学習通信040222
◎「お金が人間の価値をつくる」……資本家のものの見方・考え方
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新入社員への手紙 (一九六七年)
会社は潰れることもある
──略──
まず第一に、会社とはどういうところか、ということから考えよう。君が就職した会社の性格を私はよく知らない。しかし、名前の示すとおり「株式会社」の一つであるはずだ。役所でもなければ、団体でもなければ、学校でもない。「会社」なのだ。
会社というところは、いちばん簡単にいうと、潰れる可能性のある組織だということだ。入ったばかりのときから縁起でもないというかもしれないが、君が入った会社でも、いつ潰れるかわからないのだ。こんなに大きな、立派な工場もある会社がまさか──と思うかもしれないが、それでもやはり会社は潰れる可能性を例外なく持っているのだ。
なぜならば、会社はお役所や学校のように、税金や授業料で動いているところではない。いうまでもなく、資本金を元手にして、事業を行っている。ものをつくって売って、利益を生み出さねばならない。給料を払うのも、研究費をまかなうのも、株主に配当するのも、すべて商品を売った収入でまかなわねばならない。会社とは、そういうところなんだ。じっとしていてもお金が入ってくるところではない。
学校は学生の授業料がきまって入ってくる。国からも毎年お金は受けられる。しかし会社は違うのだ。会社が四月から君たちに払っている給料は、自然とどこからか入ってきたお金ではないのだ。会社が商売をして得たお金を払っているのだ。だから、もし君たちが、会社からもらう給料以上のことを会社のためにしなかったならば、会社はだんだんやせ細って、ついには潰れてしまうことになるのだ。
君の会社は立派な会社だ。大会社の一つともいえるだろう。ちょっとやそっとでは潰れるようには見えないかもしれない。ところが「会社」はいつでも潰れる可能性を持つているのだ。現に、私の会社よりもはるかに大きい会社が潰れたり、潰れそうになつたことは知っているだろう。だから君のところのような、大きな、著名な会社だつて絶対に潰れないなどとはいっていられない。潰れるかもしれないのだよ。
では、会社が潰れる、危なくなるのはどんなときだろう。どうして潰れるのだろう。競争が激しすぎたり、マーケットの状況が変わつたり、いろいろな理由があるけれども、結局は、会社を動かしている人たち、会社で働いている人たちが潰すのだといえる、と私は考えている。その会社の人が、自分の会社を潰してしまうのだと思う。
もちろん君は、君の会社を潰そうと思つて入つたのではないはずだ。君たちの会社がここまでくるまでには、数千、数万の先輩社員の人たちの、筆舌につくせぬ努力があつたのだ。君たちは、新たにその仲間として、会社に今度参加したのだ。その新たに参加した君たちが会社を潰しにかかったとしたら、いままで会社をつくりあげてきた社員の人たちは、そんな仲間なら入つてきてほしくない、と思うに違いない。
君たちは、会社の仲間を助けるために入ったのだ。会社にいる人たちと一緒になって、会社をもり立てるために入ったはずである。もしも、今度入つた人たちが、はっきりこのことを自覚していなかったならば、会社にとっては、大きな迷惑を背負い込んだことになるだろう。
参加するだけでは意味がない
さて、会社というものは、君も知つてのとおり、自由経済のなかにあつて初めて存在するものだ。自由経済はお互いに自由に競争しながら、商売をすることを建前としている。お互いが競争し合うことによつて、より以上に進歩していく──これが自由経済機構のいいところだと私は考えている。この自由経済のなかに会社がある以上、競争はどうしても避けられないものなのだ。しかしここでいう競争とは、いったいどういうものなのだろうか。
君は、二年前、東京で一緒に見たスポーツの祭典オリンピック≠フ情景を覚えているだろう。そこでは世界のすみずみから集まつた数千人の若人が、全力をつくしてフェアに戦い、力を競い合っていた。私たちの会社も、いまやアメリカで、ヨーロッパで、東南アジアで、世界各国の強豪メーカーと競争している。どの会社も力をふりしぼつて、勝つか負けるかと戦っている。私は、これはビジネス・オリンピック≠セと思っている。
スポーツのオリンピックには、よくいわれる有名な言葉がある。「オリンピックは、参加することに意義がある。勝敗は二の次である」というクーペルタンの言葉だ。しかし、われわれのビジネス・ォリンピックでは、参加することに意義がある、というような悠長なことはいっておれない。参加することだけでは全然意味はない。参加する以上は、そのオリンピックで勝たなければならないのだ──これが第一なのである。
ビジネス・オリンピックに参加した以上、会社は絶対に勝たなければならない。競争に勝たなかったら潰れるのである。競争に負けた場合には、どんどん会社は落伍し、破産し、会社の全社員も路頭に迷うということになる。君の会社も僕の会社も、決してそういうことになってはならない。
では、勝つためにはどうしたらいいか。ただ勝つんだ、勝つんだといっていても、ビジネス・オリンピックに勝てるわけがない。どうして勝つかということを真剣に考えなければならない。
かりに、君がオリンピックの選手だったとしよう。たとえば、マラソンの選手だったとする。マラソンでは断然自信がある。といっても、その自信にまかせて、水泳に出ても勝てるだろうか。また同じように、短距離に出ても勝てるだろうか。オリンピックで金メダルを取ろうと思えば、マラソンの選手はマラソンだけにチャンスがあるのだろう。水泳の選手は水泳しか勝つことはできないだろう。自分のいちばん得意なもので勝つ以外に、勝ち抜くことは難しいだろう。
──略──
いつまでも勝ち抜くためには、われわれの貴重な戦力を本当に得意な専門的なものに集中しなければならないのだ。オリンピックで、いろいろな種目で勝つようなことは、われわれにはできることではない。やはり、自分の得意なことで勝つ以外にないんだということを、よく知らねばならない。得意なことだけ一生懸命やることによってのみ、競争に勝てる──これは簡単明瞭な原則である。
狭い専門分野でとことんまで努力をしたならば、そこでは誰にも負けない実力がつけられるものだと、私たちは考えている。われわれの得意の分野では誰にも負けないぞ、という自信が持てるものなのだ。
競争会社こそが真の採点者
それでは次に、自分の得意とは何か、ということを考えねばならない。会社がその専門分野でのみ競争力を発揮できるように、一人一人の社員も、その得意な分野で活躍してもらうことが、会社にとっていちばん戦力となることなのだから。
私は会社の採用試験で面接するときに、「あなたの特徴は何ですか」と必ず聞いてみることにしている。この質問の意味は重大なのだ。この場合「特徴」というのは、背が高いとか、色が黒いとか、走るのが得意だということではない。会社の社員として、会社のために役立たせる特徴は何かということだ。その人がどういう特徴を活かして、われわれの会社の戦力になってくれるか、ということである。
「特徴は何か」と聞かれても、なかなかぴったりと答えられないものだが、これはとても大事なことなのだ。それを的確にとらえられない人は、自分の人生をどう生きていったらもっと有効に生きられるか、よくわからない人なのかもしれない。オリンピックに出るときに、自分が何の競技に出たらいいかということがわからない人と同じであろう。
「私はどういうことができるんだ」
「どういうことが、人よりうまいんだ」
「どういうことをしたら、人を追い抜けるか」
ということを知らないと、競争には勝てない。人と人との競争でもそうだし、会社と会社との競争でも同じこと。社員の一人一人が、その得意の分野で最大限に能力を活かしてこそ、その会社が競争に勝ち抜けるのだ。
だから、会社自体が得意の分野を自ら知らねばならぬと同じように、社員の一人一人も、自分の得意の分野を知らねばならない。何をやったら会社にいちばん役立つか──これをいつでも考え、それを実行することが、会社のために本当に戦力として役立つことになるのだ。君はいま一度、何がやれるかを自分で考えてみるべきだろう。
もう一つ、会社の生活といままでの学校生活との大きな違いを君にいいたい。学校を出て、もう試験はないとホッとしているかもしれないが、とんでもない。会社では毎日毎日が試験の連続なんだ。そのうえ、学校の試験では、いくらできなくても──たとえ白紙で出しても零点であり、逆にいくらできても満点である。満点が一〇〇点であれば、一〇〇点以上の点数はくれない。ところが会社の試験はそうではない。できが悪いとマイナス点になる。ときにそれはマイナス一〇〇〇点、マイナス一万点にもなるだろう。
この試験の採点者は誰だろう。課長だろうか、それとも社長だろうか。いや、それは競争会社なのである。競争会社との「競争」ほど、厳しい採点者はいないものだ。これから毎日毎日、君はそういう試験に直面して、競争相手の非常に厳しい採点を受けていかねばならない。君ばかりではない。君の会社の社長をはじめとして、全社員が毎日試験を受けているのである。われわれ会社で働く者は、本当に一分、一秒もおろそかにできないことを自覚してもらいたい。
自分の力は自分で磨く
それでは、その試験に、どういう方法でいい成績をとるか。これは先にも書いたように、第一に君の特徴を活かすということ以外にはない。そのためには、まず自分はどの科目でいちばんいい点がとれるか、いいかえれば、どうしたら会社にいちばん貢献できるかということを考えてほしい。
私たちが会社を始めたとき、うちの会社をどうしてやっていくべきか、教えてくれた人は全然いなかった。私たち一人一人が毎日毎日、われわれの会社をどうやっていくか、必死になって考えてきた。いまも私たちに、この会社の今後はこうあるべきだ、こういうものをつくりなさいと教えてくれる人は誰もいない。
こういうものをつくりなさい、ああいうものをつくってほしいと、いろいろいってくれる人がいたとしても、聞いた後でその人のいうものをやったのでは競争に勝てない。来年何をつくるか、その次には何をつくるかということは、われわれ自身の知恵で考えていかねばならないのである。
君はいま、新入社員訓練を受けているとのことだが、これは君たちに仕事のやり方を教えているわけではない。ビジネス・オリンピックは、普通のスポーツとあまりに違うので、そのルールがわからないと仕事ができない。そこで、最低必要なビジネス・オリンピックに参加するためのルールを教えているのだ、と私は思う。しかし、それから後のこと、つまりこのプレーをどうするか、どうやって勝つかということは、君たちに教える人はいないのだ。君たちは自分だけで考えていかなければならないのだ。
同時に、こういうことも大切だ。君に対して「この仕事はこうしてやるべきだぞ」と教えてくれる人があっても、そのとおりにやる必要はない。ルールにかなってさえいれば、君にはもっといいやり方、もっといい結果の出るやり方を考え出してもらいたい。みんなが前の人と同じょうなことをやっていたのでは、君の会社に進歩はありえない。
会社がいつも前進するためには、他人の踏んでいない道を進まなければならない。他人の踏んでいない道を進むためには、他人の教えをそのままやっていたのでは間に合わない。他人の教えを受けても、その上に自分の知恵を加えて、自分の道を切り拓かねばならない。それには、君は自分の力をいつでも磨く努力をしていなければならない。自分の特徴を活かし、その特徴を毎日磨き、向上させる努力を続けなければならないのである。
最近は、人材開発・能力開発という言葉がよく使われている。もちろん君の会社でもしばしば聞くことと思うが、君自身の力を開発することは、結局のところ、他の人のできることではない。学校時代、いくらよい先生につき、親がいくら勉強しろといっても、君たち自身が勉強する気がなければ、実力がつかなかったのと同じように、君自身が本当に努力する気持ちにならなければ、君の実力は伸びないのである。
だから、自分の力は自分自身で磨かなければならない。そのためには、いつでも競争には必ず勝つというファイトを持っていることが大切だと思う。競争がいやなら、「会社へ入ったのが間違いなのだ」と考えねばならない。
ビジネスは団体競技
さて、勝つためには特徴を活かして働けといったが、このことをさらにいいかえれば、「もっと効果的に働け」ということにもなる。
世の中には、一生懸命に働いているのだが、効果があまりあがらない人もいる。私は、そういう働き方はもったいないと思う。まじめに一生懸命働くことは大事なことだ。しかし、そうして働いても、効果があがらなかったら全然意味がない。
会社は競争をしている。競争に勝っためには、やはり最小限の努力で最大の効果をあげること、つまり、社員の一人一人がもっとも効果的に働くということがいちばん大事だ。君が一〇〇の力を出せるなら、その一〇〇の力を本当に前向きに、会社の戦力になるように使ってもらいたい。それによって、君の実力は一〇〇パーセント仕事のうえに活かされ、会社を前進させる力になる。
最後に、もう一つ大事なことを書かなければならない。それは「協力」ということだ。君の特徴がわかり、活かされ、さらに磨かれなければならないということは、いままで述べてきたとおり大事なことだが、ビジネスは個人プレーの競技ではない。団体競技なのである。そこにチームワークの重要性が現れてくる。
スポーツと違って、ビジネスにはものすごい数のメンバーがいる。この一人一人のメンバーの力が、どんなふうに組み合わされるかが問題である。各々が特技を発揮しても、それがてんでんばらばらになったのでは、チームとしての勝ちはとれない。いつもチームの一員であることを忘れないでもらいたい。
メンバーの力をどんなに組み合わせるかは、キャプテンや監督の大きな役目であるように、ビジネスでは、経営者・管理者の役目がそこにあることはもちろんである。しかしまず、メンバーの一人一人が、チームの一員であることを自覚することがなければ、いくら声をからして叫んでも統制がとれるはずはないし、チームの力が発揮できるはずはない。
君は立派な会社の有力なメンバーの一人となったんだ。君がどのポジションで、何をどんなにやるかは、これから君に課せられた重大な使命なのだ。いまや君は、君の実力を思い切り出して、君の会社にとってなくてはならない大きな戦力となることを期待している。
ひとつ大いにがんばってくれたまえ。
(稲盛昭夫著「21世紀へ」WAC p76-87)
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私はイギリスのブルジョアジーほどひどく退廃し、私利私欲のために救いがたいまでに腐敗し、内面的にむしばまれ、あらゆる進歩の能力を失った階級に出会ったことがない──ここで私の念頭にあるのは、とくに本来のブルジョアジー、なかでも自由主義的な穀物法廃止論者である。
彼らにとっては、この世に存在するものは、彼ら自身をもふくめて、ただお金のためにあるものだけである。というのは、彼らはただ金もうけのためだけに生きていて、手早くもうけること以外にはなんの喜びも知らず、お金を失う以外にはなんの苦しみも知らないからである。
このような所有欲や金銭欲をもっていると、どんな人間的な見方も汚されずに残っているということは不可能である。
たしかに、これらのイギリスのブルジョアはよい夫であり、家族のよい一員であり、そのほかにもいろいろな個人的美徳をもち、日常の交際では、ほかの国のすべてのブルジョアと同じように、上品で礼儀正しいし、商売においてもドイツ人よりも交渉しやすい。
彼らはわが国の小商人根性のブルジョアほどうるさくなく、値切ったりしない。
しかしこういうことがすべてなんの役に立つのだろうか? 結局のところ、自分の利益と、とくに金もうけが、唯一の決定的な動機なのである。私はあるとき、こういうブルジョアの一人とマンチェスターの町へいったことがある。
そして労働者街のみじめな不健康な家の建て方や、そのぞっとするような状態について彼と話をし、こんなひどいつくり方の町は見たことがないと、断言した。
その男は黙って全部聞いていたが、町角で私と別れるときに、こういった、でもここはお金がうんともうかるところですよ、さようなら! イギリスのブルジョアにとっては、お金さえもうかるのなら、労働者が飢えようと飢えまいと、まったくどうでもよいことなのである。
すべての生活関係は金もうけという物差しではかられ、金にならないことはくだらないことであり、非現実的で観念的である。したがって、金もうけの学問である国民経済学が金もうけ主義のユダヤ人どものお気にいりの学問なのだ。
みんなが国民経済学者である。工場主と労働者との関係は、人間的な関係ではなく、純粋に経済的な関係である。工場主は「資本」であり、労働者は「労働」である。
そしてもし労働者がこういう抽象的なもののなかへ押しこまれたくないならば、またもし彼が、たしかに労働するという特別の性蜜をとくにもってはいるけれども自分は「労働」ではなく人間であると主張するならば、さらにもし彼が自分は「労働」として、商品として、市場で売買される必要はないのだということを考えるようになるならば、ブルジョアはどう考えたらよいか、分からなくなってしまう。
彼は労働者とのあいだに売買以外の関係があるということを理解できない。彼は労働者を人間とは見ず、「人手」と見る。いつも面とむかって労働者をそう呼んでいるのだ。彼は、カーライルがいっているように、人間と人間とのあいだに、現金勘定以外のつながりをみとめていない。彼とその妻との結びつきさえ、一〇〇のうち九九は「現金勘定」である。
ブルジョアはお金のためにみじめな奴隷状態におかれているのだが、このことはブルジョアジーの支配をつうじて言葉にまできざみつけられている。お金が人間の価値をつくる。この人は一万ポンドの値打ちがあるということは、つまり、彼は一万ポンド持っているということである。
お金をもっている人は「尊敬すべき人」であり、「上流の人びと」の一員であり、「影響力がある」人であり、彼のすることはその仲間うちで重視される。
暴利をむさぼる精神がどの言葉をもつらぬいており、すべての関係が商売用語で表現され、経済学のカテゴリーで説明される。需要と供給、欲求と提供、supply and demand〔供給と需要〕、これが、イギリス人の論理ですべての人間生活を判断する公式である。
ここから、すべての関係における自由競争が生まれ、自由放任が行政にも、医療にも、教育にも、そして間もなく、宗教においても、おこなわれるのである。
宗教においても国教会の支配はますますくずれつつある。自由競争は、いっさいの制限、国家によるいっさいの監督を望まず、国家全体を重荷と感じており、それは、たとえばわが友シュテイルナーの「連合」のように、すべての人が他人を思いのままに搾取できるような完全な無政府状態において、完全なものとなるであろう。
しかし、ブルジョアジーにとってプロレタリアートは自由競争と同じように必要であり、これを押さえこんでおくためだけでも国家は欠かすことができないので、国家をプロレタリアートの方へむかわせ、自分からはできるだけ遠ざけておこうとするのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -下-」新日本出版社 p129-131)
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◎「ひどく退廃し、私利私欲のために救いがたいまでに腐敗し、内面的にむしばまれ、あらゆる進歩の能力を失った階級に出会ったことがない」と。
ソニー創業者の一人、盛田昭夫の「新入社員への手紙」とエンゲルスの指摘を現代の日本社会の事態を引きつけて学んで下さい。