学習通信040201
◎労働者が学ぶ……我物にした科学知識は、必然自己の束縛をたちきる武器となる
 
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 しばしば合同し、しばしば分裂している労働者のさまざまな分派──労働組合員、チャーテイスト、社会主義者──は、精神的教養を高めるために、多くの学校や読書室を自分たちの力でつくった。
 
すべての社会主義組織と、ほとんどすべてのチャーテイストの組織はこういう施設をもっており、個々の労働組合の多くももっている。
 
ここで子どもたちは、ブルジョアジーの影響から完全に自由な、身にプロレタリア的な教育をうけており、読書室にはプロレタリアの新聞や書物だけが、あるいはほとんどそれだけが、おいてある。
 
これらの施設はブルジョアジーにとってはたいへん危険であり、彼らは「職工学校」というこれと似た施設を、プロレタリアの影響からひきはなし、これをブルジョアジーにとって有利な学問を労働者のあいだにひろめる機関につくりかえることに成功した。
 
いまここでは自然科学が教えられているが、それは労働者をブルジョアジーにたいして敵対しないようにし、おそらく彼らにブルジョアジーをもうけさせるような発明のための手段を与えるためである。
 
ところが現在は労働者にとっては自然についての知識はまったく役に立たない。なぜなら彼は大都市に住み、長時間労働をしていて、自然をまったく見ることもないことがしばしばだからである。
 
またここでは国民経済学がお説教されているが、それは自由競争を神のようにあがめ、労働者にとっては、じっとあきらめて餓死すること以外に合理的なことはなにもできないということだけを、唯一の結論としている。
 
ここではすべての教育は、支配的な政治と宗教にたいして従順で、おとなしく、献身的であるようにしくまれており、したがってそれはほんらい、労働者にたいするおとなしい服従と消極性と自分の運命への忍従というお説教なのである。
 
もちろん労働者大衆はこういう学校についてなにも知ろうとせず、プロレタリア的な読書室へいき、直接に彼ら自身の利害にかかわる諸事情の議論に加わる──そうすると自己満足しているブルジョアジーは「われいえり、しかしてわが魂を救えり」といって、「健全な教育よりも悪意ある煽動家たちの熱狂的な怒りの叫びの方を好む」階級を軽蔑して見捨てるのである。
 
しかし労働者が「健全な教育」にも、もしそれがブルジョアジーの利己的な知恵とまぜあわされずに提供されるならば、関心をもつということは、すべてのプロレタリア的機関、とくに社会主義的機関で、自然科学や、美学や、国民経済学をテーマとする講義がしばしばひらかれ、多くの聴講者をあつめていることによって証明される。
 
私は、ぼろぼろになったビロードの上着を着た労働者が、ドイツの多数の教養あるブルジョア以上の知識をもって、地質学や天文学や、その他の対象について語っているのを何度も聞いたことがある。
 
そしてイギリスのプロレタリアートが自主的な教養を身につけるのにどれほど成功しているかということは、最近の哲学や政治学や詩のうちの画期的な作品を読んでいるのがほとんど労働者だけだということによって、とくにしめされている。
 
ブルジョアジーは社会状態と、それと結びついている偏見とにとらわれているので、実際に進歩の基礎となるすべてのものの前では、恐れおののき、おはらいをし、十字をきる。プロレタリアはそれらのものにたいして目をひらき、喜んでこれを研究し成果をあげている。
 
この点では、とくに社会主義者が、プロレタリアートの教育のために、はかりしれないほどのことをしてきた。彼らはエルヴュシウス、ドルバック、ディドロなどのフランスの唯物論者の著作を翻訳し、イギリスのもっともすぐれた著作とともに廉価版で普及した。
 
シュトラウスの『イエス伝』やブルードンの『財産とはなにか』も、やはりプロレタリアのあいだでしかひろまっていない。シェリー、あの天才的予言者であるシェリーや、感覚的な熱情と現在の社会へのするどい風刺をもつバイロンも、労働者のなかで最大の読者をもっている。
 
ブルジョアは、現在の偽善的な道徳にしたがって手を加えられた「家庭版」という去勢版しかもっていない。──もっとも偉大な最近の二人の実践的哲学者、ベンサムとゴドウィンは、とくに後者は、やはりほとんどプロレタリアートの独占的な財産である。
 
たとえベンサムが急進的なブルジョアジーのあいだで一つの学派をつくっているとしても、彼を進歩的に発展させることができたのは、やはりプロレタリアートと社会主義者だけである。プロレタリアートはこういう基礎のうえに独自の文献をつくりあげたのだが、その多くは雉誌やパンフレットであり、内容の点では全ブルジョアジーの文献よりもはるかにすぐれている。この点については別の機会にゆずる。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -下-」新日本出版社 p78-80)
 
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労働組合としての教育活動の形成
 
 さて、友愛会から総同盟へと本格的な労働組合の歩みを開始したことにともなって、教育活動の面においても、新しい動きがはじまった。組織的な教育としての、連続の労働講座や労働講習会が、東京・大阪・神戸などの連合会において行なわれだしたことが、そのあらわれである。
 
それらは当時、友愛会──総同盟に指導的影響を与え、労働組合化の方向を支持し、さらにはそこで積極的な役割をはたしていた知識人(賀川豊彦・久留弘三・佐野学、その他)が講師となって、労働組合についての諸問題や、欧米の労働運動の状況などを内容として行なわれたものであった。
 
 このような継続的な教育活動が開始された背景としては、労働運動の発展とあらたな労働組合の出発という状況のなかで、そこに必要な幹部・活動家を養成し、訓練するという課題があったし、また、このような状況に対応する知識を求めていた当時の若い労働者の学習意識の高揚もあった。
 
さらに、一九二〇年三月に襲った戦後恐慌によって、第一次大戦終了時前後の好景気の時期における、闘争につぐ闘争という労働組合の攻勢から形勢は逆転して、組合は既得権の確保、組合員の維持に精力を注がねばならない事態に追い込まれ、そのためには、労働組合内部の団結をかため、またそのためにも、組合員の自覚をたかめる必要性がつよまったという必然性もあった。
 
 一九二〇年一一月から開始された東京連合会主催の東京労働講習所(という名称の連続労働講座)は、その開講の趣旨が、「好況時代の反動として、大恐慌の襲来があり、労働者生活の窮迫、思想の激化愈々(いよいよ)深刻化し、労働組合においても、従来労働者は演説会、パンフレットの如きより極めて断片的な知識を得たにとどまったものを、さらに組織的な知識の獲得に努めしめ、労働運動の堅実な発展に資そうとする」であったとされているが、これはいまのような事情をよく物語っている。
 
東京労働講習所は三ヵ月を一期として二期つづけられ、毎週金瞳の夜三時間講義が行なわれた。科目はつぎのとおりであった。
 
 第一期 経済学、労働運動と社会思潮、国家学、労働運動史概論。
 第二期 経済各論、労働運動史、近代文芸思潮、法学通論。
 
労働学校の成立と発展
 
 一九二一年には、総同盟のもとに労働者教育協会が設立され、その運営によって、同年九月、東京・芝の総同盟本部において、日本労働学校が開校された。それは労働運動における常設的教育機関としてもっとも整備された、労働学校の誕生であった。
 
日本労働学校は、その設立趣旨において、「労働問題解決のために智識の必要なることは多言を侯(ま)たざるところです。殊に労働運動の進歩発達のためには『智識』は実に其先達であり、指針であり、燈明台ともなるものと思ひます」と述べて、学校の目的は労働運動の幹部の養成と、一般労働者にたいして労働問題の知識を供給することにあるとしていた。
 
 労働学校の開設は、その後各地に相つぎ、一九二二年六月に大阪労働学校が、翌一九二三年に神戸労働学校がひらかれた。
 
 大阪労働学校は、創立宣言で、「我等は有産階級の独占から教育を解放すべき事を要求する。……我等は学ぶべき権利を持ってゐる。我等は有産階級に奪はれた大学を奪還しなければならない」と、労働者の学習権をうたい、つづけて、
 
「併し学問は大学の専売ではない。去勢された、学問を切り売りする馬肉屋の如き大学に何の真理が学び得やうか。我等は生きた大学を要求する。我が労働学校には赤門もない、講堂もない、又高等官何等の位をもつ者も居ない。けれど其処には穢(けが)れざる真珠の如き真理がある。自由奔放なる少壮の学者が居る。教ふる者も教はる者も熱と力がある。その教ふる所は深奥の学理でないとしても咀嚼(そしゃく)すれば其の悉(ことごと)くが血となり肉となるべき真理がある」と、労働学校こそが其の教育と学問の場であることをたからかに宣言した。
 
同校はまた、「ブルジョアに大学あり、プロレタリアは労働学校へ」というスローガンをかかげていた。
 
 さらに、一九二四年には、日本労働学校の分校が東京の日暮里と本所に開かれたのをはじめ、岡山・京都・堺・尼崎にも、それぞれの地の総同盟組織によって労働学校が開設された。また、その年の一〇月には、関西地方と岡山の六つの労働学校によって関西労働学校連盟が結成された。
 
 この頃には、労働組合以外の団体や機関によって、労働学校が開設されることもあり、そのなかには、労資協調主義や人道主義を旗印としてかかげたものもあったが、他方、東京帝大セツルメント労働学校などのように、その性格や教育内容において、労働組合の労働学校と共通したものもあった。
 
労働学校における教育活動
 
 当時の労働学校の大要を述べれば、三カ月を一期として、週二〜三回、夜二〜三時間くらい行なわれ、新進の大学教授、講師を中心とする知識人が社会科学の諸分野について講義するというものであり、科目は経済学、政治学、社会学、労働組合論、労働運動史などを中心として組みたてられているというものであった。会場は組合の事務所の一室を使ったり、他に場所を借りたりした。
 
 労働学校の物的条件は貧しかったが、講師と学生=労働者の熱意によって、そこではまさに年きいきとした教育と学習が展開され、そこからは、彼の労働組合運動・労働者政治運動の指導者や活動家が数多く生みだされていった。労働学校がそこで教え、あるいは学んだ人びとの熱意や意欲にあふれていた、その模様を伝えるいくつかのエピソードを紹介してみよう。
 
 紡績女子労働者の悲惨な状態を詳述し、告発した、有名な『女工哀史』の著者である細井和喜蔵は、東京モスリン亀戸工場で働きながら、日本労働学校で学んでいた。かれは講義の時は、いつも最前列に座っていたが、途中でしきりにヒザのあたりをたたくようにしているので、講師の北沢新次郎(早稲田大学教授)が「それは君のクセなのか」とたずねたところ、昼間の労働でつかれていて、講義中つい眠くなってしまうので、その時はキリでひざを刺して睡魔をおいはらっていると答えた。かれのズボンは、そのためにヒザのあたりがボロボロになっていたといわれている。
 
 つぎに、全国の大学・高専などの学生によって組織された学生社全科学連合会(一九二四年九月に、それ以前の学生連合会から発展して組織された)は、各地の労働学校にチューターや講師として学生を派遣したが、日本労働学校に参加した学生のなかに慶応大学在学中の野呂栄太郎がいた。
 
かれはのちに、日本近代史のマルクス主義による分析としてわが国の社会科学の水準をたかめた『日本資本主義発達史』を執筆したが、同書のもとになったひとつは、日本労働学校における講義であった。
 
かれは同書の冒頭に、日本労働学校での講義において「労働者の質疑が常に日本歴史の現実問題に向けられており」、その科学的要求が自分の研究をすすめたと書いている。また、野呂の出身中学校(北海中学)の後輩にあたる島木健作が、ある夜、かれを訪れて夜遅くまで話しこんだ時、その話のなかで、労働学校での講義について語り、労働者のすぐれた理論的能力に心からの喜びをもっていると語った、と島木健作はその思い出を書いている。
 
 大阪労働学校では、一九二三年九月、学校の当事者がストライキの応援などで忙しく、講師との連絡も十分になされないことなどによって、講師の欠席がつづいたりした事態に不満をもった労働者=学生が、学生大会をひらいて抗議し、さらに学生代表の委員を選んで自治的に運営することを決定した。委員の努力によって、学校運営は軌道にのり、それ以後二年間、この自治運営はつづき、その間、修了者の比率がもっともたかいという成果をあげた。
 
 労働学校は、このように、講師の熱意と学生の学習意欲にあふれていたが、同時にまた、そこにはさまざまな困難なこともあった。日本労働学校主事・木村盛は、「我等の七難」と題する文章で、それについて、講帥難、教授法難、設備難、校舎難及維持難、授業料徴収難、就学率の減退、就学者にたいする冷遇圧迫、とまとめているが、これは当時の労働学校のいずれにも共通する問題であった。
 
 このうち、教授法の問題について、若干の検討を加えてみよう。
 
 先にも述べたように、労働学校においては、大学教授などの知識人が社会科学を・講義するという形態がとられていたが、そのことは同時に、講義の内容が労働者の現実の生活・労働や関心から遊離してしまうという問題点をもともないがちであった。
 
そこで、その問題を打開する方法がいろいろと工夫されたが、前述のチューター制度の採用は、一定の効果をもたらした。当時のチューター制度というのは、大学生のチューターが講師の講義を受講者とともに聴講し、講義のあとの質疑応答や討論を組織する中心になったり、受講者の個人的な指導や相談にあたるという方法であり、こうしてチューターは、講義と受講者とを結ぶ橋渡しの役をつとめたわけである。
 
 つぎに、大阪労働学校主事を数年間つとめた井上良二は、教授法の問題を解決するために、たんに講義のやりっぱなし、聴きっぱなしにせずに、講師と生徒との関係の民主化や生徒間の友誼を深くすることが必要であり、そのために同校では、クラス会や茶話会式の集会を開くようにしていると書いているが、クラス会、さらには遠足・ピクニックなどを行なうということは他の労働学校でも同様にとりくまれていた。
 
この問題について、講師側から追求を深めているものとして、生物学者・山本宣治(一九二九年労農党代議士として治安維持法改悪に反対し、右巽暴力団員に暗殺された)をとりあげてみよう。
 
 山本宜治は、京都労働学校の校長として、また関西労働学校連盟の委員長として、労働学校運動において重要な役割をはたしていた。そしてかれは京都・大阪その他の労働学校で、生物学の講義を行なっていた。
 
労働学校においては、一期(三カ月程度)の問に、生物学の講義は、四〜五回くまれるというのが実態であるが、かれはそのことにかんする問題として、@問題が広すぎ、材料が多すぎるために、この時間内にまとめることは困難である、A受講者の動植物の知識がまちまちなので、説明が非常にやりにくい、B写真・幻灯等の設備があれば、それを若干補えるが、労働学校ではそれは不可能である、C挿図入りの参考書はあるが、高価で労働者が購入するのは不可能である、などをあげている。
 
 山本宣治は書いている。そこで考えてみるべきことは、なんのために労働者が科学を学ぶのかということである。それは知識を「飾り」として身につけることではなく、科学を徹底的に消化し、血肉とすることにより、人生観・社会観をつくりあげるためである。
 
「無産者自身が自身にひきくらべて我物にした科学知識は、必然自己の束縛をたちきる武器となる」。山本宣治はこうして、生物学のあれこれの知識を与えるのではなく、生物界のもっとも根本的な原理・法則をわかりやすく講義することにより、受講者が、歴史的な見方を学び、常識的にとらわれた考え方や既成のものの見方を根本的に転換させることが必要であり、それが科学的に社会を把握する基礎になると論じている。
 
 さて労働学校について、かなりの紙数を使って説明してきたが、この時期に労働学校が盛んになったとはいえ、それは地域的にも限られており、労働学校で学べる労働者というのは全体からみれば、きわめて小さな部分でしかなかった。
 
 総同盟では、すでに一九二二年に、「会員相互の意見を交換するため、吾々の運動方法を互に研究するため、各組合支部に、毎週又は二週に一回、会員の茶話会又は研究会を起こさむことをおすすめします」と、日常的な教育活動を提起しており、一九二四年頃には、多くの単位組合や連合会が巡回講演会、定期講演会や研究会、茶話会などを開催したり、労働文庫を設置したりする動きを示していた。
 
一九二五年三月の総同盟大会には、「組合員二無産階級教育普及ノ件」(大阪連合会)、「巡回教育部設置ノ件」(九州連合会)などが提案され、「労働学校ノ制度ヲ造ッテ居ル組合ハ其ノ組合員ノ生徒二対シテ出来ル限り補助ヲ」すること、労働学校のない地方のために「総同盟ニ教育部ヲ設ケテ其ノ中二巡回教育ヲ置」くことを決定したのも、このような動きの発展線上にあった。
(「労働者教育論集」学習の友社 p318-325)
 
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◎「山本宣治は書いている。そこで考えてみるべきことは、なんのために労働者が科学を学ぶのかということである。それは知識を「飾り」として身につけることではなく、科学を徹底的に消化し、血肉とすることにより、人生観・社会観をつくりあげるためである。」
 
労働者が科学を身につける意義は現代ではもっと大きくなっている。