学習通信040125
◎書くということ……思考の内容を、ことばや表情や動作によって
 
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言葉の交通に介在する機械
 
 まず、いま非常な勢いで普及しっつあるパソコンや携帯電話、そしてインターネットなどについて、少し掘り下げて考えてみましょう。
 
 まず確実に言えることは、これらは必ずしも、われわれ自身が言葉を使う上で欲したり、待ち望んだものとして生まれてきたものではないという事実です。これらは、われわれの生活上の必要の速度を超えて開発された商品(機械)であり、たとえれば、ある日突然、世の中に登場してきたのです。
 
にもかかわらず、受けた人々の側は、まさに現代商品と呼ぶほかはないこれらに、最初はとまどい、やがて「これは便利だ」と飛びつき、あれよあれよという間に周囲に浸透してしまったわけです。
 
 しかし、インターネットにせよ、パソコンにせよ、携帯電話にせよ、そしてパソコンの前段階のワープロにせよ、言葉をやりとりする道具としてはちょっとおかしな部分を含んでいます。
 
たとえば、パソコンやワープロで日本語の文章を作成する場合は、手で直接に「漢字仮名交じり」の文章を書いていくのとはちがって、まずキーでローマ字か仮名文字を打ち込み、次にそれを変換していくという操作が加わります。また携帯電話では、数字をたくさん打ち込むことでまず仮名を出し、次にそれを漢字に変換するという、非常に複雑で歪んだ形になっています。
 
本来なら直接に話したり書いたりすることでなされる人間と人間との言葉のやりとり(言葉の交通)に、機械が介在することによって、そこに大変まわりくどい操作が加わってくる。つまり、人間が機械に従属する操作者として言葉を発していかなければならないという妙なことになっているわけです。
 
 しかも、たとえば頭のなかでは 「雨が降る」と書きたいと思っているにもかかわらず、手は「amegafuru」とか「あめがふる」と打ち込まねばならないという分裂したありようは、言葉を生み出す思考の流れに反し、最も適切を言葉を生み出す方向へ向かう集中を妨げます。これは、本来の言葉が発せられる姿ではありません。このように考えるとき、機械が介在して発せられた言葉は、せいぜいが、本来の言葉を「代用」するものにすぎないと言えるのではないかと思います。
 
 実はヨンビュータ、インターネットは、人間と人間が言葉をやりとりするために開発された道具や手段ではありません。軍事通信技術(あるいは諜報技術)に利用するため開発されたものです。
 
つまり、機械本来の開発目的と商品としての利用目的の間にずれのある、言ってみれば無理な商品(機械)です(だから私はこれらを、あえて軍事通信技術の廃物利用と呼んでいます)。このような、ずれや無理の避けられない機械が介在することによって、人間と人間の言葉のやりとりの関係が実に妙な具合になって
いるわけです。
 
 そんな「妙な」関係に、多くの人々は潜在的に気づいています。「代用」にすぎないということまでは明確に意識しないにしても、なにか違和感を感じて、「ほんとうなら使わないほうがいいんだがなあ」と心のどこかで思っています。
 
とはいえ、いまやだれもが持っているといっていいほどの圧倒的な浸透ぶりと当面の便利さを見せつけられれば、やはり使わざるを得ません。実際、これだけ普及していながら、これだけ多くの人が気乗りのしないまま使っている商品(機械)もめずらしいのではないでしょうか。
 
 これらの機械は、将来、人間の生活や社会的活動において、どのような位置を占めていくべきものなのでしょうか。結論的に言えば、言葉の交通を「代用」するかぎりでは非常に便利なものなので、軍事やビジネスなどの限られた分野では、使われていくでしょう。というより、むしろさらに「使いこなして」いけばいいのです。
 
しかしそれ以外の局面──たとえば人間と人間が生活のなかで言葉をやりとりする、あるいは表現をする、あるいは子どもたちが言葉を覚え、それを自らのものにして自分の表現力を蓄え、そして人間として生きていく、というような局面においては、人間と人間の間に介在する機械はむしろ減らして、「じかに話し、じかに書く」ことに立脚した基本的な言葉の交通を促していくべきではないか、と私は考えています。
(石川九楊著「NHK人間講座 日本語を問いなおす」 p8-12)
 
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言葉する動物
 
 ひるがえって、では、「言葉」とはいったいどういうものなのでしょうか。
 
 言葉とは人間の最も根底的な表現(表出)行動です。そしてそこから、「人間とは言葉する動物である」と定義することも可能です。
 
 よく、人間の言葉を理解する飼犬がいるとか、言葉を示して人間と会話する猿がいるという話を聞きます。しかし、それは自然の現象ではなく、人間が教え込んでいくことによってペットの犬が人間化していくことであり、また猿がはたしてどこまで人間に似た振舞いができるかということをテストしているのであって、もともと動物が自分の思いを伝えるために言葉を使うということはありません。
 
 またイルカは言葉をもって通信しあっているというような説もあります。しかし、それは、身辺のあらゆるモノ、コトに名を与え、いわば言葉の宇宙を築きあげている人間の言葉とは次元を違えたものです。むしろ自然の動物たちは、一つの声を発するなかにすべてを言いつくしています。たとえば馬が「ヒヒーン」といななき、ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴く。
 
それは何かを呼んでいたり、何かを求めていたり、あるいはまったく別のことを意味しているのかもしれませんが、いずれにせよ、馬もウグイスも一声のなかに言いたいことのすべてを言いつくしています。その意味では、馬やウグイスの鳴き声を、ある種の「言葉」であると考える人もいるかもしれません。
 
 ところが人間の言葉は、一声発してそれですべてを言いつくせるというようなものではありません。そして、二声ではうまく言いつくせないがゆえに、人間は、膨大な数の語彙(単語)を生み出し、さまざまな文体(言い方、表現の仕方)をつくり出し、そして、それらを長い時間をかけて際限なく積み重ね、言葉の宇宙を築き上げることによって、現在のような文化と文明を築き上げてきました。
 
そのような「言葉」は、人間にしかありません。「人間とは言葉する動物である」とは、そういう意味です。
 
 私たちは、思考の内容を、ことばや表情や動作によって具現しているが、文字による表現が書くということである。最近、アメリカで創造性が乏しくなった一つの原因は、学校教育で文章をつづることがおろそかにされたためであるといわれている。
 
現代の機械文明の進歩は、私たちに書く手間をはぶかせるようにした。電話、航空機、超特急列車などが手軽に利用できるために、私信の葉書や親展の手紙や、水茎の跡うるわしくしたためる恋文などが必要でなくなってきた。
 
 文字をつづり、文章を書くということは、単なる模写ではなく、そこに高度な思考作用が働いている。書くことは、自分の思考を固着させるのではない。いまの思考を確認して、次の思考への踏み台にすることである。
 
 戦後の日本の学校教育で、文章をつづる訓練がないがしろにされていたようだ。作文は、思考作用の向上と創造性の開発のための、基本的な精神活動を訓練するきわめて効果的な方法である。そして、作文を通じて、教師と児童生徒との間で、一対一の教育ができるはずである。
 
 徳川家康の重臣の本多作左衛門が、陣中から妻に送った有名な手紙
 
一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ。
 
 これだけの内容を、こんな簡潔な文章に書きこめるような訓練をしたいものである。
(時実利彦著「人間であること」岩波新書 p116-117)
 
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つながりを発見する能力
 
糸井 ここからは、池谷さんに脳の仕組みを伺うことで、「とめないでおきたい人」になれるような脳の活用の仕方を探りたいと思います。
 
池谷 さきほど、頭がいいということについて、糸井さんが「いいとか悪いとかいうことではなくて、好き嫌いで区別がついちゃう」 とおっしゃったところが、ぼくにとってはけっこう目からウロコでした。
 
 常々実験をしていると「脳は、主観的な判断しかできない」とは、とてもよく感じるのですが、さらに「好き嫌い」という言葉で置き換えれば、もっとわかりやすくなりますから。
 
 好き嫌い……言い換えれば、脳が興味を示すかどうかを考えていけば、頭を活用することのひとつの手がかりになるかもしれません。
 
糸井 そうですね。「興味・関心」と言えば、池谷さんご自身としても、現在おやりになっている研究は四十代になる前で終わりにするというような話をされていて、それが、ばくには、とてもおもしろかったんですけど。
 
池谷 研究は、もともとどの研究でもだいたい三十代ぐらいまでです。数学者なんて、もっと若いですよね。脳の研究にしても、新しい概念が提唱されたり、新しい技術が導入されたりすると、「若い人たちには到底かなわない」ことが出てきます。
 
 かなわないというよりは、「いろいろな雑務に忙殺されてしまって、自分がやらなくても、若い人が研究を意欲的にやってくれるので、管理にまわって研究全体の方向づけをしていくようになる」と言うほうが、正確かもしれません。それが一般的な四十代以降の科学者です。
 
 年齢を重ねると遠視になるので、顕微鏡の下でピンセットを使うような細かな作業をしにくくなりますが、脳自体は三〇歳や四〇歳を超えたほうが、むしろ活発になると言われているんです。三〇歳以降の脳は、独特なはたらきをするようになるので、それを利用できるかできないかで、ずいぶん変わってくると思いますよ。
 
 ばくは今三一歳でして、まだ経験してないから実感はないのですが、脳は三〇歳ぐらいから別の動きに入るようです。
 
 新しいものにすんなりなじめる人と、なじめなくてそれまでの脳の使い方に固執して芽が伸びないままの人との二極分化が起こるという。
 
  三〇歳を過ぎると、つながりを発見する能力が非常に伸びるんです。 「英語のうまい人はフランス語の上達も早い」
 「ソフトボールがうまい人は、野球の上達が早い」
 
 たとえて言えば、そういったような状態ですね。つまり、前に学習したことを生かせる能力というか…・。一見関係のないものとものとのあいだに、以前自分が発見したものに近いつながりを感じる能力は、三〇歳を超えると飛躍的に伸びるのです。
 
糸井 え? その能力が伸びることは、何でわかるのですか。
 
池谷 研究の中で脳を直接見ていると、「二十代が終わるところまでの状態で、脳の編成はだいぶ落ち着いてくる」ということが、ほんとうによくわかります。
 
 それまでは、つくったり壊したりのくりかえしで、脳は再編成されながら柔軟に動いていくんですけど、三〇歳を超えるとワインが熟成していくような落ち着きか出てくる。……すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期に入る。
 
 ですから、推理力は大人のほうが断然優れています。若い時にはつながりを発見できる範囲が狭いのですが、年を取っていくにつれてつながりを発見する範囲がすごく広がって、その範囲は三〇歳を超えたところで飛躍的に増える。
 
 「今まで一見違うと思われたものが、実は根底では、つながってる」
ということに気づきはじめるのが、三〇歳を超えた時期だと言われています。
 
糸井 なるほどなぁ。よく、丸暗記をする能力は子どものほうが優れているとか、幼年期の活発さみたいなことか言われています。二〇歳を超えたら脳を鍛えられないというような考えもあります。でも、池谷さんの話には、そういう従来の話とは違う
 
「何歳になっても、そこからが頭をうまく使えるかどうかの勝負どころなんだ」みたいな感じがあって、それ、いいですねぇ。
 
池谷 確かに、無意味な文字の羅列を憶えたりすることに関しては、大人は子どもに勝てないでしょう。ただし、そこは根気の問題もあって、子どもは、ポケモンのカードとかを一日中でも見ていますよね? 大人も、あそこまでの根気を持っていれば、きっとポケモンを何百も憶えられるでしょう。
 
糸井 三〇歳までは構築していくのに力を入れる時期で、そこからはつながりを発見していくんですね。この話は、「背がとまってから大人になる」みたいなイメージなのでしょうか?
 
池谷 時期的には、背がとまる時期とものとものとのつながりを発見しやすくなる時期とは、離れていないです。
 
 高校生ぐらいの頃に突然背がとまって、その頃から、論理的思考がだんだん発達していきますが、ただ、その時点では論理的な思考が未熟です。 実生活に結びつけた論理的な思考は、三〇歳を超えてから伸びる。
 
糸井 ふーん。年齢が上の人のほうが比喩をたくさん思いつくのも「つながりの発見」かもしれないですね。
 
池谷 つまり、ネットワークを密に深めていくことはどんなに年齢を重ねても、どんどんできることなので、「わしはもう、脳がはたらかないから」ということは、ないんですよ。
 
糸井 そう思えるだけでも、暮らしていて楽しくなるなぁ。
(池谷・糸井著「海馬」朝日新聞 p48-52)
 
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 この習慣という言葉ですが、それには、良い意味と悪い意味があります。あまりよくない習慣、たとえばタバコをのむこと。それは肺ガンの原因になる、と調査研究にもとづいて医学者がいっているのですから、皆さんも大人になってタバコをのむ習慣はつけない方がいいし、お父さんにも、できればその習慣はやめてもらったほうがいい。そのような、悪い意味での習慣。
 
 それと、もちろん良い習慣があります。たとえば、しつかり歯をみがく、という習慣。私の子供のころは戦争中で、皆さんは驚かれるでしょうが、しつかりした歯ブラシと歯みがき粉を──そのころは、いまのペースト状になったものなど、見たこともありませんでした──手に入れるのが難しかったのです。
 
先生からは、指に塩をつけてみがくようにいわれました。そういう事情もあって、私の母親は子供が本を読んだり勉強したりすることを大切に思う人だったのですが、歯をみがくようあまりきびしくはいいませんでした。それをよいことにして、私はしっかり歯をみがく良い習慣をつけませんでした。そのおかげで、もう永年後悔しています。
 
 文章を書くこと、とくに書きなおすこと。それも、良い習慣だと思います。すくなくとも私は、自分でいったん小説を書きあげてから、幾度も書きなおします。この習慣をつけなかったとしたら、いまも小説家として生きていることはできなかったと思うほどです。
 
 それでは、いったん書いた文章を書きなおすことに、どのような良い効果があるのか?
 
 それには、自分の文章を、よりよく理解してもらえるようにするという、他の人に対しての効果と、文章をより良いものにするという、自分にとっての効果とがあります。そしてそのふたつは結びついているのですが、いまから幾つか、実例にそくしてやってみましょう。
 
 スポーツの練習で肉体をきたえることができるように、文章を書きなおす練習には、それによって、精神をきたえることができる。私にとって大切なこの考え方が、皆さんにつたわれば、と思うからです。
 
 さて、もひとつ、私が皆さんにお話ししておきたいのは、子供の時に自分で勉強を伸ばしてゆく、ひろげて行きもするということを、どのようにやるかです。そして、それを大人になっての、働きながら生きる勉強にどうつないでゆくか、ということです。
 
今日は、皆さんのお父さんやお母さんたちにも来ていただいていますから、これは父母の方たちにも聞いていただきたいとねがって、私のやってきたことをお話しします。
 
 さて私は小説家です。教育について専門的に教わったことはなく──じつは、大学で、教育概論というのと教育心理学というのと、ふたつの講座を大きい教室で聞いたし、教育実習にも行ったのですが、この国で中、高校の教師をしたことはありません。
 
メキシコシティーにはじまって、カリフォルニア大学の幾つものキャンパスで、またプリンストン大学やベルリン自由大学で教えましたが、それは専門の大学生に対してする、文学についての講義です。一般的な教育とはちがいます。
 
 そこで、私は教える側ではなくて、教わる側のこととして、自分がどのように勉強してきたかを、経験からお話しするのです。私の子供の時の学校の様子は、あらかじめ読んでいただいた私の文章にいくらか出ています。
 
敗戦直後のことで、小学校上級から新制中学にかけての、つまりいまの皆さんの年齢のころの私の村、四国の森のなかの学校には、師範学校や大学で、教育のことを学んだ先生は、あまりいられませんでした。
 
年をとられた先生たちは師範学校出身で、ずっと村にいられた方たちでしたが、戦争中に敢えていられたこととは別のこと、反対のことを、平気で教えられました。生徒たちは──とくに私は──あまり良いことではありませんが、その先生たちを信用していませんでした。
 
 そこで私は、生意気にも、それこそ良いことではありませんが、自分ひとりで勉強してやろう、と思い立ったのです。そして見つけた勉強法は、教科書でも普通の本でもいいのですが、そこで発見した面白い言葉、または正しいと思う言葉を、ノートに書きつけて覚えてゆく、というやり方でした。
 
 また、そこに出て来る、外国語や、人の名を書きとっておいて、それを他の本で調べてみるということでした。そして、これは高校や大学に進んで、さらに自由に、さらに積極的にやったこと──そして、いまも続けていること──ですが、いまいった仕方で知ることのできた本から次の本へと、自分で読んでゆく本を見つけて、つないでゆく、というやり方でした。(大江健三郎著「「自分の木」の下で」朝日新聞社 p90-94)
 
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◎「スポーツの練習で肉体をきたえることができるように、文章を書きなおす練習には、それによって、精神をきたえることができる。」と。
 
◎学習通信≠フ感想を知人に要請します。しかし、なかなか感想は返ってきません。第1に、良くまとまらない……。第2に、正しい事を書かなければならない……間違っては恥ずかしい……○でなければならいとする強迫観念がせまってくる。だから時間がない、とれない。とのことです。どこまでいっても、そのまま……?