学習通信040306
◎「あなたの力を拝借したい。……」と。山宣を口説く南村……
 
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 「ごめん下さい──大阪からきた総同盟の南村四郎です」
 この一癖ありげな男を案内してきた学生は、二年前の暁民共産党事件で早大を追放され、やむなく同志社にもぐりこんでいた本田末男という青年で、昨年来、何かと宣治の自宅へ出入りしていた。その手引きで南村が、新年の挨拶にかこつけて押しかけてきたのだ。
 
 初対面の挨拶がすんで、書斎へ千代が運んできた屠蘇酒を、遠慮なしにチビチビ飲んでいた南村は、酔いが廻るにつれて段々と調子づいて喋りはじめた。印刷工だという彼は、いつのまに勉強したのか、宣治がおどろくほど物知りでもあり、理屈にも筋がとおっていた。話は、しぜんと労働問題や平和運動に集中されて行った。
 
 「山本さん、あなたが去年の暮にアインシュタインに会われたとき、平和運動をほんとうにやりぬくのは労働者の団体だと喝破されたことを、本田君から聞きましてね、じつは感心しているのですよ」
 
 「なに、あれはインテリにたいする面当てです。むろん私もその一人なのですがね。じっさい私らの周囲にいる連中ときた日には偽善者ばかりでね、そうでなけれは、お人好しだ。たとえば厨川白村の恋愛至上主義一つとってみても、それが封建的な家族制度にたいする啓蒙だということはわかるが、いわば夢物語ですからね。
 
米櫃が空っぽの連中がウジャウジャしているという世の中で、ラヴ・イズ・ベストもないでしょう。そうかとおもえば象牙の塔を出るだの、民衆の中へだの、掛声だけは景気がいいが、大多数のインテリはあいかわらずその塔の中で、亀の子のように首をちぢめている。ちぢめているなら殊勝だが、内心では、俺は堂々たる学校出身者で世間一般の有象無象とはちがうんだ、と自惚れているんだから始末がわるい」
 
「なるほど」と、南村は改めて書斎の中をジロリと見廻しながら、皮肉にうなずいた。
 
 「しかし山本さん、その引算はおかしい。日本の国民の中で平和運動をやれそうな階層を一つ一つ吟味して行くと皆落第だが、最後に労働者が残った──というのでは、労働者が適格ということにはならない。インテリなどとは関係なしに、労働者こそが戦争に反対し得るんだという積極的な根拠が必要でしょう」
 
 「むろん、そうだろうね。戦争で一番被害を受けるのは、いわゆるインテリどもが軽蔑する一般下層民──労働者と農民だからな」
 
 「さ、そこですよ。むろん被害を受けるから反対するということもありますが、それだけじゃない。それなら被害を受けなければ反対しない、ということになる。そうじやなくて、戦争というものは、もともと政治の延長だし、政治は経済的利害関係の土台に立っている
 
──だから資本家が労働者を搾取しているという関係があるかぎり、その搾取して作った商品や、築上げた資本を、有余ったからといってもう一ぺん労働者に払戻しするわけがなく、それをさばくために、新しい市場、つまり植民地を奪い合う侵略戦争は必ず起こります。日清、日露、世界大戦、みなそうだ。
 
だから戦争に反対するということは、労働者が直接の被害よりも、もっと突込んで自分白身を解放するためにも必要なのだということになります。現にロシアでは、そうした反戦運動と革命とが一本になって、労働者の政権が樹立されたのですからね」
 
 「なるほど、ロシアではそうかもしれん、しかしこの日本ではどうなのですか。いまの様子では一向に革命になりませんな。それともう一つ、あなたの論法──マルキシズムというのですか、とにかくそれによれば、平和運動をする資格は労働者にだけあって、他の階層にはまるでないように聞えるが、これはどうかな」
 
 「はゝゝ、痛いところを突きましたな」と南村は、たいして辟易したふうもなく、片手でイガ栗頭を撫でながらニヤニヤと笑った。
 
 「おっしゃるとおり、日本ではまだまだです。根本的にはそうなるわけなんだが、何といっても労働者階級の意識が低い。やっと昨年の秋に全国の労働組合を合流する機運ができたとおもったら、御存知のとおりアナとボルとが真向から対立して失敗しました。むずかしいものです。それよりも山本さん、あなたのいわれたその第二の点なのですが──こいつは議論の問題ではない。じつはそのために、今日、私が押しかけてきたのですよ」
 
 「というと──」
 「つまり、あなたの力を拝借したい。労働者が自分自身を解放するためには、率直にいって今の段階では、やはりあなたのようなインテリの協力が必要です。一つは労働者に、じっくりと科学的なものの考方──たとえば進化論などを教えていただく。
 
これは今でも天皇を神の子孫だと思いこまされている労働者が案外多いので、バカにならんのですよ。もう一つは──これも直接の階級闘争というわけではありませんが、差当っての生活難を防ぐ一策として、あなたの専門の産児制限の指導を受ける──ということは、つまり、あなた自身にも立派な平和運動家としての資格があることになる……」
 
 「これはどうも──元日早々から引張りだしですか」
 「はゝゝ、じつはそうなんです。まあ、むずかしい理屈はぬきにしましょう。あなたが去年出された例のサンガ一夫人のパンフレットが我々の間でも話題になりましてね、何しろ戸外では勇ましい革命家揃いなんだが、家へ帰ると台所は火の車でね、警察の豚箱へ放込まれるよりは、女房の腹のふくれる方がこわいという連中ばかりなんですよ。
 
ところが、あなたはお宅へくる貧乏人の手紙には一々返事を書かれるほど熱心だという噂だし、本田君に向って、一度バリバリの労働者に会って話がしてみたいといわれたとかでね──こいつは一つ引張りだして山の神どもに話をしてもらおうじゃないか、と虫のいい結論になって、私が依頼代表としてまかり出たわけです」
 
 「は〜〜、そうでしたか──いや、わかりました。私でお役に立つことなら、よろこんでお引受けします」
 
 二人は、顔を見合わせてニッコリと笑った。傍で屠蘇酒を相伴していた学生の本田も、ホッとした顔つきでよろこんだ。
 「よかったなあ、南村さん、これで僕も責任を果せましたよ」
(西口克己著「山宣」大坂山宣会 p171-174)
 
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 しかし、イギリスが工業上の独占を維持し、その工場がひきつづき増加していったとしても、その結果はどうなるであろうか? 商業恐慌はなくならないであろうし、工業の拡大とプロレタリアートの増加とともに、それはますます暴力的に、ますます恐ろしいものになるだろう。
 
プロレタリアートは、小中産階級の破滅が進行し、ますます少数の人の手に急速に資本が集中されることによって、幾何級数的に増大し、やがて、少数の百万長者以外の全国民を構成するようになるだろう。
 
そして、このような発展のなかで、プロレタリアートが現存の社会権力を打倒することがどんなに容易なことであるかを見ぬく段階がくるであろう。それにつづいて革命がおこるのだ。
 
 しかし、どちらの状態も生じないであろう。商業恐慌はプロレタリアートのあらゆる自立的発展をすすめるもっとも強力な槓杵(こうかん)であるが、それは外国との競争や中流階級の没落の進行とともに、もっと早く決着をつけるであろう。
 
私は、人びとがこれ以上恐慌を耐え忍ぶとは思えない。おそらく、一八四六年か一八四七年におこる次の恐慌で穀物法の廃止と人民憲章が実現されるであろう。
 
憲章がどんな革命運動をひきおこすのか、期待してよい。しかし、これまでの恐慌から類推すると、次の恐慌は一八五二年か、一八五三年におこるに違いない。
 
あるいは穀物法の廃止によってもっと遅れるかもしれないし、外国の競争など、ほかの事情によってもっと早くなるかもしれないけれども、この恐慌までに、イギリスの人民は、資本家の利益のために搾取され、資本家が必要としなくなれば餓死させられるということに、ほんとうにうんざりしていることであろう。
 
そのときまでにイギリスのブルジョアジーが自覚しないならば──どう見てもたしかに彼らは自覚しそうもないが──これまでの革命とはくらべものにならないほどの革命がおこるであろう。
 
絶望にまで追いつめられたプロレタリアは、ステイーヴンズが彼らに説いた放火用のたいまつをつかむであろう。人民は、一七九三年の例からは想像もできないほどのはげしい怒りをこめて復讐するであろう。
 
金持にたいする貧民のたたかいは、これまでおこなわれたたたかいのうち、もっとも血みどろのものとなるであろう。
 
ブルジョアジーの一部がプロレタリアートの党へうつっても、すべてのブルジョアジーが心をあらためても、なんの役にも立たないであろう。ブルジョアジーがみんな心をあらためるといっても、それはせいぜい無気力な中道まですすむだけである。
 
もっと断固として労働者の側につくものも、新しいジロンド派を形成し、そういうものとして暴力的な発展のなかで没落していくであろう。一つの階級全体がいだいている偏見は、古い上着のように脱ぎ捨てられるものではない──とくに、安定した、偏見をもつ利己的なイギリスのブルジョアジーはもっとも偏見を捨てがたいのである。
 
以上のことはすべて、もっとも明確にみちびきだすことのできる結論であって、それは一方では歴史的発展の、もう一方では人間の本性の、争う余地のない事実を前提とする結論である。
 
予言はイギリスほど容易なところはない。なぜなら、ここではすべてのものが社会のなかできわめて明瞭に、かつ、するどく発展しているからである。革命はくるに違いない。事態の平和的解決をもたらすのには、いまではすでに遅すぎる。
 
しかし革命は、以上で予言したよりも、もっとおだやかなものになる可能性もある。だがそれはブルジョアジーの発展よりもむしろ、プロレタリアートの発展いかんにかかっている。
 
プロレタリアートが社会主義的、共産主義的要素をとりいれるのに比例して、まさにそれに比例して、革命から流血と復讐とはげしい怒りが減っていくであろう。共産主義はその原理上、ブルジョアジーとプロレタリアートとの分裂を超越している。
 
共産主義はこの分裂を現代にとっての歴史的意義においてしかみとめておらず、未来においても正当化されるものとはみとめていない。共産主義はまさにこの分裂を廃止しようとしているのである。
 
したがって共産主義は、この分裂があるかぎりは、自分を抑圧しているものにたいするプロレタリアートのはげしい怒りを一つの必然として、また、初歩的な労働運動のもっとも重要な槓杵として、たしかにみとめるけれども、しかし共産主義はこの怒りをこえてすすむ。
 
なぜなら、それはまさに人類の問題であって、たんに労働者だけの問題ではないからである。もともと、個人に復讐したり、また一般的に、ブルジョアが現在の社会関係のもとで個人的に現在とは違った行動をとることができると信ずることは、共産主義者には思いもよらないことである。
 
イギリスの社会主義(つまり、共産主義)は、個人には責任能力がないというまさにこの原理に立っている。したがってイギリスの労働者が社会主義思想をうけいれればうけいれるほど、ますます彼らの怒りは無用のものとなっていくであろう。
 
この怒りは、現在のように暴力的なままであるならば、なにものももたらさないのである。またブルジョアジーにたいする彼らの行動も、ますます凶暴さと野蛮さを失っていくであろう。
 
もしたたかいがはじまる前に、すべてのプロレタリアートを共産主義者にすることができるなら、たたかいはきわめて平和的におこなわれるであろう。しかし、それはもはや不可能である。すでにもう遅すぎる。
 
とはいえ、私は信ずる、金持にたいする貧民のまったく公然たる直接の戦争は今日のイギリスでは不可避となったが、それが開始されるまでには、少なくとも社会問題についての理解がプロレタリアートのあいだにひろがるので、共産主義の党派は、いろいろな事件に助けられながら、革命の残虐な要素を長期的には克服し、テルミドール九日を防止することができるであろう。
 
そうでなくとも、フランス人の経験は無駄にはされないであろう。しかも現在すでに、たいていのチャーティスト指導者は共産主義者である。
 
そして共産主義者はプロレタリアートとブルジョアジーのあいだの対立を超越しているのだから、ブルジョアジーのなかの良心的な部分にとっても──ただし、これはきわめて少なく、青年のあいだから補充する以外に見込みはない──もっばらプロレタリア的なチャーティズムにつくよりも、共産主義につく方が容易であろう。
 
 この結論がここでは十分に基礎づけられていないとしても、イギリスの歴史的発展の必然的結果として、この結論を証明する機会は別にあるであろう。しかし私は次のことはゆずらない。
 
すなわち、金持にたいする貧しい人びとのたたかいは、現在すでに個別的間接的にたたかわれているのだが、イギリスにおいては一般的、全面的、直接的にたたかわれるようになるであろう。平和的解決にはすでに遅すぎるのだ。
 
諸階級はますますするどく分裂し、抵抗の精神はますます労働者に浸透し、怒りは高まり、個々のゲリラ戦は集中して、もっと大きな戦闘とデモンストレーションになり、そしてちょっとした衝突だけですぐに雪崩がおこるようになるだろう。
 
そのときには、もちろん「宮殿には戦争を、あばら家には平和を!」というときの声が全国にひびきわたるであろう──だがそのときには、金持たちがもっと用心しようとしても、すでに手遅れなのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級に状態 -下-」新日本出版社 p156-160)
 
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帝国主義論の新たな発展がもつ実践的な意義
 
 第三の角度は、世界資本主義の矛盾の深まりであります。
 
 経済的な諸矛盾については、綱領改定案は、第九節の冒頭で、世界資本主義の現状を「巨大に発達した生産力を制御できないという資本主義の矛盾」からとらえ、その代表的な現れとして、現実に世界で問題になっている七つの諸矛盾をあげています。ここは短いけれども非常に重要な部分であります。
 
後でものべますが、この分析が、第五章「社会主義・共産主義の社会をめざして」における生産手段の社会化の必然性の解明にもつながるし、また、世界的な体制変動の諸条件の分析にもつながることになります。
 
 つぎに世界資本主義の政治的諸矛盾の問題ですが、七中総の報告のなかで「独占資本主義=帝国主義」という見方が、現代の条件のもとでは一般的には成り立たなくなったこと、したがって、すべての独占資本主義国をその経済体制を理由に一律に「帝国主義の国」として性格づけることは妥当でないことを、指摘しました。
 
これも二〇世紀における世界の様相・構造と力関係の変動のなかで、何よりも植民地体制の崩壊という大きな変動のなかで起こったことであって、そこをよく見ることが必要であります。
 
 この点で、実践的に重要な問題として、二点を強調したいと思います。
 一つは、政党が、ある国を「帝国主義」と呼ぶときには、その呼称・呼び名には、侵略的な政策をとり、帝国主義的な行為をおこなっていることにたいする批判と告発が、当然の内容として必ずふくまれているということであります。
 
 そこから、改定案は、植民地支配が原則的に許されない現在の国際秩序のもとで、ある国を「帝国主義」と呼ぶためには、その国が経済的に独占資本主義の国だというにとどまらず、その国の政策と行動に、侵略性が体系的に現れているかどうかを基準にすべきだ、という立場をとりました。
 
 これは現実の世界政治の分析でただちに必要になる基準であります。
 
 改定案は、この基準で、アメリカの対外政策が、文字どおり「帝国主義」の体系的な政策を表していることを解明し、そういう内容を持って「アメリカ帝国主義」という規定をおこなっています。そうであるからこそ、綱領のこの規定は、アメリカの政策の核心をついた告発となっているのであります。
 
 かりに、いまの世界で、「帝国主義」とは、経済が独占資本主義の段階にある国にたいする政治的な呼び名だというだけのことだとしたら、いくら「帝国主義」といっても、その言葉自体が政治的告発の意味を失い、そう呼ばれたからといって誰も痛みを感じないということになるでしょう。
 
 もうひとつ大事な点は、この問題は平和のためのたたかいの目標と展望にかかわってくるということであります。レーニンの時代には、人民の闘争や情勢の変化によって、独占資本主義の国ぐにに植民地政策を放棄させたり、独占資本主義体制のもとで帝国主義戦争を防止したりすることが可能になるなどとする考え方は、帝国主義の侵略的本性を理解しないものと批判されました。実際に当時は、こんなことは実現不可能な課題だったからであります。
 
 現代は、まさにその点で情勢が大きく変化しました。たとえば改定案は、「民主的改革」の方針の「国の独立・安全保障・外交の分野で」のところで、八項目の平和外交の方針を提起しています。その大部分は、レーニンの時代だったら、独占資本主義のもとで非帝国主義的な平和政策を夢見るものとして扱われたであろう課題であります。
 
しかし現代では、これらの課題は、国際的な平和・民主運動のなかでも、実現可能な課題として、追求されているのであります。
 
 これらの点をはじめ、綱領改定案にもりこまれた「帝国主義論」の新しい発展という問題は、現代の世界情勢の分析に、大きな実践的意義をもつことを強調したいと思います。
(「日本共産党第23回大会決定集」p28-29)
 
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◎労働者が科学を学ぶことの大切さをとらえよう。
 
3月5日は山宣の命日でした。117期労働学校の開校式でした。労働者の中に本格的に出て行く意義を話す南村……話す内容を「決定集」でおぎなってください。
 
山宣の炎をうけつぐ者……。