学習通信040225
◎人間が育つということG……自分を中心にみる世界……それでいいのだろうか。
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江戸時代の生活は、ひとりきりになれないのだ。個人の執着心や生活習慣を繰り返すには、何もかもつつぬけで、あまりにも他人が介入し、おせっかいをやき、何かと批評する。恋愛の現場には常に第三者が存在している。いつでも他人の意見を聞くことができるし、聞きたくなくとも、誰かが何か言うのだ。
その結果、「恋する私」の中には、「恋する私を見ている私」が形成される。「江戸の私」の中には、個人としての私と、社会としての私との両方が、いつもいるのである。江戸の恋はそうやって、どこか冷静で、自分をつきはなしていて、冗談ぽい雰囲気を持つことになる。これが「粋」の原点である。恋は閉じてはいけない。そのためにはまず、個人が閉じてはいけない。
そう考えると、閉塞しているのは江戸時代ではなく、現代なのである。
何だか、近頃の日本という国もそうだ。アメリカの顔だけ見つめ、誉められたい愛されたい一心で、二人だけの世界に閉じこもってしまった。何をやっても、どんな報復戦争をしようが、身を捧げて協力するそうだ。恋には、人間としてそれを乗り越えなければならない噂が必ず来るはずだが、もっと広い世界が見えないと、なかなかそうはならない。
恋にも政治にも経済にも必要なのは、自分の見ているもの、知っているものの領域(これをふつう「視野」と言う)を、可能な限り広く取ることだろう。
世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる(いた)のだなあ──私は江戸時代を知れば知るほど、その時生きていたさまざまな人に出会い、心がゆさぶられる。「視野」は、空間だけでなく時間(歴史)のほうにも広く取ることができる。それが何とも、面白い。
ところで、江戸の恋は「好色」と言ったり「浮気=艶気」と言ったりする。それが江戸の恋の、もう一つのいいところである。浮気とはっまり、地に足がついていない、現実世界からはぐれている、という意味だ。江戸へのさまざまな入り口の中で、「恋」の良さはその「浮気」性にある。私はある文章で次のようなことを書いた。
「ナショナリストは日本が好きなはずなのに、絶対に着流しの着物に三味線を持って小唄(ラブソング)なんか歌わない。ナショナリストが好きなのは、どういうわけか着物ではなく軍服と日の丸で、三味線と唄ではなくて軍歌と君が代なのだ。軍服で死んだ三島由紀夫も、ギリシャ文化が好きで江戸文化は嫌いだった」と。
それを読んだナショナリストが怒って手紙をよこした。「日本は着流しに三味線どころじゃなかったのだ」と書いてあった。私はその時から、「〜どころじゃない」という発想を、自分の中から追い出すことにした。私たちは「〜どころじゃない」と言いながら、大事なことを次々と切り落としてきたに違いない。
浮気、浮世──浮いているものに自分をゆだねる。ただし、そういう自分をもうひとりの自分がちょっとからかいながら見ている。切ないならばそれもいい。夢が覚めたらそれもまあ、しかたない。固くてひんやりした地面も、なかなかいいものだ。──それが江戸の恋である。
(田中優子著「江戸の恋」集英社新書 p11-13)
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欲望と計算
◆仲間を激賞
近ごろでは、若者たちの遊び場≠フ象徴的な空間が失われてしまったようだが、九〇年代後半、彼らのホームグラウンドは深夜のクラブとカフェだった。当時、人気だと評判の店に行ってみたりもしたものだが、若者の熱気というよりも、どこかグルイ雰囲気が印象的だつた。無表情で投げやりな応対の店員、リズムだけが強調されたようなBGM、場違いに騒ぐ団体客と何をするともなく気だるい目で周囲を見渡すカップル……。
何となく、「阿片窟」といった言葉を想像してしまうような場であったことを覚えている。それでも、そこに集まってきている若者たちにとっては、その場にいること自体が、何やら貴重な体験であるかのようだった。
そんな場所で彼らの話を聞いていてよく耳にしたのは、彼らが仲間を激賞する言葉だった。
「アイツのDJってすごいっスよ」
「あんなに天才的なスノボは見たことないっス」
では、どれほどすごいのか。その「すごさ」を具体的に聞いてみると、どれもたいした話ではない。世界レベルとはいわないまでも、せめて東京では右に出る者がいないほどセンスがいいのかといえば、別にそういうわけでもなく、何かの大会で優勝したという実績があるわけでもない。ただ単に、彼らの仲間うちでは「すごい」のだと言う。
それも、本人がいい気になっているのを椰輸しているのではなく、素直に褒めているのである。他人の長所を素直に認めて称揚するというのは美徳の一つだとは思うが、客観性がまるでないことには妙な違和感を覚えた。
◆「井の中の蛙」戦略
仲間をひどく褒め讃えるという奇妙な光景は、実は、彼らに内在するある欲求を象徴している。他人にリスペクトされたいと願う「承認欲求」である。仲間を褒めることにより、自分も何らかの点で褒めてもらいたい。いわば褒め合い互助関係を期待しているわけだ。他人に認められたいという欲求は、心理学者マズローが指摘する人間の五大欲求のうち、高次に位置づけられるものである。
だが、何ごとにおいても、社会的に一目置かれる存在になるためには、人並みはずれた努力や生まれながらの才能、何かを犠牲にしてまでそれに打ち込むという情熱が欠かせない。場合によっては運も必要である。つまり、努力はイヤだ、ラクでいたいと言つているかぎり、そう簡単に周囲からリスペクトされることなどないのである。しかし、彼らはこう考える。
努力はイヤだけど、他人に認められる人間にはなりたい──。
そこで、ひとかど≠フ存在になるために、彼らは彼ら流の方法論を編み出した。それは、高いポジションを獲得しやすい母集団のなかに身を置くことである。
すなわち、「井の中の蛙」になればいいのだ。一〇〇万人のなかで認められるより、一〇〇人のなかで一目置かれる存在になるほうがラクであることは間違いない。字多田ヒカルになるよりも、クラスの人気者になるほうが現実味があるということである。客観的な存在としての一般社会を意識しないで生きる彼らにとって、見ず知らずの他人にまで褒めてもらう必要はないのだ。知らない人との約束がカンケーないように、知らない人にまで褒めてもらえなくてもいいのである。
自分のことを理解してくれる身近な仲間がいればそれで満足する。そうして、現実的な社会に背を向け、自分が心地よい閉鎖された小さな関係性の輪のなかへと彼らは収縮していく。
◆計算の答え
だが、自分を認めてくれる集団が小さければ小さいほど、逆にいえば、認められるのがラクであればラクであるほど、その価値も小さくなる。同時に、認められたことによる満足度も小さなものにとどまるはずである。にもかかわらず、彼らは社会とのかかわりを拒否し、より小さな集団へと内向していくように見える。それはなぜなのか。
大きな理由として、次の二点が挙げられる。
まず一つ目は、先にも触れた抽象的な存在に対する想像力の欠如である。会ったこともない人間との約束なら反故にしてもかまわないと考える彼らの論理は、会ったこともない人間に認められても仕方がないという論理にも適用されるのだ。
そしてもう一つの理由は、努力をしても彼らの投資基準に見合うほどには報われないと考えているからである。人に倍する努力をして、もし社会に認められる存在になれたとしても、それにどれほどの価値があるというのか。彼らは、現代の社会における努力と報酬のバランスに対してNOと答えを出したのだ。その結果、社会的自己実現の欲望の収縮が始まって、満足を感じるレベルを自主的に下げていったのだ。
たとえば、コツコツ努力して偏差値の高い大学に入り、ステータスとされた一流企業に入ったとしても、そのための努力は報われたといえるのだろうか。二〇年も三〇年も会社のために地道に働きつづけた中年サラリーマンたちが、この不況であっさりとリストラされているのである。
また、街を見渡せば、最も羽振りがいいのはコツコツ働きつづけたサラリーマンでも、周囲の尊敬を集める高潔な人格者でもない。美女を助手席に乗せてポルシェを乗り回しているのは、どういう職業なのかもわからない正体不明の怪しい人間であったり、街で女の子に声をかけて水商売に誘うスカウトマンだったりするわけである。
そういった現実を見た彼らが、「頑張ること」の先に自らの満足がいく将来を描けなくなったとしても不思議はない。
ひとかど≠フ存在として認められるために支払うコストと、その結果として得られるもの──。
彼らはこのバランスを冷静に計算し、そのアンバランスに気づいたとき、自らの欲望さえも収縮させて、「イマ」が大切、「ラク」が一番の完成度を高めていつたのだ。
(波頭亮「若者のリアル」日本実業出版社 p34-39)
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ものの見方について
潤一君。
今日、君が自動車の中で「人間て、ほんとに分子みたいなものだね。」と言ったとき、君は、自分では気づかなかったが、ずいぶん本気だった。君の顔は、僕にはほんとうに美しく見えた。しかし、僕が感動したのは、そればかりではない。ああいう事柄について、君が本気になって考えるようになったのか、と思ったら、僕はたいへん心を動かされたのだ。
ほんとうに、君の感じたとおり、一人一人の人間はみんな、広いこの世の中の一分子なのだ。みんなが集まって世の中を作っているのだし、みんな世の中の波に動かされて生きているんだ。
もちろん、世の中の波というものも、一つ一つの分子の運動が集まって動いてゆくのだし、人間はいろいろな物質の分子とはわけのちがうものなんだし、そういうことは、君がこれから大きくなってゆくに従って、もっともっとよく知ってゆかなければいけないけれど、君が広い世の中の一分子として自分を見たということは、決して小さな発見ではない。
君は、コペルニクスの地動説を知ってるね。コペルニクスがそれを唱えるまで、昔の人は、みんな、太陽や星が地球のまわりをまわっていると、目で見たままに信じていた。これは、一つは、キリスト教の教会の教えで、地球が宇宙の中心だと信じていたせいもある。しかし、もう一歩突きいって考えると、人間というものが、いつでも、自分を中心として、ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなんだ。
ところが、コペルニクスは、それではどうしても説明のつかない天文学上の事実に出会って、いろいろ頭をなやました末、思い切って、地球の方が太陽のまわりをまわっていると考えて見た。そう考えて見ると、今まで説明のつかなかった、いろいろのことが、きれいな法則で説明されるようになった。
そして、ガリレイとかケプラーとか、彼のあとにつづいた学者の研究によって、この説の正しいことが証明され、もう今日では、あたりまえのことのように一般に信じられている。小学校でさえ、簡単な地動説の説明をしているようなわけだ。
しかし、君も知っているように、この説が唱えはじめられた当時は、どうして、どうして、たいへんな騒ぎだった。教会の威張っている頃だったから、教会で教えていることをひっくりかえす、この学説は、危険思想と考えられて、この学説に味方する学者が牢屋に入れられたり、その書物が焼かれたり、さんざんな迫害を受けた。
世間の人たちは、もちろん、そんな説をうっかり信じてひどい目にあうのは馬鹿らしいと考えていたし、そうでなくとも、自分たちが安心して住んでいる大地が、広い宇宙を動きまわっているなどという考えは、薄気味が悪くて信じる気にならなかった。今日のように、小学生さえ知っているほど、一般にこの学説が信奉されるまでには、何百年という年月がかかったんだ。
こういうことは、君も『人間はどれだけの事をして来たか』を読んで知っているにちがいない。が、とにかく、人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほどまで根深く、頑固なものなのだ。
コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。
子供のうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。子供の知識を観察して見たまえ。みんな、自分を中心としてまとめあげられている。電車通りは、うちの門から左の方へいったところ、ポストは右の方へいったところにあって、八百屋さんは、その角を曲ったところにある。静子さんのうちは、うちのお向いで、三ちゃんところはお隣りだ。
こういう風に、自分のうちを中心にして、いろいろなものがあるような考え方をしている。人を知ってゆくのも同じように、あの人はうちのお父さんの銀行の人、この人はお母さんの親類の人という風に、やはり自分が中心になって考えられている。
それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になって来る。広い世間というものを先にして、その上で、いろいろなものごとや、人を理解してゆくんだ。場所も、もう何県何町といえば、自分のうちから見当をつけないでもわかるし、人も、何々銀行の頭取だとか、何々中学校の校長さんだとかいえば、それでお互いがわかるようになっている。
しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の間にもまだまだ根深く残っている。いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、非常にむずかしいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方の出来る人は、非常に偉い人といっていい。たいがいの人が、手前捗手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。
しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。
もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。そして、日常のことには、それで一向さしつかえない。しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。それと同じようなことが、世の中のことについてもあるのだ。
だから、今日、君がしみじみと、自分を広い広い世の中の一分子だと感じたということは、ほんとうに大きなことだと、僕は思う。僕は、君の心の中に、今日の経験が深く痕を残してくれることを、ひそかに願っている。今日君が感じたこと、今日君が考えた考え方は、どうして、なかなか深い意味をもっているのだ。それは、天動説から地動説に変わったようなものなのだから。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p22-27)
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◎「自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。」と。
◎橋本さん=ONE ME,さん……再読してひろげよう。それこそ愛≠フ実践ではないか。