学習通信040224
◎人格……ナポレオンの権勢も、もう、世の中の正しい進歩にとって有害なものと化して
 
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 こういう風に、ナポレオンは、封建時代につづく新しい時代のために役立ち、また、その進歩に乗じて、輝かしい成功を次々におさめていったのだが、やがて皇帝になると共に、ようやく権力のために権力をふるうようになって来た。そして自分の権勢を際限なく強めてゆこうとして、次第に世の中の多くの人々にとってありがたくない人間になっていった。
 
 その一番大きな失敗は、自分にあくまで楯突くイギリスを苦しめようとして、ヨーロッパ大陸全体に、イギリスとの通商を禁じたことだった。ナポレオンは、自分の権勢をもってすれば、そのくらいな事は出来ると信じていた。また、自分の権勢のためには、それをやり抜かねばならぬと考えていた。
 
しかし、その頃世界の海上貿易を一手に独占していたイギリスと通商しないということは、当のイギリスを困らせるよりも、もっともっと、ヨーロッパ大陸に住む何千万の人々を困らせることだった。人々は、さしあたって、毎日使う砂糖にも事欠くようになってしまった。
 
ヨーロッパでは、どんなに砂糖大根を作って見ても、人口に必要なだけの砂糖は取れないんだ。そして、何千万という人間の生きてゆくための必要は、いくらナポレオンの権力が強くとも、押し殺してしまうことが出来ない。厳重な罰を設けて取締ったけれど、どうしてもこの命令は実行されなかった。こうして、ナポレオンの折角の政策は失敗におわり、おまけに彼は何千万という人民の怨みを買ってしまった。
 
 そこへ起こったのが、ロシア遠征の失敗だった。六十万もの人間がはるばるロシアまで出かけていって、氷や雪の中で、ほとんど全部みじめな死方をしてしまったということは、考えて見ると実に大きな出来事だった。この人々は、ヨーロッパの各地から集まった兵隊たちで、何も自分たちの国のためにロシアまで出かけていったわけではなかった。
 
彼らは祖国の名誉のために戦ったのでもなければ、自分たちの信仰や主義のために戦ったのでもない。命にかけて守らなければならないものは何ひとつなく、ただナポレオンの権勢に引きずられてロシアまで出かけ、その野心の犠牲となって、空しく死んでいったのだった。六十万の人々には、それぞれ家族もあれば、友だちもある。だから、ただ六十万人が死んでいったばかりでなく、その上になお生きている何百万という人々が、あきらめ切れない、つらい涙を流したのだ。
 
 ここまで来れば! そうだ、これほどまで多くの人々を苦しめる人間となってしまった以上は、ナポレオンの権勢も、もう、世の中の正しい進歩にとって有害なものと化してしまったわけだ。遅かれ早かれ、ナポレオンの没落することはもう避けられない。そして、歴史は事実その通りに進行していった。
 
 コペル君。ナポレオンの一生を、これだけ吟味して見れば、もう僕たちには、はっきりとわかるね。
 
 英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立つた人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。
 
 もし暇があったら、君は『人類の進歩につくした人々』という本を読んで見たまえ。同じ偉人といわれている人々の中に、ナポレオンとは全く別な型の人々のあることを君は知るだろう。
 
 そして、これだけの事をしっかりと理解したのちに、君は、改めてナポレオンから学び得るものを、うんと学ばなければならない。彼の奮闘的な生涯、彼の勇気、彼の決断力、それから、あの鋼鉄のような意志の強さ!
 こういうものがなければ、たとえ人類の進歩につくしたいと考えたって、ろくなことは出来ないでしまうのだから。殊に、どんな困難な立場に立っても微塵も弱音を吐かず、どんな苦しい運命に出会っても挫けなかった、その毅然たる精神には、僕たちは深く深く学ばなければならない。
 
 君はナポレオンについて、こういう話のあるのを知っているかしら──
 
 ウォーターローで敗れたナポレオンは、もうヨーロッパには身を置くところがなかった。彼はロシュフォールの港からアメリカに渡ろうと企てたが、その時すでに、この港はイギリスに占領されていて、彼はついに捕われの身となってしまった。イギリスの海軍は、とりあえず彼を、イギリス本国へつれていつた。
 
ナポレオンの乗っているベルロフォーンという汽船がチームズ河口に碇泊していた間、波止場は毎日見物の人でたいへんな混雑だった。なにしろヨーロッパの天地に風雲を巻きおこし、二十年間も無敵の英雄として恐れられていたナポレオンが、とうとう捕虜になってつれて来られたというのだから、イギリス人が驚喜したのも無理はない。
 
殊に、イギリス人にとっては、ナポレオンは最初から最後まで戦いつづけて来た相手で、彼のために苦い失敗をなめさせられたことも、二回や三回のことではなかった。それがついに捕えられ、しかも自分たちの国につれて来られたのだ。せめてナポレオンの乗っている船だけでも見ようと、大勢の見物人は、毎日波止場に群がって来た。
 
 イギリスに着いて以来、ナポレオンはずっと船室にとじこもったまま暮らしていたので、波止場に集まった人々は彼の姿を見たいと思っても見ることが出来なかった。ところが、ある日、ナポレオンは久しぶりで外の空気に触れたくなり、とうとうその姿を甲板にあらわした。
 
 思いがけず、有名なナポレオン帽をかぶった彼の姿を、ベルロフォーン号の甲板の上に認めたとき、数万の見物人は思わず息を呑んだ。今まで騒ぎ立っていた波止場が一時にシーンとしてしまった。そして、その次の瞬間──、コベル君、どんなことが起こったと思う。数万のイギリス人は、誰がいい出すともなく帽子を取って、無言で彼に深い敬意を表して立っていたのだ。
 
 戦いにやぶれ、ヨーロッパのどこにも身の置きどころがなく、いま長年の宿敵の手に捕えられて、その本国につれて来られていながら、ナポレオンは、みじめな意気阻喪した姿をさらしはしなかったのだ。とらわれの身となっても王者の誇りを失わず、自分の招いた運命を、男らしく引き受けてしっかりと立っていたのだ。そして、その気魄が、数万の人々の心を打って、自然と頭を下げさせたのだ。何という強い人格だろう。
 
 ──君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。
 
世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。
 
人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
 君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p190-195)
 
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読者へ
 
 オレは、昔のことを思い出すとマジになる。これは素晴らしいことだ。二十八歳。スーパースターと呼ばれ、所得者付に出るようになっても怒っている。怒ることに真剣になる。
 
 銭が正義だ。こう思ってしか生きてこれなかった。ほんとは銭が正義だなんてウソなんだ。それは良く判ってる。でも、そう思わなければ生きてこれなかった自分に腹が立つ。
 
 攻撃することが生きることだ。負い目をつくらず、スジをとおして、自分なりのやり方でオトシマエをつけてきた。休むわけにはいかない。やらねばならぬことは、まだある。
 
 この本に書いたことは、あくまでもオレ自身の背景だ。読者は、特殊な例だと感じるかもしれない。でも、オレは、だれもがBIGになれる道≠持っていると信じている。
(矢沢永吉著「成りあがり」角川文庫 p4)
 
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人格について
 
「その日ぐらし」
 
 動物の生活は、その日ぐらしだ。高等哺乳動物ともなれば、かなり発達した大脳をもち、そのかぎり、大脳のいとなむはたらきとしての動物的な意識をそなえてはいるが、しかしそれはつねに現在の刺激の直接的な反映にとどまっており、それを越えるということがない。つまり、未来を先どりするということはない。
 
 だから、動物にはデートの約束ができない。うちのミケと隣のタマが、たまたまへいの下で出あって、いっしょにつれだって屋根の上にあがり、ゴロゴロニャンニャンとやることはできるが、「来年の今月今日、有楽町であいましょう」といった約束をすることは、不可能だ。
 
 なるほど、イヌは「おあずけ」をおぼえることはできる。しかし、これは未来を意識して、その未来のために現在をガマンするというのではない。「おあずけ!」という飼い主の命令の現在の刺激に反応しているにすぎない。
 
 未来を先どりできるということは、これは人間だけの特徴だ。
 
 人間でも、まだ右も左もわからない乳幼児の段階では、まだ動物なみにその日ぐらしだ。その意識のなかに未来ははいってこない。未来を先どりできるようになってはじめて、人間らしくなってくる。その端的なあらわれは、約束できるようになる、ということではなかろうか。
 
 これに関連して、じつに興味深い事実を『コトバの誕生』という本(日本放送出版協会)のなかで知った。それは、幼児がことばを自分のものにしていく過程を実地にあたってしらべたものだが、そのなかに、時にかんすることばを幼児がただしく使いこなしていくようになる過程についての記録がある。それによると、キョウ、キノウ、アシタという三つのことばのうち、子どもがもっとも早くおぼえ、かつ正しく使いこなすのは、アシタということばだ。
 
すなわち、一歳半の段階で、アシタということばを正しく使いこなす子どもは九パーセント、これにたいしてキョウのほうはその半分の四・五パーセント。キノウは、この段階では○パーセントだ。
 
 二歳の段階でもこの順位はかわらず、アシタが二九パーセント、キョウが二三パーセント、キノウが八パーセントとなる。二歳半以降になると、キョウがはんのわずかアシタを上まわるようになるが、キノウははば半年のおくれでキヨウを追っかけるという感じだ。
 
 これは、たいへん重要な問題を暗示していると思う。
 
人格の条件
 
 サルは生まれながらにして「猿格的存在」であろうが、人間は生まれながらにして「人格的存在」であるのではない。
 
 「人格的存在」であるためには、すくなくとも、つぎの三つの条件が必要だろう。
 
 第一。昨日の言動について責任がとれるということ。たとえば、「昨日あなたと結婚の約束をしたが、しかし今日の自分はもう昨日の自分ではない」という人間に「人格」を語ることはできないだろう。これでは、保険などという商売もなりたちようがない。
 
 第二。現在の言動に統一性があるということ。たとえば、「A子さんが好きで好きで死ぬはど好きだ」といいながら、同時にそのA子さんを「顔も見るのもキライだ」という、そんなのをたぶん「人格分裂症」というのだろう。
 
 第三。明日の約束ができるということ。たとえば、「今日たしかにあなたと結婚の約束をするが、明日は明日の風が吹く、明日のことなどわからない」という人間に「人格」を語ることは、これまた不可能だろう。
 
 私たちが人格的存在であるために欠かしえない、この三つの条件のうち、もっとも基礎的なもの、それなしにはその他すべてがなりたちえないものはなにか。それは「明日の約束ができる」ということではなかろうか。そのことを、時にかんすることばを幼児が身につけていく過程についての事実は物語っているように思う。
 
意識が現在をこえて未来を先どりできるようになってはじめて、その未来からの光にてらして現在についての自覚も生じるのではなかろうか。そして、そうなってはじめて、過去は現在にのみこまれたままであることをやめ、過去を過去として客観的に見ることもできるようになるのではあるまいか。
 
人間が未来を失うとき
 
人間にとって未来の喪失は、ただちに人格の解休につながる。アウシュビッツの死の収容所に投じられた精神医学者のフランクルは、つぎのように書いている──。
 
「一つの未来を、自分自身の未来を信じることができなかった人は、収容所で破滅していった。未来を失うとともに、その人は自分のよりどころを失い、内的に崩壊し、身体的にも心理的にも転落したのであった」(『夜と霧』みすず書房)
 
 チェーホフの戯曲に『ワーニャおじさん』というのがある。そのなかで、医者のアーストロフがつぎのようにいうくだりがある。
 
 「夜、森のなかをいくでしょう。遠くに灯が見える。すると、疲れも暗闇も忘れてしまい、トゲのある小枝が顔をうっても気がつかない。……でも、いまのばくには、その遠くに見える灯がないんです。ぼくはもう、何をも期待していません。人びとを愛してはいません……」
 
 「ぼくはもう、ふけました。いっさいの感じがにぶりました。どうやらもう、ぼくは人間に愛着することはできないような気がします。ぼくはだれをも愛しません。そして……もう愛することはないでしょう」
 未来を見失ったとき、人は人間としての現在をも失うのではなかろうか。
 
 人格崩壊の過程が進行する。それは、収容所のなかでは、つぎのような劇的なかたちをとってあらわれる。すなわち──とフランクルは書いている──ある日突然、かれはなに事をもしなくなるのだ、と。
 
 食事にいくことも、便所にいくことも、病舎にはこばれることをも、かれは拒否する。たのんでも、おどしても、なぐっても無駄。なに事もかれを動かすことはできない。「かれは自己を放棄したのだ」とフランクルは書いている。みずからの糞尿にまみれて床によこたわったまま、かれは生けるしかばねと化してしまう、と。
 
 ある演劇研究所で、このフランクルの文章についての感想を求めた。一人が書いてきた──「現代の社会は、それ自身が一つの巨大な収容所のようなものではなかろうか」と。
 
人が自殺にさそわれるとき
 
 そんなふうに未来を見失ってしまったときだ、人が自殺にさそわれるのは。
 
 人間だけが自殺する。それは人間だけが心に未来をもつ存在であり、精神的その日ぐらしにたえられない存在であるからだ。
 
 人間が未来を見失って生けるしかばねの状態におちいったとき、自殺ということは、自分がまだほんとうのしかばねになりきってはいないことのさいごのあかし、生きていることのさいごのあかしとしての行為として感じられてくる。そして、そういう行為にふみきるには、通常、ほんのちょっとしたきっかけがありさえすればいい。
 
 子どもでさえも、そうなのだ。「自殺する子」の増加ということは、なにを物語っているか。現代社会は、もっともたっぷり未来をもっているはずの子どもからさえも、その未来をうはっているのだ。
 
 逆にいって、未来が見えすぎるといってもいい。墓石の下によこたわるまでの自分の全未来が、幼いころからありありと見えてしまう。それは、そのために現在をがんばろうという気をおこさせるような、そんな未来なんかではない。
 
そんなふうに未来がうばわれているとき、たとえ小さい子どもでも、はんのちょっとしたきっかけ──たとえば、ベイ・シティ・ローラーズを見にいきたかったのに親が禁じたといったような──があれば、フィッとみずから命をたってしまうということがおきる。
 
 あるいは、そんなきっかけさえなくとも、怪奇ものの流行、「心霊界」の話の流行、等々は、なにか死というものをスリルにとんだ未知の世界への入り口のように錯覚させ、そのドアをあけることへの誘惑にたえられなくしてしまうということさえおきる。
 
 未来を見失ってはならない。──君の頭を高くもたげよ!
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p40-45)
 
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◎「未来を見失ったとき、人は人間としての現在をも失う」のだ。学習通信040218 を重ねて深めてください。