学習通信040227
◎「歴史は言葉によって語られて初めて成立する世界である」と。
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歴史は科学ではない。地球上のどこにおいても妥当とする客観的な法則に貫かれているわけではない。歴史は言葉によって語られて初めて成立する世界である。言葉というあやふやなものによってつくりだされる不確かな人間の知恵の集積であり、現代に生きるわれわれの未来への希望や不安や欲求と切り離せない、人間的解釈の世界である。
歴史はだから民族によってそれぞれ異なって当然である。国の数だけ歴史があっても少しも不思議ではない。国ごとに、あるいはせいぜい大きく見ても、限られた文化圏ごとに、歴史意識そのものにいちじるしい差異が認められるからである。
(西尾幹二著「国民の歴史」産経新聞社 p41)
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歴史小説家の視点
私どもは、何となく歴史というものがあるという錯覚がありますが、本当を言えば、歴史なんていうものはないのであります。
例えば、「史料」という言葉がありますが、史料というのはファクト(事実)のことであります。
もうひとつ「史実」という言葉もありますが、こちらは実在しているような感じがしても、実際は空気のようなもので、ないようなものなのです。
歴史というのは、語られて初めてそこに存在するわけで、語られないかぎり存在しない。身近なことでたとえ話をしますと、「自分は慶応大学の法学部の学生である」と自己紹介して、履歴書を前に出すとします。昭和何年、どこそこ生まれ、何々小学校卒、何々中学卒……ずっと履歴書は続きますが、それでは何もおもしろくない。おもしろくないばかりか、その人が「田中太郎」という名前だとすると、「田中太郎」という人が出てこないわけであります。
史実というのは、まずまずその程度のものです。履歴書のことをヒストリー、歴史という言葉を使いますが、個人の歴史でも煮詰めてしまえば一枚の履歴書に過ぎない。一枚の履歴書になってしまいますと、その人自身もそこにいなくなる。なるほど、昭和何年にどこどこに生まれたことは確かだけれども、それでもってその人は何も出てこない。
だから、結局その人に語ってもらわなければいけない。あるいはその人の友人に語ってもらわなければいけない。
「彼は父親が早くに戦死して、母親に育てられた」と言うと、だいぶ出てきますね。そういう人かなと。
「鹿児島県出身といっても、実は台湾生まれで、引き揚げてきて鹿児島県の小学校に行ったから、土地の者との間に非常に違和感があって、少年時代は必ずしも愉快でなかった。母親一人の手で苦労して育てられた」
ここでもう少し出てきますね。そして、
「高校は普通の公立に行ったが、資力がないのでそれ以上は行くつもりはなかった。ところが、三年生のときに思い切って、とにかく苦学をするつもりで東京へ出ようと、慶応大学に人った」
これで少し、その少年の性格が少しわかるわけであります。そして、
「東京で恋愛をした。それはどういう人だった」
語れば、出てくるわけであります。
ですから、「何々著、日本歴史」、あるいは「何々著、世界歴史」といったものは、うそですね。日本歴史というようなものはないわけです。「だれそれが語る日本歴史」というのならば存在しますけれども、単に「日本歴史」と称した書物、これはうそ。
語り手がいて初めて成立する歴史
ネールというインドの偉い政治家がいました。獄中にあったときに、自分の娘にだけ読ませるために、世界史を書きました。いろいろ書かれた世界史の中でも優れたものとして、いまでも読まれ続けていますが、これは「ネールが語った世界史」ということで、見事に成立します。単に「世界史 ネール著」ではいけないわけです。
だれかに語られなければ、歴史というものは存在しない。単に、一片の履歴書になるだけです。
その語り手として、歴史家がいるわけです。トインビーも歴史家ですし、古くは司馬遷も歴史家です。
歴史家は文学の中のひとつの重要なパートを占めています。歴史家は、歴史研究者ではありません。
歴史研究者は、どこの大学にも、日本史の教授、経済史の教授、農林経済史の教授、水産技術史の教授と、皆さんいらっしやいます。しかし、それらの先生方は歴史家ではない。歴史家というのは、作家とか、詩人とか、劇作家とかいう人たちのジャンルに存在する、文学者の一派なのです。
人類は幾人かの歴史家を持ちました。そしてその幾人かのおかげで歴史というものを知るわけですが、なかなか存在し得ないものですね。歴史研究者はたくさんいても、歴史家はなかなかいない。
最近、学生時代に読んだフランス革命に関する書物で、翻訳が改まったものを読み直して非常に感動しました。
フランス革命というのは、豊富な史実と豊富な語り手を持った歴史ではありますが、それでもよく語られているという書物はなかなかないのです。ミシュレの『フランス革命史』は見事ですね。読み出すと、夕方になつても電灯をつけることさえ忘れて読みふけるような興奮を覚える。
それはミシュレという希代の名文家が、その見事な文体でもってとらえているからでそこでは、文体というものは穴掘り作業におけるシャベルの役目をします。シャベルが非常に鋭利な形をしている、そういう文体ですと、よく掘れる。また、シャベルが非常に風変わりな形をしていますと、風変わりな穴が掘れる。
ミシュレのシャベルでフランス革命を掘り起こせば、非常にわれわれを興奮せしめるような革命史になるわけです。
歴史家というのは見事な文章力、文体を持つていなければならない。そういう点では、小説家と変わらないのです。
(司馬遼太郎全講演[1]朝日文庫 p55-59)
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人々を知るためにはかれらの行動を見なければならない。社交界では人々の話は開ける。かれらは弁舌を示して、行動を隠す。ところが、歴史のなかでは行動が明らかにされ、人々は事実にもとづいて判断される。かれらのことばそのものもかれらを評価する助けになる。
かれらが言ってることと、していることとをくらべて、かれらはじっさいにどういう者であるかということと、またどういう者に見せかけようとしているかということが同時にわかるからだ。自分を隠そうとすればするほど、ますますよくかれらを知ることができるのだ。
困ったことにこの研究にはいろいろな危険、不都合がある。自分と同じ人間を公平に判断できるような地点に身をおくことはむずかしい。
歴史の大きな欠点の一つは、人間をよい面からよりも、はるかに多く悪い面から描いていることだ。歴史は革命とか大騒動とかいうことがなければ興味がないので、温和な政治が行なわれてなにごともない状態のうちに国民の人口がふえ、国が栄えているあいだは歴史はなにも語らない。
その国民が自分の国だけでは満足できなくなって、隣りの国の事件にくちばしをいれるか、それとも、自分の国の事件に隣りの国からくちばしをいれられるかしたときに、はじめて歴史は語りはじめる。
歴史は、ある国がすでに衰えはじめているときに、それに輝かしい地位をあたえる。わたしたちの歴史はすべて終わりにすべきところではじまっているのだ。たがいに滅ぼしあっている国民についてはわたしたちはひじょうに正確な歴史をもっている。
わたしたちに欠けているのは富み栄えていく国民の歴史だ。そういう国民は、十分幸福で、賢明なので、それについては歴史はなにも語ることがないのだ。そして、じっさい、現代においても、もっともうまくいっている政府はもっとも話題にのぼることの少ない政府であることをわたしたちは知っている。わたしたちはだから悪いことしか知らないのだ。
よいことが一つの時期を画したというようなことはほとんどない。有名になるのは悪人だけだ。善良な人間は、忘れられているか、笑いものにされている。だから、歴史は、哲学と同じように、たえず人類を中傷していることになる。
さらに、歴史に述べられている事実は、その事実が起こったとおりに正確に描かれたものだとはとても言えない。
それらの事実は、歴史家の頭のなかで形を変え、かれの利害によって型どられ、かれの偏見によって着色されている。ある事件を経過したとおりに見せるために、読者をその舞台となった場所に正確に連れていくことがだれにできよう。
無知あるいは党派性がいっさいのことをつくりかえる。ある歴史的な事実を変えるようなことをしなくても、それに関係のある状況を大げさにつたえたり、手短かに語ったりすることによって、その事実にどれほどちがった様相があたえられることだろう。
同じものでもちがった観点から見れば、ほとんど同じものとは見えないのだが、見る者の目のほかにはなにも変わっていないのだ。あったこととはまるでちがったふうにある事実を見せながらその話をわたしに聞かせたところで、十分に真実を尊重したことになるだろうか。
木が一本余計にあったとか、なかったとか、岩が右手にあったとか、左手にあつたとか、風で挨(ほこり)の渦が巻き起こつたとかいうこと、そういったことが戦闘の結果を決定したのだが、だれもそれに気がついてはいないばあいがどれほどあったことだろう。
それにもかかわらず歴史家は、自分がいっさいのことを見ていたかのように、確信をもって、敗戦あるいは勝利の原因を語っているではないか。ところで、理由がわからないとしたら、事実それ自体になんの意味があるのか。そして、ほんとうの原因がわからない事件からどんな教訓をひきだせるのか。
歴史家はある原因を指摘する。しかし、それはかれがこしらえたものだ。そして、批判というものも、人はやかましいことを言っているけれど、それは推測の術にすぎない。いくつかのうそのなかからいちばんよく真実に似ているうそを選びだす術にすぎない。
あなたがたは「クレオパトラ」とか「カッサンドル」とか、あるいはそういった種類のほかの書物をお読みになったことはないだろうか。
作者はよく知られた一つの事件を選んで、それから、それを自分の構相皿にあわせながら、創作した細部描写や、存在したこともない人物や、想像でつくりあげた人物描写で飾りたて、つくりごとを積み重ねておもしろい読物にしている。
こういう小説とあなたがたのいわゆる歴史とのあいだにわたしはちがったところをほとんどみとめない。ただ、小説家はいっそう多く自分の想像に身をゆだねているが、歴史家はもっと他人の想像にしばられているだけだ。
さらに、お望みとあればつけくわえて言うが、小説家は、よいにせよ悪いにせよ、ある道徳的な目的を設定しているが、歴史家はそういうことにほとんど関心をもっていない。
人はわたしにこう言うかもしれない。歴史の忠実さは風俗や性格の真実性よりも興味をひくことが少ない、人間の心が十分によく描きだされていれば、事件が忠実に語られているかどうかはたいして重要なことではない、結局のところ、と人はつけくわえて言うだろう、二千年まえに起こったことがわたしたちにどうだっていうのか、と。
人物の面影が自然のままに十分によく表現されているなら、なるほどそのとおりだ。けれども、大部分の人物は歴史家の想像のうちにその原型をもっているにすぎないとすれば、それは避けようとした不都合なことにふたたびおちいって、教師の権威からとりあげたいと思うものを作家の権威にあたえることになるのではないか。
わたしの生徒はいつも想像画だけを見ることになるというなら、わたしはその絵を、ほかのだれの手でもなく、自分の手で描くことにしたい。それは、とにかく、ずっとよくかれに理解されるだろう。
青年にとっていちばん悪い歴史家は判断をくだしている歴史家だ。事実を! 事実を! そして生徒自身に判断させるのだ。そうしてこそ、かれは人々を知ることを学ぶのだ。著者の判断がたえず生徒を導いていたのでは、生徒は他人の目で見ているにすぎない。だから、その目がみあたらないときには、なにも見えなくなってしまう。
近代の歴史は除外することにする。それにはもう特徴がなくなっているし、近代の人間はみんな似たりよったりであるばかりでなく、近代の歴史家は光彩を放つことに専念して、色彩あざやかな肖像を描くことばかり考え、しかもそれらの肖像はしばしばなにものも表現してはいないからや一般的にいって、古代作家は肖像を描くことが少なく、その判断に才気を示すよりも豊かな良識を示している。それにしても、古代作家についても慎重な選択をしなければならない。
そしてはじめは、もっとも正確な作家ではなく、もっとも単純な作家をとらなければならない。わたしは青年の手にポリュビオスもサルスティウスも輝したくない。タキトゥスは老人の読む書物だ。若い人はそれを理解するまでになっていない。人間の心の奥底をさぐるまえに、その基本的な様相を人間の行動のうちに見ることを学ばなければならない。
一般的な格言を読むまえに、個々の事実がよく読めるようにならなければいけない。格言で語られる哲学は経験をつんだ者だけにふさわしい。若い人はなにごとも一般化すべきではない。かれらに教えることはすべて特殊な親則として教えられなければならない。
──略──
一般史は欠陥だらけだ。それは名前、場所、日付によって記憶される目だったいちじるしい事実だけを記録しているのだが、これらの事実が徐々に展開されていく原因は、同じような方法で示すことはできないので、いつも不明なままになっているからだ。
ある戦いに勝ったこと、あるいは敗れたことに、人はしばしば革命の理由をみているが、この革命はその戦いに先だってすでにさけがたくなっていたこともある。戦争は道徳的な原因によってすでに決定されている事象を明るみに出すだけであることが多いのだが、そういう原因を歴史家たちはめったに見ぬくことができない。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p61-66)
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◎「事実を! 事実を! そして生徒自身に判断」するのだ。その力を備えなければならないのだ。いまは、2004年2月27日急がなければなりません。
学習通信031024 と重ねて深めてください。
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教基法改正へ代議連結成
自良の文教族議員、民主党の保守系議員を中心メンバーに二十五日、教育基本法の早期改正を目指す超党派の議員連盟「教育基本法改正促進委員会」の設立総会が都内のホテルで開かれた。
同会は「愛国心」を盛り込む教育基本法改正を目指しているが、公明党はこの動きに反発。神崎武法代表は二十五日の記者会見で「議連は議員が自由にやることだが、自公の協議は大変重い」と述べ自民、民主両党の連携をけん制した。議連には両陣営から約二三〇人が参加。委員長に亀井郁夫参院議員、最高顧問には自民と森喜朗前首相と民主党の西岡武夫元文相が就任した。
総会には両党から約五十人が出席。国民集会の開催や独自の改正案を作成する方針を決めた。自民党の平沼赳夫前経済産業相は「改正に向けて力を合わせる態勢ができた」と指摘した。
国のために死ねる人を
民主党の西村真悟衆院議員は二十五日、「教育基法法改正促進委員会」の設立総会で同党代表としてあいさつし「国民のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。国のために命をささげた人があって祖国が存在していることを子どもたちに教える。それに尽きる」と述べた。
教育基本法の改正では「愛国心」の盛り込みが焦点となっており、これに関連した発言。同法改正に慎重な公明党からは「理解に苦しむ」(国体筋)との声が上がっており、民主党内でも反発が出そうだ。
西村氏は「国家機構として、国民のために命を投げだすことをいとわない機関、つまり国民の軍隊が明確に意識されないといけない」と述べた。
(京都新聞 040226)