学習通信040130
◎女神が微笑む時……自分とは縁のない者になろうと考える者は、やがては完全に自分を忘れて……
 
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 「覚えなさい」
 この言葉は、わたしのトラウマになっているらしく、いまでも台本があるテレビ番組に出演するのは苦手だ。台本を覚えなくてはいけない、自分のことば以外でしゃべらなくてはならない、こう思うと、とたんに緊張してしまう。
 
 ずっとあとになって、オリンピックのスタート地点に立ったとき、緊張はパワーになることを知った。
 
 大人の命令、あるいは願望に子どもはできるだけ応えようとはする。けれど、自分の気持ちに逆らって不得意なことをやろうとすると、そのこと自体に嫌悪を抱いてしまうことがあるものだ。
 
 勉強のほうの緊張はとたんにパニックに陥ってしまうのに、自分からやる、やらなくてはいけないと決めたときにはからだ中に力がみなぎつてくる不思議。
 
 同じ緊張でも、人にやらされることと自ら進んでやることのあいだでは、こんなにもパワーの上で差が出ることを実感せずにはいられないが、これはずっとあとの話だ。
(有森裕子著「わたし革命」岩波書店 p19)
 
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臆病者が大成する
 
 野球の世界でも人を見る眼、人の器を見る限は難しいというのが真相だ。人間は多面性を待った複雑な生きものだから十の眼、二十の眼をもって見てもわからないことがあるのだが、わたしの経験ではどの分野でも臆病なくらい細心で、神経質で慎重なタイプの人ほど大成するように思う。
 
 こうしたタイプの人は細かくてていねいで内省的で、一見勝負ごとには不向きなのではないかと思えるほどなのだが、その性格のゆえだろう。ある程度伸びて、それなりの実績を作っても中途半端を嫌い、完全を期し、自分自身でとことん納得のいく技術、体力を修得し、より一層、さらにより一層、自分を充実させていかないと安心ができないので、常に努力を重ねて、大成していく確率が高くなるのである。
 
 そして技術の神髄をつかむと、自信を一層強めるので、今度は少々のことにはびくともしないまでになる。心の奥底に秘めた臆病が細心にして、しかも果断──という形に昇華するのだ。
 
 将棋の名人から横綱、プロゴルファー、プロ野球では王、張本、金田から落合やイチローまで、スーパースターといわれる人のほとんどが表向きとは裏腹で、その実像は豪傑ふうのイメージとはほど遠いものだ。一緒に旅をしたり、起居をともにしたりするが、食事の仕方ひとつ、着替えの仕方ひとつとつてもそうだ。小さなタオル一枚干すにしてもカドをきちっと伸ばしたりする。ふだんの生活態度からして、みんなきちょうめんな人たちだ。
 
 なにか自分のものを創りあげるような人は「どうしてあんなに細かくて、神経質でなくてはいかんのか」といわれるほど実際は細心で、敏感な神経の持ち主ばかりなのである。
 
 常に自分を省みて、より一層自分が納得する力や技を身につけようとして、自分を掘りさげ、自分に疑問を持ち、その疑問を解いていこうとする気持ちが、人にも増しで強いのである。
 
 それだけにいったんスランプに陥ると考えすぎて、スランプ状態が長引くというような現象も起こしがちだが、常に簡単に自信は持たず、安心せず、向上心という矢印を上に向け続けているので人間も技術もサビるということがない。それでいていったんグラウンドに立ち、プレーに入れば、自分の技術、体力に自信をみなぎらせて、思いきってプレーをするのだから味方には頼もしく、敵には怖い存在と化すのだ。
 
 逆に根っから豪快、豪気で強気な人はその性格ゆえに、ある程度の成功を収めるとそれでもう安心してしまうといった傾向がある。初めから度胸がよく図太いので、万事がおおまかで少々のことにこだわったりしない。スランプに陥っても、さらに技術の奥儀をめざすのではなく、きっかけをつかむという調子の把握を優先させて、すぐに自分に妥協をするのである。
 
 気分転換は早いし、くよくよしない。そこが魅力なのだが、万事に「まあ、こんなもんだ」と早のみこみで、「なあに、そんなこと、ちょっとやればできるわい」とつい物ごとを軽く考えたり、高慢になりがちなのもこうしたタイプの人たちである。強い人はどこまでも強いままでいってしまい、とかく自分に妥協を許すので、あるところまでいって成長が止まるのである。──略──
 
 「大疑の裏に大悟あり」というが、臆病なほど常に自分を省みて、自分を掘りさげ、自分に疑問を抱いて、自分の心技を見つめて神髄をつかんでいくのが大選手の実際の姿というものだ。人の見方、人の器の見方は難しいのだが、大を成す真摯な人間の実像はおおむね、みなこうしたものだ。(川上哲治著「遺書」文春文庫 p172-175)
 
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野村−不器用さの克服をデータに求めた
 
 選ばれてプロ野球に入ってくるほどの人間は、それなりの素質に恵まれているものです。そして、その素質は何ほどの差もありません。中には落合選手やイチロー選手のように無類の天性と反射神経に恵まれている者もいますが、そういうのは例外中の例外、多くは紙一重の差もあるものではありません。
 
 だれもが同じようなレベルにあります。打者なら概して二割五分打てる素質を備えているということです。基本の反復練習は、その素質を確かなものにするためのものです。だから、素質・能力の世界の範囲内での努力であって、そこから抜け出るものにはなりません。
 
 米長先生流にいうなら、そういう努力にも幸運の女神は微笑んでくれるということでしょう。それが昭和三十二年の私の成績で、しかもあまり気前のよくない女神にしてはたっぶり微笑んでくれたようで、打率三割二厘、本塁打三十本という結果が出たのでした。
 
 しかし、これは素質と能力の世界内でのことです。たまたまこういうことになった、というのが事実でしょう。そこで自分の努力は間違っていないと確信して、同じレベルの努力を繰り返していたのが、昭和三十三、三十四年の二シーズンの私でした。どんなに努力しても、打率三割にはとても手が届かないのです。
 
 そこに至って、私は薄々感じていた自分の不器用さをはっきり自覚するようになりました。
 
 私の不器用さとはこういうことです。カーブがくると読んで、そのタイミングで待っている。そこにビューツとストレートがくる。すると、手も足も出ない。逆にストレートのタイミングで待っているところにカーブがくると、他愛なく空振りしてしまう。読みがはずれたときに、私はどうしてもとっさの対応ができないのです。
 
 では、どうするか。生来の不器用さは仕方がない、と私は考えました。だが、仕方がないで終わっては、二流にもなれないんですね。私は諦めませんでした。三割に届かない残りの五分を埋めるために、不器用さを補う方法はないかと考えました。そこが分かれ目だったと思いますね。
 
 壁に突き当たって、どうしてもそこが越えられない。これはプロならだれにでもあることだし、そこで悩み苦しむのは、程度の差はあってもだれもが同じです。だが、そこでどうするかが、一流に向かっていくか、二流に留まるかの大きな分かれ道になるのではないでしょうか。
 
 これはスポーツマンの特徴なのかもしれませんが、私の見る限り、プロ野球選手には考えることは苦手というタイプが多いようです。考えるといっても、対象は野球です。そんなにむずかしいことを考える必要はありません。ほんのちょっと、脳細胞のわずかな回路を働かせてみればいいのに、多くはそうしません。相変わらず体の動きの問題としてとら、え、基本基本と同じ練習を繰り返し、それでも壁を乗り越えられないのは根性が足りないからだという精神主義に陥っていく者が多いのです。
 
 筋力をつけ、スタミナをつけ、タイミングの取り方、ための作り方、腰の回転と繰り返して基本を固め、さらにその基本を鋭くする練習を繰り返してきて、それでも壁が越えられない。それなら、同じことを繰り返しても、同じ結果しか出ないのは最初から目に見えている、と考えるべきなのに、多くが根性だ、練習だと素振りを繰り返すところにもどっていってしまう。結果はいわずもがな。多くが越えられない壁の前で踏み留まってしまうことになります。
 
 私は米長先生のように幸運の女神について研究したわけではないのですが、こういうことがいえるのではないでしょうか。同じレベル、同じ領域で女神が微笑んでくれるのは一度だけ。さらに女神に微笑んでもらいたかったら、レベルを変え、領域を変えなければならない、と。つまり、自分が変わらなければならない。これが運についての原理原則であるような気がします。
 
 打率二割五、六分のあたりをうろうろして、三割に手が届かないのはなぜか。私は考えました。要するに、相手投手の投げるボールの球種やコースに対する読みがはずれたとき、とっさに対応する能力が私にはないのです。その対応能力を身につけるために基本の練習に励んだのですが、やはり、生来の不器用さを克服するのはむずかしい。
 
 読みがはずれたときの対応力は私にはないが、逆に、読みがどんぴしゃりなら打てます。それなら、不券用さを克服しょうという努力の方向を変えて、読みの精度をあげるように努めればいいのではないか。
 
 当時、野球理論らしいものはほとんどありませんでした。まして、データなどへの関心は皆無だったといっていいでしょう。せいぜい、あの投手はスピードで押してくるとか、この投手はカーブが得意だとかいった傾向をつかみ、決め球にはこの球種を使ってくるといった漠然とした感じだけで相対していました。私の読みもせいぜいその範囲内でしかありませんでした。
 
 私はもっと精密なデータを集めてみょうと思いました。そのころはスコアラーがいないチームもありましたが、南海には尾張さんというスコアラーがいました。もっとも、尾張さんのスコアラーとしての仕事は、次の年の年俸を査定する資料を集めるのが主だったのですが。私は尾張さんにお願いして相手投手の配球を記録してもらったり、自分でもベンチでノートを取ったりしました。
 
 それはいまの精密なデータ収集に比べれば、子どもだましのようなレベルでしかありませんでした。しかし、そうしてデータを取ってみると、漠然とした感じとか傾向とかいった以上に確かなものが、数字となって現れるのを知ったのです。
 
 私がデータに関心を向けたのは、キャッチャーだったということも大きいと思います。ノー・ツー、あるいはワン・スリーといったカウントでは、次はどうしてもストライクが欲しくなります。こんなとき、よそのキャッチャーはどんなサインを出しているのか。配球を観察することが、データ集めにつながってもいきました。
 
 そのころ、アメリカのメジャー・リーグの強打者だったテッド・ウィリアムスが書いた『打撃諭』という本を読みました。すると、投手がモーションを起こしたときには、何を投げてくるか、直球がくるか変化球がくるか、七十パーセントの確率でわかると書いてあります。サインが決まるまでは投手は何を投げるか、自分でもわかっていません。
 
だが、キャッチャーとサインを交換して投げる球が決まると、表情や仕種など、癖ともいえないわずかな変化が必ず現れるというのです。ほんまかいな、と思いましたね。それからは、ベンチで相手投手の様子をジーッと観察して、次はシュートだ、今度はカーブだ、と投手の表情や動作など、わずかな変化をとらえて予想してみる訓練を続けました。すると、テッド・ウィリアムスのいっていることは嘘ではなかったのですね。確かに癖ともいえないわずかな癖が現れるのです。
 
 データの収集と癖の観察。私は努力の仕方をこの方向に変えて不落用さを補い、三割に届かない五分を埋めようとしました。そしてそれは、確かに手応えがあったのです。
 
 私が意識して努力の方向を変え、データを集め始めたのは、昭和三十五年でした。その年の成績は打率二割九分一厘、本塁打は二十九本でした。これだけの結果が出て、私は自分の努力の方向に確信を持ちました。基礎練習もさることながら、私はデータ集めに熱中するようになったのです。
 
 私の努力の方向が間違っていなかったことは、その後の成績が証明しています。三割台が打てるようになり、悪くても二割九分台に止まるようになったのです。そして、昭和四十年には戦後初の三冠王のタイトルを手にすることができたのです。
 
 努力は大切です。だが、闇雲に努力しても、女神はあまり微笑んでくれません。努力することは大切だが、肝心なのは努力の方向、仕方を間違えないことです。努力の方向と仕方さえ間違わなければ、私のように不器用で大したことはない素材でも、確かな実りを手にすることができるのです。
(野村・米長著「一流になる人 二流でおわる人」致知出版 p54-61)
 
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 自尊心が発達してくるとすぐに相対的な「自我」がたえずはたらいてくることを、そして、青年は他人を観察しているときには必ず自分のことを考え、自分を他人とくらべてみていることを考えなければいけない。
 
そこで、自分と同じような人間をしらべてみたあとで、かれらのあいだにあって自分はどういう地位に身をおいたらいいかを知ることが問題になる。青年に歴史を読ませるやりかたをみていると、かれらがみているあらゆる人物にいわばかれらを変えてしまうようなことをしていることがわかる。
 
あるときはキケロに、あるときはトラヤヌスに、あるいはアレクサンドロスにしようとしているのだ。自分のことを考えるとがっかりしたくなるようにしているのだ。
 
自分以外のものにはなれない恨めしさをみんなに感じさせようとしているのだ。
 
こういう方法にもある種の長所はあって、わたしもそれをみとめないわけではない。
 
けれども、わたしのエミールについていえば、かれがそういう比較をして、自分とは別の者になりたいと思うようなことがたった一回でもあるとしたら、その別者がソクラテスだろうとカトーだろうと、万事は失敗したのだ。
 
自分とは縁のない者になろうと考える者は、やがては完全に自分を忘れてしまう。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p74)
 
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◎「努力は大切です。だが、闇雲に努力しても、女神はあまり微笑んでくれません。努力することは大切だが、肝心なのは努力の方向、仕方を間違えないことです。努力の方向と仕方さえ間違わなければ」……。