学習通信040228
◎オウムをめぐって宗教≠ェ肯定的に語られています。
 
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向き合わなかった日本社会
国際日本文化研究センター所長 山折 哲雄氏
 
 オウム真理教のテロは何であったのか。なぜ、ああいうものが現れたのか。日本人にとって宗教とは何か、日本の社会にとって宗教とは何か、という問題がいっこうに深まる気配がないままに、九年間が過ぎた。
 
 なぜか。日本の社会が完全に世俗化したからだ。宗教的な言葉が、人の心に育たず、伝わらなくなってしまった。宗教の力が失われてしまった。日本の社会がどれだけ宗教の力を信じているのか。ほとんどの人が信頼していないと思う。
 
 豊かな社会であるがゆえに、心は満たされず、欲求不満が肥大化しているり政治も宗教も満たしてくれない。何とかいい社会にしなければ、という若者たちの未熟な野性的なエネルギーが、宗教的観念に触れた時、そちらの方向に向かって暴走することがあるオウム事件がそうだった。
 
 宗教的救済、宗教的象徴が持つ慰めの力を求める若者を、たくみに利用したのが麻原彰晃だ。偽カリスマだが、果たしてそれを偽カリスマと言い捨てることができるのか。本物に変身することだってある。本物が堕落することだってある。その境目をいったいだれが判定するのか。
 
 神の栄光を地上にもたらすため、人を救済するために戦って人を殺す。十字軍やわが国の一向一揆は、宗教の本質をしめす象徴的な事件だ。それを日本の教育現場は、ただ知識として教えるだけで、宗教とは何か、宗教と社会との関係は何か、暴力と宗教の関係とは何か、といったことの論議を深めてこなかった。
 
 オウム事件は、そういう問題を私たちに突きつけたはずだ。だが、宗教界はオウムは宗教でないと言い、仏教界はあれは単なる犯罪だと言った。宗教研究者や学会も研究の対象から排除した。自分たちとは本質的に関係のない単なる犯罪者として司法の手にゆだねたのだ。
 
オウムの問題は、日本の社会そのものの問題だ、と小う一番大事な観点から議論してこなかった。人間の行動は、客観的に判断できるというごう慢な近代的な人間観。異常な事件として他者を切り捨ててしまうメンタリティーと裏表だ。そこの根本的な反省から始めないといけない。(談)
(京都新聞・夕刊 040227)信と不信の彼岸
 
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根源見失ったオウム
京都精華大名誉教授(宗教思想史)笠原芳光氏
 
 この国、近代以来の宗教史上、最悪というべきオウム真理教事件の教祖麻原彰晃に第一審の判決が下された。
 
 近年、世界各地でテロリズムによる無差別、大量の殺傷事件が頻発する。そこにはキリスト教対イスラム教といった一神教間の確執が介在するとはいえ、それらは政治上の、あるいは国家間の抗争である。
 
 だがオウム真理教事件は一宗教のみによる犯罪である。密教の一派には「殺人による救済」といった特異な教説がある。それはあくまで宗教上の観念である。それを現実の社会に適用して、無差別に大量の民衆を殺害しようとしたのが、あの事件であった。これによって宗教全体に対する不信や不安が広がった。
 
 およそ宗教なるものは道徳とは必ずしも一致しない。ニーチェの言葉を借りるなら、それは「善悪の彼岸」、つまり善と悪を超えた彼方である。親鸞の語録『歎異抄』にも第一条から、「悪をもおそるべからず、弥陀(みだ)の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」とある。
 
 宗教は逆説である。常識の逆に真理がある。ドストエフスキーは『悪霊』のなかで、「人間はなにをしてもよい。人を殺すこともできる。しかし真にそれを知った者は、そんなことをしない」という。すぐれた文学にも逆説はある。だがオウム真理教に、そのような深い道理はない。
 
 かつて知能優秀な若者が多く麻原彰晃のもとに集まった。当初は教祖にも、ある種の魅力があった。彼らは忠実な弟子となり、熱烈な信仰心を抱いた。だが信仰というものは、時として一面的であり、一点に集中することによって全体を、そして根源を見失う。
 
 いったい疑いというものを、まったく持たない人がいるだろうか。懐疑は人間の精神を深化させる。だが彼らは信仰によって人間性を喪失した。信仰は懐疑によって新たになり、深くなるはずなのに。
 
 宗教は信仰だけでなく、懐疑の意味を説かねばならない。もし真の宗教があるとすれば、それは「信と不信の彼岸」にある。
(京都新聞 040228)
 
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 あなたはわたしが述べたことに自然宗教を見るにすぎない。しかし、そのほかにも宗教が必要だというのはまったく奇妙なことだ。どうしてその必要がみとめられよう。
 
神がわたしの精神にあたえる光りによって神につかえるのが、神がわたしの心に感じさせる感情によって神につかえるのが、なぜ悪いのか。現実のある教説からわたしはどんな純粋な倫理、人間にとって有益な、そして人間をつくった者にふさわしいどんな教理をひきだせるのか。
 
そんな教説によらなくても、わたしは、自分の能力を正しくもちいることによって、それらをひきだせるのではないか。
 
神の光栄のために、社会の福祉のために、さらにわたし自身の利益のために、自然の掟にもとづく義務になにをつけくわえることができるのか、そして、わたしの信仰からは導きだされない新しい信仰によつてあなたがたはどんな美徳をもたらすことになるのか、それを教えてもらいたい。
 
神についてのもっとも重要な観念は理性によってのみわたしたちにあたえられる。自然の光景を見るがいい。内面の声に耳をかたむけるがいい。神は、わたしたちの目に、良心に、判断力に、すべてのことを語っているではないか。
 
人々はそのうえになにをわたしたちに語るつもりだろう。かれらの啓示は、神に人間的な情念をあたえることによって、神を低級な者にしているだけだ。
 
わたしの見るところでは、特殊な教理は、偉大な存在者についての観念を明らかにするどころか、それを混乱させているのだ。それを高貴なものにするどころか、卑俗なものにしているのだ。
 
神をとりまいている理解することのできない神秘に、不条理な矛盾をつけくわえているのだ。人間を傲慢に、不寛容に、残酷にしているのだ。地上に平和をもたらさないで、剣と火をもたらしているのだ。わたしはそういうことがすべてなんの役にたつのかと自問して、どう答えていいかわからない。わたしはそこに人間の罪悪と人類の悲惨を見るだけだ。
 
 神はどんなふうに崇拝されることを欲しているか、それを人間に教えるために、なんらかの啓示が必要だったのだ、と人々はわたしに言う。その証拠として、人間がつくりだしたいろいろと奇妙な信仰がもちだされるのだが、人々には、そういういろいろな信仰自体が気まぐれな啓示から生じていることがわからないのだ。
 
すべての民族が神に語らせようと考えついて以来、あらゆる民族はそれぞれの流儀で神に語らせ、自分が望んでいることを神に語らせた。神が人間の心に語つていることだけに人々が耳をかたむけていたとしたら、地上にはこれまでただ一つの宗教しかなかったにちがいないのだ。
 
 一様な形式の信仰が必要だったのだ。わたしも心からそれを望んでいる。しかし、いったいこの点が、それを定めるために神の全知全能を必要とするほど重大だったのだろうか。宗教の儀式と宗教そのものとを混同しないことにしよう。神がもとめている信仰は心の信仰だ。
 
そしてこれは、まじめなものであれば、かならず一様のものだ。司祭の衣服や、かれが唱える文句や、祭壇のまえで行なう動作や、膝を曲げて祈ることなどに、神が大きな関心をはらっていると考えるのは、じっさいばかげたくだらないことだ。まあ、友よ、そこに突っ立ったままでいるがいい。それでもきみは十分に地面に近いところにいるのだ。
 
神は精神的に真実をこめて崇拝されることを欲している。それがあらゆる国の、あらゆる人間の、あらゆる宗教の義務だ。外面的な儀式についていえば、秩序をたもつためにそれは一様な形式をとらなければならないとしても、これはたんなる治安上の問題だ。こんなことには啓示など必要はない。
 
 わたしはこういうことをすべてはじめから考えていたのではない。教育からうけた偏見と、たえず人間を自分の領域よりも高いところへおこうとする危険な自尊心とにひきずられて、わたしは、自分の弱い理解力を偉大な存在者にまで高めることはできないので、その存在者を自分のところまでひきおろそうとしていた。
 
神がその本性とわたしの本性とのあいだにおいている無限の距離を近づけようとしていた。もっと直接的な交渉を、もっと特別の教えを望んでいた。そして、神を人間と同じような者にするだけでは満足しないで、自分は仲間の者のなかでもとくに選ばれた者になるために、超自然の光りをもとめていた。
 
自分だけに許される信仰をもとめていた。ほかの者には語らなかったこと、つまり、わたしと同じようにほかの者も聞いてないにちがいないことを神がわたしに語つてくれたら、と願つていた。
 
 わたしがたどりついた地点を、信仰をもつすべての人がそこから出発してもっとはっきりした信仰に到達するための共通の地点と考え、わたしは自然宗教の教理のうちに、宗教というものの基礎をみいだしていたにすぎなかった。
 
この地上に見られるさまざまの宗派、たがいに、うそだ、まちがいだ、と悪口を言いあっている宗派のことをわたしは考えた。「どれが正しい宗教なのか」とわたしはたずねた。
 
それぞれの宗派はわたしに答えて言った。
 
「それはわたしの宗教だ。」すべての人がこう言つていた。「わたしだけが、そしてわたしの宗派の者だけが正しい考えかたをしているのだ。ほかの者はみんなまちがっているのだ。」「ではあなたは、あなたの宗派が正しいことをどうして知っているのか。」「神がそう語っているからだ。」「神がそう語っているとだれがあなたに語ったのか。」「そういうことをよく知っているわたしの牧師だ。わたしの牧師がこう信じなさいと言った。だからわたしはそう信じている。牧師は、かれとはちがうことを言ってる者はうそをついてるのだと保証した。だからわたしは、そういう者には耳をかたむけないのだ。」
 
 なんということだ!とわたしは考えた、真理は一つではないのか。そして、わたしにとって真実なこともほかの人にとっては虚偽となるのだろうか。正しい道を進んでいる人の方法と道に迷っている人の方法とが同じだとすれば、一方の人には他方の人にくらべてどれだけ多くの功績が、あるいは、どれだけ多くの過失が、あるのか。
 
かれらの選択は偶然の結果にすぎない。それをかれらのせいにするのは正しいことではない。それは、あれこれの国に生まれたことを誉めたり罰したりすることだ。神はそんなふうにわたしたちを裁くなどと言うのは神の正義を侮辱することだ。
 
 すべての宗教が正しくて神の心にかなうか、それとも、神が人間に命じている一つの宗教があって、それを無視すれば神は人間を罰するということなら、神は確実で明白なしるしをあたえてそれを区別し、それだけがほんとうの宗教であることがよくわかるようにしているかだ。
 
そういうしるしは、あらゆる時代、あらゆる場所に共通のもので、あらゆる人間に、貴族にも、民衆にも、学者にも、無知な者にも、ヨーロッパ人にも、インド人にも、アフリカ人にも、アメリカの土人にも、同じようにはっきりとわかるものだ。
 
地上にはある一つの宗教があって、それを信じなければ永遠の責苦(せめく)あるのみというのに、世界のどこかでたった一人でも誠実な人がその明らかなしるしに心をうごかされなかったとしたら、そういう宗教の神はこのうえなく残虐非道な暴君にちがいない。
 
 そこで、まじめに真理をもとめるなら、生まれによる権利とか父親や牧師の権威とかいうものはいっさいみとめないで、わたしたちの幼いときからかれらが教えてくれたあらゆることを思い出して良心と理性の検討にゆだねることにしよう。
 
かれらがわたしにむかって「おまえの理性を服従させるのだ」などと大きな声をだしてみたところでだめだ。わたしをだます人間もそんなことを言うかもしれないのだ。わたしの理性を服従させるには正しい理由が必要だ。
 
 宇宙をしらべることと、わたしの能力を正しくもちいることとによって、わたしが自分の力で獲得できる神学のすべては、わたしがさっきあなたに説明したことに限られる。それ以上のことを知るには、異常な手段にたよらなければならない。その手段は人間の構成ではありえないだろう。
 
どんな人間もわたしとちがった種族に属するわけではないから、ある人間が自然に知ることはすべてわたしも知ることができるのだし、それに、ほかの人間もわたしと同じようにまちがうことがあるからだ。
 
ある人間が言ってることをわたしが信じるのは、かれがそう言ってるからではなく、それを証明しているからだ。
 
だから、人間の証言は、結局のところわたしの理性そのものの証言にほかならない。それは真理を知るように神がわたしにあたえている自然の方法になにもつけくわえない。
 
 だから、真理を宣べ伝える者よ、あなたがわたしにどんなことを言ったところで、わたしはいつもその判定者でいられるのではないか。「神みずからが語つたのだ、神の啓示に耳をかたむけるのだ。」そういうことなら別問題だ。神は語った! これはたしかにすばらしい文句だ。
 
しかし、神はだれに語ったのか。「人間に語ったのだ。」ではなぜ、わたしにはなにも聞こえなかったのか。「神はそのことばをあなたにつたえることをほかの人々にゆだねたのだ。」なるほど、神が語つたことをわたしに知らせにくるのは人間なのか。わたしはむしろ直接に神のことばを聞きたかった。
 
そのために神にはよけい手間がかかりはしなかったろうし、わたしは誘惑からまもられたにちがいないのに。「神はその使いの者の使命を明らかにすることによってあなたを誘惑からまもっているのだ。」どうやって明らかにするのか。
 
「奇跡によってだ。」ではその奇跡はどこに見られるのか。「書物のなかに。」ではその書物はだれがかいたのか。「人間だ。」では、だれがその奇跡を見たのか。「それを証言している人間だ。」なんということだ! どこまでいっても人間の証言。
 
けっきょく、人間がほかの人間のつたえたことをわたしにつたえるのだ。神とわたしとのあいだになんてたくさんの人間がいることだろう。それにしても、見ることにしよう。検討してみよう。くらべてみよう。しらべてみよう。ああ、もし神がこういうめんどうなことをいっさいまぬがれさせてくれたとしたら、わたしはもっといやいやながら神につかえることになったろうか。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p183-188)
 
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 フォイエルバッハが人間の社会生活の領域では事実上の観念論にとどまつたということ、これはさきに指摘しました。どんなふうに、どのていどに観念論にとどまったのか、それはかれの宗教哲学と倫理学をみればあきらかです。つぎに、それを検討しましょう。社会の分野にまで唯物論の立場をつらぬくためには、どのような観点が必要なのかをまなびとるために。
 まず、かれの宗教哲学についてみましょう。結論からさきにいえば、かれはけっして宗教をなくそうとはしていないのです。反対に宗教を完成させようとしているのです。かれにあっては、哲学そのものが宗教のなかに解消させられてしまうのです。
 
 奇怪なはなしのようにきこえます。すでにみてきたように、フォイエルバッハは近代的な宗教批判の頂点をしめした思想家であり、超人間的な存在とされる神とは、けっきょく人間の諸性質を空想的に投影してつくりあげられたものにほかならないことをあきらかにしたのですから。そのフォイエルバッハが宗教を完成させようとしたとは、どういうことなのでしょう。
 
 一言でいうと、フォイエルバッハの宗教批判は従来の宗教にむけられていただけで、宗教そのものをすてきることができなかった、ということです。神を天上から地上へひきおろしはしたけれども、天上の宗教にかわる地上の宗教という考えかたに固執した、ということです。かれのことばをききましょう。
 
 「こころが宗教の一形式なのではなく、したがって宗教がこころのなかにもあるべきだというのではない。こころが宗教の本質なのである。」
 
 神は遠い天上に存在するだけでなく、人間のこころのなかにもやどる、といつた考えを否定しているのが前半の文章の意味です。
 
神とは人間がつくりだした幻想的な観念にすぎない、というのがフォイエルバッハのキリスト教批判の核心であり、人間を超越した神の存在が否定されるわけですから、そうした神が人間のこころにもやどるといった考えかたも否定されるわけです。
 
人間を超越したところにのみ存在するものと考えられるにせよ、人間のこころにも内在するものと考えられるにせよ、そういった幻想的な観念をなかだちとした人と人とのこころのまじわり、それが従来の宗教であつたとして、これを否定するのがフォイエルバッハの主張であり、ここにはかれの唯物論的な立場がしめされています。
 
 ところが、そういった幻想的な観念をたてるところに宗教の本質があるのではなしに、そのような幻想的観念のなかだちのあるなしにかかわらず、人間どうしのこころとこころとのまじわり、そこに宗教の本質がある、どいうのが後半の文章の主張です。
 
こうなると、人間のこころがあるかぎり、宗教はなくならない、ということになります。ただし、もうこれまでのような幻想的観念をつうじてではなく、こころとこころ、感情と感情との直接のまじわりを! それが新しい時代の宗教、完成された宗教、神の愛にかわる人間愛の宗教だ、というのがフォイエルバッハの積極的な主張です。
 
 こうした人間相互のこころとこころのまじわり、愛の関係の原型をなすものは「わたし」と「あなた」の愛のまじわり、とくに男女間の愛だとされます。男女間の愛をその最高の形式、すくなくとも最高の形式のひとつとする「愛の宗教」、これがフォイエルバッハの説く新しい宗教です。
 
 しかし、人間どうしのあいだの感情の関係、男女間の感情の関係、これと宗教とのあいだにいったいどんな本質的つながりがあるのか。なるほど、これまで両性間の関係については、一般に、婚姻法による国家の法的な規制のうえに、既成宗教による「神聖化」がくわえられてきました。葬式のほかには結婚式だけが既成宗教の唯一の仕事というありさまにしだいになりさがってきているほどです。
 
しかしそれも、いまでは宗教的儀式によらぬ結婚式に──かつての神前結婚式にかわる「友前結婚式」に──どしどしとってかわられつつあります。既成宗教への信仰を人びとがなくしたからといって、それにかわる新しい宗教でもって自分たちの愛を祝福してもらう必要などどこにも感じられてはいません。
 
愛と宗教とのあいだにこれまでどのようなつながりが存在したとしても、しょせんそれは一時的・偶然的・表面的な、すなわち非本質的なつながりにすぎません。宗教がすたれれば愛もすたれる、などというものではないのです。
 
かりにあすにでも宗教がこの世からすがたをけしても、人間が存在するかぎり、人間相互の感情の関係、愛と友情はどこまでも存在しつづけ、これまで詩歌の中心テーマの地位をしめてきたように、詩にうたわれ、小説にえがかれつづけるでしょう。
 
 ところがフォイエルバッハはそうした人間の感情──愛や友情をはじめとする──それ自身を宗教的な感情としてとらえねばならないというのです。なぜそんなふうにいわねばならないのでしょう。
 
これらの人間的な感情をそのありのままのすがたでみとめるだけではなぜ不足なのでしょう。あきらかにここにはそうした感情の諸関係を宗教の後光でかざりたてないと、まともなものとして通用させられない、といった考えかたがあります。
 
フォイエルバッハの主張が観念論だというゆえんです。そうした人間関係をありのままにみとめるのでなしに、むりやり「宗教」という観念のわくのなかへそれをおしこむのですから。そうした純粋に人間的な関係が存在するという事実そのものではなしに、それが新しい宗教として解釈されるということが、かれにとっては重要とされるのですから。こうして「宗教的心情」が人間永遠の本性として主張されるのです。
 
 なお、フォイエルバッハはこうした主張をうらづけるために、「宗教」と訳される「レリギオーン」というドイツ語は「レリガーレ」というラテン語からきたもので、これはもともと「結合」という意味だから、二人の人間の結合はすべてひとつの宗教である、などという語源学的な小細工をもてあそんでいますが、こうした小細工は観念論哲学のさいごの逃げ場なのであって、ちかくはハイデッガーの実存主義哲学や、やはり実存主義の日本的一変種としての特徴をもつ和辻哲学などでさかんに愛用されています。
 
すなわち、語源上のせんさく──それもしばしばこじつけ的な──のうえにたって、語源上これこれこういう意味をおびた概念なのだから、このことばによってしめされる現実もまた、この概念のとおりにあらねばならぬ、というのです。
 
しかし問題はそれが語源上どんな意味のことばであったかということではなく、それが現実にどういうものとして存在してきたかということであり、それをこそ見なければならないはずです。ところがそれを見るかわりに、それを見ることをおそれ、回避するために、こうした語源上の小細工に逃げこむのです。観念論のさいごの逃げ場、というゆえんです。
 
 このような小細工までして、フォイエルバッハは両性間の愛をひとつの「宗教」にまでまつりあげてしまうのですが、それは観念論のなつかしいふるさととしての宗教ということばをどうしてもすてさりたくないためというほかありません。無宗教の人間など怪物としかおもえないという、観念論者共通の感情をフォイエルバッハもわけもっているのです。
 
神なき宗教はありうるか?
 
 しかし、はたして「神なき宗教」といったものがなりたちうるでしょうか?
 
 「つまり、君たちの無神論、それが君たちの宗教なんだ!」といういいかたがあります。これは一八四〇年代に、フランスの小ブルジョア社会主義者であったルイ・ブラン(一八一一年〜一八八二年)一派のものたちがマルクス、エンゲルス、およびその友人たちにむかってなげつけたことばです。
 
おなじようないいかたはこんにち「マルクス主義もひとつの宗教だ」というかたちをとつて、一部では善意の無理解から、しかしもっともしばしば悪意の曲解から、いわれています。
 
 しかし、これはことばの乱用というものです。こんなことをすれば、ことがらの本質的な区別はごちゃまぜにされてしまいます。マルクス主義も世界観であり、宗教もやはり世界観ですけれども、一方は科学的な世界観であり、他方は非科学的な世界観としての特徴をもつものです。科学的な世界観が非科学的な世界観の一種であるというのでは、なにがなんだかわけがわからなくされてしまうではありませんか。
 
 宗教はなんらかの超人間的・超自然的な神秘──すなわち、神──の存在をみとめ、そのまえにひれふそうとするものです。そして、こうした神秘への断固とした挑戦、それが科学であり唯物論であるのです。
 
フォイエルバッハが神なき宗教、唯物論的な自然観の基礎のうえにたった純粋に人間だけの宗教というものを主張するとき、それはフォイエルバッハのいう「人間」がじつは現実の人間ではなくて、ある神秘化された幻想的な存在にほかならぬものとされていることをしめしていましょう。そのように理解してはじめて、すじがとおるのです。
 
 しかし、そのことはあらためてあとでふれましょう。そしてここでは「神なき宗教」 「唯物論の基礎のうえにたつ宗教」という考えかたがまったくの背理であることをしっかりと確認しておくことにしましょう。唯物論こそは真の宗教、というような考えはたとえていえば、近代の化学こそ真の錬金術、と考えるようなものです。
 
近代化学と古代・中世の錬金術は似たような対象をとりあつかいながらも、そのとりあつかいの方法において、またそれをつらぬく基本的な考えかたの立場において、質的にことなった──むしろ対立した──ものなのです。これをごっちゃにしたら、近代化学はそもそもなりたちはしません。それは天文学を占星術の一種とみなすのとおなじにゆるされないことです。
 
 ついでながら、宗教と錬金術とを対比させることはたんなるたとえ以上のものをふくんでいます。というのは宗教と錬金術とのあいだには──占星術のばあいにもそうですが──歴史的にきわめて密接な関係があるからです。
 
すでに一、二世紀ごろのエジプトやギリシャの錬金術師たちがキリスト教の教義の発達にからんでいたことを若干の資料にもとづいて推定している学者もいますし、さらに錬金術が全盛をきわめたヨーロッパの中世において、錬金術師たちおよびかれらの思想がキリスト教、とくにその神秘主義の潮流と密接な関係にあったことはよく知られているとおりです。
 
錬金術師たちがいちようにもとめたものは「賢者の石」とよばれるもので、それはすべてのものを黄金にかえ、あらゆる病をいやし、生命をわかがえらせる力をもつとされていました。つまり、神に帰せられるのとおなじ力が「賢者の石」には想定されていたのです。錬金術はこの「賢者の石」なしには存在しえませんでした。
 
「神なき宗教」がありうるかのように考えることは「賢者の石」なき錬金術がありえたかのように考えるのとおなじだといっていいでしょう。
 
 錬金術に相当するものは中国では錬丹術でした。すなわち、不老不死の仙薬をねりあげる秘法です。これが道教と一体不可分のものであったことは、これもよく知られているとおりです。それだけではありません。
 
宋代以降、儒教がいちじるしく宗教的な色彩をつよめたとき、その出発点となったものは、道士たちのあいだにつたえられた丹薬精錬のプロセスをしめす秘図でした。これに若干の修正をほどこしたものが有名な「太極図」と称されるものであり、それに独得の解釈をほどこした周礫渓(しゅうれんけい)(一〇一七年〜一〇七三年)の『太極図説』が宋学形成の出発点となったのです。
 
 すこし横道にわたったようですが、一言で要約すれば、「唯物論的な宗教」「神なき宗教」というような考えかたはあの原始的な迷妄へのたちきりがたい観念論的な郷愁にほかならないということです。
(高田求著「マルクス主義哲学」新日本出版社 p145-153)
 
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◎「ある人間が言ってることをわたしが信じるのは、かれがそう言ってるからではなく、それを証明しているからだ。」と。私たちの働きかけはそうなっているだろうか。学習通信040223 重ねて深めよう。