学習通信040303
◎ウイルス……生物と無生物との間に「固定した境界線」のないことを、いわば体現している存在……
 
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卵を店頭から撤去 売上高、3割滅も
 
 京都府丹波町の養鶏場で鳥インフルエンザに感染した鶏の肉や卵などが二十三府県で流通し、小売り、外食産業に深刻な影響が広がっている。関西を中心に鶏肉などの売り上げが減少する店が続出、商品を撤去するところも出てきた。行政の対応が後手に回り混乱に拍車をかけたが、政府は二日、関係省庁対策会議を設置、遅まきながら感染の拡大防止に動き始めた。
 
 サンドイッチも
 
 生活協同組合最大手のコープこうべ(神戸市)は浅田農産船井農場で鳥インフルエンザが確認された二月二十七日以降、鶏卵の売り上げが前年の同時期と比べ約三割減少した。コープこうべは年間約三十一億円の鶏卵の仕入れ額のうち、十九億円弱を浅田農産とその関連会社から購入していたが、取引を停止。売り場に「取り扱い中止のお知らせ」を出した。
 
 イオンも二月二十八日付で、浅田農産との取引を一時的にやめた。近畿・四国地方の総合スーパー「ジャスコ」八十四店、グループの食品スーパー百十九店で販売していた卵を回収した。さらに週内にすべての鶏卵・鶏肉の取引先に対し、鶏舎あたりの烏の死亡率など毎日の状況を報告させることにした。
 
 商品撤去はコンビニエンスストアにも拡大。「サークルK」を展開するサークルケイ・ジャパン(愛知県稲沢市)は船井農場の卵を使ったサンドイッチを二十七日に約三千店の店頭から撤去した。同社では「加熱したゆで卵は感染の危険はない」としているが、消費者心理を考慮したという。(日経新聞 040303)
 
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 ●ウイルスは生物ではなく物質?
 
 ウイルスが発見されたときから、ウイルスは生物かそれとも無生物なのかという議論がなされている。細菌は単細胞とはいえ立派な生物である。しかし、ウイルスとなると、あやしくなってくる。一つには、いま述べたとおり、細菌は栄養分や温度など適当な条件が整えば、自分自身で細胞分裂を起こして増殖するが、ウイルスは自分自身では増殖することはできないことがある。宿主があって、その細胞の中でしか増えることができないことから、生物とはいいにくいのだ。
 
 もう一つには、ウイルスは結晶化するという点があげられる。タバコモザイクウイルスという大変有名なウイルスがある。このウイルスはタバコの葉に感染し、モザイク状の縞模様をつくり、葉がよじれたり、縮れさせたりするタバコモザイク病を引き起こす。
 
 このタバコモザイクウイルスを結晶にしたのが、あとで述べるアメリカの化学者ウエンデル・スタンレーで、それによって人類ははじめてウイルスを見ることができたわけだが、結晶化したタバコモザイクウイルスは、砂糖の結晶である氷砂糖や、二酸化珪素の結晶である水晶などとまったく同じ、ただの物質なのである。
 
 そのため、乾燥した袋などに好きな期間、保存しておくこともできる。ウイルスが結晶化できるということは、生物というよりは生命のない物質に近いことの一つのあらわれである。
 
 しかし、結晶したタバコモザイクウイルスが、ひとたびタバコの葉に触れると、ウイルス本来の姿に戻り、タバコの葉の細胞内に潜り込み、増殖を開始する。このようなウイルスの不思議な姿を見ると、ウイルスは生物というより「増殖する物質」とでもいいたいような気がする。
 
 ●なぜウイルスに効く特効薬が作れないのか
 
 ウイルスに対抗する手段としてワクチンがあるが、これは予防法であって、ウイルスによる病気を根本的に治療できる薬はない。抗ウイルス剤としては、C型肝炎などに用いられるインターフェロンなどがあるが、いまひとつという感じである。
 
 細菌には抗生物質という特効薬があるのに、なぜウイルスにはこうした薬ができないのだろうと不思議に思うが、それに対する答えは、ウイルスは生物ではないからだ。
 
 ペニシリンは細菌を殺したり成育を妨害するので薬として効くが、ウイルスは細菌のように成育しない。つまり、ウイルスはもともと生命活動をしていないので、殺す≠アとができないのである。生きていないものを殺すのは不可能なのだ。
 
 また、細菌とウイルスの大きな違いといえば、細菌は感染しても細胞の外で活動するのに対して、ウイルスは細胞の中に入り込み、その中で増殖したり、細胞の遺伝子に取りついたりして感染した細胞を破壊してしまうことがあげられる。そのため、細胞の中にまで薬を入り込ませることができないので、細胞の中のウイルスを退治することはできないのである。
 
 しかし、ウイルスを殺すことはできないが、その活動を抑えることはできる。活性化させない状態、つまり、物質のままにしておけば感染することはない。これを、不活性化という。
 
 人間の免疫システムも、ウイルスを不活性化させる機能をもっており、不活性化させる薬の研究も進められている。だが、いったん細胞内に入り込まれたら、人間の免疫システムも、また、そうした薬が開発されたとしても、何も打つ手がないというのが実情なのである。
(中原英臣著「ウイルスの正体と脅威」KAWADE夢新書 p34-36)
 
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万物が進化する
 
 今日の自然科学はさらに視野をひろげて、銀河系や宇宙の進化の歴史にも挑戦していますが、そのなかで注目されるのは、私たちの身休をはじめあらゆる物体を形づくつている元素も、宇宙の発展のいろいろな段階に生みだされてきた歴史的な産物であることが、明らかになったことです。それによると、元素のなかでも、もつとも早い時期から存在してきたのは水素とヘリウムで、重い原子核をもった元素ほど、よりあとで生まれたとのことです。
 
現代の自然科学は、「自然に歴史はない」どころか、「自然のなかに歴史の産物でないものはなに一つない」といえるところまで、自然の雄大な歴史の解明に、あらゆる分野と角度からせまりつつある
のです。
 
 「固定した境界線はない」というのが、弁証法の第三の見方でしたが、このことも、自然科学のあらゆる分野で無数の確証をえてきています。
 
 たとえば、インフルエンザが流行するたびに問題となるウイルスという存在があります。ウイルスが発見されたのは一八九八年のことですが、生物か無生物かが論争の対象となりました。というのは、ウイルスは、他の生物の体内に入ると、どんどん増殖するなど、生物と同じような活動をしますが、生物の体外では、結晶になりうることが発見されたからです。しかし、この論争はいくらやっても答えは出ない論争でした。
 
ウイルスとは、実は、核蛋白質とよばれる一つの巨大な分子で、条件に応じて生物的なはたらきもすれば、結晶にもなる──生物と無生物との間に「固定した境界線」のないことを、いわば体現している存在だったからです。
 
 光は粒子か波動かという問題も、ニュートン以来、物理学者のあいだで二百年以上も論争されてきましたが、現代の物理学は、光だけでなく、電子など物質のあらゆる構成要素が、粒子と波動の二つの性質を内包しており、条件におうじてそれぞれの現れ方をするのだということを、つきとめました。
 
 放射能の発見によって、原子ももはや不動の固定したものではなくなりました。それどころか、原子から原子核へ、さらにその内部へと突きすすんだ物理学は、いまのところあらゆる物質の構成単位とされている素粒子──陽子、中性子、電子、中間子、光子など──が、相互の転化を不断におこなっている、きわめて躍動的な存在であることを明らかにしました。
 
 こういう例は、あげてゆけばきりがありません。現代の科学が、自然の奥深くすすめばすすむほど、「固定した境界線」は次から次へと消え去ってゆくのです。
(不破哲三著「社会主義入門」新日本出版社 p77-79)
 
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 われわれが自然や人間の歴史や自分自身の精神活動を考察するときに、まず第一にわれわれの前に現われてくるのは、もろもろの連関と交互作用とが限りなく絡みあった姿である。
 
この絡みあいのなかでは、なに一ついつまでももとどおりのもので・もとどおりの場所に・もとどおりの状態でいるものはなくて、すべて運動しており変化し生成し消滅するのである。
 
この最初の素朴なしかし実質上正しい世界観は、古代ギリシア哲学の世界観であって、これをいちばんはじめにはっきり言いあらわしたのは、ヘラクレイトスである、──<万物は存在しまた存在しない、と言うのも、流動し絶えず変化し絶えず生成・消滅しているのだから>、と。
 
しかし、この見かたは、諸現象の全体としての姿の一般的性格を正しくつかんではいても、この全体としての姿を構成している個々のものを説明するのにはやはり十分でない。そして、これが説明できないあいだは、全体の姿も明確ではないのである。
 
こうした個々のものを認識するためには、これをその自然的また歴史的な連関から取り出して、それぞれ別個に、その性状・その特殊な諸原因および諸結果などなどについて研究しなければならない。これが、まず第一に、自然科学と歴史研究との任務である。
 
この二つの研究部門は、古典時代のギリシア人たちのところでは、とりわけまずそのための材料を集めてこなければならなかったという、まことにもっともな理由で、従属的な地位しか占めなかった。
 
精密な自然研究の初歩は、やっとアレクサンドレイア時代のギリシア人たちのところではぐくまれ、その後、中世にアラブ人たちがいっそう発展させるのである。
 
しかし、一つの真の自然科学が、やっと一五世紀の後半に始まって、それ以後、絶えず速度を上げながら進歩してきた。
 
自然をその個々の部分に分解すること、いろいろな自然事象と自然物とを一定の部類に分けること、生物体の内部構造をその多様な解剖学的形態について研究すること、これが、最近四〇〇年のあいだに自然の認識にかんしてわれわれにもたらされたもろもろの巨大な進歩の根本条件であった。
 
しかし、それはまた、<自然物と自然事象とを個々ばらばらに大きな全体的連関の外でとらえる、という習慣>をも、<自然物と自然事象とを、だから、運動しているのではなくて静止したものであり、本性上変化するものではなくて固定したものであり、生きているのではなくて死んだものである、ととらえる習慣>をも、われわれに残した。
 
そして、この見かたは、ベイコンとロックとがしたことであるが自然科学から哲学へ移されたことによって、最近の数世紀に特有の狭さを、すなわち、形而上学的な考えかたを、つくりだしたのである。
 
 形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらで・一つずつ順番に他のものなしに考察されなければならない・固定した・動かない・いったん与えられたらそれっきり変わらない研究対象である。
 
彼は、まったく仲だちのない対立のなかでものを考える。すなわち、彼のことばは、<然り、然り、否(いな)、否、それ以上のことは、悪から出るのである>〔『新約聖書』「マタイによる福音書」、五の三七〕、である。
 
彼にとっては、一つの物は存在するかしないかのどちらかである。同様に、一つの物は、自分自身であると同時に他の物であることはできない。肯定と否定とは、互いに絶対に排除しあう。原因と結果とも同様に、互いに動きのとれない対立のうちにある。
 
この考かたは、一見したところ、いわゆる常識の考えかたであるゆえに、この上なくもっともであるように見える。
 
この常識というやつは、自分の家のなかのありふれた領分ではひとかどの代物ではあっても、研究という広い世界に乗り出したとたんに、まったく不可思議な冒険を体験するのである。
 
そして、形而上学的な<ものの見かた>は、対象の性質に応じてそれぞれに広い領域で正当でありそれどころか必要でさあるとしても、やはり毎回遅かれ早かれ或る限界に突きあたるのであって、この限界から先では、一面的で狭くて抽象的なものになり、もろもろの解け讃ない矛盾に迷い込んでしまうのである。
 
それは、個々の物にとらわれてその連関を忘れ、それの存在にとらわれてその生成と消滅とを忘れ、それの静止にとらわれてその運動を忘れるためであり、木ばかりを見て森を見ないためである。
 
日常の場合には、われわれは、たとえば或る動物が生きているかいないかを知っているし、これをはっきり言うことができる。しかし、もっと綿密に研究してみると、これはときにはきわめて複雑な事柄なのである。
 
それは、これから先は胎児の殺害が〔刑法に言う〕殺人になるという、そういう合理的な境界を見つけ出そうとしてさんざんむだ骨折りをしてきた法律家たちが、非常によく知っているとおりである。
 
また、同様に、死の瞬間を確定することも、不可能である。と言うのも、生理学が立証しているとおり、死が、一度かたづく瞬間的な出来事ではなくて、非常に長びく過程だからである。
 
同様に、どの生物も、各瞬間に同一のものであって同一のものではない。各瞬間に、外部から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する。各瞬間に、そのからだの細胞が死んでいき、新しい細胞がつくられる。遅かれ早かれ或瞬間ののちには、このからだの物質は完全に更新されて、他の物質原子に置き換えられでしまう。
 
その結果、どの生物も、つねに同一のものでありながらしかも別のものなのである。また、いっそう綿密に考察してみるとわかるように、或る対立の両極たとえば正と負とは、対立しているとまったく同様に切り離せないものであり、どれほど対立しでいようと互いに浸透しあっているのである。
 
同様に、原因と結果とも、個々のケースに通用されるときにだけそのままあてはまる観念であって、個々のケースを全世界との全般的連関のなかで考察すれば、すぐに両者は結びあい、普遍的な交互作用という見かたに解消してしまう。
 
この交互作用では、原因と結果とが絶えずその位置を換え、いま・あるいはここで結果であるものが、あそこで・あるいはつぎに原因になり、また、その逆も行なわれるのである。
 
 すべてこうした事象と思考方法とは、形而上学的思考の枠に収まらない。これにたいして、物とその概念的模写とを本質的にその連関・その運動・その発生と消滅とにおいてとらえる弁証法にとっては、右に述べたような諸事象は、一つ一つそれ自身のやりかたの確証である。
 
自然は弁証法を証拠だてるものであって、われわれは、現代の自然科学がこの証拠だてのためにきわめて豊富で日々にますます積み重ねられていく材料を供給し、それによって、<自然のなかでは、事は結局、形而上学的にではなく弁証法的に進行しているのだ>、ということを証明してくれた、その功績を認めてやらなければならない。
 
しかし、弁証法的にものを考えることを覚えた自然研究者は、いままでのところ数えるほどしかいない。だから、発見された諸成果と伝来の考えかたとの衝突ということが生じているわけであって、いま理論的自然科学のなかで広まっていて教師をも生徒をも著者をも読者をも等しく絶望させている際限のない混乱も、この衝突をもとに説明できるのである。
 
 世界全体、それの発展および人類の発展、さらに人間の頭のなかでのこの発展の映像、以上を精密に叙述することは、したがって、ただ弁証法のやりかたで、生成と消滅との・前進的または後退的変化の・全般的な交互作用に絶えず注意をはらうことによってだけ、達成できるわけである。そして、こうした考えかたに立って、いまからそう遠くない時代のドイツ哲学がすぐさま現われてもきた。
 
カントは、ニュートンの安定した太陽系とその──〔造物主によるという〕あの有名な<最初の一撃>がいったん与えられたあとの──永遠の持続とを解消して一つの歴史上の出来事にしてしまうことで、すなわち、回転している星雲塊から太陽とすべての惑星とが発生したとすることで、その経歴を始めた。
 
そのさいすでに、<太陽系がこのように発生したものである以上、それは将来また必ず滅亡もするに違いない>、という結論を引き出した。彼の見解は、半世紀のちにラプラスが数学的に基礎づけ、さらに半世紀のちには、そのような灼熱したガス塊がさまざまな凝縮度で宇宙空間に存在していることが、分光器を使って立証された。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p34-38)
 
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◎「交互作用」深めてください。「自分は○○だ」、がちがちの仲間を置き去りにするのかどうか。その根本問題は仲間は必ず変化する……ということにあるのです。凝り固まったものは世界に存在しない……。