学習通信040212
◎小泉発言はつづく……「私は抵抗感を覚えなていない」
 
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A級戦犯首相発言 「戦争責任」どう説説明
 反発考慮せず「信念」貫く
 
 小泉純一郎首相が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に「抵抗感はない」と明言し、参拝を続ける考えを示したことは、靖国参拝に対する中国や韓国などの反発にもかかわらず「信念」にこだわる首相の政治姿勢を鮮明にした。
 
 A級戦犯に関しては自民党内でも中韓周囲への配慮などから、分祀(ぶんし)を検討すべきだとの意見は根強くある。戦争を指導したとされるA級戦犯と一般の戦没者との違いを「こだわらない」と言明する首相は、戦後問われ続けてきた「戦争責任」をどう説明するのか。認識が問われる。
 
 首相は今年元日の靖国参拝を「初詣で」と位置付け、「日本の伝統じゃないか」「どこの国でも、その国の歴史や伝統、習慣を尊重することにとやかくは言わない」と日本固有の風習に絡めることで関係国の批判をかわそうとした。ところが、十日夜には靖国参拝自体について「日本の文化、伝統だ」と記者団に述べた。論理のすり替えと指摘されそうだ。
 
 福田康夫官房長官の私的諮問機関は、首相の靖国参拝問題を念許に、一昨年末に新たな戦没者追悼施設の新設を提唱する報告書を出したが、政府はたなざらしにしたままで、取り組みは進まず、首相の靖国参拝が恒例化しっつあるのが現状だ。
 
 小泉純一郎首相が十日、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)をめぐり記者団へ発言した要旨は次の通り。
(靖国参拝でA級戦犯合祀は問題とならないか)全然こだわっていません。多くの戦没者、こういう方々に対して二度と戦争を起こしてはいけないと。また、今日の平和と繁栄があるのは、皆さんの尊い犠牲の上に成り立っているという哀悼の意と敬意と感謝をささげたいという気持ちに変わりない。これは常にわれわれ後世の者も忘れてはならないものだ。戦没者全体に対してですから。
 
(中国、韓国の理解は)理解してもらわないといけない。日本の文化、伝統ですから。中国、韓国の方々、どのような方であれ、その国の戦没者に対する敬意の表し方について決して文句は言いません。。
 
 (A級戦犯と一般の戦没者の違いは)こだわっていません。多くの戦没者に対して特定の人、噂定しているわけではありません。いかなる戦争であれ、国のために命をささげなければならなかった方、全体に対しての敬意と感謝の念だ。(A級戦犯は含まれるか)そう、こだわっていません。
(京都新聞 040211)
 
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相次ぐ侵略戦争肯定の動き
A級戦犯合祀容認、日露戦争美化の議連
 
 日本の対外侵略を肯定する歴史逆行の動きがあいついでいます。
 一つは、十日の衆院イラク特別委員会での小泉純一郎首相の発言です。
 
 小泉首相はA級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)されていることについで「私は抵抗感を覚えなていない」「よその国からああしなさい、こうしなさいといわれて、今までの気持ちを変える意思はまったくない」とのべ、中国や韓国からの批判を意に介さない態度をあらわにました。
 
A級戦犯とは
 
 A級戦犯とは、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で侵略戦争を計画・準備・遂行した「平和に対する罪」「人道に対する罪」で裁かれた戦争犯罪人で、侵略戦争の中心的指導者です。靖国神社がA級戦犯十四人を「昭和の殉難者」としてまつっていることは、侵略戦争を「正義の戦争」として肯定するものです。
 
 首相は「多くの戦没者の犠牲のうえに今日の日本の平和と繁栄がある。そういう思いを込めて靖国神社に参拝した」などといいますが、靖国神社は戦没者一般ではなく天皇のために「名誉の戦死」をとげた人々だけを「英霊」としてまつる特異な神社であり、戦前の侵略戦争を推進する精神的支柱としての役割を担いました。
 
その靖国神社を首相として参拝することは、侵略戦争肯定の立場にたつものとして批判されるのは当然です。
 
 まして、A級戦犯は「戦没者」ですらなく、その合祀を「抵抗感がない」と肯定することは、戦後日本の国際誓約に反し、侵略戦争を違法化した戦後国際社会の諸原則にも背を向けるものです。
 
 日露戦争学ぶ
 
 もう一つの動きは、日露戦争で日本がロシアに宣戦布告して百周年にあたる十日午前、自民・民主両党の国会議員四十三人が明治神宮を参拝したことです。参加者らは、近く「日露戦争に学ぶ会」を発足させるとしています。
 
 参拝した平沼赳夫前経済産業相は、中国東北部、朝鮮の支配権を帝政ロシアと争った日露戦争を「明治のみなさんが国を思い、心を一つにして国難に対処した精神を引き継ぐ」などと美化しました。日露戦争が終わった年の一九〇五年、天皇制政府は朝鮮を「保護国」とするなど、対外侵略を加速化させました。平沼氏の発言は対外侵路美化にもつながりかねません。
 
 小泉首相の発言とあわせて、日本の政界に侵略戦争を肯定する黒い流れがいまだに流れていることを示しています。
(しんぶん赤旗 040212)靖国神社は死者を「選別」する
 
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小泉首相の〃論″に対して   小林 栄三
 
 小泉純一郎首相は、十一日の党首討論会で、A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社への参拝について、A級戦犯が死刑という刑罰をうけていることをあげつつ、「死者に対してそれほど選別しなければならないのか」とのべた。しかし、靖国神社とは、死者に対してそういう「選別」をすることを核心とする神社なのである。
 
 明治維新の功労者である西郷隆盛さえ、西南戦争で時の明治政府に対する「賊」となったから、合祀されていない。
 
 靖国神社は、一八六九年(明治二年)に、戊辰戦争で死んだ官軍戦没者の慰霊のために「東京招魂社」を創建したのに始まる。「官軍戦没者」の「慰霊」であるから、反政府方の戦死者は「賊」として祀(まつ)られなかった。のち、一八七九年(明治十二年)六月、靖国神社と改称されたが、祭神の基準は変わらなかった。
 
 私は会津の出身だが、鳥羽伏見戦争以降の戊辰戦争で戦死した会津藩士たちは、かの有名な白虎隊を含めて「朝敵」であるから、当然、祀られていない。
 
 明治末までは、靖国神社の祭日は、会津藩降伏の十一月六(陰暦九月二十二日)を正祭として勅使が派遣され、春の大祭は五月六日(十一月六日の半年前)であり、会津藩の最大の屈席の日が、戊辰戦争勝利者が「殉国者」を慰める最大の記念日となっていた。
 
 さらに奇妙なことがある。
 靖国神社の祭神は、はじめは戊辰戦争での「官軍」の戦死者だったが、第十六回の合祀(一八八八年<明治二十一年>五月)のときから、一八五三年(嘉永六年)六月、アメリカの海将ペリーが軍艦四隻を引き連れ、浦賀に来航したときにさかのぼって、反幕府勢力として死んだ人たちをも合祀するようになった。
 
そのため、「安政の大獄」で刑死した人、井伊直弼を殺害した人まで合祀されて贈位されたし、一八六四年(元治元年)七月、長州藩が京都の御所に武力攻撃を加えて当時の朝廷・幕府側だった会津・薩摩藩等によって撃退された「禁門の変(長州藩のこの武力攻撃は、まさに「朝敵」行為で、実際、長州征討が朝廷と幕府によっておこなわれた)における長州藩等の死者が合祀され、「官軍」だった会津藩士などは合祀されないということになってしまった。
 
 大正になってから、この「禁門の変」についてだけ合祀されたが、これを唯一の例外として、白虎隊その他は、現在も「朝敵」扱いで合祀されていない。勝手に基準を設けて、「勝てば官軍、負ければ賊軍」と、百三十年後の今日まで「死者に対してそれほど選別する」のが、靖国神社合祀の「基準」なのである。
 
 だから、A級戦犯についても、すでに死者となったから合祀したというのでなく、「安政の大獄」で獄死した吉田松陰や橋本左内と同様の立場の「殉国者」と同列と見て合祀しているわけである。この靖国神社に首相が参拝することは、A級戦犯を礼賛し、十五年戦争を事実上「聖戦」祝するものである。(日本共産党名誉役員)
(しんぶん赤旗 010714)
 
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思想の牢獄
 
 国家神道イデオロギーの権力的強制は、ともすれば宗教的次元の問題としてのみ考えられがちであるが、実は宗教的次元での問題は、全体の一部分にすぎない。国家神道は何よりもまず政治宗教であった。したがって、宗教的次元の問題と政治的次元の問題とが不可分の関係にあった。「国体」を正面に押出した治安維持法がこのことをもっともよ
くしめしている。
 
 治安維持法違反事件ではないが、「教育勅語」に礼拝しなかったとして第一高等中学校の職を追われた内村鑑三の事件(一八九一年)、「神道は祭天の舌俗」と看いて帝国大学教授を非職とされた久米邦武の事件(一八九二年)以来、美濃部達吉の天皇機関説事件(一九三五年)、津田左右吉の一連の古代史研究の著書発禁・出版法違反事件(一九四〇年)に至るまでの事件は、いずれも国家神道イデオロギーにたいする異端の思想・学説を弾圧するという政治的事件であった。
 
 これらの政治宗教としての国家神道=天皇制イデオロギーに対立する異端弾圧の最大のものが、治安維持法がその根絶を本来の目的とした共産主義思想弾圧の諸事件であった。共産党は、神の存在そのものを認めず、しかもその政治的目標の最大のものとして天皇制廃止をかかげ、侵略戦争に反対した政党であった。天皇制と天皇制をささえる宗教的イデオロギーである国家神道にとって、共産主義はもっとも憎むべき異端の思想であった。共産主義者=「アカ」は、天皇制国家の公敵とされた。
 
 治安維持法による弾圧の手は、さらに「アカ」の隠れみのとされた社会民主主義から、ついに「アカ」の温床ときめつけられた自由主義にのびた。さらに、大本教・創価教育学会などの宗教思想に至るまで、近代天皇制イデオロギーすなわち政治宗教としての国家神道に反するあらゆる思想におよんだ。
 
 政治と宗教とが国家権力のもとで一体化したときの恐ろしさを、戦前の治安維持法の歴史がよく教えている。治安維持法違反に問われた者は、その全員が政治宗教としての国家神道=近代天皇制イデオロギーの異端者として、いわば国家の祭壇に供された犠牲=「いけにえ」であったと言ってよい。その国家神道の中核的存在のひとつである靖国神社は、たんに戦場で流された血だけでなく、戦争に反対した犠牲者が牢獄で流した血のうえにきずきあげられた、二重の意味での血ぬられた天皇の祭殿であった。(大江志乃夫著「靖国神社」岩波新書 p56-58)
 
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大和魂
 
 要するに、靖国神社に合祀されるということは、故人の意志あるいは故人の遺族の発言権をまったく認めないものとして、国家の意志によって故人の霊魂=「英霊」が国家に帰属することを意味した。遺族が遺族としての親愛の情を表現することさえ、「国の神様」にたいする「不謹慎」として非難の対象とされた。鈴木宮司は結論としてのべている。もっとも重要なことは、靖国神社が「一国の祭祀」であるという点にある、と。
 
 たとえば、戦場の跡に建立された忠霊塔は墳墓と同一の取扱を受けるべきものであるという。たしかに、有名であった旅順の白玉山の忠霊塔などは、その地で戦死した軍人の遺骨を一括埋蔵し、戦死者を顕彰するために建てられたものであり、その本質は墳墓である。
 
外国の無名戦士の墓に幾分か似ているが、戦死者の故国にではなぐ日本の征服地に建てられたという点で、外国の無名戦士の墓と根本的に異なり、たんなる墳墓の性格を越えて日本の征服記念碑としての意味を持たされるに至った。しかし、鈴木宮司がここで強調しているのは、墳墓的性格の忠霊塔と靖国神社との本質的な相違である。
 
 靖国神社が戦没者を祀る唯一の「一国の祭祀」であるということは、「靖国の精神と申しますか、大和魂の存在と云いますか、それは靖国神社に宿っているのであります」ことを意味した。「飽までも日本国民の精神、言換えると大和魂なるもの、これは永久に靖国神社に鎮まっておられて、これを我々が心のうちに植付けてゆけば、国民としての大和魂が充分に発揮されるものである」、そういう国民の精神教育の原点、精神的国民統合の中心として靖国神社は位置づけられていた。
 
敗戦前の天皇の大日本帝国にとって、靖国神社は、国民に天皇のために生命を投げ出す精神としての大和魂を植えつけるための、国家の巨大な祭殿であった。
 
 以上は靖国神社自身が靖国神社の国家宗教的あるいは政治宗教的性格を明らかにした資料である。靖国神社は、日本国民の、たんに信教の自由のみならず、思想の自由をも拘束することを明白な目的とする国家施設として維持され、これにたいする信仰が国民に強制されてきた。靖国神社は、明治以来の日本の国家宗教である国家神道のうえでも特別に重要な地位をしめ、帝国憲法第二八条にいう「臣民たるの義務」の名において国民の思想・信教の自由を制約ないしは抑圧する最大の宗教施設のひとつとして、存在しつづけた。
(大江志乃夫著「靖国神社」岩波新書 p139-140)
 
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修身教科書の中の靖国神社
 
 こうした組合せのなかに、国家神道に関する記述が織りこまれ、全体として天皇と国家神道の総合から忠君愛国の結論がみちびきだされるように編集されていた。
 
 巻三では、「第十五 くわうだいじんぐう」「第十六 祝日」、巻四では、「第一明治天皇」「第二 能久親王」にすぐつづいて「第三 靖国神社」、「第二十三 祝日・大祭日」──宮中祭祀に関する説明がされている──、巻六では、「第一課 皇大神宮」である。
 
 ここでも、国家神道の関する教育上の重点が天皇の権威の源泉である宮中祭祀・神宮、臣民の忠節の極致の表現である靖国神社にしぼられていることを、知ることができる。靖国神社に関する記述は次のようになっている。
 
 靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君のため国のために死んだ人々をまつつてあります。春〔四月三十日〕と秋〔十月二十三日〕の祭日には、勅使をつかはされ、臨時大祭には天皇・皇后両陛下の行幸啓になることもございます。
 
 君のため国のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを忍び、ここにまつつてある人々にならつて、君のため国のためにつくさなければなりません。
 
 靖国神社は、国定修身教科書において、その祭神を手本として「忠君愛国」の精神をこどもたちに教えこむための教材とされた。皇族の北白川宮から日露戦争の「軍神」広瀬中佐、一兵卒にすぎない日清戦争の木口小平に至るまでの戦死者が、最高の宮中祭祀者である天皇(=大元帥)に対置され、神宮にたいするものとしての靖国神社に収斂されるというのが、国定教科書による修身科の教科の構造であった。
 
国家神道の体系のなかでも、天皇と国民との関係を直接に軍事的に結びつけるための存在が靖国神社であった。
 
 当然のことながら、靖国神社の祭神を最高の道徳的価値とする修身教科書の思想にたいしては、批判が出た。たといどんな不道徳的な生き方をしていても、天皇のために死にさえすればそれが最高の道徳的価値とされるという考え方は、他のすべての道徳的な生き方を否定することになるからである。批判をしたのは、大正デモタラシー運動の指導的思想家吉野作造であった。
(大江志乃夫著「靖国神社」岩波新書 p148-150)
 
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ヤスクニノ
 
 「ヤスクニノ、ミヤニミタマハシヅマルモオリオリカヘレハハノユメヂニ」(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ母の夢路に)。
 
 この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は一九三六(昭和一一)年六月から放送がはじめられ、翌年一〇月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
 
 現在でも多くの人に親しまれている島崎藤村の詩「椰子の実」が大中寅二作曲で国民歌謡として電波にのったのは、国民歌謡開始の年のことである。太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。
 
これらのシリーズには、戦時中の作品では、北原白秋の詩に井上武士が作曲した「落葉松」、吉田テフ子作詞・佐々木すぐる作曲「お山の杉の子」、戦後の作品には、土屋花情作詞・八洲秀章作曲「さくら貝の歌」、横井弘作詞・八洲秀章作曲「あざみの歌」などがある。
 
 「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。一九三七年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の七月二七日に動員が下命され、ただちに出勤した。
 
おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の八月二〇日、将校斥候(せっこう)として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、蓑に「お母さん お母さん お母さん…‥」と二四回もくりかえし書かれていた。
 
 立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「三・一一・一七」の日付となっている。
 
 この歌が信時潔の作曲で国民歌謡に選定されラジオで毎日放送されていたころ、私は軍の学校に在学中であったので放送を聞いたことがない。したがってその年月にも記憶がない。メロディーも後に楽譜を見て覚えた。
 
 作曲家の信時潔は一九六三年一一月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューア一にたいして──彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、──信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。
 
遺族のもとへ
 
 父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
 
 あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。
 
 父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。靖国神社について私なりに研究するにともない、当初にいだいた私の素朴な疑問はますます深まった。
 
死者の魂にたいして「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。
 
 とくに軍事史を中心とする日本近代史を専攻するようになった私にとって、この問題を解くことが歴史学研究に志した大きな動機であるとともに、大きな課題でもある。
 
 私が自分の最初の著書『明治国家の成立』を刊行したのは、一九五九年であった(一九八三年「再刊への序文」を付してミネルヴァ書房より再刊)。
 
 私はその「はしがき」に、著作の動機を「現実にまだ幼くさえあった私たちに、その生命を投げ出しても悔いぬという決意を強制した日本の近代天皇制への関心からであった」と書いた。この関心は現在でもまったく変わっていない。
 
ただ、敗戦までの日本の国民を「天皇の軍隊」に結びつける強いきずなの役割を果たす目的を持った重要な存在として、靖国神社をはっきり認識することができたのは、研究の具体的な内容が軍事史にかかわりはじめて以後のことであった。
 
 靖国神社は、国家の宗教施設であり、国家の軍事施設であり、そのゆえに国民統合のための政治的・イデオロギー的手段であった。戦争による犠牲者を国民にたいして悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることなく、むしろ逆に栄光であり名誉であると考えさせるようにしむけた存在が靖国神社であった。このような仕組みについての認識にたどりつくまでの学問的営為を動機づけたのは、少年時の私自身の軍国体験であるとともに、父の「靖国の」の歌の存在であった。
(大江志乃夫著「靖国神社」岩波新書 p187-190)
 
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◎小泉首相に発言はつづいています。なぜ? いま? と。私たちが語らないと、と思います。