学習通信040207
◎あなたはだれ? 自分がだれなのか知らないなんて、ちょっとへんじゃない?
 
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エデンの園──とにかく、いつか何かが無から生まれたはず
 
 ソフィー・アムンセンは学校から帰るところだった。とちゅうまではヨールンといっしょだ。二人は道みちロボットの話をしていた。ヨールンは、人間の脳は複雑なコンピュータみたいなものだ、と言った。ソフィーはよくわからなかった。人間は機械なんかより上なんじゃないかなあ。
 
 スーパーのところで、二人は別れた。ソフィーの家は一戸建ての並んだ町はずれにあって、学校からはヨールンの家までのほとんど二倍も遠かった。ソフィーの家は、まるで世界の果てにあるみたいだった。庭のむこうにはもう家はなく、森が始まっていた。
 
 ソフィーはクローバー通りを曲がった。通りのどんづまりは急なカーブになっていて、「船長カーブ」と呼ばれている。人はめったにとおらない。とおるとしても土曜日か日曜日だけだった。
 
 五月になってまだ日も浅く、あちこちの庭ではラッパ水仙が果樹の根元にびっしりとよりそうように咲いていた。白樺はうっすらと芽吹いて、まるですきとおる緑のヴェールをかぶったようだった。
 
 この季節、なにもかもが芽吹き、いっせいに伸びはじめる。どうして暖かくなって根雪が消えると、死に絶えたような大地から緑の葉っぱや辛が湧き出すのだろう? 考えると不思議な気がする。
 
 門をあける前に、ソフィーは郵便箱をのぞいた。ふだんならダイレクトメールがどっさり、それから母宛ての大きな封筒が何通か入っている。ソフィーはいつも、郵便物の束をキッチンのテーブルに置いてから、宿題をしに自分の部屋に行くことにしていた。
 
 父には、たまに銀行の口座残高通知がくるだけだった。ソフィーの父親はふつうの父親とは少しちがっていた。大きな石油タンカーの船長で、ほとんど一年じゅう家を留守にしている。何週間か帰ってきた時は、外出することもなく、ソフィーや母と水入らずの時を過ごす。けれども航海に出ているあいだは、ちょっぴり影が薄かった。
 
 きょう、緑色の大きな郵便箱には小さな手紙が一過だけ。それはソフィーにきていた。
 
 小さな封筒に、「ソフィー・アムンセン様」と書いてある。「クローバー通り三番地」、それだけ。差出人の名前はない。切手も貼ってない。
 門をしめるとすぐ、ソフィーは封をあけた。なかには封筒よりひとまわり小さな紙切れが蒜入っているだけだった。紙切れにはこう書いてあった。
 
 あなたはだれ?
 
 たったのこれだけ。ごあいさつも、差出人の名前もなくて、手書きでこの六つの文字と、大きなクエスチョンマークが書いてあるだけだった。
 
 ソフィーはもう一度、封筒を見た。たしかにソフィー宛てだ。こんなもの、いったいだれが郵便箱に入れたのだろう?
 
 ソフィーはいそいで赤い家のドアをあけた。ドアをしめる前、いつものように猫のシェレカンが茂みから現れて、階段にぴょんと飛び乗り、するりとなかに入ってきた。
 
 「ただいま、シュレカン! おりこうさんにしてた?」
 ソフィーの母親はちょっと機嫌が憩いと、この家はまるで動物園ね、と口癖のように言う。動物園にはいろいろな動物がいるけれど、生き物が大好きなソフィーもいろいろ飼っていた。まず、水槽には金の巻き毛ちゃんと、赤ずきんと、まっ黒ベーターという名前の金魚がいた。それからセキセイインコのトムとジェリー、亀のゴーヴィンダ、そして黄色と茶色のトラ猫シェレカン。ソフィーのさびしさを紛らわすのが、動物たちのお役目だった。なぜなら、母は夕方にならないと仕事から帰ってこないし、父はいつも世界のどこかを航行中だったから。
 
 ソフィーは通学バッグを投げ出すと、シエレカンの前にキャットフードの皿を置いた。それから謎の手紙を手に、キッチンの椅子に腰かけた。
 
 あなたはだれ?
 それがわかったら苦労はないわー! もちろん、わたしはソフィー・アムンセン。でも、それはどんな人? まだよくわからない。
 
 もしもほかの名前だったら? たとえばアンネ・クヌートセンとか。そうしたら、わたしは別の人になっていた?
 
 ふいにソフィーは、「初めはシュニューフェという名前にしようかと思ったんだよ」という父のことばを思い出した。ソフィーはだれかと握手をするふりをして、「シュニューフェ・アムンセンです」と自己紹介する自分を想像してみた──だめ、そんなのだめ。だとしたら、これまでの時間はそっくり別のものに思えてくる。
 
 ソフィーははじけたように椅子から立ちあがると、謎の手紙をもったまま、バスルームに行った。そして鏡の前に立って、じつと目を見つめた。
「わたしはソフィー・アムンセンです」 ソフィーは声に出して言った。
 鏡のなかの女の子は返事をしない。表情一つ動かさない。ソフィーがなにかすると、まるで同じことをする。ソフィーはすばやく動いて、鏡の女の子を出し抜こうとした。けれども、相手も同じだけすばやく動いた。
「あなたはだれ?」ソフィーはたずねた。
 
やっぱり返事はない。けれどもソフィーは、今たずねたのは自分なのか、それとも鏡の女の子なのか、一瞬わからなくなってしまった。
 
 ソフィーは鏡の顔のまんなかを指さして、言った。
「あなたはわたし」
 返事がないので、今言ったことをひっくり返して言ってみた。
「わたしはあなた」
 
 ソフィー・アムンセンは、自分の顔がそんなに気に入ってはいなかった。よく、アーモンドみたいに切れ長のきれいな目をしている、と言われるけれど、ほめてもら、えるのはそこだけ。なぜなら、鼻は低いし、口はちょっと大きめだったから。それに、目と目のあいだが離れすぎている。最悪なのは、髪の毛にウェーブがかかっていないことだ。ちっとも思うようにまとまらない。
 
父はよくソフィーの硬い髪を撫でながら、「すなおないい髪だね」と言った。パパったら、もう! 自分がわたしみたいな、てれんとした黒髪をもつ運命ではなかったものだから、平気でそんなことを言うのよ。ソフィーの髪は、スプレーをかけてもジエルをつけても、どうにもかっこうがつかなかった。
 
 ソフィーは、自分の顔つきがおかしいと思っていた。それで、生まれた時につごうの悪いことでもあったのでは、と考、えることすらあった。母も「あなたは難産でね」と言っていた。でも、生まれ方が人の顔つきを決めるなんてことがあるのかしら?
 
 自分がだれなのか知らないなんて、ちょっとへんじゃない? それに、自分の顔なのに自分で決められないなんて、そんなのあり? 顔は生まれつき決まっている。友だちなら選べるのに、自分のことは自分で選んだわけじゃない。人間になることだって、わたしが選んだんじゃない。
 
 人間って何?
 
 ソフィーはもう一度、鏡の女の子を見た。
「ふうっ、そろそろ生物の宿題をしようかな」
 ソフィーは、なんだか自分に言い訳をするように、声に出して言った。そしてバスルームから出て玄関に立った時、ふいに気が変わって、宿題はあとにして庭に行くことにした。
「シュレカン、お外に行くよ、シェレカン!」
 ソフィーは描を表に呼び出して、ドアをしめた。
 
 謎の手紙をもって外の砂利道に立っているうちに、ソフィーは突然、奇妙な感覚に襲われた。まるで自分が、魔法の力で生かされている人形のような気がしたのだ。
 
 わたしはこの世界にいて、不思議な物語のなかを動きまわっている。それって、なんだかへんね。
 
 シュレカンは優雅に砂利道を飛び越えて、そばの赤スグリの茂みに姿を消した。元気な猫だ。白い髭の先からよく動くしつばの先まで、元気いっぱい。シュレカンは、ソフィーが感じているこんなことなど、これっぽっちも感じていないのだ。
 
 ソフィーはひとしきり、わたしはいる、と考えた。すると、いつまでもいるわけじゃない、と考えないわけにはいかなかった。
 今わたしはこの世界にいる。でもいつかある日、わたしは消えてしまう。
 死後の生はあるのだろうか? この間いも、猫にはさっばりわからない。
 ついこのあいだ、祖母が亡くなった。それから半年以上、ソフィーは毎日のように、祖母のいないさびしさを噛みしめたものだった。命に終わりがあるなんて、そんなのあんまりだわ!
(ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」NHK出版 p9-13)
 
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人生をまっとうする「力」
 
 六年前、野茂英雄がメジャーリーグに挑戦したとき、野球評論家やマスコミは口々に「通用するはずがない」と騒ぎ立てた。だがその後、野茂の大活躍を見せつけられたとあって、さすがに今年のイチローの場合はちがった。
 
口調は似ているが、「はたしてどこまで通用するのか(楽しみだ)」と多大な期待が寄せられたのである。ただ新庄剛志の場合は悲惨だった。ほとんど「通用以前」とでもいうように、きわもの扱いされ失笑されただけだったからである。
 
 「通用する」とは、もちろん「力」が、である。野茂やイチロー(佐々木や長谷川も)はその「力」が優にメジャー級であることを証明し、サッカーの中田英寿はかれの「力」が世界レベルであることを証明したのだ。かれらは「自分の力」が世界でどこまで通用するか試してみたい、「力」と「力」の真っ向勝負がしてみたいと切望して海を渡った。
 
 いうまでもないが、わたしたちは野茂やイチローや中田ではない。だがわたしたちにも「自分の力」はある。かれらの「力」が世界レベルだとすると、こちらの「力」がどのレベルに相当するのかは知らないが、一人ひとりの「自分」にとっては、かれらとまったくおなじ価値と意味をもった「自分の力」だ。
 
称賛もない。興奮もなければ華々しくもない。しかし、いまあるこの社会のなかで生きていくために、わたしたちは「自分の力」を欲し、獲得し、発揮しなければならないのである。
 
 生まれたときから死ぬまで、人生のあらゆる場面で、わたしたちは「力」に囲まれ、「力」を求められている。
 
 上司たちが、ある社員を「最近、かれは力をつけてきたな」と評価する。部下は上司を「かれには決断力がある」と憧憬(どうけい)する。スポーツ選手はインタビュアーに「ふだんの力がだせれば結果はついてくると思います」と答える。親は子どもに「あなたはやればできるのよ」と激励する。子どもは親に「できねぇものはできねぇんだよ」と反発する。
 
部下は「力不足でした」と反省する。千代の富士は「体力の限界」といって引退する。評論家は「かれの実力はこんなものじゃない」と叱喝する。ひとは、「おれのほんとうの力はこんなものじゃない」と自分に言い聞かす。
 
 「力」のあるものは自信に満ちている。陽のあたる道を歩き、名を成し、出世をし、より多くの収入を得、人生に「成功」する。だがわたしたちは、たとえ「成功」しなくても、自分の「無力」や「非力」だけは認めたくない。ひそかに認めても、他人からはけっして指摘されたくないのだ。自分という存在が公然と敗退することになるからである。
 
 一昔前は「モーレツからビューティフルへ」、またついこの間までは、弱者だの平等だの福祉だの共生だのと言っていたのが、いまや露骨な自己責任と実力主義と生存競争が前面にせりだしてきた。この「力」の支配や競争を否定するものは、「自分らしく生きる」とか「がんばらない」とか「このままの自分でいい」などと言って、人生の競争ゲームから降りていく。
 
「だめ」でいいではないか、「弱い自分」でいいではないか。そのかわりこつちには、もっと自由で豊かで気楽な人生がある、と言うのだ。だが、その勝手(自由)や怠惰(気楽さ)がハタ迷惑にならず、そのような生き方に責任をもつためにも、最低限の「自分の力」は必要である。身銭を切らない人生などあるはずがない。
 
 現在の日本社会は、勝ち組と負け組、金持ちと貧乏人に二極階層化しっつあるといわれる。「まじめ」や「努力」はもはや意味をなさない。勝つ者は勝つべくして勝ち、負ける者は負けるべくして負ける社会の出現である。それはまた「力」の意味を信奉して「他者よりも優越した人生」を送ろうとするものと、「力」を否定して「自分なりの楽で自由な人生」を送ろうとするものにわかれるということでもある。
 
 しかし、本書の「自分の力」が目指すのはその中間である。人生の「勝者」になることや「成功」が「力」の最終目標でもなければ、「好きなこと」だけをして気楽に生きていこうというのでもない。それは、依然として「自分の力」でひたすら努力し、「まじめ」に全力で生きていくことに意味がある、という道だ。そこにしか意味がない、という道だ。「自分の力」とはそのように覚悟する「生きる力」であり、結果としての「成功」も「気楽」もどうでもいいのである。
 
 もちろん野茂やイチローの「力」は称賛に情する。だが新庄は莫大な収入や安定した地位よりも、夢に賭けるといった。笑われても期待されなくてもいい、そのほうがむしろ闘志が湧くといったのである。シーズン終了後に新庄がどんな成績を残すかはわからない。「成功」するかしないかはあくまでも結果である。
 
「自分の力」はその過程をささえる力であり、その姿勢をささえる力である。「自分の力」は自分を動かして自分の意味を証明する。他人にではなく、自分に力をふるって、人生を推し進め、後退を食い止め、自分をささえる。それが「生きる力」ということの意味である。たしかに新庄はアホっぽく見える。しかしかれの姿勢はそれじたいで称賛に値するのだ。
 
 人間には、自分を証明したいという根源的欲求がある。自分という存在の意味を、他人にも自分じしんにも証明したい。そうして、社会から、会社の上司や同僚や部下から、親から、友人から、また異性から承認されたい。それが「自分の力」の願いである。
 
この「力」のない者は動揺する。「力」を欲しながら「力」を否定する(ふりをする)者、「力」をつける努力を放棄した者は、シニカルで陰険で卑怯でわがままになりやすい。かれらは他人の「力」を貶し、そのくせ他人の権威を自分のものにしたがる。それはかれらの欲している力が自己顕示的でものほしげな「力」だからである。「自分の力」はけっして「他人の力」を妬まないのだ。
 
 「自分の力」は能力至上主義でもなければ実力主義でもない。当然、それは他人から承認されることを保証しない。人生の成功も勝ち組になることもまったく保証しない。けれども、「自分の力」を尽くそうとすることはそれだけで意味がある。極論すると、それしか意味がないといってもいい。先にもふれたが、いまの日本は「努力してもしかたがない(する気になれない)社会」になりつつあるといわれる。
 
だがそれがどうしたというのだろうか。それで自棄になって乱暴狼籍をして「社会のせいだからな」と嘯く(うそぶく)ことが正当化されるわけでもあるまい。どんな社会になろうと、またどんな時代になろうと、努力することには断固として意味がある。努力した者には、それを放棄した者より確実に「自分の力」がつくのだ。
 
 「自分の力」が欲しくても、環境や制約や障害によって「力」をつけることができないひとがいる。また、どんなに努力しても「力」が伸びない(ふつう、そんなことは絶対にない)というひとがいる。そうでなくても、自信があった「自分の力」もいつかは失われる。だれにも必要とされなくなるときがくる。そういうことはかならずある。
 
 「自分の力」がみずからの限界を知るとき、あるいはその社会的な意味を失うとき、あとに何が残るのか。「信じる力」が最後に残ってくれればいい。「自分の力」の意味を最後まで「信じる力」である。「自分の力」は、まっとう(真っ当)な人生を目指すのではない。精一杯の「自分の力」で、自分の人生をまっとう(全う)することだけを目指すのである。まっとうな人生などない。まっとうする人生があるだけだ。
(瀬古浩爾著「「自分の力」を信じる思想」PHP新書 p3-8)
 
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人生の意味を考える
 
 自分はこの宇宙でただ一つの存在
 
 近ごろ気になることの一つは、青年たちのなかで、「自分はこの世の中に必要とされているのだろうか」と悩む人たちがふえていることです。自分の人生に自信がもてない、自分の人生の意味とか価値とかを見つけられないという人たちの増加です。
 
 人生の意味や価値をどう考えたらいいのでしょうか。この問題についてだれにでもあてはまる答えを一言でいうことはきわめて困難で、いわば永遠のテーマです。一人ひとりが精一杯に自分の人生を生き抜いて、自分で答えを見つけるべきものでしょう。
 
 自分はほかのだれとも同じではない、まったくただ一人の存在で、だれとも交替してもらうことのできない存在だからです。したがって自分はこの宇宙で、かけがえのないただ一つの存在だということを自覚し、この事実を大切にして、あらゆる困難を克服して自分の人生を生きていくことが大切だと思います。これは人生について考えるときのいわば大前提です。
 
 私たちを分断し孤立させるもの
 
 しかし同時に人生の意味や価値について、疑問をもたざるを得ないのも現代の特徴だと思われます。「人はなぜ生きなければならないのか」、「自分は世界でただ一人の貴重な存在だ」としても、なんとなく自信がもてない、こんな気分がひろく世間をおおっています。
 
 この「なんとなく自信がもてない」というのは、どういうことでしょうか。「なんとなく」というけれども、よく考えてみるとやはりなんらかの原因があって「自信がもてない」ということが多いわけです。たとえば戦後最悪といわれる不況が、いつ終わるかもわからない状態で、高校生や青年のみなさんが深刻な就職難や失業などの不安にさらされている。
 
あるいは過酷な競争教育にさらされて学校が少しも楽しくない。そのなかで友人との信頼関係を築くこともできない。つまり私たちを取りまく社会的諸矛盾が私たちを分断し孤立させている状態が、多くの青年たちを不安におとしいれ、自信がもてないという気分にさせている根本原因となっています。
 
 社会に目をひらき、まわりの人びとと協力しながら
 
 私たちは、先にのべたように、一人ひとりがかけがえのないただ一人の存在でありながら、しかし同時に多くの人びととともに生きている社会的存在です。
 
だから私たちは自分が宇宙でただ一人の貴重な存在であること、同時に自分が社会的存在であって、ひとりぼっちでは生きられないことを自覚し、社会に目をひらいて、まわりの人びととさまざまに協力しながら生きていかなければなりません。そのような努力のなかから、人生の意味は見えてくるのではないでしょうか。
 
個性≠ェ輝<のは
 
 仲間のなかで認められることが生きがいのもと
 
 先に、だれでも「自分」はこの宇宙のなかで、かけがえのないただ一人の貴重な存在だということと、同時に人はだれでも社会的な存在であって一人では生きられない存在だと書きました。
 
 私たちは一人ひとり個性をもち、他人とは異なる人格をもったユニークな存在ですが、そのような個人が多数集まって、家族や共同体、地域社会や企業などの集団をつくって、力を合わせ協力して働き、共同の生活をしています。
 
 したがって私たちは個性が尊重され、自主的に自由に生きていきたいと思うと同時に、自分の仲間たちのなかで一定の評価をうけて認められたいと願い、それが私たちの生きがいのもとになっています。「自分はこの世の中で必要とされている」と実感されることが生きがいにつながっています。
 
 自分を大切にするとは、世の中全体を大切にすること
 
 個性の尊重、個性の輝きというと、自分を大切にするとか、自分自身にたいして誠実であることだといわれることがあります。たしかに自分を大切にし自分に誠実であることは大事なことです。しかしそれが他人のこと、世の中のことを無視して自分だけ大切というのでは、ただのエゴイズム(利己主義)にすぎないでしょう。
 
「自分」とは「社会的な存在」ですから、「自分を大切にする」とは他人も大切にすることであり、世の中全体を大切にするという意味でなければならないでしょう。地球上で戦争が絶えず、命を失ったり傷つく人びとがいて、飢えた子どもがいるのに、自分だけ幸せとい.うわけにはいきません。世の中(社会)全体が幸せであってこそ、私たち個人も本当に幸せといえると思います。
(鰺坂真著「時代をひらく哲学」新日本出版社 p9-13)
 
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学習通信040115 資本論からの抜粋
 
 見方によっては、人間も商品と同じである。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。
 
人間ベーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関連を通してはじめて人間としての自分自身に関連する。だが、それとともに、ベーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用する。
 
※〔フィヒテ「全知識学の基礎』、第一部、第一章「端的に無制約な第一根本命題」のはじめに出てくる命題。木村素衛訳、岩波文庫、上巻、一〇七ページ以下〕
(マルクス著「資本論@」新日本出版社 p90-91)