学習通信040127
◎労働者と政治について考えよう……
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この機会にイギリスにおける法律の順守について、若干のべておこう。もちろん、ブルジョアにとっては法律は神聖である。なぜなら、それは彼ら自身がつくったものであり、彼らが同意して、彼らの保護と利益のために発布されたものだからである。
彼は、たとえ個々の法律が個別的に彼に損害を与えることがあるとしても、立法全体は彼の利益を守ってくれるということ、そしてとくに、法律の神聖さ、つまり、社会の一部の人びとが積極的に意志を表明し、ほかの人びとが消極的に意志を表明することによっていったん確立された秩序は不可侵であるということが、彼の社会的地位の最強の支えだということを、知っている。
イギリスのブルジョアは、自分の神のなかに自分自身を再発見するのと同じように、法律のなかでも自分自身を再発見する。
だから彼は法律を順守するのであり、またそれだからこそ、警官の棍棒は、それはもともと彼自身の棍棒なのだが、彼の心をおどろくほどやわらげてくれる力をもっているのである。
しかし労働者にとってはけっしてそうではない。労働者は、法律というのはブルジョアが彼のためにつくってくれた鞭であるということを、あまりにもよく知っており、また、あまりにもしばしば経験してきた。そして労働者はやむをえない場合を除いては法律に訴えない。
イギリスの労働者が警官を恐れていると主張するのは、こっけいである。なにしろマンチェスターでは警官は毎週なぐられているし、昨年は鉄の扉と重いよろい戸で守られた交番さえ、襲撃をくわだてられたことが一度あったのである。一八四二年のストライキのとき警察が力を発揮できたのは、すでにのべたように、労働者自身がどうしていいのか、分からなかったためにほかならない。<p63>
●注目点……労働者は、法律というのはブルジョアが彼のためにつくってくれた鞭であるということを、あまりにもよく知っており、また、あまりにもしばしば経験してきた。そして労働者はやむをえない場合を除いては法律に訴えない。
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さて労働者は法律を尊重せず、これを変える力をもっていない場合には、ただその効力をみとめているだけなのだから、彼らが法律を改正しょうという提案だけは少なくとももっており、ブルジョアジーの法律の代わりにプロレタリアートの法律をつくろうと望むことは、きわめて当然のことである。
このようにして提案されたプロレタリアートの法律が人民憲章(people's charter)であり、それは形式上はまったく政治的なもので、下院を民主的な基礎の上におくことを要求している。チャーティズムはブルジョアジーにたいする反対を簡潔にまとめたものである。
労働組合やストライキにおいては、反対はつねに個別的なままにとどまり、個々のブルジョアとたたかっているのは個々の労働者、あるいは労働者の一部分である。たたかいが一般化しても、それが労働者の側の意図であることはあまりなかった。
そしてそれが意図的におこったときは、その根底にはチャーティズムの意図があったのである。
しかし、チャーティズムにおいては、ブルジョアジーに反対して立ちあがり、とくに、ブルジョアジーの権力や、彼らが自分たちのまわりにはりめぐらした法律という壁を攻撃しているのは、全労働者階級である。
チャーティズムは前世紀の八〇年代に、プロレタリアートと同時に、またプロレタリアートのなかで、発展してきた民主的な党派から生まれた。この党派はフランス革命中に勢力を伸ばし平和の回復〔一八一五年〕後に「急進的」党として登場し、以前はロンドンに本拠をおいていたが、そのころはバーミンガムとマンチェスターを本拠として、自由主義的ブルジョアジーとむすんで、旧議会の寡頭政治家たちから選挙法改正を強引にかちとり、それいらい、ブルジョアジーに対抗する労働者党として、ますます急速に強固になっていったのである。
一八三五〔一八三八〕年には、ウィリアムエフヴュットを委員長とする全ロンドン労働者協会(WOrking Men's Association)の委員会が人民憲章を起草した。その「六項目」は次のとおりである。
(一)正常な精神をもち、前科のないすべての成年男子の普通選挙権、
(二)議会の毎年改選、
(三)貧しい人でも立候補できるようにするため議員への歳費支給、
(四)ブルジョアジーによる買収や脅迫を避けるため秘密投票による選挙、
(五)ひとしく公平な代表権を確保するための平等な選挙区、そして
(六)三〇〇ポンド・スターリングの年収のある土地所有者に被選挙権を限定すること──すでに無意味となっているのだが──を廃止し、選挙権のあるものにすべて被選挙権をも与えること。
──この六項目はすべて下院の構成にかぎられていて、一見、無害のように見えるけれども、イギリスの国制を女王および貴族院とともに粉砕するのに十分である。
国制のいわゆる君主制的、貴族制的要素は、ブルジョアジーがそれらを外見上維持することが利益と考えるかぎりにおいてのみ、つづいているにすぎない。この二つのものはたんに外見上存在しているだけである。
だが、もし世論の全体が下院を支持し、下院がたんにブルジョアジーだけでなく国民全体の意思を表現するようになれば、下院はすべての権力を完全に握り、君主と貴族の頭から発している最後の後光も消えるであろう。
ブルジョアジーは貴族や女王を実際にはほとんど問題にしていないのに、その人格は神聖化しているのだが、これにたいしてイギリスの労働者は貴族や女王を尊敬していない。イギリスのチャーテイストは、口にだしていうことはまったく、あるいはほとんどないけれども、政治的には共和主義者である。
一方、彼はたしかにすべての国の共和主義的党派に共感をよせ、むしろ民主主義者と名のっている。しかし彼はたんなる共和主義者以上のものである。彼の民主主義はたんに政治的なものにとどまるものではない。<p63-65)
●注目点……ブルジョアジーの権力や、彼らが自分たちのまわりにはりめぐらした法律という壁を攻撃しているのは、全労働者階級である。
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チャーティズムは一八三五〔一八三六〕年にはじまっていらい、たしかに主として労働者の運動であったが、急進的な小ブルジョアとはまだはっきり別れてはいなかった。労働者の急進主義はブルジョアの急進主義と手をたずさえていた。憲章は両者の合言葉である。
彼らは毎年合同して「国民集会」をひらき、一つの党派のように見えた。当時、小ブルジョアジーは選挙法改正法案の結果について失望していたときであり、一八三七年から三九年にかけての不況のためにきわめて戦闘的で殺気だっていた。そのため彼らはチャーテイストのはげしい煽動が非常に気にいったのである。
この煽動のはげしさはドイツでは考えられないほどのものであった。国民は武装するように、さらにしばしばほんとうに反乱に立ちあがるように、要請された。
以前のフランス革命のときのように、槍がつくられた。そしてとくに一八三八年には、メソディストの牧師で活動家のステイーヴンズとかという人が、マンチェスターの大衆集会で次のようにのべた。
「諸君は政府の権力や、諸君を抑圧しているものの手先となっている兵士や銃剣や大砲を恐れる必要はない。諸君はこれらすべてのものよりはるかに強力な手段をもっており、銃剣や大砲もかなわないような武器をもっている。そして一〇歳の子どもでもこの武器をふりあげることができる──諸君はただ二、三本のマッチとピッチに浸した一束の藁をもちさえすればよいのだ。そしてこの武器が思いきって使われるときには、政府とその何十万の兵士とがこの武器にたいして何をすることができるのか、見てみたいものだ」。
──しかしそれと同時に、いまや労働者チャーティズムに固有の社会的性格があらわれた。この冬アイーヴンズは、カーサル・ムア、つまり先にのべたマンチェスターの神聖な山でひらかれた二〇万人集会で、次のようにのべた。
「友人諸君、チャーティズムは諸君が選挙権を獲得することなどについての政治問題ではけっしてない。そうではなくて、チャーティズムとはナイフとフォークの問題である。憲章とはよい住宅、よい食物と飲み物、よい暮らし、短い労働時間のことなのだ」。
このようにこのころにはすでに、新救貧法反対運動と一〇時間法案運動とがチャーティズムと密接に結びついていた。この時期のあらゆる集会にはトーリのオーストラーが参加していたし、バーミンガムで採択された人民憲章をもとめる国民請敬とともに、労働者の状態を社会的に改善する何百という請願も採択された。
一八三九年にも煽動は同じように活発につづけられ、その年の末にそれがいくらかおさまりかけたころに、バッシーとテイラーとフロストが、北部イングランドとヨークシアとウェールズで同時にいそいで暴動をおこそうとしていた。
フロストは計画が洩れたので早まって蜂起せざるをえず、そのために彼の企ては失敗に終わった。北部ではフロストの計画の失敗をかなり早く知ったので、手を引くことができた。二カ月後の一八四〇年一月にヨークシァでいわゆるスパイ暴動が、たとえばシェフイールドやブラッドフォードで、いくつかおこり、そして騒ぎは次第に静まっていった。
その間にブルジョアジーはもっと実際的な、もっと自分たちの利益になる計画、とくに穀物法に目を向けた。マンチェスターで反穀物法協会が結成され、その結果、急進的なブルジョアジーとプロレタリアートとの結合はぐらついてきた。労働者はすぐに、穀物法の廃止はブルジョアジーにとってはたしかにきわめて有利であるが、彼らにとってはほとんど利益にならないことを見ぬき、したがってこの計画を支持しなかったのである。
一八四二年の恐慌がおこった。煽動はふたたび一八三九年と同じように活発になった。しかし今回は、この恐慌のなかで非常に苦しんでいた富裕な工業ブルジョアジーもこれに加わった。マンチェスターの工場主たちからはじまった組織は、いまや反穀物法同盟と呼ばれていたが、きわめて急進的で暴力的な傾向をもっていた。
彼らの新聞や煽動家たちは堂々と革命的な言葉を用いていたが、それには一八四一年いらい、保守党が政権についていたことも原因となっていた。以前にチャーテイストがやっていたように、いまや彼らが直接に暴動を呼びかけ、そして恐慌によってもっとも苦しまなければならなかった労働者も同じように活動的であった。
このことはこの年の国民請願が三五〇万人もの署名をあつめたことで証明される。ようするに、これら二つの急進的党派はいくらか疎遠にはなったけれども、いまやふたたび同盟したのである。
一八四二年二月一五日にマンチェスターでひらかれた自由主義者とチャーティストとの合同集会で、穀物法の廃止と憲章の制定を要求する請願が起草され、翌日、両派によって採択された。はげしい煽動と貧困化がすすむなかで、春と夏がすぎた。
ブルジョアジーは、恐慌や、そのためにおこった困窮や、ひろくひろがった騒ぎを利用して、穀物法をやりとげようと決心した。このときはトーリが政権を握っていたので、彼らは合法性さえ、なかば放棄していた。彼らは革命をやろうとしていたが、それには労働者の助けが必要だった。
労働者は火中の栗をひろい、ブルジョアジーの利益のために自分の指にやけどをしなければならなかった。すでに以前(一八三九年)にチャーティストによって提起された「神聖な月」、つまり、すべての労働者がいっせいに休むというアイディアが、ふたたび各方面でとりあげられた。
しかしこんどは、休みをとろうとしたのは労働者ではなく、工場主たちで、彼らは工場を閉鎖し、労働者を貴族の所領である農村地方へ送りこみ、それによってトーリ党の議会と政府を穀物関税の廃止へ追いこもうとしたのである。
当然、その結果は暴動となるに違いないが、ブルジョアジーは背後の安全なところに隠れ、最悪の場合でも自分を傷つけることなく、成果を待つことができた。七月の末に景気は回復しはじめた。絶好の時期であった。
そしてこの機会を見逃さないために、いまや景気上昇期にさいして(七月末と八月はじめのマンチェスターとリーズの商業報告を参照せよ)、ステリブリッジの三つの会社が賃金を引き下げた──これが会社独自の判断によるのか、それとも他の工場主や、とくに反穀物法同盟の了解のもとにおこなわれたのかは、私は断定しようとは思わない。
そのうち二つの会社は賃金引き下げを撤回したが、第三のウィリアム・ベイリ兄弟会社は態度を変えず苦情を申したてる労働者にたいして、もしこれが気にいらないのなら、むしろしばらくのあいだ進んでいる方がよいだろうといった。この嘲笑的な発言を労働者は大歓迎し、工場を捨てて町をねり歩き、すべての労働者に休業を呼びかけた。
数時間ですべての工場は休止し、労働者は集会をひらくためにモトラム・ムアへむけて行進した。これは八月五日のことであった。八月八日には五〇〇〇人の人びとがアシュトンとハイドへむけて行進し、すべての工場と炭鉱を休止させ、集会をひらいた。
しかしそこでは、ブルジョアジーの期待していた穀物法の廃止ではなく、「正当な一日の労働には正当な一日分の賃金を(afairday's wages for a fair day's work)」ということが問題となった。
八月九日には彼らはマンチェスターへむかい、全員が自由党派であった当局の許可をえて市内へはいり、工場を休止させた。二日には彼らはストックポートにいた。ここで、彼らがブルジョアジーのお気にいりの救貧院を襲撃して占拠したときに、はじめて抵抗をうけた。同じ日にボールトンではゼネストと騒乱がおこったが、やはり当局は制止しなかった。
やがて全工業地常に蜂起はひろがり、そして収穫のとりいれと食料の準備を除くすべての労働が停止した。しかし蜂起した労働者たちも平静さをたもっていた。彼らは、彼らが望んだわけではないのに、この蜂起に追いこまれたのである。工場主たちはたった一人の例外──マンチェスターのトーリ派バーリ──を除いて、彼らの慣習にまったく反してストライキに反対しなかった。
事態は、労働者が明確な目的をもたないままに、はじまってしまったのである。だから労働者は、穀物法廃止をめざす工場主の利益のために射殺されるのには反対という点では一致していたが、その他の点では、あるものは憲章の実現を望み、別のものはそれは時期尚早で、ただ一八四〇年の賃金率をかちとろうと思っていただけであった。
そのために蜂起全体が挫折したのである。もしそれが最初から計画的、意識な労働者蜂起であったなら、たしかにそれは貫徹されたであろう。しかしこれらの大衆は、自分たちの意思ではなく、雇主によって街頭へ放りだされ、はっきりとした意図をまったくもっていなかったので、なにもできなかったのである。
そのうちに、二月一五日の同盟を行動にうつすのに指一本動かさなかったブルジョアジーは、労働者が彼らの道具になろうとはしていかいこと、彼ら自身がその「合法的」な立場からはずれるという矛盾をおかしたために、彼らにも危険がせまっていることを、たちまちのうちに見抜いた。
そこで彼らはふたたび以前のような合法的活動にもどり政府の側に立って、彼らがはじめ蜂起をあおりたて、のちには蜂起せざるをえないようにした労働者にたいして敵対するようになった。
彼らはその忠実な召使いとともにみずから特別警察官となった──マンチェスターにいたドイツ商人もこれに参加し、まったくなんの役にも立たないことだが、ふといステッキをつき、葉巻を口にくわえて、街中をパレードした──彼らはプレストンでは民衆にむかって発砲させ、こうして、なんの意図もない民衆蜂起にたいして、政府の軍事力のみでなく、有産階級の全体が一挙にふたたび敵対することとなった。
もともとなんの目的ももっていなかった労働者は、しだいに解散し、暴動は悪い結果も残さずに終わった。その後もブルジョアジーは次つぎと破廉恥な行為をおこない、春の革命的な言葉とは矛盾することだが、民衆が暴力的に介入したことにたいして嫌悪の気持をしめし、それによって自分たちの潔白さをしめそうとした。
彼らは、蜂起をひきおこすうえではチャーテイスト以上のことをしておきながら、蜂起の責任をチャーテイストの「煽動家」などにかぶせ、ほかにくらべるものもないほどの厚かましさで、法律は不可侵という昔の立場へもどったのである。チャーテイストたちは、この蜂起にはほとんどなにも役割を果たさず、ブルジョアジーと同じこと、つまり、この機会を利用しょうとしただけなのに──法廷に立たされ、有罪判決をうけた。
これにたいしてブルジョアジーはなんの被害もうけず、仕事が中断しているあいだに在庫品を売ってもうけたのである。<p65-71>
●注目点
……そうではなくて、チャーティズムとはナイフとフォークの問題である。憲章とはよい住宅、よい食物と飲み物、よい暮らし、短い労働時間のことなのだ」
……ブルジョアジーの期待していた穀物法の廃止ではなく、「正当な一日の労働には正当な一日分の賃金を(afairday's wages for a fair day's work)」ということが問題となった。
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蜂起の成果は、プロレタリアートがブルジョアジーから決定的に分離したことである。チャーテイストはこれまで、どんな手段を使っても、革命によってさえも、憲章を実現しようとしていることを、ほとんど隠していなかった。
ブルジョアジーはいまや、どんな強力的変革も自分たちの地位にとっては危険であることを、とつぜん見抜き、もはや「物理的力」については耳をかたむけず、ただ「精神的な力」──まるでこれが物理的力の直接または間接のおどしとは別物であるかのように──だけで自分たちの目的を達成しようとした。これが一つの争点であった。
だがこの点は、のちにチャーテイストたちが、われわれもまた物理的な力には訴えないと言明したことによって──チャーテイストも自由主義的ブルジョアジーと同じくらいしか信用できないのだが──事実上解決された。
しかし、チャーティズムをはっきりと照らしだした第二の、もっとも重要な争点は、穀物法問題であった。急進的なブルジョアジーはこの問題に利害関係をもっていたが、プロレタリアートはそうではなかった。このため、これまでのチャーテイスト派は二つの党派に分裂した。
両派は政治的な、公表された原則では完全に一致していたが、しかしまったく異なっていて、結びつくことはできなかった。一八四三年一月のバーミンガム国民集会で、急進的ブルジョアジーの代表であるスタージは、憲章協会の規約から憲章という名称を削除することを提案した。
その表向きの理由は、この名称が先の蜂起のために暴力的革命的な記憶と結びついているということであった──それはすでに何年も前から結びついていたのだが、スタージ氏はこれまでなんの異議もとなえたことはなかったのである。
労働者はこの名称を削除することを望んでおらず、そしてスタージは多数を獲得できなかったので、とつぜん忠誠心をとりもどしたこのクエーカー教徒は少数派とともに退場し、急進的ブルジョアジーによって「完全選挙権協会(Comple Suffrage-Association)」を結成した。すこし前まではジャコバン的であったブルジョアにとっては、この思い出はきわめて不愉快なものとなったので、普通選挙権(univrsal suffrage)という名称を、完全選挙権(complete suffrage)というこっけいな名称に変えたのである! 労働者は彼を嘲笑し、自分たちの道を平然と進んでいった。<p71-72>
●注目点……ブルジョアジーはいまや、どんな強力的変革も自分たちの地位にとっては危険であることを、とつぜん見抜き
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この瞬間から、チャーティズムはあらゆるブルジョア的要素から解放され、純粋に労働者の事業となった。
「完全派の」新聞──『ウィークリ・ディスパッチ』、『ウィークリ・クロニクル』、『イグザミナー』など──は、その他の自由主義的新聞と同じように、しだいに眠気をさそうようなものとなり、自由貿易を擁護し、一〇時間法案や、あらゆる労働者独自の法案を攻撃し、全体として急進主義をうすめていった。
急進的ブルジョアジーは、意見が対立するときにはいつでも、チャーテイストに反対して自由主義者と結びつき、一般に、イギリス人にとっては自由競争の問題である穀物法問題を、彼らの主要課題とするようになった。こうして彼らは自由主義的ブルジョアジーの支配下にはいり、いまではきわめて情けない役割を演じているのである。<p72>
●注目点……あらゆるブルジョア的要素から解放され、純粋に労働者の事業となった。
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これにたいしてチャーテイストの労働者たちは、熱意を倍増させて、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートのたたかいをすべてになっている。自由競争は労働者をひどく苦しめ、彼らに憎悪されている。その代表者であるブルジョアジーは彼らの公然の敵である。
労働者は競争の完全な自由化からは損失しか期待できない。彼らのこれまでの要求、すなわち、一〇時間法、資本家にたいする労働者の保護、よい賃金、地位の保障、新救貧法の廃止はすべて、少なくとも「六項目」と同じくらい本質的にチャーティズムに属することがらであるが、自由競争と自由貿易とは直接に対立する。
したがって、イギリスのすべてのブルジョアジーにとっては理解できないことだが、労働者は自由競争や自由貿易や穀物法の廃止には耳をかたむけようとせず、穀物法廃止には少なくともきわめて冷淡であるのに、これを擁護する人びとにたいしてはげしい敵意をいだいているのは当然のことである。
この問題はプロレタリアートとブルジョアジー、チャーティズムと急進主義とを分かつ点であり、ブルジョアジーはプロレタリアートを理解することができないので、このこともブルジョアジーの理解をこえているのである。<p73>
●注目点……自由競争は労働者をひどく苦しめ、彼らに憎悪されている。その代表者であるブルジョアジーは彼らの公然の敵である。
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しかしこの点にまた、チャーテイストの民主主義と従来の政治的なブルジョア民主主義との違いがある。チャーティズムは本質的に社会的性格のものである。「六項目」は、急進的ブルジョアにとってはそれがすべてであり、せいぜい、いくらか国利の改革をひきおこすだけのものだが、プロレタリアにとっては手段であるにすぎない。
「政治権力はわが手段、社会的幸福こそわが目的」、これが、いまや公然と表明されたチャーテイストのスローガンである。牧師ステイーヴンズのいった「ナイフとフォークの問題」は、一八三八年にはチャーテイストの一部にとってしか真理ではなかったが、一八四五年にはすべてのチャーテイストにとって真理となった。
もはやチャーテイストのなかにはたんなる政治家はいない。
そして彼らの社会主義がまだわずかしか発展していないにしても、そしていままでの彼らの主要な貧困対策が土地所有の分割制(allotment-system)であり、それはすでに工業によってうち破られてしまったとはいえ(序説参照)、また一般に、彼らの実際的な提案(労働者の保護など)の大部分は一見したところ反動的なものに見えるとはいえ、一面ではこれらの諸方策のうちにすでに、彼らがふたたび競争の力に屈服して昔の状態が再現するのか──それとも競争の廃棄そのものをもたらさなければならないのか、いずれかをえらぶ必然性の根拠があるのである。
そしてもう一面では、チャーティズムの現在のあいまいな状態、つまり純粋に政治的な党派から分離したということは、チャーティズムの国有の特徴がその社会的な側面にあり、それをさらに発展させなければならないということを決定づけている。
社会主義への接近はとどめることはできない。とくに商工業の現在の活況につづいて、遅くとも一八四七年までに、しかしおそらくは来年にでもおこるに違いない次の恐慌は、はげしさと荒々しさでは以前のどんな恐慌よりもひどいものとなるであろうし、困窮のために労働者は政治的な救済手段の代わりに、社会的な救済手段にますます訴えるとすれば、いっそう社会主義へ接近するであろう。
労働者は憲章を実現するであろう。それは当然である。しかし、それまでに彼らは、憲章によってどれだけのことができるかということや、いまはあまりよく分かっていない多くのことを、はっきりと知るようになるであろう。<p73-75>
●注目点
……チャーティズムは本質的に社会的性格のものである。
……「政治権力はわが手段、社会的幸福こそわが目的」、これが、いまや公然と表明されたチャーテイストのスローガンである
……困窮のために労働者は政治的な救済手段の代わりに、社会的な救済手段にますます訴えるとすれば、いっそう社会主義へ接近するであろう。
(エンゲルス著「イギリスのおける労働者階級の状態 -下-」新日本出版社 p63-75)
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◎京都市長選挙勝利の意味するもの、私たちの闘いの目標はなにか……。じっくりと学び取ってください。