦しみ、悩むことを支援している。人になにかをさせる時、その人の向き、不向きを考えることは必要だが、やさしいことならだれでもできる。
 
難しい仕事をこそ担わせる。おのれの気迫こそが師、という言葉もあるが、忍び寄る弱気を排するその気迫の大事を求める──。それがコーチの役目だとわたしは思う。
 
 仕事でも遊びでも、難しいところを苦労しながら一生懸命になってやって、ステップ・バイ・ステップしていくところに面白味というものが湧いてくる。人間がやることだから完壁もないし、失敗し、絶望することだってある。しかし、生命が動いて、発動するところに「機」あり。人をその「機」に立ち向かわせるのがコーチの仕事だ。
 
 具体的なことを教えるよりも、困難なことに立ち向かわせ、困難なことを体験させていく。その過程で、より高い目標を設定して次々に自分なりの研究、工夫をさせていく。そこがスポーツの世界、野球の世界に限らぬ一番の大事だが、話を野球のグラウンドに戻していこう。
 
 未熟だが足腰のいい、強肩に恵まれた若い選手がいたとする。高校時代の初めの頃までバレーボールの選手だったので、内野手としてすぐ第一線で使える技量はないが、大型のホープとして期待ができる。あるいは外野手よりも内野手向きで、内野手にコンバートしてレギュラーで使いたいと思う選手がいるとする。彼らを内野手として鍛えていく時、わたしは毎日、ただノックのゴロを捕らせていく。
 
 担当コーチは専門家だから、まず正しい理論からと、知識から教えようとするがわたしは反対だ。「一年間、理論など一切教えるな。ただゴロを捕らせろ」といっていた。
 
 選手はつらいだろうと思う。くる日もくる日も、毎日ゴロの捕球練習だけだ。ゴロを捕る秘訣はバウンドする地点での前後、ポールが落ちてくるところか、バウンド直後のショートバウンドを捕るところにあるが、バウンドとのタイミングが合わない時もある。そうした時のグラブの出し方についても、教えてくれるはずのコーチが黙っているのだから自分で考え、自分で工夫し、自分ひとりで覚えていくより仕方がないのだ。
 
 そのうちに先輩たちのプレーを見つめて、時には自分から話しかけて教えてもらったり、コーチにアドバイスを求めてくるようになる。さまざまなフォーメーションも覚え、内野手としてさまになるには少なくとも二年はかかるだろう。理論は、技術の吸収を合理的に早くさせるためのものだが、その理論も困難に直面し、その困難の渦のなかで、まず体験を積んでいかなければ理解はできないものである。
 
 職人の世界であれ、役者の世界であれ、それは同じことだろう。戦前の名優、六代目の尾上菊五郎という人は弟子に教えなかった。「教えたって、教えるのはおれのもので、お前のものではない。だから、おれの芝居を見ながら自分でつかめ。それで初めてお前のものとして、お前の芝居ができるのだ」。弟子の芝居を見て批評し、時には叱り、アドバイスはしたが、大勢の弟子に手を取って教えたりはしなかったという。
 
 わたしたちの世代の若い頃は人に教えてもらえる、ということは少なかった。昔は鏡と、名プレーを探り、覚える「自分の目」しかなかった。だからそうあるべきだといっているのではなく、まず自分が寝ても覚めても一心不乱になって、自分で工夫、努力していくことの大切さをいっているにすぎない。本当の力、真の実力は自分ひとりのもの。だから自分でつかめ──とわたしは、繰り返しているのである。
 
 禅の世界に・「冷暖自知」という教えがある。水を飲んだり、水に手をつけて、その冷たさ暖かさ、感触を自分自身で知るという意味で、人間の体験主義的な大切さを説くものだ。頭より身体で覚える。集中し没頭し、必死になって自力でつかんでいくことの大切さを説く教えだが、これは野球や芝居の世界にとどまらない真理だろうと思う。
 
 優秀なセールスマンやエンジニアの下に、新入社員がついたとする。先輩セールスマンはセールスのあの手この手、エンジニアはいろいろな機器やシステムの使い方を教えてくれる、説明もしてくれるだろう。しかし、新入社員はひとり立ちしていくことができるだろうか。
 
基本的な教えを受けることは必要だが、教わればひとり立ちできるとはだれも保証すまい。セールスのコツや勘どころはなんの仕事でもそうだが、自分でいろいろと体験し、自分でつかんでいくしかないのである。
 
 コーチはテクニックや理論を教えるのではない。教えるのは学ぶ心、研究する心だ。困難を体験し、困難を克服し、そして目標を達成していく人間としての喜びを教える──。教える側の者、コーチの念頭におくのはこれだと思う。
(川上哲治著「遺言」文春文庫 p105-110)
 
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 私が自分の教育に成功した、というようなことをいっているのではありません。現在の自分に満足している、というのでもありません。私が自分のやり方でやってきた、読書を中心とする教育に、沢山の穴ボコがあるのを発見していることは事実だからです。それをいくらかなりと修正するために、とくに五十代の終わりから毎日の努力を集中している、といってもいいほどです。
 
そこで一度は小説を書くことをやめて、本を読むことをやりなおそうとしたくらいです。これから幾歳まで生きるかわかりませんが、おそらく最後までその穴ボコを全部埋めることはできないでしょう。
 
 ただ私は皆さんに、子供の時にあなたがはじめる自分のための勉強は、切れ目なしに一生続けることができるということを、私の経験からお話ししたかったのです。そして、子供の時に、よし、このように生きてゆこう、と考える、そして自分なりにはじめる生き方は、一生続く、ということもいいたいのです。急いでつけ加えるならば、それには修正がきく、自分でこれがもっと良い方向だと思う修正がきく、とも考えていますが。
 
 この続いている、ということが大切なんです。私は皆さんに宿題として読んでおいていただいた文章に、そのことを書いたのです。学校に行って勉強することは、私の母親のいったとおりに繰り返すならば、大人になれないで死んだ子供たちの、その言葉からなにから、全部を、自分のなかで続けてやってやるためでした。つなぐ、といってもいいでしょう。自分の意思で続けてやろう、とすることが、つなぐことです。自分を、大人になれないで死んだ子供につなぐ、ということもそのひとつ。
 
 私は子供の時に自分ではじめたことをつないでゆこう、と考えて、これまでずっと勉強し、仕事をしてきました。それでいて、子供の時の私は、自分が大人になったらば、いまの自分とはすっかりちがった人間になるのだろう、と思っていたんです。子供の私から見て、大人はみんな、いかにも大人らしく、子供とはちがう人間に見えたものですから。
 
 しかし、私はいま大人になって、しかも、もう老人といっていい年齢になっています。さきにお話ししたプラトンの『メノン』に出て来る対話の際のソクラテスは、その死の時より三年前の年齢に設定されているようです。つまり、ソクラテスが六十七歳のころになりますから、大体、いまの私の年ごろです。
 
そのいま、はっきりわかることはですね、なにより大人と子供は続いている、つながっている、ということなんです。これが、いままで生きてきた私が、もし子供だった半世紀前の自分になにかいってやることができればいいたい、いちばんの秘密だ、と思うくらいです。
 
 さらに、自分の生きてきたやり方がまちがっていた、と考えることになったら、そこで死んでしまったりしないで、生き方をやりなおすことができる。それは、さきに大切なこととしていったとおりです。少し難しくなりますが、それも自分の新しいつながりを発見することだと思います。
 
 しかし、基本的には、つまりたいていの人にとっては、子供の時から老人になるまで、自分のなかの「人間」はつながっている、続いている、と考えていいと思います。そしてそれは、自分ひとりのなかの「人間」が、日本人の、そして人類の全体の歴史につながっている、ということですね。私の母は、そのことを私に教えてくれたように思います。
 
 そしてこれは、未来についていうと、皆さんが大人になった時の自分と、いまあなたのなかにある「人間」が続いている、ということです。そしてさらに、未来の日本人、人類につながっているということです。どうか皆さん、いまの自分のなかの「人間」を大切にしてください。それが私のいちばん皆さんにつたえたい言葉です。
(大江健三郎著「「自分の木」の下で」朝日新聞社 p107-111)
 
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◎「生き方をやりなおすこと」は「自分の新しいつながりを発見すること」と。
 
◎続けること≠ニ、続いている≠ニいうこと。このことは人間にとって本質的なこと≠ネのです。