学習通信040213
◎「政府とは、われわれのうちの何人かが、他の人びとに対してなんらかの制約を合法的に加えるための手段」と。
 
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政府の役割
 
 われわれの問題のどこで、政府は関係をもつことになるのだろうか。ある程度までは、政府も人びとの間における自発的な相互協力の一形式であり、自分たちのいろいろな目的のなかで、目的によっては政府を通じてそれらの実現を図ったほうがもっとも有効に実現できると確信しているため、政府による道を選択する場合がある。
 
 そのもっとも明白な例は、地方政府だ。ただし、どの地方政府もということではなく、どの地方政府のもとでも住める選択の自由を人びとがもっている場合という条件をおいた上での地方政府のことだ。つまり、どの地方政府はどんな種類のサービスを提供しているかを基礎として、どの地方政府のもとで住居をかまえるかを決定できる自由を、人びとは与えられていなくてはならない。
 
このような条件下においては、自分が反対していたり、自分はそのための費用を負担したくない活動を、ある地方政府が行い、しかもこれらの活動のほうが、自分が賛成し費用負担も喜んでする活動よりも割合からいって多くなれば、これに対して人びとは移住という形における反対投票をすることができる。
 
その際に、結果的に発生する各地方政府間の競争は、きわめて限られた競争でしかないが、移住することができるという選択の余地が存在しているという限り、その競争はけっして架空の話ではなく現実だ。
 
 しかし政府となれば、けっしてこんなことだけではすまない。政府とは、われわれのうちの何人かが、他の人びとに対してなんらかの制約を合法的に加えるための手段として、合法的に力を行使したり、そういう脅迫をしたりすることを独占的にできると、広くみなされてきている代理機関でもある。
 
このようにもっと基本的な意味における政府の役割は、ほとんどの社会において、歴史の進展とともに大きく変わってきたし、また特定の歴史的時点で見てみれば、各国間で広範な相異を生み出してきた。本書の大半は、アメリカの過去何十年間かにおいて、政府の役割がどのように変化してきたかということと、政府によるいろいろな活動が、どんな影響をもたらしてきたかということとを、論じていこうとしている。
 
 それらの本論に先立つここでの簡単な説明においては、本論での問題とはきわめて異なったことを論じておきたい。いま、もしも一国社会の構成員たちが、個人として、家庭として、各種の自主的団体のメンバーとして、市民として、「選択の自由」を最大限に達成したいと望んでいるとすれば、どんな役割を政府に与えるべきだろうか。
 
 アダム・スミスは二百年も前に、この問題に対して、これ以上の回答はないといえるものを提出している。
 
 したがって、〔特定産業に〕特恵を与えたり制約を加えたりするすべての体制を、前述の理由で完全に撤廃すれば、自然な自由の簡明な体制がおのずから確立される。
 
この体制下では、すべての人は正義の法を犯さない限り、自分なりのやり方で自分の利益を追求し、自分の勤勉さや自分がもっている資本の両方を、他のどんな人やどんな階級の人びとの勤勉さや資本と競争させても、完全に自由のままに放任される。
 
また主権者は、その遂行を試みればつねに必ずかぎりなく迷わされ、その適切な遂行のためにはどんな人間の英知や知識も不十分でしかない任務、つまり民間の人びとの勤勉さを監督して、これらが社会の利益にもっともよく適合した諸職業へと向かうようにするという任務から、完全にはずされる。
 
自然な自由の体制のもとでは、主権者が精励しなければならない任務はただ三つで、これらは実に重要きわまりない任務だが、普通の人びとにもすぐ理解できるほど平明でわかりやすい任務だ。
 
すなわち第一には、その社会を他の独立の社会による暴力や侵略に対し防衛する任務。第二には、その社会のすべての構成員を他のどんな構成員による不正や強制からもできるかぎり保護する任務、つまり厳正な法の執行を確立する任務。第三には、ある種の公共事業や公共施設を樹立し維持していく任務だ。
 
これらの事業や施設とは、その樹立や維持のため必要な費用を、どんな一個人や少数の個人たちが支出しても、その際の利潤が支出に見合わないのでこれを行うことは利益とならないが、偉大な社会にとってはそのような費用を支払っても、しばしば費用以上の利益を社会にもたらすことになる種類の事業や施設のことだ。
 
 このように、スミスによって主張された政府の最初のふたつの任務は単純明快だ。社会のすべての個人は、外国からであろうが、国内の他の市民たちからであろうが、誰によっても強制されることがないように、保護されなければならない。このような保護がなければ、われわれはどんな選択の自由も本当にはもつことができない。
 
武装した強盗が「カネを出すか、イノチを出すか」と、ひとつの選択の機会を与えてくれたとしても、これを自由な選択だとか、その選択の後で発生する交換を自発的な交換だとかいうひとは、一人もいないだろう。
 
 もちろん、本書のあちこちで繰り返して、その実例を示していくように、いろいろな社会制度、とりわけ政府の制度が「奉仕しなければならない」目的がどんなものであるかを述べることと、それらの諸制度が「実際に奉仕している」目的がどんなものになっているかを事実に即して描写することとは、まったく別個のことだ。
 
これらの制度を樹立するのに責任をもっていた人びとが、樹立に際してもっていた意図と、その樹立後に実際の運営にあたっている人びとがもっている意図とは、しばしばきわめて異なっているものだ。これと同様に重要なことは、それらの制度によって実際に達成された成果と、それらの制度の樹立に際して意図された成果とは、しばしばまるで違ったものになってしまう、という事実だ。
(M&R・フリードマン著「選択の自由」日本経済新聞社 p45-48)
 
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 自由放任的な制限された政府による政策は、まだ人びとがまばらにしか植民していなかった十九世紀のアメリカにおいてこそ可能であったが、現代の都市化され工業化された社会においては、政府ははるかに大きな、いやそれどころか支配的な役割さえ果たさなければならない、と主張されることがよくある。しかし、一時間でも香港を訪れれば、そんな考えはふっとんでしまうだろう。
 
 われわれの社会は、われわれがこしらえるようにしかならない。われわれはわれわれの諸制度を主体的に形づくっていくことができる。われわれの社会がもっている物的・人的諸特徴は、たしかにわれわれが選択できる道を制限する。
 
しかし、われわれが意思をもちさえすれば、経済活動に限らずその他の活動をも組織するために、主として人びとの自発的な相互協力に依存する社会、人間としての自由を維持し拡大する社会、政府はわれわれのための奉仕者であって、われわれの主人となることがけっしてないように、政府をその本来あるべき立場にくい止めておく社会を建設していくのを、これらのどの特徴も妨げるものではない。
(M&R・フリードマン著「選択の自由」日本経済新聞社 p61-62)
 
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 したがって優先の体系であれ、抑制の体系であれ、すべての体系がこうして完全に除去されれば、明白かつ単純な自然的自由の体系が自然に確立される。
 
だれでも、正義の法を犯さないかぎり、自分自身のやりかたで自分の利益を追求し、自分の勤労と資本を他のどの人またはどの階層の人びとの勤労および資本と競争させようと、完全な自由にゆだねられる。
 
主権者は、遂行しようと企てればつねに無数の迷妄にさらされ、また適切に遂行するためには人間のどんな知恵も知識も十分ではありえないような、一つの義務から、すなわち私人の勤労を監督し、それをその社会の利益にもっともかなった使途に向かわせるという義務から、完全に解放される。
 
自然的自由の体系によれば、主権者の留意すべき義務は三つだけであり、この三つの義務はきわめて重要ではあるが、ふつうの理解力にとっては平明でわかりやすいものである。
 
すなわち、第一に、その社会を他の独立語社会の暴力と侵略から守る義務、第二に、その社会のそれぞれの成員を、他のそれぞれの成員の不正と抑圧から、できるかぎり守る義務、つまり厳正な司法制度を確立する義務、そして第三に、どのような個人または少数の個人にとっても、その設立と維持がけっして利益になりえないような、特定の公共事業と特定の公共機関を設立し維持する義務であって、なぜなら、それによる利益が、大きな社会にとってはしばしば、費用を償って余りあるものでありうるのに、どの個人あるいは少数の個人にとっても利潤が費用を償うことはけっしてありえないからである。
 
 主権者がそれらのそれぞれの義務を適切に遂行するには、かならず一定の費用を要するし、この費用はまた、必然的に、それをまかなう一定の収入を必要とする。そこでつぎの編では、私は以下のことを説明しようとつとめるだろう。
 
すなわち、第一に、主権者または共同社会の必要経費とはどのようなものであるのか。またそれらの経費のうち社会全体の一般的な拠出によってまかなうべきものはどれか。またそのうちその社会のある特定部分だけの、あるいはある特定成員の拠出によってまかなうべきものはどれか。
 
第二に、全社会が負うべき経費をまかなうために、全社会に負担させるさまざまな方法はどのようなものであり、それらの方法それぞれの主たる利点と欠点とは何か。
 
そして第三に、近代のほとんどすべての政府が、この収入のある部分を抵当にいれたり、債務を負うようになった理由と原因は何であり、そうした債務がその社会の実質的富すなわち土地と労働の年々の生産物に及ぼす影響はどのようなものであったか。したがってつぎの編は、当然に三つの章に分かれるだろう。
(アダム・スミス著「国富論B」岩波文庫 p339-341)
 
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 これにすぐに続いて、「すべての経済の最も一般的な自然法則」がくる。──だから、われわれのさきほどの推量は正しかったわけである。
 
しかし、この自然諸法則が、過ぎ去った歴史の正しい理解をゆるすのは、われわれがそうした法則を「それの諸結果が政治的な圧服およびグループ分けの諸形態を通じて経験した、あのもっと詳しい規定において研究する」場合にだけである。
 
「奴隷制と賃金隷属制といった制度──これに双子の兄弟として力ずくで手に入れた所有が仲間入りした──は、純政治的な性質をもった社会経済制度の諸形態と見なすのが正しく、そして、これまでの世界では、経済的自然諸法別の作用がその内部でしか現われることのできない枠となっていた」。
 
 この文は、ヴァーグナーの主導楽句として二人のすてきな男の進軍をわれわれに告げるファンファーレである。しかし、それはこれ以上のものである。デューリング氏の本全体の基本主題である。
 
法のところでは、デューリング氏には、ルソーの平等論の社会主義語へのへたな翻訳──パリのどの労働者酒場でも数年このかたずっとましなことが聞ける、といった程度のもの──のほかには、なに一つわれわれに提供することができなかった。
 
ここでは、氏は、<永遠の経済的自然法則とその作用とが国家すなわち権力の介入のせいで歪曲されてしまう>という経済学者たちの嘆きを、前の場合に劣らずにまずい社会主義語に翻訳して提供するのである。そして、こうすることによって社会主義者たちのあいだでまったく独りぼっちになるのであるが、それは自業自得というものである。
 
社会主義的労働者ならだれでも、その国籍にかかわりなく、つぎのことをまったくよく知っている。それは、<権力は、ただ搾取を保護するだけで、搾取の原因ではない>ということ、<資本と賃労働との関係が自分の搾取の基礎である>ということ、<この関係は、純経済的な仕方で生じたもので、けっして力ずくのやりかたで生じたものではない>ということ、である。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p214-215)
 
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◎<権力は、ただ搾取を保護するだけで、搾取の原因ではない>ということ……。本質が解ればこれまで見ていたものが逆転する……。