学習通信040215
◎「シラケ」とは、笑いを失った人間感情のこと……。
 
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笑い方で人間がわかる
 
女性がどんなふうに、どんなときに笑うか、それは彼女の育ちと兇暴を示す目印である。
笑う声の響きのなかに、彼女の本性が現れる。
            ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』
 
 哲学者のニーチェは心理学者でもある。彼は、人間の心理に通暁した「人間通」をもって自認していた。ニーチェはただ単に人間の心理を分析して見せるだけではない。人間の心の微妙な、しかし、根源にあるはたらきを強い握力で掴み出し、それを簡潔な言葉で表現し、人間とは何かを考えさせる。『人間的な、あまりに人間的な』は、その「人間通」としての鋭い観察の集大成である。
 
 この心理学者は、「秘密を漏洩するものとしての笑い」と言っている。笑い方でその人の人となりが暴露されるというわけである。たしかにそういうことはあるが、これはなにも女性に限ったことではない。男性も同様である。とくに女性について述べたのは、女性のほうがよく笑うからであろうか。
 
 ニーチェと同じようなことをドストエフスキーも言っている。ドストエフスキーは、革命運動に加わった廉(かど)で逮捕され、四年間、シベリアの監獄で服役しきとがあった。その間の、さまざまな犯罪者に接した体験が記された『死の家の記録』にこんな一節がある。
 
「わたしは笑い方でその人間がわかるような気がする。ぜんぜん知らない人にはじめて会って、その笑いが気持がよかったら、それはいい人間だと思って差支えないと思う」(工藤精一郎訳)
 
 ドストエフスキーがこう思うようになったきっかけは、笑顔の美しいひとりの老人に監獄で出会ったことだった。その老人の笑いは「囚人特有の野卑な皮肉な笑いではなく、しずかな明るい笑いで、その笑いには子供のような率直さがあふれていて、白髪の顔によく映った」。その老人は監獄じゅうのすべての人に尊敬され、ほとんどすべての囚人が彼に金の保管を頼むようになったという。
 
 ニーチェと同じように「人間通」だったドストエフスキーは、笑いと人間についての徹底的な分析を『未成年』で行っている。それは、ニーチェが言わんとしたところを十二分に敷衍(ふえん)しているばかりでなく、私の知るかぎり、笑いについてのもっとも鋭い考察でもある。
 
 笑いには本人の品位を落とすようなものが剥き出しにされると、ドストエフスキーは言う。しかし、本人には自分の笑顔が他人にどんな感じを与えているかわからない。それは眠っているときに自分がどんな顔をしているか知らないのと同じだと言う。
 
「人によっては眠っているときも利口そうな顔をしている者もいるが、中には、利口な者でさえ、眠るとおそろしく間のぬけた、したがって滑稽な顔になる者もいる。どうしてそういうことになるのか、わたしは知らない。わたしが言いたいのは、笑っている者も、眠っている者と同じで、たいていは自分がどんな顔をしているのかまるで知らないということだけである」工藤精一郎訳)。
 
 笑い方は「天からのさずかりもの」だともドストエフスキーは言っている。「天からのさずかりもの」は人力ではどうすることもできない。美しい笑顔を作ろうとしても、なかなかできるものではない。しかし、その方法がないわけではない。
 
 「自分を作りなおし、よりよきほうへ向上させ、自分の性格のよくない本能を殺せば、ある程度は作ることができよう。そうすれば、その人間の笑いは、おそらく、よりよきものに変るはずである」
 
 笑いがその人の本性を暴露するという点でドストエフスキーはニーチェと完全に一致している。そのことをこんなふうに言う。「人によってはその性格がどうしてもつかめなかったのが、なにかのはずみで腹の底から笑ったら、その全性格がいっぺんにわかってしまったということもある」と。要するに、人間を知ろうとしたら、笑っているときのその人間を観察するに限る。
 
よい笑い方をすれば、良い人間である。しかし、その際、「あらゆる陰影」を見て取らなければならない。ドストエフスキーは持ち前の人間観察の本領を発揮して、「あらゆる陰影」を詳細に述べている。
 
 「例えば、その人間がどれほどはしゃいで、あけすけになっていても、ぜったいにその笑いに愚かしいところが見えてはならないのである。笑いの中にほんのわずかでも愚かしいところが見えたら、たといいつもりっぱな思想ばかりをまきちらしていても、その頭脳が大したものでないと見てまずまちがいはない。
 
もしその笑いに愚かしさがないまでも、笑ったときに、その人間自体が急になぜか、たといわずかでも、どことなく滑稽に見えだしたら、その人間にはほんとうの品位というものがない、とはいえないまでも、欠けるところがある、と思ってさしつかえない。あるいは、最後に、もしその笑いが隔意のないものであっても、やはりなぜか下品に見えるならば、それはその人間の品位が下品なのである」
 
 『未成年』の語り手は、このような人間観察を自分の人生経験から割り出したもつとも重要な結論のひとつと考え、たとえば、結婚相手を選ぶにあたって迷っているお嬢さん方に知ってほしい確かに有益な助言である。私もこれからは笑い方に気をつけたいと思う。しかし、これこそ至難の業だ。いい笑い方ができるには、いい人間でなければならないからだ。
 
 いったいドストエフスキーやニーチェはどんな笑い方をしていたのだろうか。
(木原武一著「人生を考えるヒント」新潮選書 p27-30)
 
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笑いとは
 
 進化論で有名なダーウインは、今から百年も昔、「人及び動物の表情」という論文の中で、
 
「笑いとはエネルギーの氾濫なり」
 そう定義しています。
 
 ダーウインは笑い≠追及し、赤ん坊の眠っている姿の中で真理を発見する。赤ん坊がお乳もー杯のんで満腹、おむつもかわいていて気分良好。その子が成長して行くのを、さまたげる何物もない。すべて満足の状態。はち切れるような健康。
 
そしてそのエネルギーがふきこばれるような! そんなときその赤ちゃんが、ニコッと笑うのです。誰しもそんな状況を一度や二度は見たことがあろうと思います。──そんな状態をダーウインはみて、これこそ笑いの発生する原因だとしているわけです。
 
「笑いは生殖腺のツゲキによって生れる」それは人間が生に対して生活をいとなむからだと説いてる医学者もいます。
 
 人間が生きる、そして自分の種を自分の次の生命につなげる。それは自分の肉体の持続につながる。それは自己保存に通ずる。
 そんなところにも笑い≠ェ生れるのです。
(大空ヒット著「笑いの話術」新日本出版社 p43-44)
 
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笑いについて
 
 ウマの笑い
 「シラケ」とは、笑いを失った人間感情のこと、というふうにも定義できるのではないか、と私は思う。
 
 笑うことができるのは人間だけだ。「人間とは、笑うことのできる唯一の生物だ」といったのは、たしかアリストテレスだったと思う。笑いは、人間の本質と探いところでつながっているみたいだ。
 
 「ウマも笑うことがあるのでは」といった人がいた。私はウマ年のうまれで、小さいころのあだ名も「ウマ」だったが、現物のウマとは、中学生のころぼんやり道を歩いていて、その鼻づらにぶつかったことがあるほかは、あまりつきあいがなかったので、ウマが笑うかどうか、責任のあることはいえない。
 
 しかし、心理学者にいわせると、笑いには三種類あるという。第一種類は「生理的快感の笑い」で、生理的にここちよい状態になったとき、顔面神経のこわばりがほぐれて、顔がわれる──ほころびる、という笑い。「わらう」という日本語は「われる」からきたものだという。「破顔一笑」などというのに近いだろう。「咲」という漢字も「わらう」とよむ。かたくとざしたつぼみがほころびる、そのように顔がほころびる、ということだ。
 
 これだったらば、人間以外の動物にもあるかもしれない。すくなくとも、高等哺乳類にはそのきざしがあるという。まちがいもなくウマにはそれがある、と証言してくれた人もいた。
 
 人間だってまだ乳児のころは、右も左もわからない。「人心地」がなく、その点では動物なみだ。しかし、はらいっぱいに乳を吸って、ニコニコ無心に笑うことは知っている。その笑顔を見たことがないという人は、おそらくいないだろう。
 
ことばのやくわりをする笑い
 しかし、第二、第三の笑いとなると、これはもうハッキリ、人間、それもものごころついて以後の人間にしかないものだ。
 
 第二種の笑いとは、「ことばのやくわりをする笑い」だ。「目は口はどにものをいい」という。道で出あった人にニコッと目礼をかわすのは、「私はあなたに親愛の情をもつています」ということばのかわりだろう。
 
 「笑ってこたえず」というのもある。いろんな場合があるだろうが、「笑い」がつまりこたえのことばの代行をするわけだ。「ぼくからいうわけにはいかないが、わかるだろ?」というのもあるだろうし、「ワカルカナー、ワカンナイダロナー」というのもあるだろう。
 
 「笑ってごまかす」というのもある。キマリがわるいとき、ニヤニヤッとしてごまかす。テレ笑い、テレかくしの笑い。──これは、「わかりません。これ以上追求しないでください」ということだ。
 
 「キマリがわるい」といったが、これはつまり、自分の態度をきめかねる、イエスかノーかをきめかねる、だから相手にたいしてキッパリした態度がとれない、だからカツコウがつかない、尻がムズムズする、ということで、そこで、こんなアイマイな状態にあるんですよということを、アイマイな笑いに託して表現して、心理的に肩の荷をおろす──つまり、スミマセンといってすましてしまおうとするわけだろう。
 
 このように見てくると、この種の笑いはすべて、なんらかの認識の表現だ。そして動物は、感じることはできても考えること──認識することは、本格的にはできない。ことばをもたないかぎり、それはできない。そして、ことばをもっているのは人間だけだ。だから、この種の笑いは人間にだけ──それも、ものごころついて以後の人間だけにある。
 
おかしさの笑い
 さて、第三種の笑い、それは「おかしさの笑い」だ。そして、私の考えでは、これこそもっとも深く人間の本質につながるものだ。
 
 「おかしさの笑い」について『岩波心理学小辞典』を見ると、「これは昔からおおくの人たちに論じられたもので、これには純粋のよろこびでなく、いじわるいよろこび、よろこびといじわるの結合というのもある」と書かれている。そしてその正体については、優越感(ホッブズ)、他人の不幸(デカルト)、ささいな事件における他人の権威の消失(ペイン)、観念と実際とのくいちがい(ショーベンハウアー)、緊張した期待の突然の消失(カント)、機械的なものと生きたものとの矛盾(ベルグソン)などによって説明された、とある。
 
 この書きかたには、ちょつとあいまいなところがある。「おかしさの笑い」は「いじわるの笑い」とイコールだとはいっていないのだが、どうやら、「おかしさの笑い」の本質は「いじわるの笑い」に端的に示される、といっているようでもある。
 
 ホッブズの意見について、もつとくわしくしらべてみた。すると、「突然の得意は、笑いと呼ばれる顔のゆがみをおこさせる」といっている。「他人のなかになにか不恰好なものをみとめ、それとくらべて突然自分をえらいもののように思うことによって、それはひきおこされる」というのだ。
 
「自分には小さな能力しかないと悟っている人びとにこれはありがちなことで、他人の欠陥を見ることによってみずからこころよしとするのである」ともいっている(『リヴァイアサン』)。
 
 たしかにこういう「おかしさの笑い」は、文句なしに「いじわるい笑い」だろう。が、じつはこうした意見それ自体、たいへんいじのわるいものではなかろうか。人間というものを、たいへんいじわるく見ている。いじのわるい人間観がその基礎にある。デカルトやペインの場合も、このかぎりでは同様だ。
 
 人間とは、そんなにいじのわるいものだろうか。たとえば児玉誉士夫という人がいて、とてもかっこうよくやっていたが、ロッキード事件をつうじてかっこうわるさを天下にさらすことになり、天下の笑いものとなった。これは、私たちが「自分には小さな能力しかないと悟っている」ために、大きな能力者である児玉が弱点をばくろしたのを見て「みずからこころよし」としたのだろうか?
 
 そのとおりだという人もいるけれど、これはむしろ、その人自身の人間性を告白しているのだろう。
 
 ホッブズなどの観察が、それなりに鋭いリアリティをそなえていることを否定するものではない。が、それですべてをわりきるのは、シラケた人間観にもとづくシラケたリアリズムにはかなるまい。はらの底からの大笑いは、ホッブズ流の定義の外にこぼれる。
 
 ホッブズの肖像を見ると、横に長くうすい唇をキュッとへの字にむすんでいる。デカルトの肖像も似たりで、さらにその口もとは、どこかメフィストフェレス的なうす笑いをただよわせている感じがある。どうやらこの人たちは、はらの底から笑うということを知らなかったらしい。
 
批判としての笑い
 「観念と実際とのくいちがい」がおかしさの笑いの正体だという定義、これはもう一歩いい線をいっているようだ。「愛国者」の観念をふりかざしてきた児玉がじつは「売国者」であったというそのくいちがい、たしかにこれは事柄の核心にふれている。
 
 「緊張した期待の突然の消失」というカントの定義、これもなかなかうがっているだろう。たとえば、おごそかな式場で神主さんがノリトをあげていると、そこにまぎれこんできた小ネコが突然、ニャオとなく。そこでみんながドッと笑う……。
 
 これはどういうことだろうか。「おごそかな式場」といったが、じつはその「おごそか」が、形式だけをとりつくろった内容空疎なもので、形式と内容、観念と実際とのこのくいちがいを、たくまざる批判者として小ネコがあばきだしたということだ。そこにくいちがいがなかった場合には、人は笑うどころか怒りだすだろう。
 
 あるいはまた、ある口ぐせをもつた人の話をきいていて、たぶん今日もあの口ぐせがでるだろう、もうでるかでるかとまちかまえているところへそのロぐせがでて、思わず笑ってしまう、というのも、やはり「緊張した期待の突然の消失」だろう。だから、意外なものがおかしいと同時に、予期したものが思ったとおりに実現したのもおかしいわけだ。
 
 ベルグソンの定義についていえば、ロボットの歩きかたを見ているとおかしい、というようなのがこれだろう。人間の自然な動きがロボットのギクシャクした機械的な動きに上って批判されるのか、その逆なのか、いろいろな場合があるだろうが。
 
 このように見てくると、おかしさの笑いのカナメになっているのは、いじわるの笑いの場合をふくめて、現実にたいする批判そのものだということがいえるのではなかろうか。
 笑いの質は批判の質によって決定されることになる。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p140-146)
 
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◎笑い……その人の人格がふきだす、ということか。
「なんでだろう〜」に「現実にたいする批判」をみることができるだろうか。まだ私には見えない。