学習通信040309
◎「アメリカに押しつけられたものを無反省に取り入れているうちに」……。
 
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 石原 それを、まったく考えていないですね。これはわたくしたちよりも、もう少し上の年齢の人たちの責任だと思いますね。たった一度、日本がたまたま千数百年の歴史の中で、外国と戦争して負けた。太平洋戦争で負けました。そうしたら、なにもかも、ペシャンとなって、一億総懺悔だなんて、なにもかもアメリカが正しくて日本が悪かったみたいに信じこんで、土下座してしまった。それで、アメリカに押しつけられたものを無反省に取り入れているうちに、アメリカもそのとき勘ちがいをして、日教組なんていうものを許して、つくりだしちゃったわけです。
 
 この日教組という組織にはいっている今の日本の先生たちが、なにを考えているか。
 あの日教組の綱領なんて、共産党宣言と同じですよ。そういう、神仏を認めないような共産主義国家の基本的なものの考え方と同じものを綱領にもった先生たちが、子供たちを小学校・中学校・高校で教えているわけですね。
 
そういう人たちが、どういうことを教えているか。日本の歴史はまちがっている、明治百年なんて、侵略の歴史だ、日清戦争・日露戦争、こんなもの侵略戦争であった、太平洋戦争もまちがっている、だから、日本がここまで栄えてきているのは、その結果だから、今の日本はまちがいなんだ、そういうこと教えている。
 
 わたくし、高田好胤薬師寺管長とは仲がいいんですけれど、高田さんがやっぱり怒っています。このごろの先生、けしからん。だから、ろくな生徒ができないってね。お寺に修学旅行にきますね。薬師寺の観音さまとか東大寺の大仏さまがありますでしょう、子供たちがなにをいうかというと、それを仰いで「ああ、これは搾取や」っていうんですな。
 
搾取、つまり、古代の天皇・皇后は、人民から金と労働力をしぼりとり、搾取して、ああした仏像をつくったと教えているわけですよ。それは、たしかに人民の喜捨がなかったら仏像もできなかったでしょうけれど、疫病がはやり、ききんがつづく、そういう、すさんだ社会と人の心を、仏に帰依することで慰め、救うために、天皇も人民も一所懸命、一緒になって大仏をつくった。
 
 そのころの技術は実に高くて、今の鋳造技術ではできないような銅を鋳てつくってある。日本古代文明の誇りです。それを子供たちが「なんだこんなもの搾取だ」っていうから、好胤さんは、かんかんになっておこる。実は、ほんとういうと、今のおとなの人たちが、おとなといえばわたくしもおとななんですけれど、もっと先輩の人たちが、ああいうまちがっている教育を今までさせてきた結果です。
 
今の小学校・中学校・高校の生徒たちが教わっている歴史を、先生が横で聞かれたら、それこそ、どなりたくなるくらい、ひどいこと教えているわけですよ。だから、今の教育というのは、ほんとうにまちがっていると思う。
(小谷喜美・石原慎太郎著「対話 人間の原点」サンケイ新聞社 p143-146)
 
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 婦人は、つつましく両手を膝の上に重ねながら、ちよいと語(ことば)を切つて、それから、静にかう云つた。やはり、落着いた、滑(なめらか)な調子で云つたのである。
 
 ――実は、今日も伜(せがれ)の事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……
 
 婦人が手にとらないのを遠慮だと解釈した先生は、この時丁度、紅茶茶碗を口へ持つて行かうとしてゐた。なまじひに、くどく、すすめるよりは、自分で啜(すす)つて見せる方がいいと思つたからである。所が、まだ茶碗が、柔(やはらか)な口髭にとどかない中に、婦人の語(ことば)は、突然、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだらうか、飲まないものだらうか。
 
――かう云ふ思案が、青年の死とは、全く独立して、一瞬の間、先生の心を煩はした。が、何時(いつ)までも、持ち上げた茶碗を、片づけずに置く訳には行かない。そこで先生は思切つて、がぶりと半碗の茶を飲むと、心もち眉をひそめながら、むせるやうな声で、「そりやあ」と云つた。
 
 ――……病院に居りました間も、よくあれがお噂(うはさ)など致したものでございますから、お忙しからうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思ひまして……
 
 ――いや、どうしまして。
 
 先生は、茶碗を下へ置いて、その代りに青い蝋(らふ)を引いた団扇をとりあげながら、憮然(ぶぜん)として、かう云つた。
 
 ――とうとう、いけませんでしたかなあ。丁度、これからと云ふ年だつたのですが……私は又、病院の方へも御無沙汰してゐたものですから、もう大抵、よくなられた事だとばかり、思つてゐました――すると、何時になりますかな、なくなられたのは。
 
 ――昨日が、丁度初七日でございます。
 ――やはり病院の方で……
 ――さやうでございます。
 ――いや、実際、意外でした。
 
 ――何しろ、手のつくせる丈(だけ)は、つくした上なのでございますから、あきらめるより外は、ございませんが、それでも、あれまでに致して見ますと、何かにつけて、愚痴が出ていけませんものでございます。
 
 こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措(きよそ)なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。
 
 ――昔、先生が、伯林(ベルリン)に留学してゐた時分の事である。今のカイゼルのおとうさんに当る、ウイルヘルム第一世が、崩御された。先生は、この訃音(ふいん)を行きつけの珈琲店(コオヒイてん)で耳にしたが、元より一通りの感銘しかうけやうはない。
 
そこで、何時ものやうに、元気のいい顔をして、杖を脇にはさみながら、下宿へ帰つて来ると、下宿の子供が二人、扉(ドア)をあけるや否や、両方から先生の頸(くび)に抱きついて、一度にわつと泣き出した。
 
一人は、茶色のジヤケツトを着た、十二になる女の子で、一人は、紺の短いズボンをはいた、九つになる男の子である。子煩悩な先生は、訳がわからないので、二人の明い色をした髪の毛を撫でながら、しきりに「どうした。どうした。」と云つて慰めた。
 
が、子供は中々泣きやまない。さうして、洟(はな)をすすり上げながら、こんな事を云ふ。
 ――おぢいさまの陛下が、おなくなりなすつたのですつて。
 
 先生は、一国の元首の死が、子供にまで、これ程悲まれるのを、不思議に思つた。独り皇室と人民との関係と云ふやうな問題を、考へさせられたばかりではない。西洋へ来て以来、何度も先生の視聴を動かした、西洋人の衝動的な感情の表白が、今更のやうに、日本人たり、武士道の信者たる先生を、驚かしたのである。
 
その時の怪訝(くわいが)と同情とを一つにしたやうな心もちは、未(いまだ)に忘れようとしても、忘れる事が出来ない。――先生は、今も丁度、その位な程度で、逆に、この婦人の泣かないのを、不思議に思つてゐるのである。
 
 が、第一の発見の後には、間もなく、第二の発見が次いで起つた。――
 
 丁度、主客の話題が、なくなつた青年の追懐から、その日常生活のデイテイルに及んで、更に又、もとの追懐へ戻らうとしてゐた時である。何かの拍子で、朝鮮団扇が、先生の手をすべつて、ぱたりと寄木(モザイク)の床の上に落ちた。会話は無論寸刻の断続を許さない程、切迫してゐる訳ではない。
 
そこで、先生は、半身を椅子から前へのり出しながら、下を向いて、床の方へ手をのばした。団扇は、小さなテエブルの下に――上靴にかくれた婦人の白足袋の側に落ちてゐる。
 
 その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊(かた)く、握つてゐるのに気がついた。
 
さうして、最後に、皺くちゃになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、繍(ぬひとり)のある縁(ふち)を動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。
 
 団扇を拾つて、顔をあげた時に、先生の顔には、今までにない表情があつた。見てはならないものを見たと云ふ敬虔(けいけん)な心もちと、さう云ふ心もちの意識から来る或満足とが、多少の芝居気で、誇張されたやうな、甚(はなはだ)、複雑な表情である。
 
 ――いや、御心痛は、私のやうな子供のない者にも、よくわかります。
 先生は、眩(まぶ)しいものでも見るやうに、稍(やや)、大仰(おほぎやう)に、頸を反らせながら、低い、感情の籠つた声でかう云つた。
 ――有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……
 婦人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。――
 
     *  *  *
 
 それから、二時間の後である。先生は、湯にはいつて、晩飯をすませて、食後の桜実(さくらんばう)をつまんで、それから又、楽々と、ヴエランダの籐椅子に腰を下した。
 
 長い夏の夕暮は、何時までも薄明りをただよはせて、硝子戸(ガラスど)をあけはなした広いヴエランダは、まだ容易に、暮れさうなけはひもない。先生は、そのかすかな光の中で、さつきから、左の膝を右の膝の上へのせて、頭を籐椅子の背にもたせながら、ぼんやり岐阜提灯の赤い房を眺めてゐる。
 
例のストリントベルクも、手にはとつて見たものの、まだ一頁も読まないらしい。それも、その筈である。――先生の頭の中は、西山篤子夫人のけなげな振舞で、未だに一ぱいになつてゐた。
 
 先生は、飯を食ひながら、奥さんに、その一部始終を、話して聞かせた。さうして、それを、日本の女の武士道だと賞讃した。日本と日本人とを愛する奥さんが、この話を聞いて、同情しない筈はない。先生は、奥さんに熱心な聴き手を見出した事を、満足に思つた。奥さんと、さつきの婦人と、それから岐阜提灯と――今では、この三つが、或倫理的な背景を持つて、先生の意識に浮んで来る。
 
 先生はどの位、長い間、かう云ふ幸福な回想に耽(ふけ)つてゐたか、わからない。が、その中に、ふと或雑誌から、寄稿を依頼されてゐた事に気がついた。その雑誌では「現代の青年に与ふる書」と云ふ題で、四方の大家に、一般道徳上の意見を徴してゐたのである。今日の事件を材料にして、早速、所感を書いて送る事にしよう。――かう思つて、先生は、ちよいと頭を掻いた。
 
 掻いた手は、本を持つてゐた手である。先生は、今まで閑却されてゐた本に、気がついて、さつき入れて置いた名刺を印に、読みかけた頁を、開いて見た。丁度、その時、小間使が来て、頭の上の岐阜提灯をともしたので、細(こまか)い活字も、さほど読むのに煩はしくない。先生は、別に読む気もなく、漫然と眼を頁の上に落した。ストリントベルクは云ふ。
 
 ――私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里(パリ)から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。……
 
 先生は、本を膝の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤子と云ふ名刺が、まだ頁のまん中にのつてゐる。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。さうかと云つて、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。
 
ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを、擾(みだ)さうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型(マニイル)と――
 
 先生は、不快さうに二三度頭を振つて、それから又上眼を使ひながら、ぢつと、秋草を描いた岐阜提灯の明い灯を眺め始めた。……
(芥川龍之介著「手布(はんけち)」講談社日本現代文学全集24 p29-31)
 
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職場で生まれてくる問題意識について
 
 それではここで、参加者たちからもちこまれ、提起される、職場での共通のなやみ、あるいは問題点について紹介しておくことにします。日本資本主義が対米従属のもとにあって、つぎからつぎへと、超過搾取のあらたな手段をもちこんでくる、思想攻撃が変化する、それらとの対決、「キリムスビ」のなかで、職場労働者大衆とのコミュニケーションのなかで、共通して生まれてくることだということになっています。
 
 一つは国全体の情勢がかわってきているといわれているのだけれども、そういう変化と自分のまわりのこととが、なかなかつながってつかめないということ、むしろ世の中はうごいているということはわかるけれども、たとえば自分の職場は別だとしか思えないことが多いということ、自分がそうなるとか、仲間からそういわれるとかという問題。
 
 二つは、同じょうに社会全体のこととしてすすめられている思想攻撃のことは納得できるのだけれども、それが自分たちの職場にもあらわれているはずだといわれると、いやそれは別だろうとしか思えないということがよくだされるという問題。
 
 三つは、資本の側からかけられてくる「合理化」や権利への侵害について、それが非人道的なことであることぐらいはわかるのだけれども、どうも自分自身のつかみ方が表面的なことにおわっているようで、それが職場の仲間やそれをこえる人たちのうえに資本運動のうみだすこととしてどういうふうに犠牲がおよんでいくのか、それがよみきれないでおわっている、
 
仲間にうったえてみても、その中味がどうも相手を本当につよくうっているように思えない、ききながされてしまうということにおわっているということ、相手にこれは正味のところ自分のことだというふうにうけとめさせないままにおわってしまうことが多いということ、つまりおそらく自分自身がことがらの本質をみぬけていないのだろうということ。要するに職場のことなのだから、経済学を動員しなくてはならないのに、それができないということ。
 
 四つは、とくにそういう場合によくみられる、直接の犠牲者にされるものと、そうでないものとに、職場が二分されるときに、本当のところは、ともに犠牲になるのだということをつたえなくてはならないのだけれども、そこがどうもうまくいかないということ、つまり表面にあることの、その中味になること、資本としてのねらいの本質がみぬけていないで、当事者のことだといううけとめ方を克服する把握ができきれないでいるということ。
 
 五つは、どうも職場の仲間が信頼しきれないで仕方がない、どうもこれが社会の変革、国政の革新をになう階級なのだとは、なかなか思いこめない、自分もかつては似たようなものだったのに、そしてその自分がここまでかわってきたのだから、もう少しなんとかなるはずだと思うのだけれども、なかなかそう確信できるところまではいかないでいるということ。
 
みんなが一つにまとまっていて、大したものだと思えるときもあるのだけれども、情勢がかわって雇い主のプレッシャーがつよまってきたりすると、あれっと思うほど「いかれて」しまうものが少なくなくて、なさけなくなるというようなこと。
 
 六つは、職場のものとのつきあいが、どうも表面的で世間なみのものにおわっていて、もっと深いところへ入っていけないでいる、相手のいうことにふかく耳をかたむけるというよりも、どうもこちらがベラベラとしやべりまくることになってしまう、それも相手にズバリと切りこんでいくとか、相手がふかく考えこんでしまうというふうにならずに、いくらしやべってみても、的のまわりをうろついている感じからぬけきれないでいることが多いということ。
 
相手の方から積極的に近づいてきて決定的なこと、本質的なことをたずねてくるというふうにまでなりたいのだが。どうもおしつけているとか、そうでなければ、たのみこんでしまっているというふうになっているということ。
 
 『資本論』の学習は、以上のような問題を目の前にする人たちに、それらをうけとめ、対抗できる力をつけてくれる、あるいはつよめてくれるのでしょうが、それは『資本論』の内容上のことになりますので、その機会に考えることにしておきます。
 
 もともと、それはすべて、階級闘争全般のことにかかわって考えていく必要のあることです。『資本論』のところへ問題をもってくるのであれば、『資本論』からなら、なにを学べるのかということになることでしょう。
 
『資本論』をつかいこなしたいという欲求
 
 もう一つ、参加者からもちだされてくる切実な欲求をここで紹介しておくことにします。
 
 『資本論』の学習は、その内容の基本を、できたらそのすべてを、自分たちの日常──資本主義との闘争にとりいれる、つまり職場の現状の評価とか分析とか、そして人々への働きかけにあたって、この大作の内容を生かしたい、生かすことができるはずだ、そもそもこの大作の表題は「資本」ということであり、中味はその分析、そこでの法則ということではないか、いま目の前にあるのが「資本」の世界であるなら、そうすることができるはずだ──というのがそれです。
 
 それではそういうことからみて求められるよみ方なり学び方とは、一層具体的にはどういうものになっているのでしょうか。
 
 いま自分たちのまえにあるこういう現実と似たようなことが、『資本論』の第何巻の第何章のどこにあるか、関連することが、どことどこにあるか、その殆どすべてを思いだしてみて、それを全三巻からえらびだすことができる、
 
そしてそのえらびだされたところに、どういうことが書かれていたかを思いだすことができる、あるいは思いだせなくても、そこをあらためてひらいて、中味をたしかめることができる、そしてそこから、当時のことと現状とを比べる、判断するうえでの着眼点はどういうことかを考えてみる、
 
現状のなにを知る必要があるのかを考えてみる、当時と今とのちがいと同じはなにかを知ることができるというところへすすんでいける、すくなくとも問題はどういうことかを考えることぐらいはできる──以上です。
 
 そんな大げさなことはこの大作とそれにかかわる現実の研究に生涯をかけてきたような専門家でないとやれることではない、『資本論』全三巻の丸暗記と同じことではないかということでしょうか。
(吉井清文著「どうやって「資本論」をよんでいくか」清風堂書店 p127-132)
 
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 第二に、マルクス、エンゲルスは、空想的社会主義者たちの共通の特徴だった青写真主義を排しました。未来社会というものは、将来、そういう社会づくりが現実の問題になるときに、その世代の人間が、そのときの歴史的な条件のもとでつくってゆくものです。
 
なにか青写真や設計図があらかじめつくられていて、それにそって社会を組みたててゆけばよい、といったものでは絶対にありません。
 
 ですから、マルクス、エンゲルスは、資本主義社会の科学的な分析にもとづいて、この矛盾を乗り越えた社会は、大きな方向としてはこういう特徴をもった社会になるだろうという、ごく大局的な展望をしめしましたが、それ以上の詳細な設計図をつくって、将来の社会はこういうしくみになるはずだ、といった態度はとりませんでした。
 
将来の歴史は将来の世代の人たちにまかせる、言い換えれば歴史に命令しない≠ニいうことで、マルクス、エンゲルスがこの原則的な立場を堅持したことは、非常に賢明なことだった、と思います。
 
 このことは、ちょっと考えてみれば分かると思います。マルクス、エンゲルスが活動した時代は、一九世紀の四〇年代から九〇年代、いまから百年以上前の時代でした。その当時の社会条件と言えば、同じ資本主義でも、現在とはまったく違っていました。だいたい、電気がまだ社会的に活用されていなかった時代です。
 
エンゲルスは、晩年マルクスが細かい字で書いた『資本論』の草稿を読んで目を悪くしたと言われますが、夜は「人工の光」で仕事をしたと書いています。この「人工の光」というのは、電灯ではなく、ガス灯の明かりだったのです。『資本論』が書かれた当時には、工場にいっても、機械を動かしている原動力は蒸気機関で、まだモーター(電動機)はどこにもありませんでした。
 
こういう一九世紀の社会条件のもとで、マルクス、エンゲルスが将来の理想社会の青写真をつくり、それが科学的社会主義のいわば眼目となっていたとしたら、そんな理論は現在の条件では使い物にならないでしょう。
 
 マルクス、エンゲルスは「歴史に命令する」ような、そんなばかげたことはやらなかった。そうではなくて、彼らが用意したのは、現代の社会を分析し、またそのなかから未来社会を展望する「科学の目」でした。そこに、たいへん大事な意味があります。
 
 それが、どんな「科学の目」だったかということは、これからの講義の中身になるわけですが、マルクス、エンゲルスが到達した「科学の目」は、百年たっても百五十年たっても古くなっていないのです。それどころか、マルクス、エンゲルスが生きていた時代には、一つの特殊な考えと見られていたものの見方が、現代では、すでに世間のいわば常識になってしまったとか、マルクスもエンゲルスも予想しなかったような規模で、その正しさが証明されているとか、そういうことは無数にあります。
 
 かさねて一言いますが、マルクス、エンゲルスが科学的社会主義の創始者だというとき、いちばん大事なことは、彼らが到達したもの、そしていま私たちが世紀をこえて受けつがなければならないのは、なによりもまずその「科学の目」であつて、細目にわたる個々の命題ではない、ということです。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p16-18)
 
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◎手っ取り早くでも……型にはめこんでも……ではいけない……と。何を目標に何を学ぼうというのだろうか……それを確かめながらでなければ。
 
◎紋切り型の演説、対話…説明…教条……これでは深い信頼は得られないし、共に成長もできないだろう。