学習通信040122
◎結婚とはなんだろうか。……「永久就職」「だまって、ついていきたい人」
 
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男の結婚、女の結婚
 
 私が中学生だった頃には、女性たちは結婚を「永久就職」とあたりまえのように言い換えていた。
 
 知り合いの大学生が就職問題について別の人に尋ねられ、「うーん、私は永久就職を狙ってるから」などと答えていた場面も、記憶にはっきり残っている。男性たちが「終身雇用」の条件で会社に勤めるように、女性たちは「永久就職」と思って適当な相手と結婚していたわけだ。
 
 「終身雇用」ならより条件のよい会社に勤めたい、と男性たちが望むように、女性たちもより条件のよい男性のもとに「永久就職」したいと願った。これはごくあたりまえの流れと言えるだろう。よい条件とはこの場合、しつかりした仕事をしていて高い収入がある男性を指すのは言うまでもない。
 
 もちろん、それに外見や性格のよさも加われば言うことはないが、個性や自分への理解度などが条件としてあまり重要視されたことはなかった。世話好きの中年女性がお見合いを勧めるときには、必ず「少し平凡なくらいがちょうどいいのよ」「お互いの理解なんかは、夫婦を長年やっているうちに自然に出てくるもの」などと言っていた。
 
 つまり、結婚は女性にとって就職なのだから、そこに求めるべきは「安定」「安全」であって、変化やユニークさなどはむしろ不要ということだ。
 
 もちろん、男性たちもそれを承知で結婚する。だから、結婚をすることで男性は「これで家庭や生活は妻にまかせ、心おきなく仕事に打ち込める」と言った。妻となる女性との関係性を深めたりそこに何かを求めたりするのではなく、逆にそこから関心を引き離して外の仕事や自分の趣味に集中するために結婚するわけだ。
 
 そういうものであった結婚に対する意識が、主に女性の側で変わってきた、と『リストラ離婚』(双葉社二九九六年)で報告したのは、現在は家族間題カウンセラーとして活躍する池内ひろ美さんであった。
 
 現在の離婚問題のレポートを書くうちに、池内さんは最近の離婚の過半数が妻側からの申し出によるものであることに気づく。その原因も、「夫の暴力や借金」「夫の浮気」といった従来の具体的なものから、「結婚生活が何ももたらしてくれないから」といった抽象的なものにシフトしつつある。
 
 つまり、妻は「変化のない結婚生活では、本当の自分になれない」と自分の人生の目的を自覚し、そのためには夫が不要であることに気づいたとき、まさにリストラをするように夫を捨てるのだ。池内さんは、「かつては結婚は変化をきらい、安定を求めるためのものだったが、現代女性は自分を変化させてくれる結婚を求めている。それに男性は気づいていない」と指摘している。
 
妻の成長をはばむ夫
 
 ひと昔前までは、女性にとっても結婚は「永久就職」であり、自分に揺るぎない安定をもたらしてくれるものであった。それが二〇年ほどのあいだに、女性にとっての結婚の意味は急激に変化してしまったのだ。
 
 しかも男性の中には、女性が「結婚に求めるのは、安定ではなくて変化」ということにも気づいていない人が大勢いる。そしてある日突然、「こんなに私に何ももたらしてくれない結婚には意味がないから、もうやめたい」と言われ、夫は呆然としてしまう。
 
 私がかつてクリニックで相談を受けていた人たちの中にも、同じようなケースがあった。
 
 その女性は、三三歳。
 ある会社で受付の仕事をしていた二六歳のときに、知人の紹介で五歳年上の弁護士と結婚して、専業主婦となった。夫の親が用意してくれたマンションに住み、友人からもうらやましがられるようなリッチな生活。四歳の娘がひとりいる。
 
 もともとコツコツ勉強するのがきらいではない彼女は、「いつか夫が独立したときに役立つかも」と、公認会計士になるための勉強を始めることにした。ところが夫は、夜遅くまでテキストと向き合っている妻に、あまりいい顔をしない。
 
 「キミは奥さんなのに、どうしてそんなに一生懸命、勉強なんかしなくちゃならないんだよ。オレも疲れて帰ってくるのに、キミまで疲れた顔してるとイヤになっちゃうよ。もっときれいにしてお茶でもいれてくれよ」
 彼女は、自分も勉強を始めれば、
 「今日は予備校の模擬試験だったのよ」
 「どれどれ、オレにも問題を見せてくれよ。へぇ、刑法なんかの世界とはまた違っておもしろそうだな」
「そうでしょう。日本の税法っていうのはね……」
 
 といった知的な会話を夫とかわすことができると思っていたのに、その夢は無残にも砕かれた。
 
 それでも一生懸命、勉強を続けて見事、会計士試験に合格。しかし半ば予想していた通り、夫は妻が会計事務所などで働くのを認めなかった。
 
 「おまえみたいな世間知らずが、そんな厳しい場所で働けるはずないじゃないか」
 頭ごなしに言われて、最初は、「予備校で教えてくれた先生も、新人を育てるのが上手な事務所を紹介してくれる、つて言ってくれたわよ」などと反論を試みた。しかし夫は聞いてくれなかった。
 
 「そんなの、だまされてるだけだ。弁護士の世界と会計士の世界とは筒抜けだから、新人会計士が事務所でどんなにひどい目にあうか、オレはよく知っている。
 
 おまえがそんなところで働けば、オレの顔に泥を塗ることになるんだぞ。それとも生活費だって十分、与えているはずなのに、まだ足りないって言うのか。ほしい洋服でもあるなら、買ってやるよ」
 そこではじめて彼女は、夫が自分のことを人間としてはまったく理解していないことに気づいたという。
 
 「夫が求めていたのは、パートナーではなくて他人に自慢できる可愛い妻≠ニいうモノだったんですね。私、勉強を始めてから、夫がよく話してくれた世の中というのはこういうものだから≠ニいう話が全部は正しくない、ということに気づいたんです。でも夫にとっては、それは都合の悪いことだったみたい。
 
 夫の言うことをいつもへー、そうなんだ≠ニ鵜呑みにする女性を、夫は求めていたわけです。もちろん、ぜいたくな生活もさせてもらったし海外旅行にも連れて行ってもらったけれど、それだけが愛情じゃないはず……」
 
 成長するな、変化するな、という夫からのプレッシャーに耐えられず、彼女はある日、「離婚したい」と申し出た。ところが、予想通りといえば予想通りだったのだが、「バカなこと言うな!」「世間知らずが一時の気の迷いで言っているだけだ」と夫は相手にしてくれない。
 
 それでも「お願いします」と言い続けていると、次第に「何が不満なんだ、離婚なんかしたら弁護士の世界で笑い者だ」と怒鳴ったり、肩をこづいたりするようになった。そうかと思うと、「指輪でも買ってやるから機嫌をなおせよな」と猫なで声を出したりもする。
 
 そんな毎日の中で、彼女はストレスから過食に走るようになった。
 「自分でもわけがわからないうちに、気がつくとパンやお菓子をむさぼるように口に詰め込んでいる。子どもにも、『ママ、そんなに食べてへン』と言われてしまった。もう会計士として働きたいという気力もないけれど、とにかく夫がこわくてこわくて仕方ない」と私のところに相談に来たときは、過食を併発したうつ状態に陥っていた。
(香山リカ「サヨナラ、あきらめられない症候群」大和書房 p68-74)
 
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結婚は人生の墓場か
 
 恋愛中の男女は、概して男女同権です。どちらかといえば、男性の方が「花子さん、どうか僕を愛して下さい」とした手に出てきます。喫茶店にいけば、男性が足でトンとドアをあけて女性を先にとおして、ここが涼しいよ、こちらが暖いよ、とあれこれ心をくばり、やさしいこと、この上なし。ラーメン屋にはいっても、「ギョウザにする? それともラーメン?
 君の好きなものを僕もたべる」と常にレディファーストです。堂々と胸をはって、男性と対等に、いやそれ以上に、しあわせいっぱい、胸いっぱい、と若い娘たちは恋をしています。
 
 そうした若ものの姿を眺める、中年の主婦たちは、男性に大切にされたことのなかった戦争時代のわが青春をふりかえり、女性の地位の向上と、時代の変化の早い流れにおどろきます。喜んでいいのか、それとも早く生れすぎたことをくやんだらいいのか、「若ものはいいナーとジェラシーさえ感ずることさえあります。
 
といって、「夢よもう一度」と若もののまねをして浮気をしてみる勇気もなく、せいぜい、よろめきドラマにうつつをぬかすのがせいいっばいです。たしかに、現代の恋する若ものたちは、母の時代にくらべると、考えられないほど、自由にのびのびと行動しています。
 
 しかし、こうして、うらやましがられている若い娘たちも、ほどなくかつての「女性の道」が結婚と同時にその生活実践のなかに生きていることに愕然とします。
 
 恋しているあいだは、男は男、女は女ですが、新婚旅行のその晩から、男は夫となり、女は妻になります。あたりまえのことですが、男と女は同権でも「夫と妻」という関係は、同格、同権ではなく、この言葉ほど、差別のしみこんだものはないとさえ、いえましよう。──略──
 
 新婚旅行のその晩から夫は、テレビの一番見やすい、一番いい場所に、一番上等な座布団にどっかりとすわり、妻はそのそばに寄りそってすわる。夫の座、妻の座はここから出発します。お互いにそれで満足なら他人がとやかくロを出すな、と叱られそうですが、すわる場所のことを、云々しているのではなく新婚旅行から帰ってはじまる新居での生活の実質が、どのように変るかについて、観察したいのです。
 
 翌朝のみそ汁のみが、さつまいもだとさっそく、夫が文句をいいます。「オレはいもはきらいだ」と。「君の好きなものをたべるよ」といった恋人時代の彼は、一晩にしてどこかに消えてしまいます。たった一部の新聞も、朝寝した夫が通勤電車の中で読むために、さっさと持ってゆきます。夕方、もち帰るならまだしも、そのままになれば、妻は新聞をよむことさえできません。
 
 悪気がなくても、幼いときから男中心に家庭生活が動いていくことになれている男性には、妻が新聞をよめないという事実にさえ気がつかないことが多いのです。
 
 夫の母に妻がつかえるのは、妻の義務ですが、夫は妻の母につかえる義務はないと考えているものさえいます。若い二人を、それぞれに、いつくしみ育ててくれた母たちは、二人にとって同じように大切にしなければならないはずです。
 
 この古い家制度的人間関係のあやまりに妻はすぐ気がつくのですが、夫はなかなか気づきません。女性がじっとそれに耐えなければ、しばしばトラブルがおこります。
 
 これらはほんの一、二の例にすぎませんが、このようにして食べるものも、生活のリズムも、親戚づきあいも、ほんのささいな日常の事柄までが、男中心にごく自然になされていくのです。
 
 それでも新婚早々は「だまって、ついていきたい人」である限り、それ位のことは、女だもの、がまんしようと女性自身も思います。しかし、日がたつにつれ、その不合理は耐えがたいものとなってきます。
 
 男は気が大きいはずだったのに、小さなことにくよくよしだし、課長にこういわれた、といっては、夜ねむれず、新入社員が、生意気だと、何日も腹をたて、昔からの友人にだし抜かれた、とくやしがり、お金のことにはしまりやで、いつもイライラぐちっぽい、そのうえ見栄をはりたがる。
 
おまけに残業でくたびれはてて、たまの休みは、口もきかずに一ゴロ、二テレ、三パチとくる(一はゴロ寝、二はテレビを寝て見る、三はパチンコ)。理想の男性像は日に日に地におちていきます。こうして妻の幸福度は、結婚生活がすすむにつれて下りはじめるわけです。
 
 では、男性側の女性観はどうでしょうか。女は気が小さく、くだらぬことに心を悩まし、やきもちやきで視野がせまく、おまけに憶病だ。男がしっかりささえ、ひっぱってやらなければならない。少々思慮が浅くても、それだからこそ可愛さもあるというのは、けっきょくは、女はバカなものよ、と男性は教えられているわけです。
 
だから、若くてきれいで、素直でやさしくおまけにグラマーで、オレについてくるなら、これこそ理想の女性というわけです。女性への期待は、女性の男性への期待より、はるかに少ないのです。
 
 たいして期待してない女性ですから、結婚してみて女のかしこさ、度胸のよさにおどろくわけです。朝はあったかい味噌汁がでるし、洗濯もしてくれる、家計のやりくりは思ったよりうまい。いざ、というときには、夫の自分より度胸もあり、てきぱきと事を処理していく。つまらぬ見栄より実をとり、たまには実家から何かともち出してくるチャッカリさ、「オレはいいのに当った」といった具合にたいていの夫の幸福度は結婚とともに上っていきます。
 
 こうして一年そこそこで、二人の気持のずれに気づいたとき、新婚の夢は泡と消え、夫婦の危機にあわてふためきます。男性からすれば、「女心と秋の空」、ついこの間まで、あんなにオレのことを自慢していたのに、「女心ってほんとにわからない」となげくわけです。
 
 少々オーバーに詰をしてきましたが、男の教育のされ方、女の教育のされ万が、このように男女のずれを深くしていることに気づいてほしいと患います。人間としての教育でなく、「作られた男」「作られた女」いわゆる「男らしい」「女らしい」教育に終始しているからです。これは、封建的家制度を守りつづける必要から、男中心に男の権威を誇張し、男の幻想を女性にもたせる必要性があった残りかすといわねばなりません。
 
 昔の女性は、夫に失望したとき、「結婚は人生の墓場」と諦めて、忍耐こそ美徳であると、子どもだけに生きがいを求めて、生き抜いてきました。しかし現代の女性は、同じように夫に失望すると、「しまった、夫の選び方をあやまった」「やりなおすなら今のうち」といさぎよく離婚という実践にうつします。どちらも不幸な生き方です。
 
 男性と女性は、身体が生理的にちがっているだけで、人間としては全く同じであるところから出発しなければなりません。男女には何のちがいもありません。悲しいときは悲しい、うれしいときはうれしい。つまらぬことに心を悩ますこともあれば、大らかに、周囲の人を抱ようするときもある。男と女と、どこにちがいがありましょう。
 
男であろうと女であろうと愛していれば素直に愛していると表現し、憎いときには、憎しみをぶちつけてわるいはずはありません。おいしいものは誰にでもおいしい、おしゃれは楽しいし、美しいものには感動する、汚いものはいみきらう。ひとを愛したい、ひとから愛されたい。男だって女だって、だれだって、人間ならそうではありませんか。
 
 女だから、やさしく素直で、男だから、たくましく勇気をもって、と区別するのはおかしなはなしです。女だって、たくましく勇気が必要ですし、男だって、やさしく素直であってほしいのです。
 
 人間らしい感情をもち、人間としての美徳をそなえていれば、男であれば男らしく、女であれば女らしくなるのがあたりまえです。無理に「男らしく」「女らしく」しようとすることが、いびつな男女を作る結果になっています。いびつな男女は、本当の仲良しにはなれません。
 
 男性を真の人間の姿として受けとらず、ありもしない幻想をもちすぎるために、愛しあえるはずの男女が、憎しみあわねばならないとしたら……。もう一度、周辺の男女のトラブルをじっくりみつめてみたいものです。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社 p76-81)
 
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 現代のブルジョア的な婚姻締結には二種のものがある。カトリック諸国では、あい変わらず親が年若いブルジョア息子に適当な嫁を世話するのであって、その結果は、もちろん、一夫一婦婚にふくまれている矛盾のもっとも完全な展開である。
 
夫の側でのおさかんな婚外性交と、妻の側でのおさかんな姦通がそれである。カトリナク教会が離婚を禁止したのも、たぶん、姦通と死にはつける薬がないと信じたがためだけのことでもあろう。
 
それに反して、プロテスタント諸国では、ブルジョア息子は自分の階級のなかから多少とも自由に妻をえらびだすことを許されているのが普通であり、そのためある程度の恋愛が婚姻締結の土台となることができるし、またプロテスタント的偽善にふさわしく、体裁上いつもそれが前提されてもいる。
 
ここでは、夫の婚外性交はそれほど活発にはいとなまれず、妻の姦通はそれほど普通ではない。
 
だが、人間は、どの種の婚姻をしようとも、婚姻前とちがった人間になるわけではないし、それにプロテスタント諸国のブルジョアは概して俗物であるから、このプロテスタント的一夫一婦婚は、最良の場合の平均をとっても、家庭の幸福という名でよばれる鉛のような退屈さの婚姻共同生活になるのが落ちである。
 
この二つの結婚方法の最良の鏡は小説であり、かトリック式についてはフランスの小説、プロテスタント式についてはドイツの小説である。両方のどちらの場合も「めでたく彼が彼女を手に入れる」。
 
つまり、ドイツの小説では若者が乙女を、フランスの小説では夫が角を手に入れる。この場合、両者のどちらのほうがかんばしくない状態にあるかは、必ずしも決まってはいない。
 
だからこそまた、フランスのブルジョアはドイツの小説の退屈さに、ドイツの俗物はフランスの小説の「不道徳さ」に、同じように身ぶるいするのである。
 
もっとも、最近、「ベルリンが世界都市になって」からは、ドイツの小説も、同市で前からよく知られていた婚外性交と姦通にいくぶんびくびくしなくなりだしてはいる。
 
 だが、どちらの場合にも、結婚は当事者たちの階級的地位によって制約されており、そのかぎりではつねに打算婚である。
 
この打算婚は、どちらの場合にも、じつにしばしば、もっとも極端な売春に転化する──ときどきは双方の、ずっと普通には妻の、売春に。
 
この妻が普通の高級売春婦とちがうのは、自分の肉体を賃鉄労働者として一回幾らで賃貸しするのでなくて、その肉体を奴隷状態に決定的に売りわたしてしまうことだけである。
 
そこで、フーリエの次の言葉は、すべての打算婚にあてはまる。すなわち、「文法では二つの否定が一つの肯定になるように、結婚道徳では、二つの売春が一つの徳行となる」。
 
異性愛が女性との関係で真の通則となるのは、被抑圧階級のあいだ、したがって今日ではプロレタリアートのなかにおいてであり、またそうなりうるのはそこしかない──女性との関係がたとえ正式に認められたものであろうとなかろうとも。
 
だがここでは、古典的な一夫一婦婚の土台もすべて取り除かれている。一夫一婦婚と男子支配とがつくりだされたのは、まさに財産の保全と相続とのためにほかならないが、ここにはその財産なるものがなにもなく、だからここには、男子支配を実行する動機もなに一つとしてない。のみならず、そうするための手段もありはしない。
 
男子支配を保護するブルジョアの法律は、有産者のために、また有産者とプロレタリアとの取引のために存在するだけである。この法律は金がかかり、労働者は貧乏なので、したがって労働者のその妻にたいする立場にとってはそれはなんの価値もない。
 
そこでは、まったく別な個人的および社会的な関係が決定する。かててくわえて、大工業が女子を家庭から労働市場に、また工場におもむかせ、じつにしばしば女子を家族の養い手にするようになって以来、プロレタリアの家では、男子支配の最後の残滓(ざんし)の基礎がことごとくなくなった──一夫一婦婚の実施以来はびこった女子虐待の一片が、まだのこっているのでもなければ。
 
だからプロレタリアの家族は、夫婦双方の熱烈きわまる愛と堅固このうえない貞節があってさえも、またどんな宗教的および世俗的な祝福が万一あたえられていても、もはや厳密な意味での一夫一婦婚家族ではない。
 
だから一夫一婦婚の永遠の随伴物である婚外性交と姦通も、ここではほとんどあるかなしかの役割を演じるにすぎない。
 
妻は事実上離婚の権利をとりもどしており、夫婦仲がうまくゆかなければ、むしろ別れるほうをえらぶ。要するに、プロレタリアの婚姻は、言葉の語源的な意味では一夫一婦的ではあるが、言葉の歴史的な意味では決してそうではない。
(エンゲルス著「家族。私有財産・国家の起源」新日本出版社 p97-99)
 
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◎「異性愛が女性との関係で真の通則となるのは、被抑圧階級のあいだ、したがって今日ではプロレタリアートのなかにおいて」「一夫一婦婚と男子支配とがつくりだされたのは、まさに財産の保全と相続とのため」「ここにはその財産なるものがなにもなく──男子支配を実行する動機も──そうするための手段もありはしない。」と。
 
◎「サヨナラ、あきらめられない症候群」は2003年、「恋愛・結婚と生きがい」は1972年に出版されたものです。どうでしょうか。