学習通信040223
◎子ども……大人も狙われている。
 
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『心のノート』がねらう恐ろしい内容
 
 『心のノート』は、河合隼雄氏が編集・執筆責任者になり彼の仲間の臨床心理学者が編集協力者として全面的に関わってつくられました。心理学の手法が駆使され、パステルカラーを基調とした淡い色使いの絵や写真・イラストがふんだんに使われています。子どもの心にすーっと入り込んでいくきわめて専門的な工夫がなされているのです。
 
最初に使いはじめる小学校低学年用の表紙は、うっとりと目をつぶって『心のノート』らしき本を胸に抱いて空中に浮いている子どもの絵、その周りにシャボン玉、雲、鳥が太陽の光をいっぱいに浴びているという構図が描かれています。表紙を聞くと木漏れ日の中を飛び交う妖精が描かれ、次のページからも空や雲、風船やタンポポの綿毛など空中に浮かぶものの絵やイラストというように続き、そして最後のページは虹の絵の中を飛び交う妖精が描かれています。
 
このような導入で最後に虹をもってくるのは、子どもの心の中に抵抗なく入り込んでいくための心理学の手法だということです。このように地に足がつかない絵やイラストを多用することによって、子どもを現実から引き離し、非現実的な世界にいざなうのは、マインドコントロールをかける手法ではないでしょうか。こうしていざなったところには、美文調の文章や詩が書かれています。そして、そこには国が決めた「道徳」の徳目が抜け目なく盛り込まれているのです。
 
憲法・教基法の視点のない『ノート』
 
 『心のノート』には、礼儀、感謝、美しい心、うそをつかない、約束を守るなどの徳目が並んでいます。一見当たり前、もっとものような内容で、このどこがいけないの、と思わせるものです。しかし、この『心のノート』には、権利や自由を制限し、義務を強調する表現がたくさん出てきます。
 
「自由は自分勝手とは違う」「義務を果たそう」「社会の秩序と規律を守り高めよう」という言葉が繰り返し出てきます。スポーツのルールと法律を意図的に同じものと強弁し、だからどんな法律でもそれに従うべきだと強調しています。「不幸なのは自分が悪いからだ、不幸だと思ったり、元気がないのはあなたの心のせいだ」などとすべて「心」に原因をもっていきます。
 
この「ノート」には憲法・教基法・子どもの権利条約の理念や考え方はありません。そして、「人間の力を超えたものへの畏敬の念」「わが国の伝統を守り育てる使命」「日本の文化や伝統を継承しょう」という記述に続き、最後は、ふるさとと国家を同列において「国を愛する心」は「自然なこと」と「愛国心」に導くようになっています。
 
 『心のノート』の各ページの右上には、このノートの目次とは違う文字=「裏目次」が書かれています。このような「裏目次」をつけることも、この『ノート』の胡散くささを示すものですが、「裏目次」に書かれているのは、政府・文科省が決めた指導要領の「道徳」にある徳目です。
 
つまり、子どもに「自由」に書き込ませる形式をとりながら、その「自由」はけっして本当の意味での「自由」ではなく、国家が決めた徳目に誘導され、その徳目が子どもの心に刷り込まれ、最後は「愛心」にいきつくようにつくられているのです。さらに教師には、この「裏目次」の徳目を子どもに教え込む(刷り込む)ことを求めるものでもあります。
 
 三宅晶子千葉大学助教授は次のように警告しています。
 
 「そもそも教師に『心のノート』を使った『道徳』の授業を強制することは、きわめて不道徳であり、そもそも教育の本質に反する。教師が、批判的知性をもった自立した責任主体として子どもたちに向かい合うことが許されないならば、そもそも<教育>などできるのか。
 
上から強制されたことを忠実に行うことが教師の『能力』とされるならば、それはもはや子どもたちの先生ではない、国家の手先となった『臣民』にすぎなくなる」。学校で『心のノート』の使用が強制され、「道徳に『評価』が導入されるならば、教師も子どもも保護者も、物言えぬ立場に追い込まれる。
 
……(略)……この道徳の評価が、教師に対して『不適格』教員の認定などの際に使われ、生徒に対しても通知表や内申書でより重視されていくならば、国家が決めた『道徳』、そしてその尖兵としての『心のノート』は、まさに秩序への、そして国家への忠誠を示す『踏み絵』となるだろう」。
 
 臨床心理学の小澤牧子氏は『心のノート』について、「国家主義と心理主義の合体]したものと指摘し、「心理主義は『わたし=個人』を強調し、個の内面に目を向けさせる役割を果たす」が、この「ノート」は「個人を強調することによって、人と人、人と自然のリアルな関係や社会への視野を狭めています。
 
『そっと自分に聞いてみよう』というように、自分の内面に目を向けさせるところから導入して、何ごとも自分の心がけ次第というように、問題を個人の内面に閉じ込めていきます」と批判しています。
 
 『心のノート』をみて、「宗教のパンフレットのようだ」という感想をもらした人や自己啓発セミナーと同じだという感想を述べた人もいますが、それは、前述のような内容とこの心理主義によるものと思われます。
 
心を奪い、管理する九年間
 
 『心のノート』について、「部分的には使えるところがある」「いいことも書いてある」「何も問題はないのでは」などという教師や保護者がいます。しかし、それは、教育勅語が一見して問題がない、「いいところもある」(森喜朗前首相)ということと同じです。
 
ぜひ考えてほしいのは、この「ノート」を子どもたちが九年間も使い続けることです。この「ノート」が前述のような国家の意図によってつくられ、前述のような内容である以上、それを使い続けることによって、子どもの心が国家によって奪われ、管理され、国家に従順に従う人間にされてしまうのです。そしてそれを使う教師は、その国家の「手先」にされてしまうのではないでしょうか。
 
 九年間使い続けさせることによって、子どもの心を管理・統制し、国家に従順に従う国民をつくりだすという意図について、前述の押谷氏は次のように語っています。
 
 「日本の子どもたち全部が『心のノート』を持つわけですが、成果が本当にあったかどうかを検証できるのは、実は九年後なんですね。というのは、この四月に小学校一年生がこの低学年の『心のノート』をもちますね。二年間経って三年生になれば、三年生、四年生用のものをもらいます。
 
そして五年生になったら、五年生、六年生の高学年用をもらいます。中学校へ行けば、中学校用をもらいます。
 
だから、一年生からこれを使ってどういう成果が出てくるかというのは、九年経たないとわからないわけです。何が言いたいかというと、長丁場ですので、毎年毎年、しっかりと取り組んでいただきたいということです」。
 
「だからこれをどう使うか、それがポイントです。私は、この『心のノート』が学校の中だけで活用されているというのであれば、それは本来の意図を達成したことにならないと思います。『心のノート』に書かれてある内容は、学習指導要領に挙げられている道徳の指導内容です」。
 
 押谷氏は、一学校発信の社会変革──『心のノート』を使った子どもと親の教育−」を通じて、学校から社会を変えていくと主張しています。かつて、ヒットラーが政権を取ったときに、ナチス党員で一番多かったのは小学校教師です。その教師たちに教育された子どもたちがヒットラーユーゲントになり、親を批判してナチスの影響力を広げていったのです。
 
そのことを考えると、三宅晶子氏や高橋哲哉氏が、『心のノート』と教基法改悪について、「心の軍事訓練」「国民精神総動員」と警鐘を鳴らしているのは「考えすぎ」でもなんでもない、これらのねらいを的確に言い当てたものといえます。
(子どもと教科書全国ネット21編「ちょっと待ったぁ! 教育基本法「改正」」学習の友社 p105-109
 
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石原 先生が政治のことも、外交のことも、日本のことならともかくも、アメリカ、ヨーロッパを相手にすることがらを「祈願して祈ってやる、みんな仏縁だ」とおっしゃるのは、ある人が聞くと、なにを非科学的なこといっているんだということになるかもしれない。ですけれど、わたくしはそう思わないですね。歴史というものをみてみますと、単なる偶然じゃなしに、不思議な力が働いて、実にいろいろな大きなものが決まっているんですね。
 
 この間フランクリン・D・ルーズベルトの伝記を読みましたら、あの人は四回も大統領をつとめ、アメリカの、もっとも偉大な大統領といわれていますが、彼の政治の業績の内には、いろんな不思議な緑が働いているんですね。
 
たとえば、あの人は大統領に立候補する前に小児マヒにかかって動けなくなってしまい、一生、車椅子で旅行したんですけれど、そういう病気がなかったら、あの人の政治家としての人格が形成されなかっただろうということが書いてある。当初は再起不能と思われていたのが、自分も懸命に努力し、車椅子にすわって執務ができるまでに回復してくることで、身体が悪い人だけじゃなしに、貧乏している人も、いかに気の毒かという思いやりがそなわり、ニューディール政策という、実におもいきった新しい政策を打ち出し、政治をしたわけですね。
 
そういうのを見ますと、四十になった男が小児マヒにかかるなんていうことは、やっぱり、なにか、ひじょうに大きな因縁があると思うんですね。その因縁が肉体的にはその人を片輪にしても、他の面でひじょうに大きなものを与えているということ、しかも、そのルーズベルトが日本との戦争の中で、アメリカを救い、世界の民主主義を救ったというようなことを考えてみますと、やっぱり、なにか、ほんとうに目に見えない力が、この人間の歴史全体を動かしていると思います。
 
 わたくしはこの間、アポロ八号から地球を写した写真を見ましたけれど、ずうっと高い空に行ってみると、地球もずいぶん青く小さく見えるわけですね。しかし、神、仏というのは、どこにいらっしゃるのかしらないけれど、天の高みにいられるとしたら、もっともっと遠くにいるわけです。それからみれば、地球なんて、ほんとうに針の先でついたようなものでしかないっていう感じが、ひじょうに強くしたんです。
 
そうしますと、アメリカのこと、日本のこと、そして、世界のことというのは、地上の人間には、いかにも大きなことのように考えられているけれど、実は、われわれをこの地上に与えて動かしている神、仏の目から見れば、実に小さなことで、やっぱり、われわれは、ほんとうに目に見えない力の秩序で律せられているという感じが強くしますね。
 
そういう目に見えない歴史の機運といいますか、因縁といいますか、それをとらえて国の歴史をつくっていこうという考え方が政治家には必要なのです。ところが「おれがやってやる」とか「お前のやり方ではだめだ」とかっていうことで、みんな政治家として人間的に増上慢になっている。
(小谷喜美・石原慎太郎「対談 人間の原点」サンケイ新聞社 p78-80)
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石原 先生のお話の中で印象的だったのですけれど、「今年もいい年でありますようにというのはおかしい。自分でいい年にするんだ、ものは、やはり自分でつくるんだ」ということをおっしゃった。そのとおりだと思うんですけれど、自分でつくるということは、信仰をもたない人は、なかなかそれができませんが、もっている人間でも、信じていれば神仏がよくしてくださるんだという他力本願がありますね。
 
やっぱり、なんでも自分で行じ、修行し、我慢もし、今おっしゃったように、とにかく、しょせんは自分なんだということを、人間というのは、なかなか悟れませんね。
 
 わたくしはエゴイストですから、自分の人生なんだから自分でつくる、それしかないと、日ごろから思っていますが、ただし、自分でつくるつもりでいて、それを自分が、実は、つくっているんじゃなしに、自分というものを通じて、もっと大きな力がつくってくれているのですが。
 
 小谷 そうですね。それでいいんじゃないかと思いますね。
 
 石原 人間とは、自分がやったことが正しいか正しくないか、それとも、それは、ほんとうに、しあわせなのか不幸なのかということを、目に見えているものだけに映してばかりいますけれども、実は、いろいろなものを、ほんとうに決める鏡というものは、人間に見えるものではなしに、目に見えぬ力の秩序と規範、つまり霊界という、もっと高いところにある日に見えぬ鏡が映して、結果が現世の中に現われてくるわけですね。
(小谷喜美・石原慎太郎「対談 人間の原点」サンケイ新聞社 p83-85)
 
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 さて、こんどは、二つの実体の観念と神性の観念とのあいだには、わたしたちの体にたいするわたしたちの魂の作用という理解しがたい観念と、あらゆる存在にたいする神の作用という観念とのあいだには、まだどんなに大きな距離があるかを考えていただきたい。
 
創造、絶滅、遍在、永遠、全能などの観念、神の属性の観念、まつたく曖昧模糊(あいまいもこ)としているのでごく少数の人にしかわからないあらゆるこういう観念、しかし民衆にとっては、ぜんぜん理解されないために、なんら不明の点はないこういう観念が、まだ感官の基本的なはたらきにとらえられていて、身にふれるものしか考えていない若い人の精神に、どうしてそのあらゆる力において、つまり、そのあらゆる曖昧さにおいて、思い浮かべられよう。
 
わたしたちの周囲のいたるところに無限の深淵が口をひらいているといったところでむだだ。
 
子どもはそれにおびえることを知らない。かれの弱い視力はその深さをはかることができない。子どもにとってはすべてのものが無限なのだ。子どもはなにものにも限界をおくことを知らない。ひじょうに長いものをはかっているからではない。短い悟性をもっているからだ。
 
かれらはよく知っている大きさの範囲の外にあるものよりも、むしろその範囲にあるものに無限を感じているのにわたしは気がついたことさえある。かれらは目ではなく、むしろ足によって空間を際限のないものと考えるだろう。空間はかれらにとっては見ることができるところよりも遠くへひろがつているのではなく、行くことができるところよりも遠くへひろがっていることになる。
 
かれらに神の力ということを話したとすれば、かれらは神を自分の父とほとんど同じくらい強い者かと考えるだろう。あらゆることにおいて、かれらにとってはかれらの知識が可能なことの尺度になるので、人から言われたことをいつも知っていることよりも小さなことと考える。それが無知と精神の弱さにともなう当然の判断だ。
 
アイアスはアキレウスと勝負を争うことは恐れたろうが、ゼウスには戦いをいどむ。アキレウスは知っているが、ゼウスは知らないからだ。人間のなかで自分はいちばん物持ちだと思っていたスイスのある農民は、人がかれに国王とはどういうものか説明しようとすると、そんなものなんだといった調子で、その国王は山の牧場に百頭の牝牛をもっているとでもいうのかね、ときいたものだ。
 
 わたしの生徒の幼少年時代を通じて、わたしがかれに宗教についてなにも語らないのを知って、どれほど多くの読者が驚きを感じることだろう。それをわたしは予想する。
 
十五歳になってもかれは、自分が魂をもっているかどうか知らなかったが、十八歳になっても、まだそれを学ぶ時期ではあるまい。必要もないのにはやくから学べば、いつまでもそれを知らないでいるという危険におちいるからだ。
 
 まことに困った愚かしさの図を描いて見せる必要があるとしたら、子どもに教理問答を教えている術学者をわたしは描いて見せることにする。子どもを阿呆にしたければ、わたしはその手に教理問答をしているときに言ってることを説明させてみる。
 
人はわたしに反対して言うだろう、キリスト教の教理の大部分は神秘なのだから、人間の精神にそれを理解することができると期待するのは、子どもが大人であることを期待することではなく、人間が人間でなくなることを期待することだ、と。
 
それにたいしてわたしはまずこう答える。人間にとって考えることができないばかりでなく、信じることもできない神秘がある、そして、そういうことを子どもに教えても、はやくからうそをつくことを学ばせる以外にどんな得があるのかわたしにはわからないのだ、と。
 
わたしはさらにこう言おう。神秘をみとめるには、少なくともそれは理解しがたいものであることを理解しなければならない、しかし、子どもはそれを理解することさえできないのだ、あらゆるものが神秘につつまれている年齢にあっては、正確な意味における神秘というものは存在しないのだ、と。
 
 「救いを得るためには神を信じなければならない。」この筋の通らない教理は、血なまぐさい不寛容のもとになり、ことばで満足する習慣をつけさせることによつて人間の理性に致命的な打撃をあたえるあらゆるむなしい教えの原因になつている。
 
もちろん、永遠の救いにあたいする者になるためには一瞬間もむだにしてはならない。けれども、それを手に入れるには、二、三の文句をくりかえしていさえすればいいというなら、わたしたちが、子どもたちとまったく同様に、おしゃべりずきの鳥どもで天国をにぎやかにするのを、なにがさまたげているのかわたしにはわからない。
 
 信じる義務はその可能性を前提とする。
 
神を信じない哲学者はまちがっている。育ててきた理性のもちいかたを誤っているからだし、否定している真理を理解する能力がかれにはあるからだ。
 
けれども、キリスト教をみとめている子どもは、いったいなにを信じているのか。かれが理解していることだ。しかしかれは、言わせられていることをほとんど理解していないので、かりにあなたがたが反対のことをかれに言うとしたら、やっぱり好んでそれをとりいれることになる。
 
子どもと多くの大人の信仰は地理できまることだ。メッカにではなくローマに生まれたからといって、よいむくいをうけるのだろうか。ある者はマホメットは神の予言者であると言われて、マホメットは神の予言者であると言う。
 
また、ある者はマホメットは詐欺師であると言われて、マホメットは詐欺師であると言う。この二人は、たがいに相手の国にいたとすれば、それぞれ相手が主張したことを自分が主張したにちがいない。そんなによく似た素質の二人を分けて、一万は天国へ、他方は地獄へ送ることができるのだろうか。
 
自分は神を信じていると子どもが言うとき、かれが信じているのは神ではなく、神と呼ばれるなにものかがある、とかれに語ったピエールとかジャックとかいう人間なのだ。つまり、かれはエウリピデスの流儀で神を信じているのだ。
 
 おお、ゼウスさま! と申しますのは、あなたさまについては
 お名前のほかにはなにもわたくしは知りませぬので。
 
 わたしたち〔ブロテスタント〕は理性の時期に達しないうちに死んだ子どもはけっして永遠の幸福を奪われることにはならないとしている。カトリック教徒は洗礼をうけたすべての子どもは、神の話を聞いたことがなくても、そうだと信じている。
 
だから、神を信じなくても救いは得られるばあいがあるわけで、こういうばあいは、あるいは子ども時代に、あるいは気ちがいのばあいに、つまり、人間の精神が神をみとめるのに必要なはたらきをすることができないときに生じる。
 
ここであなたがたとわたしとのあいだにみられる相違は、ただ、あなたがたは子どもは七歳になればそういう能力をもっていると主張するが、わたしは十五歳になってもそういう能力をみとめない、ということにある。わたしがまちがっているにしても、正しいにしても、ここで問題になるのは信仰個条ではなく、たんなる博物学的な事実にすぎない。
 
 同じ原則によって明らかなことは、神を信じないで老年に達した人は、その盲目状態が意志によるものでなかったなら、そのためにあの世へ行って神のまえに出る権利を奪われはしないということだが、そういう状態はかならずしも意志によるわけではないのだ、とわたしは言おう。
 
あなたがたは、分別のつかない人々、病気のために精神的な能力を奪われてはいるが、人間としての性質、したがってまた創造者の恵みをうける権利を失ってはいない人々にたいしてはそれをみとめる。
 
子どものときからあらゆる社会から隔離されていて、まつたく野生的な生活を送っていたために、人々と交わらなければ獲得できない知識をもたない人々にたいしては、いったいなぜそういうことをみとめないのか。そういう野生の人がその考察をほんとうの神の認識にまでに高めることができるというのは明らかに不可能なことだ。
 
人間は意志にもとづく過ちをしなければ罰せられないこと、どうにもならない無知はその人の罪にすることはできないことを理性はわたしたちに語っている。そこで、永遠の正義から見れば、必要な知識をもっているとしたら信じるにちがいない人はだれでも、信じる者と考えられるし、真理にたいして心を閉ざしている人々のほかには罰せられる不信仰者はいない、ということになる。
 
 真理を理解できる状態におかれていない者にむかって真理を告げるようなことはさしひかえよう。それは真理のかわりに誤謬をあたえようとすることだ。
 
神にふさわしくない卑俗で幻想的な観念、冒涜的な観念をもつよりは神についてなんの観念ももたないでいるほうがましだ。神を辱しめるよりは神をみとめないでいるほうが罪が浅い。
 
よきプルタルコスは言っている。
 
プルタルコスは不正な人間で、他人をうらやみ、やきもちをやき、おまけにひどい暴君で、なにもする力を残しておいてくれないで、なにかしろと要求する、などと言われるよりは、プルクルコスなどという者は世の中にはいない、と考えられたほうがいい、と。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p102-106)
 
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◎石原慎太郎氏は東京都知事です。全国に先駆けて「教育改革」が東京でごり押しされているのです。
 
──「救いを得るためには神を信じなければならない。」この筋の通らない教理は、血なまぐさい不寛容のもとになり、ことばで満足する習慣をつけさせることによつて人間の理性に致命的な打撃をあたえる──と。「心のノート」とその精神で、将来の日本を託せるでしょうか。