学習通信040210
◎「時代の低音部で鳴り響いていた武士道といった言葉などに押し流されて」と。
 
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活字の海で
 
 一武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」──。日本の伝統的な道徳を説いた新渡戸稲造『武士道』が、新たな脚光を浴びている。
 
 一月下旬、東京の三省堂書店神田本店の週間文庫ランイキングで岩波文庫の『武士道』(矢内原忠雄訳)が二位に入った。中高年層に加え二十代の若者の購入が目立っているためで、岩波文庫の古典が上位に入るのは「記憶にない」(売り場担当者)という。もともと年間約一万五千部売れる定番だが、岩波は昨年十一月以降で三万部を急きょ重版した。
 
 一九八三年刊行の現代語訳『武士道』(奈良本辰也訳、三笠書房)も七十六万部発行のロングセラーで、うち十四万五千部が昨年後半からの重版分。英語の原文付きの『武士道』(須知徳平訳、講談社インターナショナル)も十四刷まで達した。
 
 後に国際連盟事務局次長も務めた新渡戸が米国で『武士道』を著したのが一八九九年。武士の守るべき道を「身分に伴う義務」と説き、この精神が広く日本に根付いていることを、西洋思想と比較しながら解説した。若者の注目を集めたのは、昨年十二月公開の米映画「ラスト・サムライ」がきっかけ。ズウイック監督や主演のトム・クルーズが『武士道』に影響を受けたと発言したためだ。
 
 とはいえ『武士道』再評価の動きは映画公開前から根強くあった。PHPエディターズ・グループ(東京)は昨年九月に新訳版を発行。訳者の岬龍一郎氏は「今と同じように価値観が動揺した明治時代に、日本の伝統的精神を世界へ伝えようとした新渡戸を見直したかった」と話す。
 
 ただ「個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものとなした」と組繊に対する忠義を鋭く『武士道』は、「犠牲の側面ばかりが強調されがち」(国際日本文化研究センターの笠谷和比古教授)。笠谷氏は「自立した個人と組織の対等な関係が求められる時代には、武士が重んじた潔さやけじめの価値を読みとることこそ必要」と話している。(文化部 小島充)
(日本経済新聞 040208)
 
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武士道 〜武士の流儀〜
 
義──
サムライたる者、他に対し誠実であるべし。
また他から惑わされることなく、己の正義を貫くべし。
真のサムライは誠実さと正義に対し、微塵の迷いもない。
そこにはただ真実≠ニ偽り≠ェあるのみ。
 
礼──
サムライたる者、非道な行いを禁ず。
そのような強さを誇示する必要がないのがサムライなり。
またサムライたる者、敵に対しても礼をえ欠さざるべし。
人に対する敬意なくしては、人間も動物と同類。
サムライは、闘いにおいて乙の強さだけでなく、他に村する行いによっても敬意を払われるべし。
窮地にこそ、真のサムライの内なる強さが見える。
 
勇──
サムライたる者、行動を起こすことをを恐れる人々の中から先陣を切って決起すべし。
甲羅に閉じこもった亀のようなっては、死んだも同然。
サムライは、英雄的勇気を持たねばならない。
危険に満ちたものであるが、その勇気を持って生きることが人生を完全で美しいものにする。
英確的勇気とは向こう見ずに非ず。それは知的で強靱な心。
恐怖を尊敬の念と戒めへと変えることである。
 
名誉──
サムライたる者、名誉に重きを置き、それをもって乙の価値とすべし。
自らが下した決断と、それらがいかに成し遂げられたかが、乙の真の姿を映す。
乙白身から決して逃げ隠れすることはできない。
 
仁──
サムライたる者、慈愛の精神を重んじ、あらゆる局面において、同胞を助けるべし。
サムライは、日々の鍛錬を通じ、他の何人とも違う敏捷で強靱な存在となる。
その力は他者のために注がれ、
そのよう局面に出くわさずとも、自らの方法でそれを見つけ出す。
 
誠──
サムライたる者、事を実行すると言ったさ際、それはすでに行われたも同然を意味する。
いかなるものもその言動を止めることはできない。
サムライに約束≠ニいう概念はなく、また約束≠取り決める必要がない。
なぜならサムライにとって一度口にしたことは、必ず守られるもの。
言葉で表明することと実行するととは同じことを意味する。
 
忠──
サムライたる者、乙の言動すべてに義務を覚え、
その言動が導く結果すべてに対し責任を負うべし。
またサムライたる者、乙の主君、信ずる者に対し限りない忠義を尽くすべし。
(パンフレット「THE LAST SAMURAI」より)
 
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 藤沢周平の身をよじるような悔恨──それは、十五年戦争とよばれるアジア・太平洋戦争下の日々と無縁のものではない。「『美徳』の敬遠」というエッセイにこういうくだりがある。自分は武家社会の主流を書かない、書けば格式や作法といったもの、また背景になっている武士道にもふれざるを得なくなるが、これが苦手だ、とのべたあとこうつづけている。
 
 私は昭和二年十二月の生まれで、そういえば同時代の人ならすぐにもわかるように、来年は徴兵検査という年に敗戦を迎えた年代である。近眼ではねられたが、予科練の試験をうけたこともある末期戦中派というわけである。ああいう形の敗戦があるなどとは夢にも思わず、敗けるときは一億玉砕しかないと思っていた。完全な軍国主義者で、そういう自分を疑うすべを知らなかった。
 
 戦争中、こつそりと『葉隠』に読みふけった自分や、武士道という言葉をふりかざして、居丈高にふるまっていた軍人たちの姿などが、ネガが突如としてポジに変わるように、はっきりと見えて来たのは戦後のことである。それは奇怪で、おぞましい光景だった。
 
 おぞましいというのは、自分の運命が他者によっていとも簡単に左右されようとしたことである。私は民主主義という言葉を知らなかった。誰にも教えられなかったし、読まなかった。あるいは知っていても、私はやはり予科連の試験を受けに行ったかも知れないが、それはそれで、国のために死ぬと自分で選択した結果だから悔いることはないのだ。
 
 そうではなく、私は当時の一方的な教育と情報、あるいは時代の低音部で鳴り響いていた武士道といった言葉などに押し流されて、試験を受けたのである。そのことが戦後、私のプライドにひつかかった。汚い言葉を使えば、ひとをバカにしやがって、という気持である。しかも私はその時、級友をアジっていっしょに予科連の試験を受けさせたりしたのだから、ことはプライドの問題では済まない。幸いに、予科連に行った級友は塹壕掘りをやらされただけで帰って来たが、私も加害者だったのである。
 
 その悔いは、三十数年たったいまも、私の胸から消えることがない。以来私は、右であれ左であれ、人をアジることだけは、二度とすまいと心に決めた。近ごろまた、私などにはぴんと来る、聞きおぼえのある声が響きはじめたようだが、年寄りが若い人をアジるのはよくないと思う。
 
 「私も加害者だった」というとき、藤沢周平の心にどんな風が吹いただろう。ふるさとの地を踏むたびにそれは、どんな音を立てただろう。十七歳の若気の至りというにはあまりに重い心の傷である。(p65-67)
 
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 徳川の治世が行きわたり、儒教的な倫理観が武家の日常までしばるようになると、主君と家臣の関係は、君、君たらずとも、臣、臣たりといった中身に変り、はては『葉隠』の武士道とは死ぬことと見つけたりという、一種嗜虐的な覚悟に到達する。いわゆる武士道がそこに成立し、その新しい武家の作法の下で、武家はいさぎよく腹を切ったり、切らされたりしたわけである。
 
 そういう武家の実態を描いたりすると、とかく武士道残酷物語という言い方をされるが、私は残酷というレッテルを貼るだけでは、当時の武家社会の仕組みを批判したことにはならないと思う。それは今日からみればただの残酷かも知れないが、ひと時代の美徳とされたものなのである。弁明せずに腹を切ることは美徳であり、弁解したり、生きるためにあがいたりすることは、武家の作法にはずれることだった。さればこそ武家は、その覚悟を日常のものとするために、どのような変事にも対処して動じない人格を錬磨することにつとめたのである。
 
 だがその美徳は、つまるところ公けのために私を殺す、主持ちの思想だったと言わざるを得ない。滅私奉公である。そこでは、私的で人間的なもろもろの感情は、女々しいこととしてしりぞけられる。
 江戸期の「武士道」をどうとらえるかは、単純ではない。
 
 和辻哲郎は、太平洋戦争が開始された一九四一年に、『岩波講座 倫理学』のなかで「武士道」と題する論考を発表し、当時、喧伝流布されていた国家主義者井上哲次郎などの唱えた「皇道的武士道」を批判し、武士道とは「江戸時代という一定の歴史的境位に於て、この時代特有の武士生活の中から、武士の踏むべき道として自覚されたもの」と主張した。
 
 和辻は、井原西鶴『武道伝来記』(一六八七年)を引いて、当時の人々が「武士の道」を名のために惜しげもなく命を捨てる、とくに敵討ちの義務のために一切をなげうつことと見ていた点を指摘する。その一方で、江戸前期には、名のために命を捨てるという武士道に対比して、中江藤樹や山鹿素行らが唱えた、廉恥心、自敬の念といった道義の感覚に発する士道が成立したとも説く。
 
つまり、農工商三民の上に立って天下国家を治め、人の道を正しくするとともに正道を妨げる者を懲罰する、したがってそれにふさわしい仮借ない道徳的要求が課せられた、いわゆる儒教的武士道の成立である。和辻は、国家主義者らへの批判の意味も込めて、「江戸時代の武士道として幕末に吉田松陰の如き志士に代表され、次いで明治時代に受けつがれて来たものは、葉隠の武士道ではなく、明かに士道としての武士道なのである。」とのべたのだった。
 
 藤沢周平がいう、昭和の時代に喧伝された武士道に対する本来の武士道として、葉隠の武士道を置くのは、和辻のいうところから見るとやや単純化しすぎているように思う。しかし、明治期に受けつがれたものを治者としての「士道」の倫理観とだけ見るのもまた、一面的であろうと思う。
 
 幕藩制は士農工商の身分制が基礎であるが、三民の上に立つ武士社会にも、たとえば家中といえども藩政に直接関与する上中士とそれ以外のたとえば給人、また、主と家臣といった身分制が存在した。為政者、治者としての武士一般は純理論的には存在するが、しかし、それぞれ一個の具体的な武家としては、必ず主従の関係に置かれているのであった。したがって、儒教的な「士道」としての倫理観は、他方で、主君に献身し、いつ何時でも主君のために命を投げ出す葉隠武士道に裏打ちされてこそあり得た、ともいえるだろう。
 
 死ぬことと見つけたり、であまりにも有名な『葉隠』であるが、説いている中心は主従の契りであり、主君を切実に思う心からくる「死の覚悟」である。『葉隠』は、佐賀藩主鍋島光茂に少年期から仕えた山本常朝(一六五九〜一七一九)の談話筆録であり、一途な奉公人という彼の性格の色濃くあらわれたものである。たとえば言う。
 
■奉公人は一向に主人を大切に嘆くまでなり。これ最上の被官なり。御当家御代々、名誉の御家中に生れ出で、先祖代々御厚恩の儀を浅からざる事に存じ奉り、身心を擲(う)ち一向に嘆き奉るばかりなり。(開書一──三)
 
 家臣、奉公人は心底から主人を切実に思わなければならない。これが最上の家臣である。主人からの先祖代々の御厚恩にこたえ、身も心も主人第一に尽くさなければならない、というのである。もう少し見てみよう。
 
■我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となりて、二六時中主君の御事を嘆き、事を整へて進上申し、御国家を堅むると云ふ所に眼をつけねば、奉公人とは言はれぬなり。(同──三五)
 
■武篇は、敵を討ち取りたるよりは、主の為に死にたるが手柄なり。(同──一七二)
 
 主君のために「死に身」になって奉公せよ、武芸は主君のために死ぬこと、と説く。これをいささかでも疑ってはならない。なぜ、と問うのも禁物である。別のことがありはしないかと迷いが生じる。疑念や迷いは死を遠ざける。だから、分別を嫌う。
 
■忠の不忠の、義の不義の、当介の不当介のと、理非邪正に当りに心の付くがいやなり。無理無体に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて済むことなり。
 
 これはよき御被官なり。奉公に好き過し、主人を嘆き過して、あやまちあることもあるべく候へども、それが本望なり。万事は過ぎたるは悪しきと申し候へども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過し、あやまちあるが本望なり。理の見ゆる人は、多分少しの所に滞り、一生をむだに暮し、残念な事なり。誠に纔(さい)の一生なり。唯々無二無三がよきなり。二つになるがいやなり。万事を捨てて、奉公三味に極りたり。忠の義のと言ふ、立ち上りたる理屈が返すぐいやなり。(同──一九六)
 
 奉公にあたっては「理非邪正」を問うてはならない。「無理無体」「無二無三」に奉公し、主人を大切に思え。奉公にやり過ぎるということはない。仮にそのために過ったとしても本望だというわけである。この、無分別の、無理無体の滅私奉公の脈絡の上に、死ぬこと、がある。
 
■武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つゝの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つゝの場にて、図に当るやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。
 
若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死にゝ、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度(ちど)なく、家職を仕果すべきなり。(同──二)
 
 こうして、滅私奉公、常住死の武士道が定着する。「暗殺の年輪」の葛西馨之介はそのもたらす残酷を知った。知って、逃れようとしている。
 
 が、土屋又蔵、丑蔵はそこに生きようとした。いや、死のうとした。武士道に則って死ぬことに至上の価値を見つけた。人びとは、その死を武士道の鑑と賞賛した。賞賛の声は、時勢に合わせて武士道というものを変えていった。主君、家臣という主従に重きを置く封建社会のそれは「小武士道」にすぎず、真の武士道は「国民が武を以て天皇に仕奉り、国家を防御し守護する」ことにあり、「一億が一身一体となりて、大君の命のままに、身を捨て命を捧げて仕奉るべき」ものである、と。
 
■肇国(ちょうこく)の昔より厳存し、神武天皇以来二千六百年間種々なる時代を経て、訓練し鍛錬された、絶大無限の威力を有し、将来も益々発展すべき大勢力を有し、我が万世一系の国体を守り、大御複成を宇内にかがやかしめ、此の大国民を安堵せしむるものは、実に我が武士道である。我が国体と共に全く世界に無比なるものは此の武士道である。
 
 武士道は神代に淵源し、神武天皇より今に至るまで上下三千年の久しき、時に汚隆(おりゅう)盛衰なきにあらずと雖(いえ)ども、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇道を扶翼(ふよく)し、今より千万年の後に至るまでも変ることなく動くことはなかろう。
 
 武士道は天壌無窮の皇運を扶翼する為に、自ら発生し、発達したるものにて、天壌無窮の皇運なければ此の道なく、此の道なければ天壌無窮の皇道を扶翼し難く、両者相離れるべからざるものである。(佐伯有義責任編集、井上哲次郎監修『武士道全集』)
 
 江戸期の儒教的武士道は、いともたやすく「皇道的武士道」に仕立て直された。日清・日露の二つの戦争を経て経済的、軍事的大国へとこの国が変貌を遂げていく足音に合わせて、その声音が高まった。日中戦争から太平洋戦争への拡大では、いっそう拍車がかかった。
 
「聖戦」遂行に作家たちが否応なく協力させられたことは知られているが、「武士道」精神の官房、流布に筆を使ったこともその一つである。たとえば山本周五郎。敗戦を翌年にひかえた一九四四年三月、「武士道の精髄」と題するエッセイを発表し、こう閉じている。
 
■武士道の精髄は御成敗式目によって成ったものでもなく、武家法度によって成ったものでもない。禅も儒も、着物というほどの役にこそたて心底には及ばない。繰り返していえばそれは、純粋無垢な日本人の魂なのである。しかも、日本人だけにしかない魂だ。「おのれを無にする」というが、その「無」とは異邦人のいう虚無の「無」ではなく、神代のむかしから、億劫(おくこう)のはてまで続く氏族の系列へ溶けこむ意味である。…(略)…
 
日本人の生命はその氏族の系列のなかにあるので、死は生を転ずるにすぎない。破滅ではないのである。したがって、「七たび生れて逆賊を討たん」という観念は、日本人だけにゆるされるきわめてしぜんな叫びなのだ。いささかも「死」の彼岸に、楽園を求める必要はないのである。
 
 −名を惜しむ。
 おのれの名を惜しむのではない。氏族の名を惜しむのだ。時代によってあらわれ方こそ変わるが、大君のへにこそ死なめ……という妄につながる氏族の「名」を惜しむのである。
 
 −身命を惜しまず。
 おのれの身命は、祖先より子孫へとつながる一の単位である。身命を捨てることは、氏族の系列に溶けこむ飛躍でしかない。ここに、武士道の精髄──戦う今のわれらの血潮の中にも、力強く脈持ち流れている軍人(つわもの)魂があるのである。
 
 武士道とは、「大君のへにこそ死なめ」と見つけたり、ということになるのだろうか。それにしても、一人の作家の一つの無惨ではある。
 
 しかし、その武士道の喧伝に流され、時代の波に抗うすべを知らず、われともに級友たちを予科連へと駆りたてた藤沢周平である。それをずっと心の奥深くに宿し、「身をよじるような悔恨」に身を苛んできた藤沢周平である。「武士道の鑑」に黙っていようはずがないではないか。
 
 「又蔵の火」をそういう藤沢周平の思いを重ねて読むとき、私は、又蔵の執念にも、丑蔵の潔さにも負けてはいない作家の心を感ずる。いや、負けてなどいられるものかと、両手を広げて立ちはだかる姿さえ思うのである。又蔵の、兄を思いやる心が愛しければ愛しいほど、それはいっそうである。
(新船海三郎著「人生に志しあり 藤沢周平」本の泉社 p96-105)
 
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 シンガポールの華字紙聯合早報八日付は、「『武士道』は、日本のイラク派兵の精神的支柱か?」と題する東京通信員の論評記事を掲載し、「日本は、(戦争をする)『普通の国』への道を突き進んでいる」と強い警戒心を表明しました。
 
 記事は、「小泉首相は第2次世界大戦中の『神風特攻隊』を礼賛したり、米国映画『ラスト・サムライ』を鑑賞して、『武士は死を恐れぬ精神を持つだけでなく、時には死を望まねばならない』と語っている」と指摘。
 
 そして、「小泉首相は、自衛隊を『武士道精神』で激励し、国民にも死を恐れるなと訴えている。日本はいま、『普通の国』になろうとして、人の死をもて遊ぼうとしているという警戒心を(アジアの)人びとに抱かせる」とのべています。
 
 記事は、「日本の保守派政冶家たちはこの機会に平和憲法を覆して自衛隊に武器の携帯を許し、普通の軍隊にしてしまおうという強硬論を唱え、それらを一気にやってしまおうと行動している」と厳しき批判しています。(しんぶん赤旗 040210)
 
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潮流
 
「武士道」の言葉が最近かまびすしい。イラクに派遣された陸上自衛隊本隊の第一陣見送り式(三日)で、浜田靖一・防衛庁副長官が「武士道の国の自衛官の意気を示してほしい」。その前には、自衛隊幹部が「武士道の国の自衛官らしく、規律正しく任務を全うしたい」
 
▼全国の書店でも昨年末から、新渡戸稲造の「武士道」をはじめ、その関連本がベストセラーに入っています。同時期に公開された映画「ラストサムライ」の影響でしょうか
 
▼武士道精神をテーマにしたこの映画は侍への徹底した賛美や史実とかけ離れた描写が批判を受けています。一方で、潔さや、損得ではなく「義」を重んじる生き方が、若い人を引きっけているようです
 
▼もともと武士道といっても、体系だった思想があるわけではありません。長くつづいた日本の封建制度のなかで、武士のあるべき姿を示した道徳観のようなものでしょう。新渡戸が百年以上も前に書いた本が、唯一の思想書といわれる由縁です
 
▼もちろん武士道そのものは主君への忠義を核として、封建社会の秩序を守るためのものです。いまに適用するわけではありません。しかし、今日にも民主主義を土台にした「義」はあります
 
▼イラク戦争は、まさにその大義が問われました。国際社会が築いてきた平和のルールを破り、戦争を起こした側に正義はありません。彼らが口実にしてきた大量破壕兵器もうそでした。いま日本がとるべきは、「義」のない大国にくみすることではないはずです。
(しんぶん赤旗 040210)
 
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◎「時代の低音部で鳴り響いていた武士道」。いま。