学習通信040301
◎「日本の近代の戦争と戦後の歴史を、世界史のなかに置いて、しつかりと学び直そう」と。
 
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米国の犯罪告発、核被害者救済を
ビキニ被災50年シンポ
元ロンゲラップ村長証言
 
 ビキニ水爆実験の被災から五十年。静岡市内で開かれた「被災五十年国際シンポジュウム」(2月28日)では、被災地マーシャル諸島と島民、日本の被災船乗組員の被ばく実態が報告されました。ビキニとは何だったのかが改めて多面的に明らかにされ、被害者救済と核兵器被害の根絶が訴えられました。
 
広島型の7千発分
 
 元ロンゲラップ村長のジョン・アンジャインさんは、五十年に及ぶ島民の苦悩を語り、「今、米国の議員は若く、私たちが直面している問題にまったく無知。ブラボー実験の被害を受けた四つの環礁の人たちの健康管理事業も打ち切ろうとしている」と告発。「ともに立ち上がり、米国政府が犯した犯罪を世界に知らせよう」と訴えました。
 
 日本原水協の土田弥生さんは「マーシャルの核実験の合計出力は七千二百発の広島型原爆に匹敵する。十二年間の核実験計画で毎日、平均二・六個以上の広島型爆弾が爆発したことになる」と指摘。かかったことのない病気や奇形児出産など実態を示し、「健康管理事業などが打ち切られれば野垂れ死にするしかなくなる」とのべました。
 
 そして「夢も働き口もない」という多くのマーシャル人が米国に渡り、「米軍に入る人が多い。イラクにも行っている」と報告。「米国がマーシャルでやってきたこととイラクでやっていることは同じ。この犯罪と大国の横暴を世界にもっと知らせ、責任をとらせ、核のない世界を」と呼びかけました。
(しんぶん赤旗 040301)なんだっけ
 
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第五福竜丸
 
 一九五四年三月一日、太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験による「死の灰」をあびたマグロ漁船。乗組員二十三人は急性放射線症になり、無線長の久保山愛吉さんは半年後に亡くなりました。事件は核兵器廃絶運動が飛躍するきっかけとなり、翌五五年には第一回原水爆禁止世界大会が開催されました。
 
 同船は全長二十八・五六b、高さ十五bの大型木造船。一九六七年に廃船。解体の危機にあることを「赤旗」が全国に最初に知らせ、保存運動が広がりました。同船を保存・展示している東京・江東区夢の島の第五福竜丸展示館では、被災五十周年にあたり展示を一新して公開しています。 <2004・3・1(月)>
(しんぶん赤旗 040301)
 
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戦争と近代技術
 
 第一次世界大戦では戦局を打開するためにあたらしい兵器がさかんに発明された。戦車、毒ガス、それに航空機がはじめて実戦に登場した。だが、第二次大戦で使われた兵器の威力はその比ではなかつた。とくに航空機による戦闘が戦局を左右した。また、いわゆる戦略爆撃は、非戦闘員を含んだ無差別爆撃を相手の都市にたいして加えた。
 
もはや戦争は前線だけで戦われるものではなくなり、戦争末期にはベルリン、ドレスデンなどドイツの主要都市は壊滅し、日本のほとんどの都市は焼夷弾によって焼きつくされた。おびただしい死者を出した空襲はさながら地獄であった。
 
 にもかかわらず、戦略爆撃だけでは戦争は終わらなかつた。ドイツは連合軍とソ連軍が地上で東西から国内に侵攻し、ベルリンが陥落し、ヒトラーが自殺するまで降伏しなかつた。日本は本土決戦を叫び、連合軍も本土上陸作戦を立てていたもののきわめて多くの自軍の損害を予想していた。こうした戦いのなかで究極の兵器の研究が進んでいた。
 
大戦末になってようやく完成した核兵器である。それはこれまでの兵器とはまったく次元の異なる破壊力をもっていた。
 
 二〇世紀の物理学の発展のおかげで、そのころまでには原子が原子核と電子からなり、さらに原子核そのものを破壊するとその分裂の連鎖から巨大なエネルギーが放出されることも分かっていた。
 
一九三九年八月、亡命科学者アインシュタインは、同じくヨーロッパから亡命してきたエソリコ・フェルミとレオ・ジラードが知らせてきた研究を見て、近い将来、ウランの核分裂の連鎖反応が巨大なエネルギーに転じうること、それが爆弾の製造に繋がる可能性があることを理解した。
 
アインシュタインはその可能性を憂慮した書簡をローズヴェルト大統領に送った。ファシズムが追い出した亡命科学者たちによる憂慮にみちたこの警告を受け、日本が真珠湾攻撃を行う直前に、原爆製造のための「マンハッタン計画」が極秘裡に発足した。
 
中心となつたのはフェルミやジラードら亡命科学者であつたが、これにイギリスの科学者が加わり、やがて研究者、技術者の集団が集まって、軍の管理のもとに置かれた原爆製造のための巨大な開発機構が生まれた。
 
 マンハッタン計画では、天然の資源であるウラン235と、人工の物質であるプルトニウムとのふたつから原爆をつくる方法がともに探究され、一九四五年七月一六日、ニューメキシコのアラマゴードで最初の実験が成功した。こうした過程は現在ではよく知られているからここで繰り返すまでもあるまい。その時点ではすでにドイツは降伏していたが、日本との戦争はまだ続いていた。
 
 できあがった原爆は、物質そのものの質量をエネルギーに変えるという意味でこれまでの爆発物とまったく異なっていた。その破壊力は異様に大きかった。またそこから放出される放射能は人体に強い影響をもっていた。はたしてこのような爆弾を使用していいかどうか、疑問が出されなかったわけではない。
 
開発の中心だった科学者のなかでジラードは、ドイツが原爆をもはや戦争終結までにつくれないとの情報を得たときに、この計画の中止を主張し、日本に投下することに反対した。
 
そうした反論はあったものの、それまで日本の行ってきた戦争行為の卑劣さ(真珠湾の奇襲)、捕虜や民間人にたいする残虐さなどのために、原爆使用の是非について同情論は比較的早く消えた。おりしも七月二六日、米・英・中の三国は、日本に無条件降伏をうながすポツダム宣言を出した。しかし日本はすぐには受諾を表明しなかった。
 
 八月六日、最初の原爆が広島に投下された。その威力は恐るべきものであった。一発の原爆で、七万八千人以上が死亡、一万三千人が行方不明、三万七千人以上が負傷、都市の半分以上が破壊された。八月九日、二発目の原爆が長崎に投下された。四万人が死亡、四万人が負傷、都市は完全に破壊された。すべては瞬時の出来事だった。いずれも放射能による事後の死亡者数は含んでいない。
 
 これほどまでに破壊力をもつ超越的な兵器を、いくら日本を降伏させるためだとしても使うべきだったのか? 戦後に出した著書のなかで当時の陸軍長官のステイムソンは、「日本帝国を破壊するだけの力がわれわれにあるという証拠を確信させるほどのショック」を日本に与えねばならなかったのだと語っている。
 
しかし核はアメリカに勝利をもたらしたかもしれないがそれが正しい選択であったかどうかは疑問である。ひとつはアメリカはソ連の参戦前に日本を降伏させたかったからということもできるし、また通常兵器でない核を使うのが日本という白人でない民族だったからということもできよう。
 
情けない結論しか出せなかったとはいえ、国連の国際司法裁判所は一九九六年、核の使用は、「一般的には国際法、とくに国際人道法に反する」ときわめて曖昧な言い方ながら、ほとんど戦争犯罪に近いところにあることを暗示している。
 
 だが原爆投下についてアメリカを非難するときには、われわれは太平洋戦争を日本が始めたこと、そのうえ日本はアジア各地で戦争犯罪を続けたことをはっきり認識したうえでなければならない。たしかに日本は原爆の洗礼を受け、それによって降服した。原爆のもたらした悲惨は言語を絶するが、そのために日本が奇妙に被害者であるかのような錯覚が生まれることには警戒しなければならない。
(多木浩二著「戦争論」岩波文庫 p113-117)
 
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「原爆の父」の刻印を背負って
──ロバート・オッペンハイマー
 
 三つの原子爆弾
 
 一九四五年七月十六日未明、アメリカ・ニューメキシコ州の砂漠を、すさまじい閃光が貫き、きのこ雲が立ちのばりました。地球上最初の原爆実験。後にノーベル物理学賞を受賞するエミリオ・セグレがこのときの情景を次のように述べています。彼は、原爆製造に加わつた一人で、爆心から一五キロ地点で、頭を爆弾と反対側にして身を伏せていました。
 
「最も強烈な印象はその圧倒的な閃光であった。(中略)われわれは、非常に濃いサングラスをつけていたにもかかわらず、信じられない明るさに全天が閃き輝くのを見た。(中略)私は、この爆発が大気に火をつけ焼き尽くし、かくして地球の終末が来るのではないかなどと、(中略)一瞬信じたほどである」(『エンリコ・フエルミ伝』エミリョ・セグレ著、みすず書房)
 
 見守っていたのは原爆の製造に関わつた人たちでしたが、泣く人、笑う人、黙り込む人、恐ろしさに鳥肌立つ人、潅木の陰で嘔吐する人、などがいたと記録されています。この実験の責任者、ケン・ペインブリッジは、「俺たちこれで、全員、最低の人間になっちまったなあ」と言いました。
 
 それからわずか三週間後の八月六日には広島に、その三日後の九日には長崎に、原爆が投下されました。広島では約十四万人が、長崎では約七万人が、その年の終わりまでに亡くなったといわれています。
 
 原爆開発は一貫して軍の指揮のもとに行われましたが、その総責任者であるレスリー・グローブス将軍と、当時のロスアラモス研究所長であったロバート・オッペンハイマーの名がニューメキシカン紙に登場しました。
 
 今回は、そのオッペンハイマーについてお話ししたいと思います。グローブス将軍の要請で原爆開発に取り込まれたオッペンハイマーは、戦後のある時期、「悪しき科学者」の代名詞のように言及されたことがありました。しかし、その実像については、意外と知られていません。
 
 特に、物理学者としての顕著な業績や、政治と科学の狭間で運命に翻弄された悲劇の人生については、きちんと把握して正しく位置づけることが、私たちの次なるステップのためにも重要なことだと思います。
(米沢富美子著「NHK人間講座 真理への旅人たち」NHK p79-80)
 
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 事実と認識
 
 かつて日本は、中国にたいする一五年間にわたる戦争を「満州事変」「支那事変」などとよび、その侵略を「東亜新秩序の建設」「東洋永遠の平和」のためだと美化した。
 
 また、アメリカ・イギリス・オランダなどのアジアの植民地に侵攻した戦争を「大東亜戦争」とよび、それを白人の帝国主義支配からアジアの民衆を解放する正義の戦い(「聖戦」)だといい、「大東亜共栄圏の確立」のためだと主張した。
 
こうした考えは、日本が戦争に負け、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって詳細な証拠をあげて否定されたが、日本の指導者の中にはそれを「勝者による一方的な裁き」だとして反発し、認めないものが現在でも多数いる。国民の中にも、その意見に同調するグループがあり、その人びとが力を持っていることもたしかである。
 
 もちろん、勝利した連合国による「東京裁判」には重大ないくつもの欠陥がある。自分を裁いていない一面的なところや、国益のために追及を途中で止めてしまっている課題もある。だからといって、膨大な実証を積み重ねて行なった、その基本的な認定をすべて否定することはできない。
 
裁判だけではない。その後の日本や中国や韓国や東南アジア諸国の歴史研究者によって、さらに日本の侵略の事実は立証され、確認されている。日本の指導者がどんなに「過去」を自分の都合のよいように解釈しても消し去ることのできない事実は残るのである。
 
 こうした事実を無視して、戦後五〇年経ってなお、あの戦争は日本の正義の戦い、大東亜解放戦争だと唱えている保守的な人たちは、素直にまた公平に歴史を認識する努力をしなくてはなるまい。
 
 このことは、当時の一部の日本の国民や兵士たちが、「アジア解放」というあたえられた理想を信じ、止むに止まれぬ「自衛の戦い」だと真剣に思いこんで、祖国のために勇敢に戦ったということとは、別問題である。日本国家が行なった侵略と抑圧の客観的な事実と、国民や兵士の個人的な戦場体験や主観的な願望とを混同して、自分の感覚だけから歴史判断をしてはならないと思う。
 
 私も、上官の命令に従い、任務を遂行するうえで、日本の兵士が勇敢であったということと、「祖国の防衛」と「アジア解放」の理想を信じて戦った人びとがいたということを疑うものではない。それにもかかわらず、日本にとってあの戦争は、朝鮮民族にたいしては三五年間にわたる植民地支配を強要したこと(台湾の植民地支配は五〇年)であり、また中国にたいしては、満州事変以来一五年にわたる侵略戦争であって、それを否定することはできない。
 
そして中国との戦争の最終段階になって、行き詰まりを打開するために「自存自衛」と「大東亜共栄圏の確立」という名目を掲げ、太平洋戦争を起こしたのである。その真のねらいが何であったかについてはくりかえさない。
 
 それらの事例をも考え、一九九三年に細川首相が史上初めて日本を代表して「侵略戦争だった」と公式に認め、その道義的な責任をとって遺憾の意を表明したとき、アジア諸国はこぞって歓迎した。ところが国内の一部世論の反発にあい、「侵略的行為があった」とトーンダウンしている。こうした日本政府のあいまいさは、思えばこの半世紀、ほぼ一貫している。
 
 根深い被害者感覚
 
 そのあいまいさはどこからくるのだろう。一つは、日本国民の被害者意識からではないか。日本国民は一九四一年、アメリカの経済制裁(日本にたいする全面的な石油の禁輸など)にあって止むなく開戦し、その後、本土大空襲、原爆投下、ソ連軍の侵攻などによってひどい目にあった。そうした被害者としての感情をもっている。
 
その「被害」の面と、日本国家や将兵らが実際に行なった「加害」の面とを歴史的に関係づけて、しっかりと認識することをしていない。そこからくる判断のまよい、保守的な国民層の被害感情を意識したときの政治家などのためらいから、あいまいさが生まれたのであろう。
 
 こうした被害者感覚は、敗戦のときの国家指導者の中に、その原形が早くもはっきりとあらわれている。興味深い史料がある。
 
 一九四五年八月一四日、日本降伏の発表(玉音放送)の前日、当時の内閣情報局総裁の下村海南が、報道機関の代表を集め、「大東亜戦争終結交渉二伴フ国民世論ヲドウ指導スルカ」指示したものである。そこには、次のようにある。
 
「コノ未曾有ノ国難ヲ招来シタコトニツイテハ、国民コトゴトクガ責任ヲ分チ、上陛下二対シ奉り深ク謝シ奉」らなくてはならないと。また、「コノ敗戦ノ混乱二伴ツテ、共産主義的・社会主義的言論ハ厳重二取り締ルベシ。軍及ビ政府ノ指導者二対スル批判ハ一切不可トスル」と。
 
 そして、敗戦の理由について、下村総裁は次のように明確に断じていたのである。「敗戦ハ残虐ナ原子爆弾ノ使用トソ連ノ一方的条約破棄トイフ、敵ノ理不尽ニヨツテモタラサレタ民族ノ悲運デアル」と。
 
 この考えこそ日本を被害者、受難者とするものであり、そこには「侵略」への反省などかけらもない。こうした考え方は日本軍国主義の徹底的除去を指示したポツダム宣言に反するので、占領下ではきびしく否定された。だが、講和成立(占領統治の終了)後はたちまち保守勢力によって復活され、今でも生き残っている。国家の戦争責任の公認拒否、戦犯追放者の復権、旧軍人らへの恩給復活(その総支払い額は二〇兆円に達する)もその一例である。
 
 敗戦の受けとめ方がドイツなどとたいへん違うのはこの点である。その結果、日本は天皇制の国体を残し、本土や官僚機構や主要産業の壊滅的な破壊をまぬがれ、天皇家をはじめ旧支配勢力を温存することになった。日本の軍部や大政翼賛会も、ドイツにおけるナチスのような徹底的な処罰をまぬがれた。また天皇は開戦責任も敗戦責任も問われることなく、かえって国民が「一億総懺悔」して、天皇に敗戦の罪を詫びるという逆立ちした意識を残した。
 
 「一億総懺悔」といったのは、敗戦時の内閣の東久遷宮首相であったが、国民すべてが天皇にたいしてお詫びせよといっているのであって、その逆ではない。また、日本がしかけた戦争の犠牲となった中国人民やアジアの民衆に詫びているのでもない。
 
近代史の学び直し
 
 日本の戦争責任があいまいになったもう一つの理由は、アメリカの国益を最優先させた日本占領政策のなかにある。
 
 GHQ(連合国軍総司令部)は日本占領のコストを軽くするために、当時まだ大きな力を持っていた天皇の権威を利用しようと考え、彼の戦争責任を免責した。また、日本の官僚機構を温存し、占領統治に利用した。一方で民主改革を要求しながら、他方で天皇や官僚の責任を不問にするこうした矛盾した政策が、戦争責任の追及をさまたげたことはたしかである。
 
 くわえて日本政府が、文部省の教科書検定などに見せたように、戦争についての公平な、世界史のなかに日本を置いて過去を見直すという歴史教育を排除し、むしろ日本の大陸侵攻を「侵略」ではなく「進出」と教えさせるなど、歪んだ教育を強制してきた。そのことが、戦後世代に大きな歴史認識の欠陥と空白をもたらした。
 
 歴史学者家永三郎による「教科書検定裁判」は、そうした歴史の事実を歪め、真実をかくそうとした文部省を相手に、三十余年も抗議をつづけたものである。最近になってようやく家永教授らの主張の一部が最高裁判所でも認められ、日本政府もまた、韓国、中国などアジア諸国の専門家、教育者などと協力して、たがいの立場を尊重した、より公平な歴史教科書を作るための研究機関を設置することを約束した。
 
 私が「U 敗戦後の日本」で、戦後五〇年の日本の政治のありようをふりかえって見たように、日本政府は第二次世界大戦中の戦争責任を十分に認識し、その犠牲者への国家的補償を十分に行なおうとする意志を持たなかった。それどころか、国の内外からの批判を永い間、かたくなに忌避してきた。
 
しかし、近年、「従軍慰安婦」にされた韓国婦人はじめアジア諸国の女性たちから告発されて、はじめて政治課題となり、国内でも論争の焦点となっている。こうしたことは「慰安婦」問題にとどまらない。日本が怠ってきた戦争による多くの未解決の問題を浮上させている。
 
 核廃絶の問題にしてもそうであろう。日本は唯一の被爆国でありながら、国際舞台で積極的に核廃絶の運動のリーダーシップをとろうとしてこなかった。それどころか、米英など核大国の側に立って、核爆弾の全廃を求める第三世界の国連総会への動議に反対票を投じてきた。こうした態度も戦後の日本のあり方からきているものといわざるをえない。
 
 これまで何度も述べてきたように、日本が世界から尊敬される国家になるためには、こうした問題解決を二一世紀に先送りしてはならない。この点で日本の政府がいつまでもしっかりした自覚と対策をもたないのは、それを監督する主権者たる人民がしっかりした歴史認識を持って、政府に実行を迫らないからである。
 
 今からでも遅くない。日本の近代の戦争と戦後の歴史を、世界史のなかに置いて、しつかりと学び直そう。そのとき、いちばん大切なことは国家指導者や政治家や評論家などの国家本位の言動にまどわされることなく、民衆の視点に立って歴史を見直すことだと私は思う。
 
 二一世紀のこの国の運命や人類の未来は、若い人びとの肩にかかっているのだから、まず若い人びとの学び直しと、その行動力に期待したい。
(色川大吉著「近代日本の戦争」岩波ジュニア新書 p209-217)
 
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◎「日本が奇妙に被害者であるかのような錯覚」
 
「敗戦ハ残虐ナ原子爆弾ノ使用トソ連ノ一方的条約破棄トイフ、敵ノ理不尽ニヨッテモタラサレタ民族ノ悲運デアル」と。
 
「日本国家が行なった侵略と抑圧の客観的な事実と、国民や兵士の個人的な戦場体験や主観的な願望とを混同して、自分の感覚だけから歴史判断をしてはならない」と。
 
◎学習通信040227 と重ねて深めよう。