学習通信040205
◎いまサムライ≠ゥ?……武士道の国の自衛官=B
 
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陸自本隊の先発隊90人、クウェートへ出発
 
 イラクに向かう陸上自衛隊本隊の先発隊約90人は3日午後、北海道千歳市の新千歳空港から政府専用機で出発した。出国に先立ち、政府専用機の運用部隊のある空自千歳基地では、隊員や家族による見送り式などが行われ、浜田靖一防衛副長官が「準備は万全と確信している。武士道の国の自衛官の意気を示してもらいたい」と激励した。
 
 見送り式は格納庫内で開かれ、派遣隊員が浜田副長官や先崎一陸幕長、陸自と空自の隊員、家族ら約800人の激励を受けた。隊長を務める旭川市出身の清田安志1等陸佐(41)は「いかなる困難があろうとも必ず乗り越え、無事帰って参ります」と決意を語った。──略──(朝日新聞 02/03 14:45)
 
<山陽新聞 040202>
1日の隊旗授与式終了後、記者会見した現地指揮官と隊員6人の発言は次の通り。
 ▽現地指揮官の番匠幸一郎一佐(46)「武士道の国の代表として、誠実に任務にあたる。イラク国民に夢と希望をもたせることができるように努力したい」(第三普通科連隊所属・連隊長兼名寄駐屯地指令=名寄市)──略──
 
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第一章 武士道とは何か
 
 人の道を照らしつづける武士道の光
 
 武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。わが国の歴史の本棚の中におさめられている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本のひとつではない。
 
 それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手に触れる姿や形はもたないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちをひきつけてやまない存在であることを十分に気付かせてくれる。
 
 武士道をはぐくみ、育てた、社会的条件が消え失せて久しい。かつては実在し、現在の瞬間には消失してしまっている、はるか彼方の星のように、武士道はなおわれわれの頭上に光を注ぎつづけている。
 
 封建制度の所産である武士道の光は、その母である封建制度よりも永く生きのびて、人倫の道のありようを照らしつづけている。
(新渡戸稲造著「武士道」三笠書房 p15)
 
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(「武士道の精華」は、徳川軍事独裁政権のもとで、武士が戦わなくなってから、発揮されたものである。『葉隠』の著者は、南北朝の、応仁の乱の、戦国時代の武士を知らなかったらしい。もし知っていたら、「武士道とは死ぬことゝ見つけたり」と書く代りに、「武士道とは裏切りと見つけたり」と書いたことであろう)。(p388)
 
 
 その「文盲なるものゝ」「俗説」は、徂徠がそういった一八世紀初めには、当時の「今ノ習俗」であったらしい。戦国の風俗を理想化して、「武士道」を唱えることは、戦国時代にではなく、「元禄文化」のなかで、一七世紀末から流行しはじめた現象である。
 
侍が戦っていたときに、「武士道」はなかった。侍がもはや戦う必要がなくなってはじめて、「武士道」が生れたのである。戦う必要のなくなった侍は、徳川体制の行政官である。
 
「武士道」は、一般に主君への忠節を説く面では、行政官心得としても有用であり(たとえば、幕府のいわゆる「忠孝礼」七箇条、一六八二、は、その第一条筆頭に「忠孝をはげまし」の一句を置く)、特定の主君への絶対的な忠誠を説く面では、しばしば中央または地方政府の法秩序と矛盾した(たとえば主君の復讐に幕府の要人を殺した「四十七士」、一七〇二)。
 
「武士道」の前者の面は、安定した徳川体制の道具であり、後者の面は体制に適応しなかった武士の自己正当化であった、といえるだろう。
 
 世紀の交替期の「武士道」の代表的な文献の一つは、『葉隠』である。佐賀藩士、山本常朝(一六五九〜一七一九)の口述を、同藩の武士、田代陳基が筆録した(一七一〇〜一六)もので、当時は書写本で知られ、出版はされなかったらしい。
 
山本常朝は、少年の時(八歳)から藩主(鍋島光茂)の小姓となってその側に仕え、その死(一七〇〇)に際して殉死を望んだらしいが果さず(佐賀藩の殉死の禁は一六六一年以来、幕府のそれは一六六三年以来)、出家して、隠棲した。
 
 『葉隠』の口述は、その隠棲中晩年のことである。内容は、「主君の御用に立つべき」武士、つまり彼のいう「奉公人」の心がまえを語るものであって、徂徠が「主君」の立場にたち、いかに国を治むべきかを説いたのとは、全く異なる。
 
またおそらくそのことと関連して、徂徠が、その政治的な原理(「聖人ノ道」)の超越性を強調し、山本常朝が鍋島藩という彼自身の所属集団を絶対化してそれ以外の何らの価値をみとめなかったのも、対照的である。
 
他方、山本の生涯とその時代は、たとえば宮本武蔵の経験とその背景とも大いに異なっていた。真剣勝負を知っていた宮本武蔵は、戦国武士の生き残りであり、三世紀初めの『五輪書』は、いかにして相手を殺すかということについての、実際的で技術的な教科書であった。
 
山本常朝はおそらく真剣勝負を経験したことがなく、またその必要もない時代に生きて、いかにして自分を殺すか、という書を書いた。『五輪書』から『葉隠』へのさ一〇〇年間は、武士の心がまえが、実戦から割腹へ移った過程に他ならない。
 
 『葉隠』の叙述には、繰り返しが多いが、その主旨は簡単明瞭である。すなわち、彼が仕えた鍋島藩のために、「私」を捨て、命を捨てて奉仕し、その他には「何もいらぬ事」(聞書第二)である。
 
 ここでは当人の所属集団が、そのまま絶対的な価値とされている。集団を超える価値は存在しない。「釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、終に竜造寺、鍋島に被官懸けられ候儀これなく候へば、当家の風儀に叶ひ申さざる事に候。」(「夜陰の閑談」)。「釈迦・孔子・天照大神の御出現」があり、地獄におちても、神罰にあたっても、「此方は主人に志立る外は入ぬ也」(聞書第二)ということになる。
 
鍋島藩とその上級集団(またはその権威)との関係も、考慮の外におかれる。『葉隠』は、日本・将軍家・天皇を語らず、またいうまでもなく百姓(人民表)に触れない。したがって閉鎖的集団そのものの目的が問われることもありえない。そもそも集団全体としての行動を、評価または批判するためには、何らかの意味で集団に超越する価値がなければならない。
 
しかしそういう価値は少なくとも意識的には、あらかじめ否定されているのである。唯一の問題は、集団の目標ではなくて、集団内部の「一味同心」(聞書第一)、または成員の高度の組みこまれということであった。
 
 集団内部の構造は、「主従の契」であり、その関係は双務的でない。主君側があきらかに誤っているときには、それを正すように「諌言」する。「殿の御心入を能仕直し、御誤なきやうに仕るが大忠節にて候」(聞書第一)。その「諌言」のやり方について、『葉隠』は繰り返し詳しく述べ(頃合いを見計らえとか、相手の好きな事から話を始めろとか)、最後の手段としては「諌死」を説く。
 
しかし主従関係を「従」の側から破棄する可能性には、決して触れない。関係の破棄は、全く一方的に「主」の側の意志のみによるからである。
 
 主従関係の絶対化は、学問をも相対化する。「学文は能事なれ共、多分失出来(いでくる)もの也、」(聞書第一)。これは徂徠的な考え方との決定的なちがいの一つである。
 
また武芸も相対化する。「芸能は事欠ぬやうに仕習て澄(すむ)こと也、」(聞書第一)。これはたとえば、宮本武蔵との根本的なちがいである。しかもそればかりではない、主君へ奉仕する従者の哲学は、主君のために死ぬことを最高の理想とするに至る。
 
「我身を主君に奉り、すみやかに死切て、幽霊に成て、二六時中主君の御事を歎き‥‥」(聞書第一)から「討死程死能事はなく候」(聞書第一)までの考え方は、有名な一句、「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」(聞書第一)に要約されている。
 
 しかし『葉隠』の死の哲学は、主従関係の絶対化から出発して、そこにとどまらない。遂にはその目的と効果を問わず、死そのものが讃美されるところまでゆく。もはや主君のための死ではなく、目的のない無意味な死さえもが、崇高化されて、「犬死気達」(聞書第一)といい、「気違に成て死狂ひする」といい、「士道におゐては死狂ひ也」(聞書第一)という結論にまで導かれる(しかしこれは「美学」ではない、『葉隠』は死が美しいとはいっていない)。
 
 山本常朝は、なぜそれほどまでに死を讃美するようになったのか。おそらく第一に、彼にとっては主従関係(それが同時に同性愛的関係であったことを証明する資料はない)が貴重であり、その主人の死が彼の人生の目的を奪ったからであろうと想像される(そのとき彼が「殉死」を願ったであろうことは、先に述べた)。
 
また第二に、彼は行政官として時代に適応することができず、いくさのない時代を憎悪していたにちがいないからである。彼によれば、「今時の奉公人」は身のための欲得ばかり、「今時のおとこ」は女のようで(以上、聞書一)、「今時分の者」が無気力なのは「無事故(ゆえ)」であり、「世の末」の状態を、「百年も以前の能(よき)風に成度(なしたし)とても成らざる事也」(以上、聞書第二)であった。
 
ここでいう「百年も以前の能風」とは、まさに徂徠が指摘した「戦国の風俗」であり、むろん山本常朝がその実情を知らなかったものである。
 
 要するに『葉隠』こそは、偉大な時代錯誤の記念碑であった。それが時代錯誤であったのは、おそらくは決して人と戦うこともなく六〇歳まで生きることのできた人物が、誰も討死する必要のない時代に空想した討死の栄光だからであり、徳川体制が固定した主従関係を「下剋上」の戦国時代に投影して作りあげた死の崇高化だからである。
 
誰も討死する必要のない時代の討死は、私的な喧嘩にすぎず、「犬死」としかいいようのないものであったから、『葉隠』は「犬死」を讃美したのである。たとえば「四十七士」の敵討(−七〇二)を批判して、『葉隠』はいう。彼らが泉岳寺でただちに腹を切らなかったのはいけない、敵討を延ばしたのもよくない、その間に敵が病死したら残念千万ではないかと。
 
「上方衆は智恵かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手なれ共、長崎喧嘩のやうに無分別にする事はなられぬ也」(聞書第一)。しかし「四十七士」の復讐よりも武士道に適うとされた「長崎喧嘩」(一七〇〇)こそは、雪解けの道の泥が合羽にかかったというだけの理由で、当事者四人の侍と、それぞれの家来多数が折り合って死んだ事件にほかならない。
 
 その時代錯誤にもかかわらず、『葉隠』が偉大なのは、「私」を捨てて「一味同心」となることを強調し、自己の所属する特殊な集団そのものを価値として、その他のいかなる普遍的な価値(儒・仏・神)もその集団に超越しないとしたからであり、その意味では、まさに典型的に日本の土着思想を代表していたからである。
 
たとえば、「毎朝拝の仕様、先、主君、親、それより氏神、守仏と仕候也」(聞書第一)と出家した男がいうのは、「出家」の特殊日本的な意味を語って余すところがないだろうし、この場合に主君と所属集団とは一体化されているから、個人の集団への高度の組みこまれという日本社会の特徴を表現して遺憾がないだろう(この点に関するかぎり、二〇世紀後半の日本人の価値観も、根本的には変っていない。
 
変ったのは、今日の日本で、集団内部の構造、つまり主従関係が、崩れてきたということである)。
(加藤周一著「日本文学史序説-上-」ちくま文庫 p510-515)
 
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 サムライが制度として消滅したあと、武士道をキリスト教によって理想化した人に、内村と札幌農学校で同級生だった新渡戸稲造(一八六二〜一九三三)がいます。
 
かれはジョーンズ・ホプキンス大学に留学して、クエーカー派の信徒になりました。この明治時代の官教育の場における教育者として足跡の大きかった人物は、なによりも、『武士道』(明治三十三年刊)という英文の著書で小さからざる印象を世界の読書人にあたえました。
 
日露戦争の講和に力をつくしてくれたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズヴエェルトの日本についての理解のよりどころは、新渡戸稲造の『武士道』だったといわれています。
 
 「日本および日本人とは何か」
 という説明をもとめられたとき、明治人は武士道をもち出さざるをえなかったのです。ではサムライとは何か、と問われれば、自律心である、ひとたびイエスといった以上は命がけでその言葉をまもる、自分の名誉も命を賭けてまもる、敵に対する情。さらには私心をもたない、また私に奉ぜず、公に奉ずる、ということでありましょう。
 
それ以外に、世界に自分自身を説明することはなかったのです。そしてそれは、りっぱな説明でもありました。すくなくとも日露戦争の終了までの日本は、内外ともに、武士道で説明できるのではないか、あるいは、武士道で自分自身を説明されるべく日本人や日本国はふるまったのではないか、と思います。
 
 皮肉なことに、武士が廃止されて(明治四年の廃藩置県)武士道が思い出されたといってよく、過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて明治の精神となったと思います。
(司馬遼太郎著「明治という国家 -下-」NHKブックス p116)
 
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◎武士道とは、どういう思想であるのか。新渡戸、加藤、司馬と読んで、「武士道の国の代表として、誠実に任務にあたる。イラク国民に夢と希望をもたせることができるように努力したい」と……恐ろしさを感じる。
 
ラスト・サムライに感動してばかりいられない。