学習通信040304
◎「発達した無防備な性的ネットワーク」が……。
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エイズ問題が照射する日本社会の脆弱性
木原正博・木原雅子
──略──
日本の現状──流行にむかう社会
HIV流行の現状
厚生労働省に報告されるHIV感染者・エイズ(AIDS)患者数は上昇を続け、二〇〇一年以降、年間合計九〇〇件を超すレベルに達した(図1)。日本国籍の男性の感染者が増加の中心であり、感染経路では同性間感染の増加が顕著だが、異性間感染も着実に増加している。いずれも国内感染が大半である。若者の感染者の増加傾向が二〇〇一年から特に強まったこと、東京以外にも、近畿地方や東海地方での増加が強まったことが特筆される。
エイズ患者数は、先進諸国では、治療薬の進歩で九〇年代半ばから一斉に激減したが、その中でわが国では異例に二〇〇〇年まで増加後、横ばい状態にあり、好対照をなしている。これは日本における早期発見・早期治療の遅れが原因である。
保健所など公的検査施設を訪れるHIV検査希望者の感染率も、大都市圏において、二〇〇一年以降顕著な増加が観察されている。また、東京都では、検査希望者における同性間性行為経験者の推定感染率が、一九九六〜二〇〇〇年の約3%から二〇〇二年には4・4%へと急増した。献血血液のHIV抗体陽性率も年々増加し、この一〇年間で倍増している。
性感染症(STD)、人工妊娠中絶、コンドーム
若者に多いクラミジアや淋病などの性感染症(STD)と一〇代の人工妊娠中絶率が、一九九〇年代の半ばから増加に転じて、四、五年で倍増のペースで増え、同時期に、国内コンドーム出荷数が急減を始めている(図2)。因果関係の断定はできないが、これらの現象の間に矛盾はない。
若者の性行動の実態──拡大する無防備なネットワーク化
近年わが国では若者の間に劇的とも言える性行動の変容が進行している。東京都性教育協会の調査によれば、高校三年生の性交経験率は一九九〇年代に急上昇し、特に女性の変化が大きく、一九九〇年代後半には、男女逆転するという現象が起きた。
二〇〇二年時点での性交経験率は高校三年男女約40%、中学三年生男女でもすでに10%前後に達している。こうした変化は、一九九九年に我々が実施した全国初の国民性行動調査(無作為抽出、三六五一人)にも現れており(図3)、若い世代における初交年齢の早まり、パートナーの多数化、性行動の多様化(オーラルセックスの普及)、性交までの付き合い期間の短縮化、売買春との関わりの高さといった状況が示され、買春を除けば若者では、性行動の男女差がほぼ消失もしく逆転したことが示された。
男性(一八〜四九歳)の買春の経験率(過去一年)が、欧米で数%であるのに対し日本では約15%と、日本が先進国で異様に突出した存在であることもわかった。
さらに、同年実施した全国国立大学生の性行動調査(一万三六一五人)では、男女とも、コンドーム使用率は決まった相手よりも不定期の相手との場合でむしろ低く、かつ性的パートナー数の多い者ほどコンドーム使用率が低いという、極めて無防備な実態が判明した。
また、二〇〇一年に実施した、首都圏の若者(一〇代)カップル(三〇一組)の性行動調査では、お互いそれまでの相手が一人というカップルはわずか17%で、逆に少なくとも一方が五人以上というカップルが43%にも上るなど、性行動が強くネットワーク化している状況が窺われた。
その後、二〇〇一〜〇二年に地方二県で実施した合計約二万人に及ぶ高校二年生対象の性行動調査からは、性交経験率に男女差がなく、かつ都会とも差がないことが示された他、大学生や首都圏の若者同様、性的パートナト数の多い者ほどコンドーム使用率が低いという現象が再び確認され、これがわが国の若者に普遍的である可能性が強く示唆されている(図4)。
性的ネットワークにおいて、特に多くの相手を持つ存在をコア≠ニいい、HIV/STD流行に決定的役割を果たすことが知られているが、地方高校生のコアのコンドーム常用率は僅か数%と、ほとんど使われていない実態が明らかになった。発達した無防備な性的ネットワーク。これこそが、エイズ流行の土壌に他ならない。
(「月刊:世界」〇四年一月号 102-105)
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しかし、どういう態度で臨んだらいいのか。このばあい、かれの傾向を助けてやるか、それとも押さえるか、かれの暴君になるか、それとも御機嫌とりになるか、といつたような二者択一だけが考えられるのだが、それはどちらもひじょうに危険な結果をもたらすことになるから、選択に迷わずにはいられない、ということになるだけだ。
この困難を解決するためにまず考えられる方法は、さっさとかれを結婚させることだ。これは疑いもなくいちばん確実で、そしていちばん自然なやりかただ。といっても、それがいちばんいいやりかた、いちばん有益なやりかたであるかどうかは疑わしい。
その理由はすぐに述べるが、若い人を思春期に結婚させる必要があるということはいちおうわたしもみとめる。しかし、この時期は、かれらにとってまだそのときでもないのにやってくる。それをはやめているのはわたしたちなのだ。完全に熟するまでその時期をのばさなければならない。
傾向を許し、その指示に従うだけのことなら、ことはかんたんだ。しかし、自然の権利とわたしたちの社会的な掟とのあいだにはいろいろと矛盾があるので、それを調和させるには、たえずまわり道をしたり、体をかわしたりしなければならない。社会的な人間がまったく人工的な人間になってしまわないようにするためには、多くの技術をもちいなければならないのだ。
まえに述べた理由にもとづいて、わたしがあたえた手段と、ほかにも同じような手段をもちいれば、少なくとも二十歳まで、欲望についての無知な状態と官能の純粋さをもちつづけさせることができる、とわたしは考えている。
これはほんとうのことなので、ゲルマン人の国では、この年齢にならないうちに童貞を失った者は名誉をけがした者とされていた。そして著作家たちは、あの民族の体のたくましいこと、かれらがたくさんの子どもを生むことを、青年時代を通じて純潔をまもっていることによるものとしているが、これは正しい。
この時期はずっと長くのばすことさえできるし、二、三世紀まえまでは、フランスにおいても、それはごくありふれたことだった。
よく知られていることから例をあげれば、モンテーニュの父は、強壮な、筋骨たくましい人で、しかも、つつしみぶかい、正直な人だったが、自分は長いあいだイタリア戦役に従軍していたあとで、三十三歳になって童貞のまま結婚した、と断言していたし、この父が六十歳をすぎてもどれほどのたくましさと、快活さをもっていたかは、息子の書物で知ることができる。たしかに、これと反対の意見は人類一般についての知識よりも、むしろわたしたちの風習と偏見にもとづいているのだ。
だからわたしは、わたしたちの周囲にいる青年は問題にしなくてもすむ。そういう青年を例にとることは、かれらと同じようには育てられなかった者については、なんの証明にもならない。
この点では、はやめたり、おくらせたりすることのできない決まつた期限は、自然にはないものと考え、わたしの心づかいのおかげでエミールは二十歳まで素朴な純真さのうちにとどまっているものと考えても、わたしは自然の法則からはずれることにならないと信じているが、いまやそのしあわせな時期も終わろうとしている。
たえず大きくなっていく危険にとりまかれているかれは、わたしがどんなことをしても、機会がくればすぐにわたしの手からのがれようとしているし、そういう機会は遠からず生まれてくるだろう。
かれは官能の盲目的な刺激に従うことになる。かれが身を滅ぼすことになるのは確実だといつていい。
わたしは人間の習俗については十二分に考えてみたから、その最初のきっかけがその後のかれの生活に及ぼすうちかちがたい影響を思わずにはいられない。わたしがごまかして、なんにも見てないふりをしていれば、かれはわたしの弱みを利用することになる。
わたしをだませると思って、かれはわたしを無視し、わたしはかれの破滅に手をかすことになる。かれを連れもどそうとしても、もうおそい。かれはもうわたしの言うことをきかない。かれにとってわたしはやっかいな人間、憎らしい人間、やりきれない人間になる。
遠からずかれは、わたしを追っぱらうことになるだろう。そこで、わたしがとるべき道理にかなった態度は一つしかないことになる。それは自分の行動に責任をもたせること、少なくとも、血迷ったことをしないように気をつけてやること、そして、かれをとりまいている危険をはっきり見せてやることだ。これまでのところは、わたしはかれの無知のおかげでかれをひきとめていた。これからは知識によってかれをひきとめなければならない。
この新しい教えはたいせつなことだ。そこで、遠くさかのぼって事情を明らかにしたほうがいい。いわば、いまこそわたしの報告書をかれに見せるときだ。
かれの時間とわたしの時間のもちいかたをかれに教えるときだ。
かれはどういう者で、わたしはどういう者か、わたしはどういうことをしてきたか、かれはどういうことをしてきたか、わたしたちはおたがいになにを相手からうけているか、かれのあらゆる道徳的な関係、かれが約束したすべてのこと、かれに約束されたすべてのこと、
能力の進歩の道程においてかれはどこまで到達しているか、これからどういう道を行かなければならないか、そこにみいだされる困難、その困難を乗り越える方法、どういうことではまだわたしはかれを助けてやれるか、どういうことではこれからはかれひとりが自分を助けることができるか、
最後に、かれはいま移り変わりの時期にあること、新しい危険にとりまかれていること、そして、あらわれはじめた欲望の声に耳をかたむけるまえに注意ぶかく自分自身を警戒する気にならせるはずのあらゆる強固な理由、こういうことをはっきりかれに言ってやるときだ。
成人を導いていくには、子どもを導いていくためにしてきたあらゆることと反対のことをしなければならないと考えるがいい。じつに長いあいだ、注意ぶかく隠してきたあの危険な秘密を教えることをためらってはいけない。
とにかく、かれはそれを知らなければならないのだから、それを他人からではなく、自分自身ででもなく、あなたがただけから学ぶようにすることがたいせつだ。これからは、闘いなしにはすまされないことになったのだから、不意うちをされないように、かれは敵を知らなければならないのだ。
そういうことについて、どうして知るようになったのかはわからないが、よく知っているらしい青年は、いまわしいことにならずに知ったためしはない。そういう不謹慎な教育は、そこにまともな目的があるわけはないから、少なくともそれをうける者の想像をけがし、かれらの心を、それをあたえる者の不徳にむけさせることになる。
それだけではない。召使いたちはそうして子どもの心にとりいり、その信頼を得て、教師を陰気でうるさい人物と考えさせることになる。だから、かれらの内証ばなしで好んで話題にされることの一つは、教師の悪口を言うことなのだ。生徒がそういうふうになったら、先生は身をひくがいい。かれにはもうなにも有益なことをすることはできない。
だが、子どもはなぜ特別の話し相手を選ぶことになるのか。それはかならず、かれを指導する人々の圧制のためだ。子どもは、かれを指導する人々からかくれる必要にせまられないとしたら、なんのためにそういう人々からかくれるのだろう。
かれらについてなにも不平を言うことはないとしたら、どういうわけで不平を言うのだろう。当然、かれらはだれよりも親密な子どもの話し相手なのだ。子どもはいそいそとやってきて自分が考えていることをかれらに話す、その様子を見ると、子どもはかれらに話すまではそのことを半分しか考えていなかったと思っているようだ。
あなたがたから調教されたり、叱られたりする心配はないとしたら、子どもはいつもあなたがたになんでも話すだろうし、かれはあなたがたになにも黙ってはいないことが人にはっきりわかっていれば、あなたがたに黙っていなければならないようなことは、だれもかれにうちあけようとはしないだろう、と考えていい。
わたしの方法になによりも期待をもたせること、それは、その効果をできるだけ正確にたどっていけば、わたしの生徒の生活には、かれについてなにかしら快いイメージをあたえてくれないような状況は一つも見られないということだ。
熱い血がかれをひきずっていくどきにさえ、そして、かれを押しとどめる者に反抗して、身をもがき、わたしの手からのがれようとしているときにさえ、その動揺、興奮のうちに、わたしはいまでも幼いころのの単純さをみいだす。
肉体と同じように清らかなかれの心は、不徳以上にいつわることを知らない。叱責や軽蔑がかれを意気地のない人間にしてはいないのだ。卑怯な恐れが自分をいつわることをかれに教えたことはけっしてないのだ。かれは無邪気な心からくるまったく無遠慮な態度を見せる。素朴でなんの気がねもしない。
人をだますことがなんの役にたつのかまだ知らない。かれの魂には口あるいは目で言い表わせない動きは一つも起こらない。そして、かれが感じている感情は、かれにはわからないうちに、わたしにはわかっている、ということもよくある。
そんなふうにかれが進んでわたしに胸をひらき、自分が感じていることを喜んでわたしに話しているあいだは、わたしにはなにも心配することはない。危険はまだ近づいてはいないのだ。しかし、かれがもっと臆病になり、ひかえ目になったら、話をしているときに恥ずかしさに当惑している様子が見えはじめたら、もう本能が発達しているのだ、もう悪の観念がそこに結びつくようになっているのだ、もう一刻も猶予はできない。急いで教えてやらなければ、まもなくかれは、わたしがどうしようと、知ってしまうことになる。
わたしの考えを採用しながらも、問題はただ青年を相手にいきあたりばったりの話をすることだ、それで、万事すむのだ、と考える読者は一人にとどまらないだろう。
ああ、そんなことで、人間の心を導いていけるものではない。話をする時を準備したうえで話さなければ、話すことにはなんの意味もなくなる。種を蒔くまえに土地を耕さなければならない。徳の種はなかなか芽を出さないものだ。
それに根をもたせるには長い準備が必要だ。説教をこのうえなく無益なものにしていることの一つは、見わけもせず、選択もしないで、だれにでもかまわずに説教することだ。さまざまの素質をもち、精神、気分、年齢、性、身分、意見がまったくちがった多数の聴衆に同じ説教が適当とはどして考えられよう。
すべての人にむかって述べていることがぴったりあてはまるような人はたぶん二人といないだろう。また、わたしたちの感情はすべて、いつまでも変わらないでいることはほとんどないから、同じ話が同じ印象をあたえるような時はそれぞれの人の生涯にたぶん二度とないだろう。
燃えあがった官能が悟性を失わせ、意志を押さえつけているとき、それは重々しい知恵の教訓に耳をかたむけるときかどうか考えてみるがいい。だから、理性の時期にあってさえ、まず理性を聞きわける状態に青年をおいてからでなければけっしてかれらに道理を説いてはならない。
話をしてもむだになるのは、たいていのばあい、弟子が惑いからではなく、むしろ先生が悪いからだ。衒学者も教師もほぼ同じようなことを述べる。ただ、それを、衒学者はあらゆる機会に述べる。教師はその効果が確実と思われるときにだけ述べる。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p226-232)
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◎わたしたちの感情はすべて、いつまでも変わらないでいることはほとんどないから、同じ話が同じ印象をあたえるような時はそれぞれの人の生涯にたぶん二度とないだろう。……と。その時≠ノわたしたちは遭遇しています。
◎思春期をとりあげた学習通信≠焉c…。
◎エミールからの抜粋には、仲間に働きかける上でもたなければならない大切な姿勢を、指摘しています。