学習通信040204
◎「おばあさん仮説」……を、いまどうみるか。
 
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「週刊女性」2001年11月6日号 
 「独占激白“石原慎太郎都知事吠える!”」より
 
「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。
 
まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」
 
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 なぜ社会的かしこさは四〇代で衰えるのか
 
 今までこの章で紹介してきた「ウエーソンの四枚カード間題」を用いた「社会的かしこさ」の年齢変化について、周囲の人間に話をすると、予想しないほど驚かれることが少なくなかった。「四〇代でもうボケだすのか」と異口同音に感想をもらす。非常に意外に映るらしい。
 
 ただサルを研究してきた者からすると、さほど驚嘆することではないのだ。「四〇代でもう」と受けとめられるかもしれないが、動物学者からすれば、人間は四〇代も半ばを過ぎると高齢者の仲間入りの時期という方が、むしろ常識に近い。
 
 先に、子どもが思春期を迎えた母親は、時として高齢者のような気分に陥ると書いたけれど、実際のところ人類の「本来の生活」においては、親がこの年齢で高齢者の仲間入りをしても、全然おかしくないのである。
 
 では「本来の生活」とはどういうものだったか、ということになってくるだろう。一言で言うと、今のように学校教育が発達しなかったころ、と答えるのがいちばん簡潔だろう。すなわち、成人に時間を要しなかったころの生活ということになる。
 
 学校へ通うことが普及していない文化、あるいは学校なんてそもそもまだない地域を見渡してみると、男女ともおおよそ一五歳ぐらいで結婚するのがふつうであることに気づくはずである。むろん、たいていの場合すぐに子が生まれる。だから、現代において思春期の子を持つ親というのは「本来ならば」もうすでに孫ができていてもちっとも変ではないのだ。
 
 しかも動物界を見回してみると、いわゆる高齢者にあたる高齢の個体は、実はそもそも他の種では見つけがたいことに気づくだろう。人間の近縁である霊長類に対象を限ってみると、他に五〇歳を超えて生きる動物というのは、類人猿のわずかをのぞいて、まず見あたらない。
 
 しかし人間は、寿命が長いというだけではない。単純に誕生から死にいたるまでの絶対的な時間の長さならば、霊長類以外にまで枠を拡げると、もっと長命な種を見かけることはさして難しくない。けれども人間は、「必要以上」に相対的に長い寿命を持つ点では、たいへんユニークと言わなくてはならない。
 
 「必要以上」の「必要」とは何かというと、繁殖を指している。生物というのは、子孫を残すために繁殖することを必須の任務として背負っている。それなのに人間は、後世に遺伝子を伝える「必要な」役目を終えたにもかかわらず、なお生き続ける。この点で他の動物と一線を画している。
 
 図5・8からも、このことが裏付けられている。ここには霊長類のうちのニホンザルの仲間の総称であるマカク(マカク属と呼ばれる分類項に属するサル)と類人猿二種のメス、および人間の女性の一生の過程が概略して図式化されている。総じて系統的に人間に近いほど、長生きになっていることがうかがえよう。けれども四種のなかで、人間の女性の長寿ぶりは突出している。
 
 ちなみに、図で人間の寿命が七〇歳とされているのは、少し過大評価のきらいがあるという意見が出るかもしれない。なるほど、最近でこそ七〇歳の高齢者は全然珍しくなくなったものの、かつては「人生五〇年」とうたわれていた。
 
 だが、よく調べてみると、昔の人間が今より短命であったのは、乳児期の死亡率が極端に高かったことが主たる要因として作用していることがわかるだろう。そとを乗り越え、戦争がなくかつ女性でお産を無事に済ませれば、やはり七〇歳まで生きることはさして稀有なことではなかった。
 
 しかも人間の女性を他の霊長類と比べてみて、人生のどの段階がとくに延長したかというと、繁殖を終えたのち、つまり閉経以降の期間が類を見ないほど長くなったことに、気づくはずである。
 
 むろん、男性にも同じ傾向が見られるのは言うまでもない。人間は、今では概して男性の方が女性より短命であるものの、やはり繁殖を済ませてなお長く生きる(第二次世界大戦までの日本を含め、以前は男が女より長命なのが世界的に見てふつうであった。
 
それは出産前後の事故死がかつてはたいへん多かったことに起因している)。図5・8で人間の女性を他種のメスと比べてあるのは、男性(オス〉で繁殖の停止を特定することが、閉経のような形ではそれと認めにくいからにすぎない。
 
 基本的に、子孫を残す役目を終えた生物というのは、集団のなかで無用の長物のはずである。だから人間以外の霊長類で、閉経後の早い時期にメスの寿命がつきるのは、たいへん納得のいく話とも言える。むしろ、子どもをつくり終えたのに生き延びる人間の方こそ、変わっているのだ。
 
変化する生活スタイルと変わらない人間の能力
 
 だから、本来社会的に有用性を失った存在がその知能を衰退させたとしても、さほど不可思議なことではなくなってくる。むしろ、そうまでしてなぜ生き続けるのか、寿命が延長する方向へ進化したことの方が、はるかに謎なのである。
 
 実際に、このような問題意識にもとづいて、人類学者は世界各地の伝統社会で高齢者の役割の調査を行ってきている。周知のとおり伝統社会では核家族ではなく三世代同居が前提となっている。すると、一つの家族のなかで、世代の異なる夫婦がお互いに生活の分担を区別して、違う役割をはたしながら生活している現象が、さまざまな文化のもとで共通して見られることが判明してきた。
 
 具体的には、三世代のうちの第一世代、すなわち高齢者の男女が家のなかを切り盛りするのに対し、第二世代、すなわち壮年の夫婦が家の外の労働に従事するというスタイルをとるのが、ふつうなのである。そして家の外の労働には食料調達(農耕や狩猟を含めて)が入る一方、家のなかの切り盛りには、子育ても含まれる。
 
つまり壮年の夫婦が家の外で食料調達(農耕)のために労働し、高齢者の男女は家のなかをきりもりする生活形態へと移行したのである。図5・9は、私が和歌山県の農村部で調査した結果である。ここでも一つの家族のなかで世代の異なる夫婦が、お互いに生活を分担していることが明確となっている。
 
 われわれはややもすると、家庭の妻というのは、主婦として家事を切り盛りし、また母親として当然のごとく子育てを行うものだと考えがちである。しかし実のところ、文明が成立して以降、子どもが主に自分の親によって養育されてきた時代というのは、つい最近はじまったことなのだ。よほど経済的に余裕のない限り、壮年の女性が育児にたずさわることは許容されなかった。
 
 子は主に祖父母に養育をうけていたのである。おばあちゃん子、おじいちゃん子という方がむしろふつうだった。日本もその例外ではなかった。それが、教育期間が長期化し、社会化を遂げるまでに、長い年月を必要とするようになってきた。他方、核家族化が進行する。
 
 あげくのはてに今や、かつてなら幼い子の相手をしていればよかった年齢になって、私たちは扱いの難しい思春期の人間(本来ならもう自立していてもおかしくない)に立ち向かわなければならない破目に陥っているのだ。むろん私たちの能力自体は、以前と変わっていないこの社会の変化と生物的資質の不変化のジレンマが、「子どもを信じられない親」の出現という形で噴出しているのである。
(正高信男著「ケータイを持ったサル」中公新書 p146-152)
 
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ヒトには「おばあさん」が存在する
 
おばあさんの存在の不思議
 
 繁殖が終了したあともずっと生き延びるということは、進化的にはおかしなことである。生物は、繁殖してこそ存続していく。どんなに長く生存する個体があっても、繁殖しなければ、その個体の遺伝子は残らない。生物の存在にとつて、生存は、繁殖のための前提条件にすぎないのである。
 
 今、二〇歳で繁殖が終わる動物を仮定し、この動物において、二〇歳で繁殖が終了するにもかかわらず三〇歳まで生きるという性質が進化できるかどうかを考えてみよう。三〇歳まで生きたとしても、繁殖は相変わらず二〇歳で終わっているのだから、二〇歳で死んでも、三〇歳で死んでも、残せる子どもの数には変化がない。
 
そこで、二〇歳から三〇歳までの間に子どもを残す、すなわち、繁殖年齢を引き上げるというような突然変異が生じたら、その方が残す子どもの数が増えるので適応的となり、すぐにそのような変異が広まるだろう。その結果、繁殖年齢と寿命とは一致するようになるだろう。
 
 一方、二〇歳から三〇歳までの間の死亡率を上げるという突然変異が出てきたらどうだろうか? 二〇歳から三〇歳までの間に繁殖はしないのだから、その間に死んでしまっても、生き続けている場合と進化的には変わりがない。すなわち、そのような遺伝子も広まることになり、この場合も、繁殖年齢と寿命とは一致するようになるだろう。
 
というわけで、繁殖年齢と寿命とは一致するように進化するはずで、繁殖年齢が終わったあともずっと、かなり健康で生き続けるという性質は、非常に進化しにくいことになる。実際、動物たちのほとんどは、繁殖終了が寿命の終わりでもあるのだ。
 
 また、人間においても、男性は、他の動物たちと似たパターンを示している。男性の精子生産能力は年齢とともに低下はするものの、女性の更年期のように大きな変化を伴ってはいない。男性は、生きている限り精子を作り続けており、繁殖する可能性はつねに残されている。
 
 ところで、女性が閉経を過ぎても生き続けるというのは、ヒトという生物の進化的特徴だと考えてもよいのだろうか? それとも、こんなことは、ごく最近、現代文明の恵みの結果起こったことにすぎず、ホモ・サピエンスの進化過程では、女性も閉経とともに死んでいたのだろうか? 病院も上水道も外科手術もない時代に、ヒトの寿命が短かったことは確かである。
 
しかし、先の表1でもあげたように、現代の先進国の人間ではなくても、長生きする人は長生きする。南アフリカとナミビアに住む採集狩猟民である、クンの人々では、およそ四分の一の女性が閉経後までも生き延びている。また、化石の骨の年齢を測ってみても(これは困難な作業ではあるが)、ホモ・サピエンスの化石骨の中には、明らかに年取った個体と思われるものがいくつもある。
 
 ヒトの寿命の長さを示すもう一つの証拠は、活性酸素を除去する、スーパーオキシドジスムターゼのレベルである。生体は、代謝の過程で自分自身の中に活性酸素を作り出すことが多く、また、活性酸素は、外界から取り入れられることもあるが、これは細胞に悪い影響を与え、死をもたらす。そのため、生物は、これらの活性酸素を除去する酵素である、スーパーオキシドジスムターゼ(SOD)を備えている。このSODのレベルと寿命とは強く相関しており、SODレベルの高い生物ほど寿命が長い(図3)。
 
この図から明らかなとおり、ヒトは、なみはずれて高いSOD値を持っているが、これは、ヒトという生物が、生理学的に寿命が長くできていることの証拠である。さまざまな外的な負荷がかかれば、各齢における死亡率は上がり、平均寿命は低くなるだろうが、本来、ヒトという生物は、チンパンジーに比べてもずっと寿命が長くなるという性質を身に付けたのだと考えてよいだろう。
 
おばあさんの進化
 
 では、ヒトの女性が閉経後もかなり長い間生き続けるという性質は、なぜ進化したのだろうか? 普通に考えれば、このようなことは進化しないはずなので、このことには、何か特別な進化的利益があったと考えざるを得ない。
 
それを説明するために、クリスティン・ホークスをはじめとする何人かの人類学者たちは、これは、女性が自らの繁殖から解放されたあと、その知恵と経験を生かして自分の娘や血縁者の子育てを援助することにより、結局は、繁殖成功度を上昇させることができたからではないかという仮説を提出した。これを、「おばあさん仮説」と呼ぶ。
 
 女性が自分の寿命のぎりぎりまでを繁殖に使えば、ある数の子どもを残すことはできる。しかし、進化的な繁殖成功は、自分の子どもの数だけで決まるのではない。自分と同じ遺伝子のコピーは、自分の血縁者の繁殖を通じても集団中に広まる。
 
もしも、自分が血縁者に対してなんらかの援助をし、その結果、その血縁者の残す子の数が増えれば、それは、自分自身の繁殖成功に加算されるのである。この総和を、包括適応度と呼ぶ。そこで、女性が、閉経後に自分自身の繁殖はやめてしまっても、自分の娘や、自分よりも年齢が若い血縁者の繁殖を助ければ、包括適応度は上昇するだろう。
 
 ホークスらは、タンザニアに住む採集狩猟民であるハッザの人々において、祖母の存在がどれほど若い母親となった娘の繁殖を助けるかを、詳しいデータをあげて検証している。祖母は、知恵と経験で、採集の難しい根茎などの食物を効率よく集め、母親が一人で採集できるよりも多くの食物をもたらす。
 
また、赤ん坊の世話をすることで母親自身の労力を軽減し、母親の活動性を高める。このような直接的な利益以外にも、病気にどのように対処するか、また、社会的な対立や葛藤をどう乗り切るかなど、おばあさんが持っている暮らしの知恵がもたらす利益はたいへんに大きい。
 
 このように、ヒトの女性は、祖母がもたらす余分なエネルギー、調理や運搬の手伝いなどを当てにすることができるようになったからこそ、ヒトの赤ん坊の離乳期はチンパンジーよりも早まり、ヒトの女性は、チンパンジーよりも速い速度で次の子を産むことができるようになったのではないだろうか? 何もかも一人でこなさねばならないチンパンジーの母親と比べ、祖母が手助けをしてくれるヒトの若い母親の育児負担がどれほど軽減されるかは、直感的にはよく理解できる。
 
 祖母の存在の重要性は、父親の子育てに対する援肋があまり見込めない社会や母系社会において、とくに顕著である。たとえば、ステイブルズやバートンの研究によると、アメリカ黒人のゲットーでは、さまざまな社会的な不平等などの結果、黒人男性の平均寿命が白人男性のそれよりも一〇歳も短い。
 
また、黒人男性の方が白人男性よりも、職を探してコミュニティを離れて行ってしまう可能性が高い。このような環境では、黒人女性が祖母から受けるサポートは非常に大きいのである。
 
 一方、「おばあさん仮説」に対する反論もいくつか存在する。ヒルとフルタードは、南米のベネズエラに住む焼畑農耕民のアチエの人々を研究し、アチェの社会では、おばあさんの存在が娘の繁殖成功にそれほど大きな貢献をしてはいないことを示した。
 
また、人類学者のアラン・ロジャースは、コンピュータ・シミュレーションによって、閉経後も女性が長生きすることが包括適応度の上昇につながるためには、いったいどれほど大きな効果がなければならないかを計算した。その結果は、現状から考える限りにおいて、あり得そうもないくらいの大きな効果がなければならないことになったので、ロジャースは、この計算における限り、「おばあさん仮説」は支持されないと結論している。
 
 しかし、また別の考え方もある。ヒトを含め、すべての哺乳類と鳥類のメスは、一生の間に排卵することのできる卵の数が、生まれる前から決まっている。それがつきる時期と寿命とが一致しているわけであるが、もしかしたら、この卵の数は一定であるまま、なんらかの理由で寿命が長くなった結果として、閉経後の人生が出現したのかもしれない。
 
「おばあさん仮説」は、閉経後の寿命が延びることに適応的な意味があったという仮説であるが、こちらの仮説では、なんらかの不明の理由で寿命だけが延びたのだと考える。すると、閉経後の人生は、たまたま生じた「おまけ」であることになる。
 
 ところが、先にも述べたように、このような事態が生じると、遅かれ早かれ、繁殖期問を延長させる遺伝子、または、繁殖後の死亡率を上げる遺伝子が蓄積し、繁殖期間と寿命とが一致するようになるはずだ。
 
しかし、ヒトの女性において、このずれがいまだに保たれているということは、閉経後の、繁殖期間外の人生を維持させるような淘汰が働いている可能性がある。それは、おばあさんの役割の重要性なのではないだろうか? これが、ハーバード大学の人類学者、内分泌学者のピーター・エリソンの考えである。
 
 ここでおもしろいのは、ゴンドウクジラである。ゴンドウクジラのメスは、ヒト以外で知られている限り唯一、やはり閉経後も何年も生きる動物であるらしい。そして、ゴンドウクジラもメスたちが血縁集団で暮らし、おばあさんが娘の繁殖を助ける機会を豊富に持っているのである。
 
 ホモ・サピエンスが進化した今から一〇万年前ごろに、実際に、おばあさんの存在がどれほどの包括適応度の上昇をもたらしたのかは不明である。現在の採集狩猟民や焼畑農耕民は、さまざまな社会を持っているので、ホモ・サピエンスの進化のころの社会的状態を表わしているとは限らない。したがって、アチェのように、おばあさんの存在があまり役に立っていないと思われる社会が、現在の諸民族の中に見られても不思議ではないだろう。
 
 「おばあさん仮説」をどのように評価するかは、まだ議論が続くだろう。しかし、ヒトの女性が閉経後も長く生き続けるということは、生物学的に注目すべきことである。そして、少なくともいくつかの社会においては、繁殖終了後の女性の知恵が次世代の子育てに役立っていることは確かである。私は、「おばあさん仮説」は、たいへん興味深い仮説だと思っている。(長谷川眞里子著「ヒト、この不思議な生き物はどこから来たのか」ウェッジ選書 p29-38)
 
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 石垣さんが、主婦の仕事を第二の職業と呼ばれたことに対して、福田さんから、いいえ、福田さんだけでなく、多くの主婦からも抗議や不満の声があがりました。
 
石垣さんはそれに答えて、何もそう厳密な、本格的な意味で使った言葉ではない、細君業というようなことは、わたしたちがふだん言ってることなのだから、そう突飛でもあるまい、仕事自身の軽重や重要度で、第一、第二と分けたのでなく、外で働く本来の職業を第一とし、家庭内の労働を第二に、単に分類的にわけたまでのことだと、あっさり釈明していられます。それは一応そのときのほんとうのお気持かもしれません。
 
しかし、もし家庭の仕事に、──主婦と母のはたらきに、経済的価値が与えられたら、例えば政府から給料をたくさん支払うというようなことにでもなったら、それだけで仕事そのものの内容や意義にかかわりなく、「主婦という第一職業」などと重んぜられそうな気がしてなりませんが、どんなものでしょうか。
 
わたしは恋愛─結婚─家庭─育児というような人間の本能に発した愛にもとづく仕事は、金銭に換算することなどできない、それだけその仕事はそれみずからに価値があり、人間生活の基礎的、本質的なものだと思います。それだからこそ主婦や母は人間としての権利があり、その生活は守られなければならないと思うのです。
 
 資本主義の発達が、家庭での主婦の生産的な仕事を社会に移したため、主婦は単なる消費者になり、いよいよ男性の寄生虫と化してしまったこと、また電力その他による近代的設備で、家庭生活が合理化され、主婦は家庭の雑事から解放され、時間的にも、精力的にも余裕が出来たことなどをあげて、主婦が家庭外の職業につくことの一つの理由としてすすめていられます。
 
こういう説はこれまでのいわゆる婦人解放論者からよくきかされた一般論で、ことに、アメリカあたりではそのままあてはまることでしょうから、何もいちがいに反対しょうとは思いませんが、近代の家庭生活が、生産面が少く消費面のみ多くなったことをもって、主婦の仕事を卑下したり、寄生虫化したと見るのはどういうものでしょうか、生産と消費は人間生活の両面で、それに上下、優劣はないはずと思いますが、生きるために必要だから物を作るので、物を作るのが人生の目的ではないのです。
 
消費されない限り生産の意義はありません。主として消費生活の面を分担する主婦の仕事がどうしてくだらないのでしょうか。
 
 それはとにかくとしても、日本の家庭では、昔のような糸をつむぎ、機(はた)を織るとか、味噌や醤油を仕込むとか、漬物をつけ込むとかいうことから主婦が解放されたといっても、昔はたいてい大家族で、男女の使用人が幾人かおり、人手に不足はありませんでしたが、今日の家庭は小家族で、そのうえ中産階級でも働く人を置けない事情にあるのが普通で、けっきょく何もかも主婦の手一つに集まっています。
 
家庭の仕事の機械化なども、日本ではほんの一部の家庭しか今は望めないことですから、多数の主婦の生活は、昔も今も忙しさに変りはなく、暇をつくろうとすればそれだけどこかに無理がおこります。
 
 ことに戦後の食糧難、生活苦に身を粉にして愛する家族や、子供たちを守り通してきた超人的な主婦のはたらきであります。戦争犠牲の苦しい生活を通じて真裸になってたたかってきた今日の主婦は、戦前にくらべてはんとうに強くなり、視野がだんだんにひらけ、あらゆる点で、たのもしい前進を見せていると思います。
 
 これでもまだ「今の主婦の心はふやけている、毎日貴重な時間をいい加減にすごしている」と石垣さんから叱られなければならないのでしょうか。(もっとも、愚かで、なまけものの主婦が絶無とはいえません。が、それはいつの時代でも、主婦に限らずそうでしょう。)
(小林・米田編「平塚らいてう評論集」岩波文庫 p298-300)
 
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◎女性(男性)の生き方への問題提起になったかどうか。
只今恋愛中という方、青春のまっただなかという方……その瞬間をもっとも充実させることが、それからの人生、おおよそ60年の人生を決める≠アとになるのでは。
 
人生観、恋愛観……労働学校で学ぼう。3月5日開校です。
 
◎すぐにレッテルを貼りたい方のために、「ヒト……」は「しんぶん赤旗」で紹介されていた書籍です。結論読み≠フ方……その「効率的」な方法が問われています。