学習通信040305
◎「つらくなって途中で努力をやめたくなったとき」……。
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器の大小よりも中身の多少
Aの選手は足、攻、守、どれをとっても平均70点。Bの選手は打つのは60点で肩は50点、走るのは90点とばらついて、平均では70点以下とする。プロで使えるのは後者のB選手の方だ。
野球における個々の選手はチームの部品だ。先発、中継ぎ、抑え役。守備に代打に代走要員と分業化がどんどん進むが、個々の良いところをピックアップして、それぞれの部品の特徴を組み合わせて優秀な結合体とする。それが野球でいえば「チーム」だが、これぞという個々の能力や特色を持つことが大切な時代である。
長所を生かしながら欠点の方も少しずつ修正していく、ということはできるものの、どこをとっても平均点では部品としての活用方法はなかなか出てこない。サラリーマン社会にも勤務態度はいい、優れた業績はあげないが、これといった欠点もないというタイプの人が大勢いるものだ。しかしこういう人は比較的順調にいくが、責任のある地位や役職にはなかなか就けないと聞く。
こうしたタイプの人は概して新しい仕事にチャレンジしていくことが少なく、業績の発展というものが期待できないからである。
また別の見方をしてみよう。たとえば一升入る器の選手と、二合しか人らない器の選手がいるとする。前者は一升の器でありながら器通りの内容を含めずに、三合、ないしは五、六合の水しか入れられないが、後者は二合の器でも二合いっぱいの水を入れることができるとした場合、モノになるのは器自体は小さくても後者の方の選手である。
一升の器にせいぜい五、六合の水しか入れられない者は、多少は目立ち一定の成績を残すことも可能だが、内容の充実に欠けるので長い間、安定して働けずに終る。その先は指導者としてもまず使いものにはならないものだ。
しかし二合の器の選手の方は、自分の器の小ささに悩み苦しみながらも目いっぱい、精いっぱいの努力をし、身もだえしながら多くの体験を積んでいくので周囲の期待感や、信頼感を得て働く場も与えられていく。時にはラッキーボーイの活躍を演じるなど、見た目以上のエネルギーや幸運ぶりを発揮したりすることができるものだ。
人材として世の中に役立ち、その先は指導者としてきちんと人を教えていけるような人材になるのも、こちらの方のタイプの選手なのである。素質は千差万別だ。器の種類もいろいろだが、その器いっぱい、その素質いっぱいやるかやらぬか。「器を見る眼」とは内容や本質という、本当の価値を見る眼のことである。
阪神に遠山奨志という左のワンポイント・リリーフがいる。総体的には大きな器の投手ではないが、左バッター封じの切り札として、巨人の松井キラーとして名高い投手だ。腕がやや外側から出てくる、左ピッチャーとしては珍しいタイプで、左バッターは打ちづらいという特徴を持っている。阪神にとっては貴重なパーツであり、遠山はその特色と価値をもって生かされている。
だれもがわかる器の大小だけで「お前はいい」「お前は駄目だ」と投げだしてしまえばそれまでだ。個々の人間の本当の値打ち、個々の人間ならではの使いみちというものを見ようとはしない、ということになる。
一般の会社でも優等生社員ばかり採用しておきながら、個性的な型破りなタイプの社員を欲しがる。問題を起こしそうにない素直な青年を好みながら、壁を打ち破る思い切った仕事を要求するのではどこか無理というものだ。
昔の親は子供の才能や器量に応じて、頭の良い子には学問をさせ、それほどでもない子には技術を身につけさせるなど、子供をよく観察して、その子にとっての最善の道を考えながら育てたものだが、はたして今はどうだろうか。一律一様な親の欲目やエゴで、頭もさして良くないわが子に塾通いをさせたりしてはいないだろうか。
器を見抜く眼は人を生かしも殺しもする。キラリと光るものをすくいとるのも、せっかくの持ち味を殺してしまうのも、上に立つ者の眼力次第だ。
(川上哲治著「遺言」文春文庫 p175-178ウツワについて
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君子は器ならず
「なり手がいないということで、むりやり組合の青年部長にさせられたのですが、そのウツワではないと友人にもいわれ、自分でもそう思います。ウツワということについてどう考えればいいのでしょうか」という投書があった、ということを編集部の人からきいた。
「そんな問題にこたえるウツワではないんで……」と逃げかけたが、かえって自縄自縛(じじょうじばく)となったことを自覚した。
しかたない、そこから考えはじめよう、自分がそのウツワではないというところから。
そもそも「人生論ノート」なんてものを書くウツワでは、私はない。よくよくそのことは自覚している。だが、人生論を書くのにふさわしいウツワとは、いったいどんなものだろう。
たぶんそれは「人生論とはこんなもの」という既成のイメージがまずあって、それにぴったりくるような人間類型をさしているのだろう。そういう型には断固として、私ははまりたくない。「お前が人生論を書きだすようなことがあったら、おれはお前と絶交するからな」と、学生時代に友人にいわれたことがあったのを思いだす。
それに、「人生論とはこんなもの」とすでにわかっているような、そんなものを誰が本気で求めるだろう。アクセサリーとしてというのなら話は別だが。
自己弁護のためにいうのではないが、真にものの役にたちうる人生論は、「そのウツワではない」ものによってこそ書かれるべきだということになりそうだ。
「真にものの役にたつ青年部長」の場合にも同様のことがいえるのではなかろうか。つまり「そのウツワではない」ということこそ、むしろ必要な条件だということが。
なぜなら、「青年部とはこんなもの」という既成の観念を打破することこそ、いま青年部に求められていることだと私は思うから。
「君子は器ならず」と『論語』にもある。「ものの役にたつ人間は、規格品なんかではない」、あるいは、「器用にその役柄をこなすだけというのでは、真の人物ということはできない」というふうに訳すことができるだろう。
バケツ頭、ザル頭
だが、これであの投書の主──以下、A君と呼ぶことにしよう──に、私として十分こたえたことになるだろうか。
「君はそのウツワではない」とA君が仲間にいわれた、そしてもっともだとA君も思った、というところから話ははじまったわけだ。
それにたいして私は、私自身の問題にもことよせ、『論語』の一節をもタテにしながら、ウツワでないからこそ創造的な仕事ができるかもしれんのだ、君子は器ならず、自信をもて、という趣旨のことをいったのだ。
が、これではたしてA君は、自信をもってくれるだろうか。たぶん、だめだろうな、と思う。「君子は器ならず」ということは、器でないもののすべてが君子、ということを少しも意味しないのだから。
そういえば『論語』には、孔子が弟子の子貢を評価して「なんじは器なり」といっている箇所もある。「君子は器ならず」ということばとつなげて、「器用なタレントではあるが、まだ君子とはいえない」というふうに子責を批判したのだとうけとる解釈もあるようだが、ここはすなおにほめことばとしてうけとってもよいと思う。宮崎市定氏の『論語の新研究』(岩波書店)は、「お前は役にたつ男だな」とこの文章を訳している。
私たちは規格品である必要はない。そういう意味での「ウツワでない」ということは、肩身のせまいことではなしに、かえって誇ってもよいことだ。レディ・メイドの容器ではかえってものの役にたたぬ場合もおおい。しかし、ザルではやはり水はくめない。水をくむのはバケツにかぎるという石頭、バケツ頭も因りものだが、ザル頭もまた、ものの役にはたたない。その意味ではやはり「ウツワ」であることが必要だ。
そこのところでA君はなやんでいるのだろうと思う。そこのところにどうこたえるか。
なんだかわからなくなってきた。ろれつがまわらなくなってきた。やはり私は、こんな「ノート」を書くウツワではないらしい。
呂律の物に適わざるは器の共にあらず
と、このように書いてきて、なにかまた、記憶の釣針にひっかかるものがある。そうだ、『徒然草』の一節だ、と気がついて、しらべて、ついに見つけだした。「呂律の物に適わざるは、人のとがなり。器(うつわもの)の失にあらず」と第二百十九段にある。「楽器の調子がハーモニーにあわないのは、奏でる人がわるいのであって、楽器のせいではない」というのだろう。
これはどういうことだろうか。たとえば、私のこのノートがどんなぶざまな調子をひびかせようと、それは私というウツワのせいではなく、私にこのノートを書かせている編集部の腕の問題、ということだろうか。
たいへんにつごうのよさそうな論理だが、虫がよすぎるようにも思う。青年部長の問題にしたって、やっぱりこれではとおるまい。
A君が名部長としてのはたらきを示せないのは、けっきょくは組合員がわるいんだ、といなおってみたところで、どうにもなりはすまい。兼好法師がいっているのは、ほんとうにそんなことだろうか。
どうもちがいそうだ、と考えているうちに、ふと思いあたった。そうだ、宮沢賢治の作品「セロひきのゴーシュ」。あそこに問題の『徒然草』の文章への最良の注釈があるではないか。
ゴーシュとセロ
ゴーシュはセロひきであったが、「あんまり上手でないという評判」であった。「上手でないどころではなく、じつは、仲間の楽手のなかではいちばん下手」であった。
「おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ」と楽長はいう。「どうしてもぴたっと外の楽器と合わないもんなあ。いつでもきみだけ、とけた靴のひもをひきずって、みんなのあとをついてあるくようなもんだ」
まさに「呂律の物に適わず」ということそのままだ。
子ダヌキからも、そのことを指摘される。「いやそうかもしれない。このセロは悪いんだよ」とゴーシュはかなしそうにいう。「器の失」というわけだ。
が、やがてゴーシュはそのセロで、みごとな演奏をやってのけたのだった。夜ごと、ゴーシュの小舎をたずねてきた三毛猫や、カッコウや、子ダヌキや、野ネズミなどにたすけられながら、ぶったおれるまでひきまくった結果であった。
「ゴーシュ君、よかったぞお」と楽長はいった。「一週間か十日の間にずいぶんしあげたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君」
仲間もみんな立ってきて、「よかったぜ」とゴーシュにいった。「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。ふつうの人なら死んでしまうからな」と楽長がむこうでいっていた。
「呂律の物に適わざるは、人のとがなり、器の失にあらず」という、その「人」とは、楽長や楽手仲間のことなんかではなく、ゴーシュ本人のことであったのだ。
ゴーシュにとってのセロ、それは私たちの場合、なんであろうか。
それは「素質」ということだと思う。
「ゴーシュさんはこの二番めの糸をひくときは、きたいに遅れるね。なんだかぼくがつまずくようになるよ」と子ダヌキは、ゴーシュのセロについていった。私は、まるで自分のことをいわれてるみたいに感じる。大事なところでなにか他人より、毛が一本だか二本だが足りないという自覚があるのだ。
が、A君もやはり似たようなことを、自分について感じているのではないか。そして、規格品ではないすべての人が、やはりそう感じているのではないか。
私たちの素質はさいわいに、非人間的な規格品ではなく、たいへん人間くさいものであった。まのぬけたところ、はみだしたところ、すべてこれ、人間くささのしるしなのだ。おんぼろ楽器、またよからずや。個性的な音色をたからかに奏でよう。
三毛猫やカッコウや子ダヌキや野ネズミたちは、私たちの小舎へも毎夜、たずねてきているのではないか。
つい、つらくなって途中で努力をやめたくなったときは、カッコウのことばを思いだそう──「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでも、のどから血が出るまでは叫ぶんですよ」
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p72-78)
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28 子日。君子不器。
(訓) 子日く、君子は器ならず。
(新) 子日く、諸君は器械になってもらっては困る。
(宮崎市定 現代語訳「論語」岩波現代文庫 p28)
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◎さぁー自信をもって新しい課題に挑戦するのだ。