学習通信040206
◎まがいもの≠フ学ぶという姿勢……。
 
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 「知は力」という、この国における社会変革の運動の根本的な特質
 
──つまり運動の科学性や法則性こそが本質的なことであって、それをゆがめるものに対しては、断じて屈してはならず、あくまでもそこから運動の本質をまもらなくてはならないし、それとはたたかわなくてはならないということ──
 
をあらわすようなものとして、それをつくりだしてきた稀有な英知から生みだされたこの言葉は、本当の人間になろうとか、本当にいい世の中へむかって生きていこうとかということをねがう人々をこそ、かぎりなくはげましつづけているのですが、
 
わたしたちは、『資本論』こそは、たとえば日本共産党の綱領のようなものを別にすると、知は力として作用する、その一つの項点にたつ著作として位置づけることができるものではないかと思っています。
 
 たとえば『資本論』の学習を、事情があって中断することになっているというようなことであれば、次のようなことを考えてみて下さい。これから列挙する質問は、この資本主義の社会にあって、やとわれて働かなければ生きていけない地位にあるものの生涯の全体を左右する問題ばかりです。
 
これらの質問に、大体はまともにこたえられるようになっているなら、自分と仲間の運命を左右する問題で、大抵は、やとい主やその階級に、すきなようにされるということからは、多少ともまぬがれることができるでしょう。そうでなければ、危ない橋をわたっていることになるといえるように思うのですが。思いあたることがあるのではないでしょうか。
 
すこし長くなるかもしれませんが、自分たちの一生のこととして、よみすすんでみて下さい。
 
 @会社とか企業とかといわれるものの本質はなんでしょうか。資本とはなんでしょうか。自分の一生の大半をすごすことになるこの問題で、退職するまで、あるいは会社からおいだされるまで、このことがはっきりしていなくて、いざとなってから「会社とはつめたいものだ」というような感想をもらす人が多いのですが。会社というものははじめからつめたい存在ではないでしょうか。
 
 A、賃金労働者とはなんでしょうか。その言葉のひびきがいやだというので、サラリーマンとか、ビジネス・マンとか、OLとか、ビジネス・レディとかと言いかえようとする人が少なくないのですが、なにか本質的なちがいがあるのでしょうか。わたしたちはなぜ就職するのでしょうか、就職とはなんでしょうか。
 
 B、就職がきまったときは安心したり、よろこんだりするのですが、いざつとめだしても、その気持をもちつづけられるでしょうか。あげくのはては、たとえば自分の息子や娘が就職するときをむかえると、自分のつとめている会社にだけは就職させたくないという人が多いようです。
 
どうなっているのでしょうか。折角世間がうらやむような会社に就職しても、途中でいや気がさして、やめてしまう人が少なくありませんが、しかし大抵はまたどこか別の会社につとめています。これで問題は解決されているのでしょうか。あるいは解決へむかっていることになるのでしょうか。
 
 C、今日の青年にとっては、生きがいや働きがいが、ことさらにつよく意識されるという、好ましいことになっていますが、そしてそれを求めて毎日を職場に通うとなっている場合が少なくないのですが、それではやとい主は、あるいは会社は、それを満たすことを本質的なこととしてもっているのでしょうか。自立した人間にふさわしいこととして、自分に確信と納得のもてる毎日になっているでしょうか。
 
 D、賃金とはなんでしょうか。その大きさは本来はどうあるべきでしょうか。現実のレベルに問題があるなら、それをはっきりと指摘できるでしょうか。賃金要求が問題になるときに、自分で確信のもてる額を提起できているでしょうか。
 
 E、労働時間とはなんでしょうか。この国のそれは先進国では、もっとも長いとされていますが、どれくらいなら妥当なのでしょうか。毎日、もっとはやくかえれるようになればという思いがつよいようですが、どうすればそうなるか、はっきりしているでしょうか。
 
 F、この国の人々の平均寿命の数値はよく知られていることですが、それでは毎日を働いて生きている人たちだけの平均寿命はいくらぐらいなのでしょうか。寿命というのは職業によってちがっていて、それは労働時間の長さと密接につながっているのですが。
 
 G、機械とはなんでしょうか。それは道具とどこがちがっているのでしょうか。仕事をらくにするとか労働時間を短くする可能性をもっていると思われるのですが、実際はどうなのでしょうか。資本主義の下での機械化、コンピュータリゼイション、オートメイションをどう考えればいいのでしょうか。
 
 H、やとわれて働くものの一日とはどういうものでしょうか。一度そのはじまりからおわりまでを考えてみてはどうでしょうか。朝、どうやって起きるのか、起きるとはどういうことか、どのようにして一日がはじまるのか、働くものの一日とはなにか、おわってからどうなるのか、働くものが夜に入って休息するとはどういうことか、自分は何のために働いているのか、自分が自分として生きている時間はどこにあるのか。休日とはなにか。
 
 以上のようなことは、すべて、やとわれて働くことで一生の大部分をすごすものにとって、一つ一つ決定的な意味をもつことばかりです。これらの質問にたいして、どこからつっこまれてもきちんとこたえられるようになっていないと、やとわれて働くことで生きていくうえでは、スキがあるということになるのではないでしょうか。
 
 『資本論』は以上にあげたすべての問題で、職場の現実から一歩もはなれることなく、わたしたちを納得させる理論をもっています。
 
 そして『資本論』以外に、これらのすべてにわたって、どれ一つもはずさずに、働くものを納得させる理論をまとめてのべたものを求めるのは、むつかしいでしょう。もしあれば、それはじつのところは『資本論』の亜流です。
 
 知を力にするということであれば、こうして『資本論』は、その項点にたつものです。自分は、これらの設問のうちのこの問題ではこのように一つのまとまった考えをもっているのだと自負できても、『資本論』をひもとくなら、スキだらけだったということになるでしょう。一三〇年もまえに書かれたものだというのに、これほどまでに今日の現実を本当に深く考えさせるものかということになるでしょう。
 
 歴史がすすんでいて、当時にはなかったことがここにあるということがあっても、その今日の現実の特徴や本質を判断させる規準を、『資本論』はおしえてくれるということになります。いまを昔をくらべてみることで、いまがわかるということになるからです。
 
 以上のようなことを考えてみて、『資本論』学習の中断を中断して、とまっているところからまたページをめくりはじめるということで、決意をあらたにしようということになれば、わたしたちのこの冊子を書いた意味もあったということになるでしょう。
(吉井清文著「どうやって『資本論』をよんでいくか」清風堂書店 p14-19)
 
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 しかしわたしは、そういう格率はくわしく述べられるべきだとは考えない。はっきり言いあらわされるべきだとさえも考えない。大部分の寓話を結んでいる教訓ぐらい意味のない、わけのわからないものはない。
 
その教訓は、寓話そのもののなかで読者によくわかるように述べられてはいない、あるいは述べられてはならないとでも思っているのだろうか。
 
いったいなぜ、そういう教訓を終わりにつけくわえて、読者が自分でそれを発見する楽しみを奪うようなことをするのか。
 
人を教える才能は、弟子に喜んで教えをうけさせることにある。
 
ところで、喜んで学ぶためには、かれの精神はまったく受け身の状態であなたがたの言うことをきき、あなたがたの言ってることを理解するには全然なにもしなくていい、ということであってはならない。
 
教師の自尊心はいつも弟子の自尊心にいくらか余地を残しておかなければならない。わたしにはわかる、わたしは深く考えてみる、わたしは積極的に学んでいるのだ、と弟子が自分に言えるようでなけれはならない。
 
イタリア革劇のパンクローネを退屈なものにしていることの一つは、もうわかりすぎるくらいわかっている平凡なことを観客に説明しようとすることだ。教師はパンクローネであってもらいたくないものだ。作者にはなおさらなってもらいたくない。
 
いつでも自分の言うことをわからせなければならないが、いつでもなにもかも言ってしまってはいけない。すべてを語る者はわずかなことしか語っていないのだ。しまいには相手は聞いていないからだ。おなかをふくらませる蛙の話にラ・フォンテーヌがつけくわえている四行の詩句はどういう意味なのか。
 
この寓話が理解されなかったのではないかと心配しているのだろうか。この偉大な描き手はかれが描いているものの下にそのものの名をしるす必要があったのだろうか。それによって教訓を一般化するどころではなく、かれはそれを特殊なものにしている。
 
つまり、名をあげた例だけにそれを限定して、読者がほかのものにそれを適用することをさまたげているのだ。わたしは、この比類ない作家の寓話を青年の事にわたすまえに、はっきりと、そしておもしろく述べてきたことをわざわざ説明しているあの結びのことばをみんな削除してしまいたい。説明してやらなければ寓話の意昧がわからないとしたら、あなたがたの生徒は、説明されてもやっばりわからないだろう、と思っていい。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p84-85)
 
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なぜ「思うこと」が必要なのか
 
 しかし、孔子は、そのうえで「思わなければダメだ」と言っています。それでは「思う」ことと「学ぶ」こととは、どのような関係にあるのでしょう。そして、そもそも「思う」こととは、どういうことなのでしょう。
 
 私は、孔子が言いたかったのは、次のようなことだと思うのです。各人がなにか「これが問題だ」と思うことを持っていて、自分の頭で考えてその解決法を求めているときに、実際にその問題を解決するためには知識が必要だから、知識を学ぶ。そういうことを言っているのだと思います。
 
 ただそこにあるものを学ぶ、ということではありません。教師が教えてくれるから学ぶのではない。個人が自分自身で問題を考えていて、その間題を解くために知識が必要だから学ぶのです。そのとき、知識は「知的な道具」に転化されるわけで、自分の見つけた問題を、その道具を使って解こうとするのです。
 
 「これが問題だ」と感じること、これを日本語では、「問題意識」といいます。ある問題意識が自分のなかにあり、そのことについてよく考えること、それが「思う」ことです。それは誰かに与えられたものではなくて、自分のなかから出てきた問題意識です。それがないと本当の意味でものごとを理解することにならな心。
 
だから教師が教えてくれることを学ぶだけじゃダメなんですね。学ぶだけでは、自分自身の問題を解決できないでしょう。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p6-7)
 
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◎まいがいもの=@学ぶという姿勢にもそういうものはあるだろう。
 
お金∞女(男)≠ノ関わるとき、その人の本質、生まれて20年余の歴史でもまいがいもの(人間性にたいしての)≠フ「人格」が問われる、それも消極的にではなく。