学習通信040214
◎自分の力を発揮すること……限界だと決めるのは、多分、これまでの経験…。
 
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 モンジュイックの丘にさしかかった。
 このレースの一番の勝負どころだ。
 勝ちたいという気持ち以上に、この坂のために練習してきたんだから、この坂だけは克服したいという思いが強く沸きあがってくる。オリンピックでメダルをとりたいという以上に、いまはこの坂を越えるという「眉の少し上の高さ」の目標に変わってくる。
 
 「眉の少し上の高さ」の目標。それを積み重ねてきたからこそ、いまがあるのだ。
 でもその坂は、なんと過酷なことか。心臓破りの坂ということばが実感を持って迫ってくる。心臓はこれ以上ないほどの速度で脈を打つ。
 
 エゴロワが迫ってくる。
 「もうこれ以上走れない」
 そう思った途端に追いつかれる、抜かれる。
 「足が折れてもいいから、走りぬこう」
 こう思った途端、エゴロワを抜く。
 「だめだ。限界だ」
 抜かれる。
 猛烈なデッドヒートがつづく。
 
 ずっと一緒に走ってきたのだから、並んでゴールインしてくれないかな、という虫のいい考えが頭をかすめる。
 
 最後の最後、競技場が目の前に迫るところで、エゴロワに引き離されてしまった。
 
 スタジアムに入ると、何色ものカクテルライトが身体を照らし、色の洪水のなかを泳いでいくような気持ちだ。そんな気持ちのままでゴールイン。
 二位、銀メダルだ。
 一九九二年八月一日午後八時三二分四九秒。
 
 体力の限界だ、もう走れない。何度もこう思いながら、それでも限界はどんどん伸びていった。ゴールに入ったあとも、エゴロワと抱き合ったあと、どこにそんな力が残っていたのか、二人でウイニングランまでしたのだから、自分でも驚いてしまう。
 
 限界は、どんどん伸びていく。
 このレースだけではない。これまでのランナーとしての人生のなかで、何度ももうだめだと思った。それでも走りつづけていると、限界は伸びていくのだ。
 
 限界だと決めるのは、多分、これまでの経験からだ。けれど、氷山が一部しか日に見えないように、人間の能力は、その下に底知れないものを隠しているのだろう。人間の能力の不思議さを思わずにはいられない。
 
 そして、もう一つの奇遇を感じもした。
 表彰式のあった八月二日は、陸上界のパイオニア人見絹江さんの命日だった。人見さんは、六四年前のアムステルダム・オリンピック八〇〇メートルで銀メダルを獲得したのだった。
 
 わたしと人見さんは、どこかでつながっている。こじつけであろうとなかろうと、わたしはそう信じた。
 
 その夜、わたしは、これまでの苦労や悔しさ、悲しさがすべて報われたような気持ちになっていた。カクテルライトや人々の歓声に酔ったようにはしゃぎ、興奮のためなかなか眠ることができなかった。何度も喜びの波が襲ってきて、そのたびに新たな感動が、閉じょうとしていた目を開けさせた。
 
 このあと、どんな落とし穴が待っているかも知らないまま、この幸福な状態は永遠につづくように思われた。
(有森裕子著「わたし革命」岩波書店 p96-99)
 
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素質と能力
 
天分のちがいとはなにか
 
 「個人の才能というものについて、どう考えたらいいでしょうか。生まれつき天分のある人もあればそうでない人もあり、そうでない人の場合には、どんなに努力しても無残な結果におわることがあるのではないでしょうか」という投書をもらった。
 
 「天分」ということばはいろんな意味にとれるだろうが、「もつて生まれた素質」という意味でいうならば、そしてこの「素質」というのを生理的な素質という意味でいうならば、それはたしかに人によって一様ではない。
 
たとえば私のように、ヒョロリとタテにながくて、羽目板のようにアクセントにとばしく、大食らいなくせに不思議と肉がつきなやむ、こういう体型は「先天性無力体質」というのだそうだ。気にくわない表現だが、学術用語だそうだから、しかたない。
 
病気らしい病気もせず、歩くのにかけては人一倍達者なつもりだが、とにかくこれは相撲とりやレスラーになるのに適した体質ではあるまい。いくらそうなろうと努力してみても「無残な結果におわる」確率が大だろうと思う。
 
 もっとも、これだって、小さいころからあらゆる努力をそそぎこんだとするならば、いい線までいける可能性がまったくゼロとはいいきれまい。が、それにしても、適した体質の人が同様の努力をそそいだ場合にくらべるなら、やはり差がでてくることはたしかだろうと思う。
 
 しかし、誰もが相撲とりやレスラーになれなければ人間失格、というわけではあるまい。いまいったような意味での素質が生まれつき各人ちがっていても、それは「人間としての素質」がどうこうということではけっしてないはずだ。
 
あたまのよしあしとはなにか
 
 「そういうからだの問題ではなくて、生まれついてのあたまのよしあしということもあるのでは?」とたずねる人もあるかもしれない。
 
 だが、「生まれついてのあたま」というかぎり、それは大脳の生理的なありかた以外ではない。だから、それはやはりひろい意味での「からだ」の問題であるはずだ。そういうひろい意味での「からだ」の問題としてなら、「生まれついてのあたまのよしあし」ということはたしかにあるだろう。
 
もつとも「よしあし」ということのなかみがじつは問題なのだが。私のいう意味は、回転のはやいあたまとそうでないあたま、記憶にすぐれたあたまとそうでないあたまといったちがいは、生来の素質としてもたしかにあるだろう、ということだ。
 
 けれども、素質として回転のはやいあたまや記憶にすぐれたあたまが「創造的なあたま」だとは、じつはけっしてかぎらない。「十で神童、十五で才子、二十すぎればただの人」ということもある。反対に、頭の回転がおそく、ものおぼえがわるく、「できのわるい子」「できない子」といわれた人で、のちに偉大な発見や発明をした人はいくらもいる。ダーウィンがそうだったし、エジソンがそうだった。アインシュタインもまた、そうだった。
 
 生まれつき「いいあたま」が、ほんとうの意味でのいいあたま、つまり創造的なあたまになるとは必ずしもかぎらないのだ。同様に、生まれつき「わるいあたま」が、ほんとうにわるいあたまにしかなれないとは、けっしてきまっていはしないのだ。
 
音楽が人間の耳を育てる
 
書画コットウなどのホンモノかニセモノかを、一目でピタリといいあてる人がいる。「神わざ」といいたいような能力だが、もちろんそれは、その人に生まれながらにそなわっていたものではない。努力して育てられたものだ。
 
 では、そのような能力は、どのようにして育てられたのか。秘訣はただ一つ、日常ふだんにホンモノに接していることだ、という。
 
 ホンモノにしたしむなかではじめてホンモノを見る目が育つ。ホンモノを見る目ができれば、ニセモノはひとりでに見わけがつく。ニセモノにいくら接していても、ニセモノをニセモノと見わける目を育てることはできないという。
 
 「音楽がはじめて人間の音楽的感覚をよびおこすのだ」とマルクス大先輩も書いているが、ほんとうにそうだと思う。いい音楽にしたしむことなしには、音楽的な耳は育たない。私なんかの場合は、もっぱら軍歌のたぐいとのつきあいしか与えられず、それによって自分の「音楽的感覚」を形成してしまった。
 
これは私たちの世代全体にいえることで、そのために「非音楽的な耳」がやたらと育った。このことからだけでも私たち戦中派は、軍国主義を許すことができないのだ。
 
 人間の味覚だって、料理によってはじめて開発される。刺身のうまさを味わいうる舌は、刺身文化のなかに身をおき、それとしたしむなかでだけ、育てられうる。
 
 刺身文化にしろなに文化にしろ、それらはみな、過去の人間仲間が手塩にかけてきたものであり、いわばその努力の結晶だ。この社会的にたくわえられた富をうちにとりこむことによってはじめて、個々人の舌や耳は、人間的な舌や耳に育っていくことができるのだ。
 
 というわけで、人間の能力は、音をききわけ、味をあじわいわけるといった感覚的な能力でさえもが、けっしてたんに生得的・生理的な力なのではない。
 
ダメ動物・人間の可能性
 
 つまり、人間の能力は、動物の能力とはひどく性質がちがうのだ。
 動物の能力とは、どんな能力か。たとえば、チーターなんか、すばらしい。一〇〇メートルを三秒から三秒半で走る。特別なチーターだけがそうなのではない。すべてのチーターが、そうなのだ。それは、生得的・生理的な能力だ。
 
 イルカだって、すばらしい。水中を時速五〇キロで泳ぐ。水中は空中より八〇〇倍も密度が濃いのに、そうなのだ。そして、すべてのイルカが、そうなのだ。
 
 ところで、人間という動物は、そういう意味ではどんな能力があるのか。考えてみると、なにもない。あきれるほどだ。土掘りのモグラ、木登りのサル、ダムづくりのビーバーというぐあいに、どんな動物もそれぞれの種に国有の「専売特許能力」をもっているらしいが、そういうものが人間には、ただの一つも見あたらない。なんといったらいいか、ダメ動物の見本みたいなものだ。
 
 赤ん坊をみると、いっそうハッキリする。一度にうんとたくさんの子どもを生む動物なんかは話が別だが、高等哺乳類ともなれば、一度に生まれる子どもの数は単数に近づき、妊娠期間もながく、つまりそれだけたんねんにしあげられてから生まれるわけで、だから生まれながらにしてたいへんたくましいのがふつうだ。
 
ところが、人間の赤ん坊ときたら! こんな頼りない能なしとしてこの世に生まれおちる動物は、高等哺乳類のなかには、他に類例をみない。
 
 では、だから「人間ってダメね」ということになるかといえば、断固としてならない。そこに、動物のわくを大きくはみだす人間のすばらしさがある。動物としてのダメぶりは、動物のわくをこえた人間としての可能性につながっているのだ。
 
エジソンの証言とヤゴの話
 
 動物の場合、素質と能力とは、ほぼイコールになる。しかし、人間の場合はちがう。そこに、人間の人間たるゆえんがある。
 
 動物の場合には、生まれついての素質が決定的にものをいうけれども、人間の能力においては反対に、習練、努力がほとんどすべてを決する。だから、人間にかんするかぎり、能力は育てうるものだ。というよりも、育てうるもの、それをこそ人間的な能力という、といったはうがいいかもしれない。
 
 天才だって、例外ではない。天才とは、とびぬけた素質のもち主をいうのではない。発明の天才エジソン自身が証言している──「天才とは、九八パーセントのパースピレーション(汗まみれの努力)と二パーセントのインスピレーション(ひらめき)だ」と。そして、二パーセントのインスピレーションも、九八パーセントのパースピレーションの結果としてのみ、生じるのだ。
 
 「私はドジで、マヌケで、なにをやってもダメなタイプ」というふうに、自分で自分の能力に見きりをつけてはならないと思う。そのようにいうことによって、自分で自分をダメにしてしまってはならない。
 
 人間は動物とはちがうといったが、じつは動物にだっていろんなのがある。君はヤゴを知っているか。トンボの幼虫だ。不細工なかっこうをして、泥水のなかに住んでいる。ヤゴにもし自己意識があったなら、「おれはしがないヤゴなのよ」と、自分がヤゴであることを恥じるかもしれない。しかし、ヤゴはトンボになる。なることができる。
 
トンボになったとき、トンボになったかつてのヤゴは、自分がかつてヤゴであったことにじゅうぶんな意義と理由があったことに気づくはずだ、と私は思う。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p65-71)
 
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できっこない、とは言うな
 
生きてる限り、<できっこない>とは言うな、
堅固なものも堅固でない、
変らずにいるものはない、
支配者の声が地におちるとき
被支配者の声がたかまる。
 
なんだって<できっこない>などと言うのか?
圧制が続くなら誰のせいか? ばくたちのせいだ。
圧制が打ち砕かれるなら? やはりぼくたちのだ。
うちのめされるままにまかせず、立ちあがれ!
 
途方にくれていず、たたかうのだ!
状況を把握していれば、阻むなにがあろうか?
 
思え、きょうの敗者はあすの勝者、
<できっこない>は<きょうのうちにも!>となる。
(「ブレヒト詩集」飯塚書店 p81)
 
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◎「私はドジで、マヌケで、なにをやってもダメなタイプ」というふうに、自分で自分の能力に見きりをつけてはならない……。
 
◎京都市長選の敗北はやっぱり持てる力を発揮しきれていないことにあるのではないかと思います。
ブレヒトは言います。
 
圧制が続くなら誰のせいか? ばくたちのせいだ。
圧制が打ち砕かれるなら? やはりぼくたちのだ。
……と。