学習通信040211
◎武士道……「新渡戸が述べた通り、その習慣は忘れられても、決してその記憶が忘れ去られることはない。」
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魂をささえる国家
日本においては、この近代主義がもたらす問題は深刻である。なぜなら日本の場合、「魂(エートス)の問題」は二重の課題を意味するからである。すなわち、世界的な問題としての「近代主義の見直し」と、戦後日本の置かれた特殊状況として「対米従属の見直し」がそれである。
しかも、この二つの課題は、決して別のものではない。冷戦以降の世界的潮流の一つとなった近代主義とは、まさに「アメリカニズム」にほかならないからである。そしてアメリカニズムこそ、戦後の日本が少なくとも思想と理念の次元でいえば、その中にほぼ無条件に組み込まれてしまった根本的な条件であった。
ここで、アメリカ的なものの翼下に置かれた日本の「戦後思想」の特異な状況をどうしても問わざるをえなくなる。第一章でわたしなりの論議を展開しようと思うが、さしあたり確かなのは次のことである。戦後思想の中では、しきりに民主主義、平和主義、個人の自由などが論じられた。
だが奇妙なことに、民主主義がその背後に「国家」を持ち、平和主義がその背後に「力」もしくは「闘争する意志」を持ち、個人の自由がその背後に「集団の規律」を持つことはほとんど顧みられることはなかったのである。むしろそれらは対立するものだと見なされたのである。
民主主義は国家と対立するものであり、平和主義は力と対立するものであり、個人の自由は集団の規律とは対立するものだと見なされた。むろんそういう局面もある。だが、この両者が相互性と補完性を持っているとしなければ、民主主義や平和主義、個人的自由は全く実体を持たない空想的理念でしかない。
ところで、これらの価値を背後でささえるものは多かれ少なかれ「国家」にかかわるものであり、また同時に「魂(エートス)」にかかわるものなのである。こうして「国家」や「魂(エートス)」は「公的な」議論や了解から排除されていった。
そこで価値と倫理、つまり「魂」の問題はせいぜい、それぞれの個人の好悪と選択の問題だと了解されてしまい、「公的な」論議とはならなくなったのである。それらは「私的な」領域へ押し込められた。価値を個人の好みの問題と見なすこと、これが戦後日本の「自由」であった。
「魂の問題」を個人の好き嫌いに解消し、そこにいっさいの社会的意味も公共的意義も認めない。このことが、われわれの理解した民主主義と個人的自由と人権思想からなる戦後思想である。価値や倫理の問題を社会や国家の次元から切り離して個人の好悪や選択に解消すること、これこそが「近代の実現」と見なされたのである。このようなことは西欧の近代化の中では決して起こってはいない。日本の特殊性があるとすればむしろ、戦後日本の近代化そのものがいかにも特殊なものであった。
その結果、女子高校生の「援助交際」なる奇妙なものが個人の自由だと主張され、自由に放任された(つまり、規制緩和され過ぎた)フリーターの一群が姿を現し、小学校でさえ学級崩壊が起きる。そこそこの大人たちがインチキ宗教に大金を使い、至る所にソフトなポルノが氾濫し、およそこれも他国では見られないほどの無意味なバラエティ番組がテレビを占拠している。
わたしはこれらを道徳的に批判しょうとしているのではない。この種のことは今日の日本に特異なわけでもなく、世界中至る所でもっと深刻な「悪」さえ蔓延している。また当然、不健康や不道徳はすべて排除されるべきではない。しかしその場合でも、普通は、ある種のことが不道徳で不健康だという社会的了解はある。
だから、道徳的なものと不道徳的なものは棲み分けるのが通常なのである。今日の日本に特異なのは、そもそもこうした事柄が良いのか悪いのか、適切なのか不適切なのか、恥ずべきことなのかそうではないのかさえ論じ評価するすべをすっかり失ってしまった点にある。それらが道徳的に許されるかどうかではなく、そもそも問題にすべきかどうかを論じる用語を持たないのである。
ここに今日のわれわれの戸惑いがある。実際にはわれわれの多くがこうしたことをうさん臭く、困ったことだと考えている。しかし、それを論じる言語がない。そもそも善悪を、美醜を、「公共的に」論じることがあらかじめ排除されてしまっているのである。
そしてこのことと、今日の日本の、都市も地方も含めた景観の絶望的な崩壊、建物や街の美観のほぼ全面的な破壊、安手のコンビニ文化の氾濫、八〇年代からはじまったバブル的気質、付和雷同する世論、ほとんどスキャンダリズムや人気投票と堕した政治論議、テレビに後押しされた政治のワイドショー化、こうしたことは決して無関係ではないであろう。
これは官僚による経済運営や日本的経常、自民党独裁の日本的政治などのせいではない。このすべてに共通することは、倫理や徳に関する議論や了解を排除したところから生じているといってもよい。結果として、本来、美徳や美意識にかかわるあらゆる事柄を、社会的な課題としてその善し悪しを判断することを不可能としてしまった。
人は決して価値を自分の好悪で作り出すことはできない。価値は社会と歴史の中から受け取る以外にない。だが戦後の言説は、価値を社会と伝統に結びつけることを拒絶したのである。そして、価値を失った人間は、世論と自己利益だけを頼りに行動するほかない。彼は自分で考えようとはしないし、正しいと思われる事柄に忠誠を誓う必要もない。しかしそれこそは「魂を失った人間」というほかないのではないだろうか?
わたしには、今日の日本の最大の課題は、この「魂の衰弱」にどのように対処するかにこそあると思われる。言い換えれば「魂の復興」をいかに図るかこそが問題なのである。ここでいう「魂(エートス)」が、多かれ少なかれ特定の社会の歴史の文脈の中で、それとは強く意識されずに共有され引き継がれてきたものだとすれば、今日の日本人の「魂の衰弱」は、戦後のわれわれの国家意識の衰弱、ナショナル・アイデンティティの衰弱と無関係ではないだろう。それゆえ「魂の復興」は「国家意識の再建」という課題と重なってくるであろう。
グローバル化と情報化がもたらす「文化の破壊(バンダリズム)」と「国家意識の弱体化(デナショナライゼーション)」の中で、いかにそれに抗しつつ、ナショナル・アイデンティティの意識を確保するかこそが現代の日本の課題といわねばならないであろう。
むろん、ナショナル・アイデンティティといい、「魂の問題」といい、簡単な形で言語表現できるものでもないし、また明示された道徳律のような形で論じるべきものではない。「魂」とはまた「心」といってもよいが、いずれにせよそれは日常生活の中に入り込み、人間関係を具体的場面で律し、情感と美意識を結びつけ、人間の社会的なたたずまいに形を与える「沈黙の規範」である。
さらに「魂」や「心しという観念によって、われわれは、日常的な倫理の源泉だけではなく、生き方と死に方の形を、あるいは心構えを言い表そうとしてきた。とりわけこの語が仏教的な無常観や王朝的な美意識、儒教的な霊魂観念を随伴するときには、明らかにそこには死生観、つまり人間を世界へ結びつける絆と死へと向ける意識のあり方が暗示されていた。
ここでは一つの精神的な伝統の中にある限りで、われわれはこの明示されない暗黙のメッセージを、暗黙の死生観を受け取ることができたのである。
よく知られているように、新渡戸稲造(一八六二〜一九三三。教育者)はほば百年前の一八九九年に著した『武士道』において、西欧のキリスト教に代わりうる日本的な倫理の基礎を「武士道」に求めた。新渡戸のいう「武士道」とは、キリスト教のように教義体系とはならず、日常生活の規範を形作っている。
「それは時には語られず、また書かれることもない作法である。それだけに、実際の行動にあっては強力な拘束力を持ち、人々の心に刻みこまれた掟である」。そして、このいわば「沈黙の規範」の背景をなしているものは、仏教からくる運命観、神道からくる自然崇拝・先祖崇拝、そして儒教からくる道徳観、これらの混融だと新渡戸は述べるのである。
だが彼はまた次のように述べる。「めざましいデモクラシーの滴々たる流れはそれだけで武士道の残澤を飲み込んでしまう勢いを持っている」。だから、確かに「武士道の余命はあといくぼくもないように見える」と。
しかしまた新渡戸はこの書物の結びにおいて、それにもかかわらず武士道の記憶は保持され、いつかは蘇生するだろうという期待を書きしるさざるをえなかった。「武士道は一つの道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃墟を越えて蘇生するに違いない。何世代か後に、武士道の習慣が忘れられ、その名が忘れられるときがきても、路辺に立ちて眺めやれば、その香りは遠く離れた、見えない丘から風に漂ってくるだろう」と。
この百年の間に、「あの戦争」があり、そして、「デモクラシーの滔々(とうとう)たる流れ」が怒濤の勢いでわれわれの生を浸しきった戦後がある。武士道の衰退を予言した新渡戸の悲観はまだそれらの以前のことなのである。今日では、もはや新渡戸の悲観を思い起こすことさえ困難となっているとしても不思議ではない。だがしかしまた新渡戸が述べた通り、その習慣は忘れられても、決してその記憶が忘れ去られることはない。
わたしは本書でこのことを直接の主題にすえているわけではない。新渡戸のいうような武士道、あるいはもう少し広くいって日本的精神といったものの帰趨(きすう)を主題としているわけではない。だがこのような関心が、国家への思考、もしくは戦後日本における国家論の消失と無関係ではありえない。
とすれば、わたしが「国家」をテーマとする理由はおおよそ理解していただけたであろう。またそれがどうしても「保守主義的」な思考に竿さしたものでなければならない理由も理解していただけたであろうと思う。それはまた日本の戦後を思想的に反省することでもあるし、またいわゆる進歩主義を批判的に検討することでもある。これらのことは一つのセットとなった作業なのである。それはいささかまわりくどい作業ではあるものの、わたしには、今日の日本においては何にもまして重要な課題だと思われるのだ。
(佐伯啓思著「国家についての考察」飛鳥新社 p40-46)
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武士の習いの成立とその文芸的把握
古代社会とは、集中的な国家権力で直接に人民の身体を支配し、奴隷的にその労働力を徴集する社会であった。これにたいし、封建社会とは、分散的な土地支配を媒介として、その土地に固定された人民の生産物を収取する社会であった、というふうに説明することができるかもしれない。
このように、土地の支配が封建的支配の中核をなすのである。そして、土地の支配を強固にする人的組織として、封建社会の支配者である武士のつくり出したのが、主従の結合であった。
すなわち、武士はその配下と主従の契約を結び、主君は従者にたいし、土地に関する権利その他を承認するか、または新しく与え、かつこれを保護するという「御恩」を給付する一方、従者は主君にたいし、平時および戦時に、経済的または軍事的に忠勤をつくすという「奉公」をささげるのである。
このような結合により、武士の武力と経済力とをきわめて強くすることができたのであった。しかも、主従の結合は、同時的に下層の武士から武家の棟梁にいたる上下いく段もの契約を連結するとともに、時間的に親から子へと主従関係をつづけていく譜代の間がらを重ねることによって、その結合力をいっそう強固にしたのである。
主従の契約は、公家貴族のもっていなかった新しい人間関係をつくり出したものである。貴族にたいする武士の勝利は、この新しい人間結合の発揮した威力のおかげであったといってさしつかえないと思う。
そればかりではない、武士たちは、ひとたび戦場に出れば、主従ともに異常の難難をともにしなければならないし、しばしば生死の運命をひとしくしなければならなかったから、そこからも、主従の結合はいよいよ強化された。
死を賭しての争いのための人間的結合は、もはや単なる利害のための結びつきにとどまりえない厳粛な性質をおびてくる。それは貴族たちのまったくあずかり知ることのできない、新しい精神的境地であった。
もちろん、主従の契約は、相互の社会的利益の保持・拡張のために結ばれたにすぎず、それ以上のひろい社会意識をふくんではいなかった。この点で、とにかく国家の政治をひろく見わたす義務を自覚していた律令貴族より後退していた面もある。
また、権勢欲を満足させるためにはあらゆる陰険な術策を弄しながらも、人を殺傷することだけは絶対にしなかった摂関政治時代の貴族とちがい、人間の生命を尊重する気持を欠き、残虐な殺傷行為を平気で行なった武士に、非人間的な一面の強かったことは否定できない。
したがって、いたずらに武士の人倫を高くばかり評価するわけにはいかないけれど、とにかく、それが顔廃した貴族社会に欠けていたフレッシュな道義的活力をもってたちあらわれてきたことは、特筆に値する。
もっとも、一口に武士といっても、農業経営者的基礎をもっていた鎌倉時代の武士から、都市の消費者となりおわった江戸時代の武士にいたるまで、いくつもの段階があり、その性格も大きく変っている。したがって武士の道徳も、時代により必ずしも一様ではなかった。
ひろく使われている「武士道」という名は、江戸時代になってからできたことばである。明治以後の倫理学者が普遍的道徳であるかのように美化し、欧米諸国にも喧伝された「武士道」と呼ばれるものは、江戸時代に成立した観念的イデオロギーであって、封建社会成長期の武士の道徳の実体は、そういうものからはちょっと想像のつかない性格のものであったことを知っておく必要がある。
一般に主従の結合において、主従の双務関係は平等でなく、従者(家臣)の主君への奉公の義務が主君の従者への恩顧に優先する力をもっていたことはあらそわれない。
初期の主従の結合は「一族郎等」ということばにあらわれているとおり、主君と従者との間には非契約的な親族共同体の関係が持続していることが多かったから、ヨーロッパの封建社会のように、古典的な双務契約による主従の関係とは違っていた。
とはいうものの、主従関係が、律令政府と人民とのような、奴隷制的な一方的支配の関係と根本的にちがうのは、とにかく「御恩」と「奉公」という双務的な義務が前提となっている点にあるのであって、いちがいに従者が無条件の忠勤を一方的に義務づけられていたわけではない。
江戸時代のように、主君例の権力が極度に強化される一方、たいていの武士が土地から引きはなされ、知行米の給付を受けるサラリーマン的存在に変化してしまうと、従者の独立性はほとんどゼロにちかくなる。
しかし中央権力もまだ弱く、武士がみな農業経営者として拠るべき所領をもっていた封建社会成長期にあっては、主君にたいする従者の独立性はなお強いものがあった。
だから、所領をもたない郎等クラスの最下級の武士はともかくとして、中以上の武士は、決して主君にたいする奴隷的な一方的奉仕に甘んずる必要はなかったのである。
かれらは、戦場で勇敢に戦うが、必ず「軍忠」にたいして「恩賞」をもとめることを忘れなかった。恩賞請求のために起草されたおびただしい軍忠状の存在は、武士の道徳が、無条件の「献身の道徳」でなかったことを何よりも雄弁に物語っている。
譜代の関係は、主従の結合を永続させる力となったにもかかわらず、形勢の変化をみては、古い主家に離反する武士も少くなかった。頼朝の忠臣として知られる畠山重忠も、はじめは平家の家人として頼朝を討伐する側に立っていたほどである。
武士にとって最大の関心事は、その家を保ち、子孫を栄えさせることであって、主君への忠もまたその手段にすぎなかった。かれらは一身一家の利益のために主君をいただくが、同じ主君をいただく家臣たちの相互の間になんらの連帯感があるわけでもない。
かれらが戦場で団体的に行動することができず、味方を出しぬいて一番がけを競い、おのれ一個の功名を立てることのほか他をかえりみる余裕のなかったのは、当然であったろう。
主従道徳がそういう性格のものであったのは、主従の結合が古代国家の形式的な統一の解体した後に、地域ごとに散発的に結成された社会関係であったところからくる必然の結果であって、そこに大きな歴史的限界があることはいうまでもない。
しかし、一方からいえば、くりかえすことになるけれど、古代社会では上位のものにたいする無条件の隷従しか知らなかった日本人が、完全な契約関係とはいえないまでも、一応、双務的な関係をふくむ道徳原理をはじめて獲得することができたのであるから、何といっても、日本人の精神的成長の上での画期的な進歩といわなければならないのではあるまいか。
そうして、このような新しい人倫をおもな素材として、形式的にも貴族文芸の時代にはなかった、新しい文芸のジャンルをつくり出したのが、『平家物語』に代表される軍記物である。
(家永三郎著「日本文化史」岩波新書 p116-120)
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◎垂れ流されるイデオロギー 、低音部≠ナ鳴り続けている……。自分の学習では足りない。急いで得たことをひろげなければ……。
「負けた」くらいでたじろいではいられない。たたかいはつづいているのだから。