学習通信040219
◎野呂栄太郎 ……「感動的生涯を送った──人間ロマン」の人
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潮流
二月十九日は、日本共産党の大先輩の一人、野呂栄太郎が亡くなった日です。ことし、没後七十年です。
▼一九三三年十一月(肺結核をおして活動していた野呂は、休養に入る前の最後の連絡に出かけ、特高警察に逮捕されました。スパイの手引きでした。警察署をたらい回しにされ、拷問で病状が悪化。東京・品川署から移された病院で、息をひきとりました。三十三歳でした。
▼捕まる年には、「赤旗」に、「失業及飢餓反対闘争の成功的遂行のために」などの論説・主張も書いていいます。しかんもちろん、野呂の名前は、『日本資本主義発達史』と切り離しては考えられません。
▼『発達史』はじめ一連の論文で、野呂は農村から目をそらしません。「重い小作料で耕作農民をしめつける半封建的な地主制度が支配」(日本共産党綱領)していた農村です。彼によれば、貧しい農民は資本がつくる商品への購買力に乏しい。そんな農村は大資本の投資先にもなりにくい。
▼だから、日本資本主義は明治以来、市場と原料と投資圏を求め植民地略奪を急いだ、というのです。第二次大戦後、農地改革間島村は変わりました。しかし、いまの日本は、労働者や下請けの権利が確立されず、暮らしを支える社会保障も貧しい。国民の購買力はもろさをもちます。
▼昨年、日本の輸出は過去最高の約五十二兆円。モノやサービスの取引の黒字(経常黒字)も約十六兆円。野呂が生きていれば、大企業の海外市場頼みや日米同盟の神聖化をみて、なんと書くでしょう。
(しんぶん赤旗 040219)
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──著者の輝かしい業績を高く評価するということは、展開せれた主要な論点について手放しの禮讃をするということではない。それは一九三〇年以降現在にいたるまでの理論水準が、多かれ少なかれ著者の労作を基礎にしながらも、より発展し、日本資本主義分析の方法とその内容は、いっそう豊富になっているからである。
この三つの論文を通して著者がたえず自己批判し、その労作を自ら発展させていった過程を読者はよみとるべきである。ここに日本の資本主義分析に科学的なくわを最初に入れた著者の意義があり、その起業を最後まで発展させてゆく責任が、われわれあとから学ぶものの肩にかかっている。
さいごに著者といわゆる「講座派」との関係について述べておく必要があると思う。
一九三二年五月から翌年八月にかけて岩波書店より刊行された「日本資主義発達史講座」(全七巻)は、著者の指導の下に企書され、数多くのマルクス主義理論家の参加によってつくられたもので、客観的には「三二年テーゼ」を擁護し、その方針の正しさを日本資本主義の歴史と現実の分析によって立証したものであり、「労農派」の「理論」を粉砕し、日本資本主義の科挙的研究に大きな礎石を築くという役割を果したことは否定できない。
しかし、その理論的弱さは次第に拡大され天皇制によるテロルが激化して行くにつれて、いわゆる「講座派」理論家たちの中には経済主義・客観主義・教條主義等の偏向が激しくなっていった。
そして「講座派」の代表的成果と目された「日本資本主義分析」が多くの誤謬を犯しているにもかかわらず、これを単純に擁護しょうとする理論家たちによって誤謬が再生産され、ついに弾圧がますます厳しくなるにつれて、「生産力理論」や、現状分析を放棄した歴史主義でマルクスの古典から一歩もでない教條主義をうみだしていったのである。
そしてこの「伝統」は、戦後の現在でもなくなったとはいえないことに注意しなければならない。現状の分析にとりくむことを意識的にさけて経済学史的研究や「資本論」の解説に「逃避」したり、また一方では、スターリン・毛澤東の論文やことばを機械的に現実に適用したり、さらには、マルクス=レーニソ主義の古典を自己の「理論」を合理化するのに都合のよいように勝手に利用したりする「弊風」が、いわゆる進歩的理論家のなかに存在しないといえるであろうか?
もちろん、このようなことは、著者の意図するところではなかった。もし、読者が本書の著作を読んで、「資本論」がかならずといってよいほど、分析の出発点にすえられていることから、日本資本主義の現状分析は、まず「資本論」からと考えたり、あるいは著者のすぐれた歴史的分析に感嘆して、歴史主義的な方法におちこむならば、それは天才的理論家としての野呂から教訓をひきだしたのではなく、正に逆のことになってしまうであろう。──略──
昭和二十九年六月 宇佐美誠次郎
(野呂栄太郎著「日本資本主義発達史」岩波文庫 p300-303)
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あとがき
人の一生を描くということは、その人のように生きたいという願望があるからです。傍観者のように見ていては、その人を描くことはできません。そして、描きながら、こんどは逆にますますその人にひかれていきます。伝記というものは、そういうものだと思います。
では、野呂栄太郎という人物は、私にはどのように見えているのでしょうか。人の人格や一生は多様な側面をもっていますし、相互にその側面が関連し規制しあっているものですから、それらの側面をばらばらに分けて箇条書きにするなどということは、その人物像を類型化し固定化してしまう危険をともないます。
しかし、その人のように生きたいという願望は、その人のイメージを明瞭にすることを求めてきます。このため、あえてこの危険を承知のうえで、箇条書きにしてみるとすれば、野呂栄太郎の人物像は次のような諸側面の総合として描かれるのではないでしょうか。
一、共産党の組織原則を厳守し、自分を党組織の上におかなかったこと
二、共産党を攻撃する左右の日和見主義者と徹底的に闘争したこと
三、絶えず共産党の戦略戦術を念誠において科学的社会主義を研究し、それを日本の現実を対象として創造的に発展させようと努力したこと
四、特定の権威や既成の理論にもたれかからないで、自分の理論で現実を考えようとしたこと
五、自分の理論研究について自己批判を怠らなかったこと
六、共同研究や共同学習を重視し、他人の疑問を大切にしたこと
七、他人に対して謙虚であったこと
八、他人の支援を得ることのできる人格的な魅力をもっていたこと
九、健康管理によく注意していたが、しかし決して病気について臆病ではなかったこと
十、経済的苦境にあったが、それに深くはこだわっていないこと
私たちが野呂のように生きたいと願うことは結局、野呂のこれらの政治的態度、研究態度、生活態度を全一的なものとして継承し、現代の状況のもとで発展させるということだと思います。
本書の登場人物や参照文献の筆者のうちにも志賀義雄や袴田里見、宮川寅雄、羽仁五郎、田中清玄、高山洋吉、渡部義通、石堂清倫など近年、共産党攻撃をやっている人がいますが、これらの人々と野呂との相違がどこにあるのかを前記の項目について照らしてみれば、前記の項目が結局は野呂の思想的強靱さや政治的節操の高さの根源でもあったことが理解できるように思われます。
だから、私たちが前記のような項目について野呂から学ぶということは、同時に自分の思想的強鞍さや政治的節操を高めることにも役立つことになると思います。
かつて野呂はコミンテルンの執行委員だったクララ・シュトキンが死んだときに『赤旗』に弔辞を書いて、「全同志よ! われわれは、彼女のかがやける一生を一つの語り草として終わらせてはならない。彼女の革命的生涯から教訓をくみだし、それをわれわれの闘争の中に発展せしめねばならぬ」といっています。
私たちもまた本書が単なる一つの物語に終わらないで、野呂の生涯から教訓を得ようと思っているとくに青年学生の読者の方々に、少しでも役立つことを願うものです。
──略──
一九八四年十二月十二日 松本 剛
(松本剛著「野呂栄太郎」新日本出版社 203-205)
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はじめに
野呂栄太郎は、一九三二年、三三年(昭和七年、八年)という、日本が中国への侵略をはじめた時期に、生活と平和を守り戦争に反対する運動に身を捧げました。
この時期、政府は、あらゆる国民の生活と平和を求める運動、さらにはアジア民族との友好を念願する運動を、治安維持法を適用してきびしく弾圧し、運動の指導部である日本共産党に攻撃を集中した、非合法時代でもいちばん困難な時期でした。
このとき野呂は、逮捕されて、特高警察の拷問につぐ拷問で身体は衰弱の極みにたっし、亡くなる三時間前にやっと病院へ身柄を移され、すぐに息を引きとったのです。事実上虐殺されたといってよいでしょう。一九三四(昭和九)年二月一九日のことでした。
野呂は子供のときのけがで義足であり、さらに肺結核をわずらうという二重三重のハンデを背負いながら、きわめて誠実に全力をあげて運動につくし、三三歳にして燃えつきるという壮烈な人生を送りました。
同時に野呂栄太郎は経済学の世界で不朽の足跡を残しました。それは『日本資本主義発達史』という名著で、いろいろな出版社のものがありますが、決定版は新日本出版社から出ている『野呂栄太郎全集』のなかに、上下二冊で入っています。あの困難な時代に、しかも短い期間に書かれたものとしてきわめて質の高いものです。野呂をぬきにして日本資本主義、日本経済の研究の歴史は語れないといってよいでしょう。
ちょうど経済学の基礎理論の世界で河上肇が占めている立場とおなじものです。さらに野呂は河上肇以上に、マルクス理論を適用して日本資本主義、日本経済、日本の政治経済の支配構造を分析し、日本の人民はどのようにすれば幸福な世の中に暮らしていけるのかという道を経済学的に研究しました。その輝かしい成果は、そののちの日本資本主義研究がすべて野呂を出発点としているということでも明らかです。
戦争前に出された日本経済、日本資本主義にかんする代表的書物は三冊あります。野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』、東京大学経済学部助教授(当時)の山田盛太郎の『日本資本主義分析』、おなじく東京大学法学部助教授の平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』です。野呂の『発達史』と山田の『分析』と平野の『機構』が戦前の最高峰といわれました。名前が栄太郎、盛太郎、義太郎だったので、これを三太郎といいます。
しかし当時、これらの本は国禁の書として、国家権力が発売・購読を禁止していましたのでなかなか手に入らず、盛太郎の『分析』は定価一円五〇銭でしたが、古本屋でひそかに買い入れるときは三〇円くらいしていました。どれも一〇倍、二〇倍で、われわれは家庭教師をしておこづかいをためて、ヤミのルートでこの三冊を買い揃えるのが理想でした。友人に金持ちの坊っちゃんがいましたが、いくら金を積んでも容易には手に入らないわけですので、この本をもっていたものは羨ましがられたものです。
そこで授業中にこれをノートに手で書き写しました。全部写すのはなかなかたいへんでした。それほど戦前の学生にとっては憧れの書物だったのです。
野呂は次の三点において大きな存在でした。
第一は、日本の反戦・平和・および生活、国民の生命と暮らしを守る活動の最先端に立ち、司令塔として活動した人だということです。日本革命史上の最高のリーダーの一人であったということです。
第二は、日本資本主義の科学的研究の創始者であったということです。
第三は、義足という身体障害、肺結核というハンデのなかで、せいいっぱい誠実に生き、警察の拷問に屈せず、主義をつらぬくという感動的生涯を送ったということです。そういう人間ロマンという点です。
この三点で、明治以後にあらわれた日本の人物のなかでもっとも記念すべき人の一人でした。
その野呂栄太郎が亡くなってはや五十余年、半世紀の歳月がたちました。いま、ここでかれの人生と研究をふり返り、現在のわれわれの明日をどのようにきり拓いていくのかという点で参考にしたいと思います。
(林直道著「嵐の中の青春」学習の友社 p118-121)
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◎野呂の10の特徴は、いまを生きている私たちが身につけたいことです。意志を継いで大いに奮闘しましょう。