学習通信040202
◎若者をどうとらえるのか。
■━━━━━
三十代、四十代こそ新しい日本をつくる担い手──中曽根
いまの日本は、人材の端境期にあります。これは政界、官界、学界、財界すべてそうです。戦争体験のある世代が第一線から退いてしまった。いま現役なのは、戦後の小学校教育で教科書に墨を塗った日教組の先生に教えられた人たちで、しかも彼らは大学時代、全共闘世代として騒動を行った。そういう世代が、いま五十代、六十代として社会の中枢にいる。
この世代の人たちは、日教組の教育を受けたり全共闘の時代を生きているから、基礎学を身につけていない。そして非常にジャーナリスティックな、外面的な圧力をつくることで、世の中が動くと見ている。
われわれ旧制高校の世代は、むしろ内面的な充実に重きを置きました。だから真理を求めようという求道心があります。ところがいまの五十代、六十代には、求道心がありません。その点が非常に大きな違いなのです。
もっともいまの三十代、四十代になると、また違ってくる。彼らは日教組が弱くなって、時代が大きく転換する中で、しつかりした独自性を持った世代として育っている。たとえば憲法改正についても、この世代は賛成が非常に多いのです。
いま日本人全体で改正に賛成しているのは約六〇パーセント、反対は約三〇パーセントですが、賛成の主力をなしているのは三十代、四十代なのです。そして六十代、七十代が、改正に消極的です。
こういう現象を見ていると、日本民族が持つ復元力や同化力を感じずにはいられません。昔、隋・唐の中国文明が日本に入ってきたときも、それから相当年月経って紫式部が出てきて、『源氏物語』を書きました。
明治維新で西洋文明を採り入れたときも「和魂洋才」ということで、いつしか日本文化の中に採り入れてしまった。大日本帝国憲法にしても、もとはプロシア憲法のマネでしたが、結局は日本化して、明治の日本国家の基本理念をつくり上げた。
そう考えるといまは<}ッカーサー・システム≠ニいうものを採り入れた日本に、ようやく日本民族固有の同化力が出てきた時期かもしれない。戦後の五十年を経て、新しい日本独自のシステムが生まれようとしている時期と考えられるのです。
いまの三十代、四十代を見ていると、そんな気がしてきます。だからこの世代を励まして、同化力を育てるようにしていけば、日本にも望みが出てくるのではないかと思います。
(中曽根・石原著「永遠なれ、日本」PHP p35-36)
■━━━━━
約一〇年前、世の中にバブル社員とコギャルが登場して以来、日本の社会は若者の影響によって、かつてないほど大きく変化させられてきた。いわゆる若者用語や独特の話法で世の中に定着したものも数多いし、新しい生活習慣やワーキングスタイルも若者から広がっていって世の中のスタンダードになったものが少なくない。
また、若者が社会にもたらした影響はそうした形≠るものだけではない。何がカッコよくて、何がカッコ悪いのか。何が大切で何が大切でないか、といった価値基準や行動規範についても、若者の影響で世の中全体がかつての常識とは大きく違ってきている。
概していえるのは、この一〇年間日本の若者が生み出してきたこうした新しいライフスタイルや価値観は、従来の社会規範と比べてネガティブな意味で大きく異なっているという点である。何もブルセラや援助交際といった極端な例をひかなくても、職を転々とするフリーターやまるで歌舞伎役者のように濃いコギャルメイクなどにしても、かつての良識からすると眉をひそめるようなものである。
にもかかわらず、そうした反良識的な若者のスタイルと規範は、なし崩し的に世の中に定着していき、当の若者たちも反良識的なライフスタイルで生活していても別段不都合そうにも見えない。なぜなのか? ここまで反良識的なスタイルを次々と世の中にもち込んで、なぜ、それが既成事実的に承認きれ、社会の新しい普通のこととして定着してしまうのか。かつての良識や社会の規範といったものは、まったく無意味なものであったのか。
現代の日本社会の普通の若者たちが普通にしていることが、かつての社会規範からするとあまりにも普通でないことと、それがなぜ新しいスタイルとして社会に定着しでしまうのかということは、近年の重要な社会テーマになっている。その証として、ここ数年若者本の出版が相次いでいるし、書店にはかなりのスペースで若者本のコーナーが設けられるようになったほどである。
ただし、筆者が不思議に感じているのは、若者本においても、さまざまな研究レポートにおいても、そのほとんどが「若者擁護論」であることだ。巷間、これだけ若者の反良識に対して、批判、不満が渦巻いているにもかかわらず、若者研究の識者たちはこぞって若者の肩をもつ。無責任で常識に欠け、頑張りもせず、放縦に身をやつす若者たちが登場してきたのは、混迷を続けるこの社会に原因がある。
若者は悪くない、むしろ若者は閉塞した現代日本社会の被害者なのである、と分析し、若者たちに対しては「安逸な日常を漂って生きていればいいのだよ」とエールまで送る。
筆者は、この結論に対してどうしても与し得ない。多くの普通の社会人がいまの若者たちに対して感じている「どうしようもない、ダメな奴ら」という評価のほうが筆者には実は正鵠(せいこく=物事のかんじんな部分。急所)を射ている気がする。
もちろん若者擁護論の分析と論理は緻密である。社会学、心理学、民俗学、果てには構造主義哲学なるものまで総動員して「若者は悪くない。悪いのは社会だ、大人だ」と論じている。しかし筆者は、どうも腑に落ちない。理屈はわかるけど、結論には納得できない、という感じである。
ここが本書のスタートラインである。
(波頭亮著「若者のリアル」日本実業出版社 p1-3)
■━━━━━
気ちがいでない人間になおしてやれない狂気沙汰はないが、虚栄心だけは別だ。虚栄心だけは、それをなおせるものがなにかあるとすればだが、霊による以外にはなおす方法はない。
少なくとも、芽ばえてきたばかりのときなら、それが大きくなるのをふせぐことはできる。だから、青年にかれもほかの人間と同じような人間であり、同じような弱さにしばられていることを証明しようとしてむなしい議論に迷いこむようなことをしてはならない。
そのことをかれに感じさせるのだ。そうしなければ、かれにはけっしてそれがわからないだろう。これもまたわたしの本来の規則では例外的なばあいだ。それは、わたしの生徒がわたしたちよりも賢いわけではないことをかれに証明することになるあらゆる事件にこのんでかれを遭遇させようとすることだ。
手品使いの話がいろんなふうにくりかえされることになり、わたしはかれにたいしてへつらい者を完全に有利な状態においてやることになる。考えのない連中がなにかばかげたことにかれをひっばりこむとすれば、わたしはかれをあぶない目に会わしてやる。
いかさま師がばくち場でかれにねらいをつけたとすれば、かれをその連中にひきわたして、かれらのなぶりものにしてやる。かれらにやたらにおせじを言わせたり、羽根をむしらせたり、持ち物をはぎとらせたりしてやるのだ。
そしてかれをまる裸にしたすえにあざ笑ったとき、わたしはまだかれがいるところでかれらがあたえてくれたありがたい教訓にお礼をいうことにする。わたしが注意してまもってやるただ一つの落とし穴は、娼婦がしかける落とし穴だろう。
わたしがかれにたいしてもちいる手心は、ただ、かれに遭遇させるすべての危険と、受けさせるすべての侮辱を、わたしも一緒に受けたり、耐えたりすることだけだろう。どんなことでも、わたしは、黙ってぐちもこぼさず、非難もせず、それについてけっして二言もいわないで耐え忍ぶことにする。
こういう慎重な態度を十分によくもちつづけるなら、かれの目のまえでかれのためにわたしが苦しんだすべてのことが、かれが自分で苦しんだこと以上に強い印象をかれの心にあたえることになるのは確実だと思っていい。
ばかげた賢者の役割を演じて、生徒をこきおろし、かれらをいつまでも子どもあつかいにして、かれらになにをさせるにしても、自分をいつもかれらよりえらい者に見せかけようとしている教師たちのまちがった威厳を、わたしはここで指摘せずにはいられない。
そんなふうに、青年の勇気をくじくようなことはしないで、かれらの魂を高めるためにあらゆることを惜しみなくもちいるがいい。かれらをあなたがたと同等にとりあつかって、じっさいにかれらがそうなるようにしてやるがいい。
そして、もしかれらがまだあなたがたのような高いところに到達できないとしたら、恥ずかしがらずに、遠慮しないで、かれらのところまで下りていくがいい。あなたがたの名誉は、もはやあなたがたのうちにはなく、あなたがたの生徒のうちにあることを考えるがいい。
かれらと過ちをともにして、それを改めさせるがいい。かれの恥となることをひきうけて、それをぬぐいさってやるがいい。自分の部下たちが逃げていくのを見て、それを呼び戻すことができなかったので、自分が兵隊たちの先頭に立ち、「兵隊は逃げているのではない。隊長のあとに従っているのだ」と叫んだあの勇敢なローマ人のまねをするがいい。
このローマ人はそのために名誉をけがすことになったろうか。とんでもない。そうして自分の名誉を犠牲にすることによって、さらに大きな名誉を得たのだ。義務の力、彼の美しさはおのずからわたしたちの同感を誘い、良識に反したわたしたちの偏見をくつがえす。
エミールにたいするわたしの務めをはたしているのに、平手打ちをくわせられたとしたら、その平手打ちの仕返しをするようなことはしないで、わたしはどこへ行ってもそれを自慢してやる。そして、そのためにわたしをいっそう尊敬してくれないほど卑俗な人間が世の中に一人でもいるかどうか、わたしには疑問だ。
生徒は先生を自分と同じ程度の限られた知識しかもたず、自分と同じように誘惑されやすい人間と考えるべきだというわけではない。そういう意見は、なにも見ることができず、なにもくらべてみることができずに、だれもかれも自分と同じようなものと考えて、じっさいに同じようなものになることができる者にしか信頼をおかない子どもにとってはけっこうな考えだ。
けれども、エミールの年ごろの青年、そして、かれと同じくらい分別のある青年は、もうそんなふうにだまされるほど愚かではないし、だまされるとしたらよいことではない。かれがその教師にたいしてもつべき信頼はそれとはちがったものだ。
それは理性の権威、すぐれた知恵、青年が知ることのできる長所、そして自分にたいするその効用がわかる長所、そういうものにもとづかなければならない。長いあいだの経験によって、かれは自分を導いてくれる人から愛されていることをよく承知している。
自分を導いてくれるその人は、賢明な人で、かれの幸福を願い、その幸福をかれの手に入れさせてくれるものを知っている。そういうことをかれは承知している。かれは自分自身の利益のためにその人の意見に耳をかたむけたほうがいいということを知っているはずだ。
ところが、弟子と同じようにだまされてしまうことになったら、先生は弟子の尊敬を要求したり、弟子に教訓をあたえたりする権利を失うことになる。生徒は、先生が故意にかれを落とし穴に誘いこんだり、単純なかれに罠をしかけたりしているなどとは、なおさら考えるべきではない。そこで、この二つの不都合を同時にさけるためにはどうしなければならないか。
いちばんいいことは、そしていちばん自然なのは、生徒と同じように単純で、正直にすることだ。かれが落ちこもうとしている危険を注意してやること、それをはっきりとわかるように教えてやることだ。しかし誇張してはいけない。興奮してはいけない。衒学的なことをならべたててはいけない。とくにあなたがたの忠告を命令としてあたえてはいけない。
忠告が命令にならなければならないときまでは、そして、そういう命令的な口調がぜったいに必要になるときまでは、そうしてはならない。命令してもまだがんばっている、といったようなばあい、それはよくあることだろうが、そのときはどうするか。そのときはもうなにも言ってはいけない。かれの自由にまかせるがいい。かれのあとについていき、かれのまねをするがいい。
しかも、陽気にうちとけてそうするのだ。できるなら、かれと同じように自分を忘れて楽しむがいい。結果があまりにも重大になったら、いつでもそれを防止する用意をととのえているのだ。そうすれば、あなたがたの先見の明と好意ある態度をいつも見ている青年は、一方では深い驚きを感じるとともに、他方では深く感動することになるのではないか。
かれの過ちはすべて、必要に応じてかれをひきとめる手綱をあなたがたの手にあたえることになる。ところで、このばあい、教師のいちばんたいせつな技術となることは、どういうときに青年がこちらのいうことをきくか、そして、どういうときにしつこくがんばるか、あらかじめわかるように機会をつくりだし、勧告をかげんして、かれをすっかり経験の教えでとりまき、あまりにも大きな危険にけっしてさらさないようにすることだ。
過ちにおちいらないうちにかれに警告するがいい。しかし、過ちをおかしてしまったら、それをとがめてはいけない。それはかれの自尊心をたきつけ、反抗させるだけだろう。反抗心を起こさせるような教訓はなんの利益にもならない。
「あれほど言っておいたのに。」このことば以上に能のないことばをわたしは知らない。言っておいたことを思い出させるいちばんよい方法は、それを忘れてしまったようなふりをすることだ。はんたいに、あなたがたのことばを信じなかったことを恥じているのを見たら、静かにやさしいことばでその恥ずかしさをなくしてやるがいい。
あなたがたがかれのために自分を忘れ、徹底的にかれをうちのめすようなことはしないで、なぐさめているのを見れば、きっとかれはあなたがたになついてくるだろう。ところが、悲観しているかれをさらに非難するようなことをすれば、かれはあなたがたに憎しみを感じ、今後はもう、あなたがたの言うことに耳をかたむけないことにして、あなたがたの忠告をそんなに重要なことだとは考えていないことを、あなたがたに示すつもりになるだろう。
あなたがたのなぐさめのことばもまた、かれはそれを教訓とは考えないだけになおさらかれにとって有益な教訓になることがある。たとえば、ほかにもいくらでもそういう過ちをする人がある、とかれに言ってやれば、あなたがたはかれに思いがけないことを知らせることになる。
あなたがたはただかれを気のどくに思っているようなふりをしながら、かれを矯正することになる。ほかの人間よりもすぐれていると思っている者には、他人を例にとって自分をなぐさめるのは、まったくつらいいいわけになるのだ。それは、かれが願うことのできる最上のことは他人が自分よりもすぐれた者ではないということにある、と理解することだ。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p78-83)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎若者をなじるまえに、大人はなにをしてきたというのだろうか。何をしなければならないのだろう。若者同士でもとわれています。