学習通信040128
◎言葉でごまかしたりすることのできない時が……。
 
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「子どもにどう説明」
陸自本隊に派遣命令
「なぜ、パパなの」素朴な疑問 解消できず
 
 厳冬の街から中東の「危険地帯」へ。発足五十年目で、初めて戦地″で活動することになる陸上自衛隊本隊に二十六日、派遣命令が出た。「子どもにどう説明すればいいのか」。夫の出発が秒読みになるにつれ気が重くなる妻。主力部隊になる第二師団(司令部・旭川市)隊員の家族にとって、答えはまだ見つからない。
 
 「僕もイラクに行きたい」。三月に本隊として派遣される四十代の陸曹の妻は、幼稚園の息子が急に言い出したので驚いた。それまでは「パパ、イラクに行かないで」が口癖だった。
 
 その直前、息子と夫は自宅でひそひそ話しをしていた。妻は「夫が息子を元気づけるようなこと言ったんでしょう」と打ち明けた後「何を言ったんでしょうね」とやりきれなさをにじませた。
 
 五年ほど前に離婚した三十代女性の元夫はイラクに行く。女性は「小学生の娘には、困っている人を助けに行くことと、銃撃戦が結び付かないようだ」と戸惑った表情を見せる。テレビで連日、映し出されるテロやデモなどイラクの混乱。そのたびに娘は「人を助けに行くなら、ここには行かないよね」と繰り返すという。
 
 元夫とは別れた後も時折、子どもと一緒に会ったり、電話で連絡を取り合ってきた。「私も納得していないことを子どもにどう説明すればいいのか…」と女性は言葉に詰まる。
 
 派遣候補になった第二師団の中堅幹部は、小学生の息子に「おまえと同じ年代の子が飢えている」と言い聞かせた。「パパ達しかできない仕事だ」と諭すが、息子は「あっ、そう」とだけ言うと、後は黙ったまま。「なぜパパは行かなければならないの」。子どもの素朴な疑問も解消されていない。
(京都新聞 040127)
 
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文庫版あとがき
 
 三年前に刊行のこの本を読み返し、「本にまとめておいてよかった」と思うのは残念であり、不幸にも思える。
 
 あってはならないこと、欺瞞そのもののことが暗闇で着実に進行していると考え、それを押しとどめるべく、心を砕くように書いてきた。しかし……。
 
 今年の六月、わたしは旅さきの能登・輪島でころび、第一腰椎の圧迫骨折をして、七十日の入院生活を送った。加齢、そして疲れが引金になったと思う。絶対安静で三食養われる日日には、テレビも新聞も綾なしだった。
 
 そして、冷夏というこの夏、日本の政治は大きな曲り角をまがった。寝たままで未来を思い描くとき、怒りよりも悲哀と無力感の方がまさり、いつかわたしはうつ状態に落ちかけもした。
 
 そして、自分を支えるためにも、この一冊をまとめ、不退転の小さな旗をはっきりとかかげておいてよかったと思ううち、わたしは立ち直った。
 
 「理由なき先制攻撃」を独断したブッシュ大統領、そしてブレア首相はいま、進退きわまりつつある。大量破壊兵器の存在を証明できず、イラクの政情は思い通りにならないだけでなく、テロは終る気配もない。兵員の補充と「復興」という名目の戦費の捻出困難、つまりぬきもさしもならぬ泥沼に落ちこみ、支持率は低下の一方である。
 
 アメリカ、イギリスは、それぞれの国内事情と国際世論により、変らざるを得まい。世界制覇の夢はつねに「悪夢」となるという歴史の先訓がまたしても実証されつつある。
 
 ブッシュ大統領の窮余の策は、イラク戦争を国連主体の戦争にすりかえることだった。国連軍を派遣、各国に復興資金の拠出をさせる──。
 
 ずいぶん身勝手な変心である。大量規模のミサイル攻撃などを公然とやらなければ、イラクの破壊や人命損傷もなかった。復興資金も不要だった。軍事力に訴えるのではなく、歩みより、平和に共存してゆく方途をさぐり、その実現に必要な資金を提供する。
 
資金の使途は全額明瞭でなければならず、国連もしくは公平な第三者の監査を必要とする。学校へゆけなかった子たちに勉強の機会をもたらし、薬品の不足で救えなかった命を守る。戦争とは正反対の方向へ努力して、多くの収穫が得られたはずである。
 
 ブッシュ大統領以下、9・11ショックと面子(メンツ)失墜への短絡した反応、「イラク利権」への野心が道をあやまらせた。
 
 理性が頭をもたげ、冷静さが社会にもどってきたとき、政治動向のバランスは変る。幾度も誤ちをくりかえし、ついで中道に戻ったかつてのアメリカの良識は死んではいない。ようやく力をもちはじめたかに見える。
 
 日本はどちらへ向いているのか。
 
 戦闘地域か非戦闘地域かと国会で問われ、「私にわかるわけがないじゃないか」と答える政治家には、一国の前途を左右する決定の能力はない。資格もない。それでも、「盟友」ブッシュ、ブレア両氏人気凋落の傾向に反し、小泉内閣の支持率上昇というのはどういうことか。
 
 腰がひけ、背広にネクタイの「たいこもち」化した一部マスコミや男女「文化人」をあげつらう気はない。ここにもかならず変化はあらわれる。変らずにはすまない事態が目前にある。そして、最終的には、一人ひとりが問われている。問われ、試されていると書きつづけてきたひとすじの道を思う。
 
 都内に住むある女性。町内の女性たちで政治家のパーティへ行った。会場はホテル、会費二万円。安倍幹事長がおくれて入ってくると、女性たちが喚声をあげてとりまき、握手を求めたという。
 
 テレビはタカ派の同氏を紹介するとき、「女性に圧倒的人気の」と言った。女性はこの言葉に侮蔑を感じるべきではないのだろうか。
 
 よく考え、勉強もし、自分の意見をしっかりもっている女性たちはふえている。男性たちも。そして若い人たちが疑問をいだきはじめ、ホームページなどを使っての意見交換によって育っているという新しい傾向はある。
 
 「希望の木」はいま、逆風のなかにあるが、きたえられて強くなってゆくものでもある。
 
 このままゆけば、日本のわかものは遠く離れた異郷で、アメリカの傭兵めいた戦闘をし、戦後五十八年にしてはじめて戦死者を出し、他国の軍民のいのちを奪うことになる。そして、武器によっては解決は得られないのだ。さらには軍事費(実際は対米援助費)の増大で、暮しそのものが脅かされることになる。
 
 「国会の多数決」という暴力が推進する事態、ブッシュ政権の要請にすり寄る政治をもつ不幸を変えるのは、結局一人ひとりの自覚ではないだろうか。
 
 三十年をこえるわたしの仕事の基調には、日本に限らない戦争死者とその家族の人生があった。わたしは縁のあった幾千という以上の死者を背中にして、一日一日を生きているように思うときがある。
 
その死者たちの無言の思いに対しても、わたしは小さな旗をかかげつづけてゆく。あたりまえのことだ。「平和」という言葉はよごされ、ボロボロになっている。
 
だがすべての希望、夢の実現の絶対的な前提は、平和であり、殺しあいのない世界である。国の経済が破綻し、民は飢えに苦しむほどの軍事費など、破滅以外のなにものも生みはしない。この地球で、つつましく平和な生活をいとなむべく努力する。それ以上の幸福はないと、癒えない戦争の傷口が語りつづけていはしないか。
 
 自らは大量の核兵器をもち、臨界実験をつづけながら、他国が核兵器をもつことを非難し攻撃も辞さずという矛盾。すべての核兵器の完全封印へむかう努力こそが必要ではないのか。
 
「考える人」が求められている。「志」と「義」という旗をかかげる一人ひとりが、それぞれ工夫をして意志表明をし、あきらめないことだ。一人からはじまって、連帯の人間の絆も生れる。
 
 尊敬するある作家の個人的なメッセージに、
 
「息するかぎり あきらめず」
 
 とあった。その痛切な思いを共有したい。ふりかえって、「あの時が運命の岐(わか)れ目」となるであろう時点をわたしたちは生きている。あきらめるわけにはゆかない。
 
 二〇〇三年十月八日     澤地久枝
(澤地久枝著「私のかかげる小さな旗」講談社文庫 p275-279)
 
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解説
 
 サー・トマス・モアの生涯とその『ユートピア』について考えることは、とりもなおさず、第十五世紀の後半から第十六世紀の前半にかけての、たんにイギリスのみでなく、広くヨーロッパの歴史を考えることにほかならない。
 
それもその時代の社会的・政治的な歴史だけでなく、文化の大きな変動というか、人間の意味の展開というか、とにかく、世界を動かしているものの考え方自体の歴史を考えることにほかならない。
 
偉大な人間はすべて時代の象徴的な存在であることは今さらいうまでもなかろうが、モアほど、言葉のもっとも深い意味での歴史の流れを、自分の著作においてのみでなく、自分の生活において、否(いな)、その死において、具象化した人をわれわれはあまり多くは知らない。
 
ある思想が思想として生命をもつかどうかは、その思想がその人間によって考えぬかれたものであるかどうか、しかも誠実にその人間の体験によってうらづけられたものであるかどうか、にかかっているとすれば、モアほど思想と人格とが、もしくは思想と体験とが、ぴったりと融けあった人間も珍らしいといわなければならない。
 
われわれは(といって悪ければ、私は、といってもいい)、思うことと行うことの矛盾を感ずるとよくいう。そして多くの場合、その矛盾はなんら絶対的な意味をもってその解決をわれわれに迫ってくるものではない。
 
しかし、その矛盾が矛盾だとして平気で見すごしたり、言葉でごまかしたりすることのできない時が、われわれの個人の生活においても或いは世界の歴史の流れにおいても、やってくることがある。
 
あれか、これか、というぎりぎりの選びを強いられる時なのだ。これを、もし、危機、と呼ぶことができるならば、モアはまさにそのような危機に立った人間の一人であったといえるであろう。
 
今日言ったことはただちに明日自分に向ってはねかえってくる。自分の生命はおろか信仰さえも秤にかけてものをいわなければならない。
 
過渡期とはまさにそういう時代をいうのであろう。モアはそういう過渡期の人間であった。
 
 モアの時代は文化史的にいうならば、要するに、文芸複興と宗教改革の二つの思潮が、中世的な思潮と激突した、恐ろしい時代だった、といいきってしまうことも、或いは可能かもしれない。
 
しかし、この時代のイギリスを、そしてその背景にあるヨーロッパを、一つの生きた存在としていわば自分の皮膚を通して感じようとする時に、そこに、問題をいだいてうごめく巨大な課題がたちはだかって、われわれに挑んでいることを、われわれは感じる。(平井正穂)
(トマス・モア著「ユートピア」岩波文庫 p195-196)
 
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◎なにも言う必要はない。身震い……怒りと悲しみ≠サして決意≠ェ貫く。