学習通信040307
◎ただ「立派そうに見える人」……になっていはいけない。
 
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特殊から普遍へ
 
 ものごとを学ぶことの意味は、経験からなにごとかを創造するということにある。何かを学んで自分ひとりで納得しているだけでは、学ぶことは完結しない。ゲーテの言う「機会の詩」のように、経験を動機や素材にして、目に見える成果を生み出してこそ、学習は実を結ぶ。いったん学んだことは、いっか生かされ、表現されることを求めているのである。
 
 ゲーテはこの点では実に真面目で勤勉な生徒であった。ひとつの恋のあとには必ず何編かの詩や小説が生み落されるというのがいつもきまって見られる展開であった。そういう学習(あるいは経験)と創作との関係のなかで、もっともよく知られているのが『若きウェルテルの悩み』のばあいである。
 
 フランクフルトに皇帝顧問官という裕福な役人の子として生れたゲーテが、ライプチヒとシュトラスブルクで学んで弁護士の資格を得て、その実地研修のために赴いたウェッラーという小さな町でめぐりあうことになったのが、『若きウェルテルの悩み』の女主人公のモデルとなるシャルロッテ・ブッフという女性である。
 
フリーデリケと別れた翌年のことで、ゲーテは二十三蔵、シャルロッテ(略してロッテ)は十九歳。ロッテには婚約者がいたこと、それでも主人公はロッテを熱愛し、ロッテも主人公に好意を寄せていたこと、そして、主人公はかなわぬ恋に絶望し、ピストル自殺をとげることなど、最後の自殺を除けば、事実そのままを描いた小説である。女主人公のロッテという名も実名そのままである。
 
 ゲーテは、自分と同じような状況に置かれたある友人がピストル自殺をしたことを知って、『ウェルテル』の構想ができあがったと言っている。このように、自分自身の体験をもとに詩や小説を書くというのは、ゲーテにかぎらず、多くの作家が行っていることではある。また、「女性遍歴から学ぶ」作家もゲーテひとりというわけではない。
 
ここで肝心なのは、自分ひとりの特殊な体験をもとに、多くの人びとから共感を得るような普遍的なものをつくりだすことである。およそものを学ぶということじたい、知識という普遍的なものを相手にすることであり、文学作品も普遍に通じてこそ、傑作と評価される。
 
 そういう意味では、シャルロッテ・ブッフと出会って二年後に発表された『ウェルテル』は、まさしく「特殊」から出発して「普遍」に通ずることに成功した小説である。この小説はたちまちベストセラーとなり、青い燕尾服に黄色のチョッキという「ウェルテル・モード」が流行し、ウェルテルそっくりに自殺する者も少なからずあらわれる始末であった。『若きウェルテルの喜び』といったパロディ小説も書かれたりした。ゲーテと会見したナポレオンは、『ウェルテル』を七回も読んだ、と言ったという。
 
 ゲーテは、『ウェルテル』について、若いときに読んで、これは自分のために書かれたものだと感じたことがないような人は不幸だ、と言っているが、私にはこのゲーテの言葉がよくわかる。私自身も感じたことのある激しい恋の心理がそっくりそのまま書かれている部分をいくつも発見したものだった。一人の読者に通ずることは、百万人の読者にも通ずるにちがいない。
 
ところが、最近、若いある友人が、この有名な小説を読んだものの、自分のために書かれたと感じることができなかったと言っているのを聞いたことがある。たぶん、同じような若者が多いことだろうが、それは、彼らが激しく人を愛したことがないからである。いつも女性を愛してやまなかったゲーテから見れば、当然、そういう現代の若者は不幸に見えるはずである。
(木原武一著「天才の勉強術」新潮社 p67-69)
 
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真実の経験について
 
コペル君
昨日、君が興奮して話してくれた「油揚事件」は、僕にもたいへん面白かった。君が、北見君の肩をもち、浦川君に同情しているのを聞いて、あたりまえなことだけど、僕はやっばりうれしかった。まあ、かりに君が山口君の仲間で、叱られて出て来た山口君といっしょに、コソコソと運動場の隅に逃げていったのだとして見たまえ。お母さんや僕は、どんなにやり切れないか知れやしない。
 
 お母さんも僕も、君に、立派な人になってもらいたいと、心底から願っている。君のなくなったお父さんの、最後の希望もそれだった。だから、君が、卑劣なことや、下等なことや、ひねくれたことを憎んで、男らしい真直ぐな精神を尊敬しているのを見ると、──なんといったらいいか、ホッと安心したような気特になるんだ。君にはまだ話さなかったけれど、君のお父さんは、なくなる三日前に僕をそばへ呼んで、君のことを頼むとおっしゃった。そして、君についての希望を僕に言いおいておかれた。
 
 「わたしは、あれに、立派な男になってもらいたいと思うよ。人間として立派なものにだね。」
 
 この言葉を、僕は、ここにしっかりと書きとめておく。君は、これをおなかの中にちゃんと畳みこんで、決して忘れちゃあならない。僕も、この言葉だけは、おなかの底にグッと収めて、決して忘れまいと考えているんだ。こうして、このノートブックに、いつか君に読んでもらうつもりで、いろんなことを書いておくのも、実は、お父さんのこの言葉があるからなんだ。
 
 君も、もうそろそろ、世の中や人間の一生について、ときどき本気になって考えるようになった。だから、僕も、そういう事柄については、もう冗談半分でなしに、まじめに君に話した方がいいと思う。こういうことについて、立派な考えをもたずに、立派な人間になることは出来ないのだから。
 
 そうはいっても、「世の中とはこういうものだ。その中に人間が生きているということには、こういう意味があるのだ。」などと、一口に君に説明することは、誰にだって出来やしない。よし、説明することの出来る人があったとしても、このことだけは、ただ説明を聞いて、ああそうかと、すぐに呑みこめるものじゃあないのだ。英語や、幾何や、代数なら、僕でも君に教えることが出来る。
 
しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人が、それぞれ自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけの値打があるのか、ということになると、僕はもう君に教えることが出来ない。それは、君がだんだん大人になってゆくに従って、いや、大人になってからもまだまだ勉強して、自分で見つけてゆかなくてはならないことなのだ。
 
 君は、水が酸素と水素から出来ていることは知ってるね。それが一と二との割合になっていることも、もちろん承知だ。こういうことは、言葉でそっくり説明することが出来るし、教室で実験を見ながら、ははあとうなずくことが出来る。
 
ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲んで見ない限り、どうしたって君にわからせることが出来ない。誰がどんなに説明して見たところで、その本当の味は、飲んだことのある人でなければわかりっこないだろう。
 
同じように、生れつき目の見えない人には、赤とはどんな色か、なんとしても説明のしようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。──こういうことが、人生にはたくさんある。
 
 たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人に、いくら説明したって、わからせることは到底出来はしない。殊に、こういうものになると、ただ眼や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、それを味わうだけの、心の眼、心の耳が開けなくてはならないんだ。しかも、そういう心の眼や心の耳が開けるということも、実際に、すぐれた作品に接し、しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。
 
まして、人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、それは、君が本当に人間らしく生きて見て、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、はたからは、どんな偉い人をつれて来たって、とても教えこめるものじゃあない。
 
 むろん昔から、こういう事について、深い智慧のこもった言葉を残しておいてくれた、偉い哲学者や坊さんはたくさんある。今だって、本当の文学者、本当の思想家といえるほどの人は、みんな人知れず、こういう問題について、ずいぶん痛ましいくらいな苦労を積んでいる。そうして、その作品や論文の中に、それぞれ自分の考えを注ぎこんでいる。たとえ、坊さんのようにお説教をしていないにしても、書いてあることの底には、ちゃんとそういう智慧がひそめてあるんだ。
 
だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は、──コペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きて見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない。
 
 だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えて見るのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。
 
それが、本当の君の思想というものだ。これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君! 本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。
 
 僕やお母さんは、君のなくなったお父さんといっしょに、君に向かって、立派な人間になってもらいたいと願っている。世の中についても、人間として生きてゆくことについても、君が立派な考えをもち、また実際、その考えどおり立派に生きていってくれることを、僕たちは何より希望している。だから、なおさら、僕がいま言ったことを、よくよく呑みこんでおいてもらいたいと思うんだ。
 
 僕もお母さんも、君に立派な人になってもらいたいと、心から思ってはいるけれど、ただ君に、学業が出来て行儀もよく、先生から見ても友だちから見ても、欠点のあげようのない中学生になってもらいたい、などと考えているわけじゃあない。また、将来君が大人になったとき、世間の誰からも悪くいわれない人になってくれとか、世間から見て難の打ちどころのない人になってくれとか、いっているわけでもない。
 
そりゃあ、学校の成績はいい方がいいにきまっているし、行儀の悪いのはこまることだし、また、世間に出たら、人から指一本さされないだけの生活をしてもらいたいとも思うけれど、それだけが肝心なことじゃあない。そのまえに、もっともっと大事なことがある。
 
 君は、小学校以来、学校の修身で、もうたくさんのことを学んで来ているね。人間としてどういうことを守らねばならないか、ということについてなら、君だって、ずいぶん多くの知識をもっている。それは、無論、どれ一つとして、なげやりにしてはならないものだ。
 
だから、修身で教えられたとおり、正直で、勤勉で、克己心があり、義務には忠実で、公徳は重んじ、人には親切だし、節倹は守るし……という人があったら、それは、たしかに申し分のない人だろう。こういう円満な人格者なら、人々から尊敬されるだろうし、また尊敬されるだけの値打のある人だ。しかし、──君に考えてもらわなければならない問題は、それから先にあるんだ。
 
 もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、──コペル君、いいか、──それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。子供のうちはそれでいい。
 
しかし、もう君の年になると、それだけじゃあダメなんだ。肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持を起こすことだ。
 
いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。北見君の口癖じゃあないが、「誰がなんていったって──」というくらいな、心の張りがなければならないんだ。
 
 そうでないと、僕やお母さんが君に立派な人になってもらいたいと望み、君もそうなりたいと考えながら、君はただ「立派そうに見える人」になるばかりで、ほんとうに「立派な人」にはなれないでしまうだろう。
 
世間には、他人の眼に立派に見えるように、見えるようにと振舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの眼にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ。僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う。
 
 だから、コペル君、繰りかえしていうけれど、君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。
 
 今日書いたことは、君には、少しむずかしいかも知れない。しかし、簡単にいってしまえば、いろいろな経験を積みながら、いつでも自分の本心の声を聞こうと努めなさい、ということなんだ。
 
 そこで、君は、もう一度あの「油揚事件」を思い出して見たまえ。
 何が君をあんなに感動させたのか。
 なぜ、北見君の抗議が、あんなに君を感動させたのか。
 山口君をやっつけている北見君を、浦川君が一生懸命とめているのを見て、どうして君が、あんなに心を動かされたのか。
 
 なお、浦川君については、君は、浦川君が少し意気地がなさすぎるという意見だが、僕もそう思う。浦川君がしっかりしていれば、ああまで馬鹿にされないですむのだ。しかし、浦川君のような立場にいながら、少しもひるまずに山口君たちをおさえてゆけるなら、その人は英雄といっていい。
 
浦川君がそういう英雄でないからといって、浦川君を非難するのは、まちがっているね。浦川君のような人は、まわりの人が寛大な眼で見てあげなくてはいけないんだ。まして、浦川君自身が、自分をいじめた山口君をゆるしてやってくれと頼むほど、寛大な、やさしい心を示したんだからね。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p49-58)
 
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◎「自分ひとりの特殊な体験をもとに、多くの人びとから共感を得るような普遍的なものをつくりだすこと」「ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。」と。
 
「……「誰がなんていったって──」というくらいな、心の張りが……」私たちがぶつかっている現実はそういう態度を求めている。
 
学習通信031206 と重ねて深めよう。