学習通信040313
◎ワクワク、どきどき……職場に若い労働者が入って来ます。
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忘れさせない自己紹介
集めた名刺の数々を見てほしい。相手がどんな顔で、どんなことを話したのか、ほとんど記憶にないのではないか。となると、自分もまた忘れ去られているかもしれないと不安になる。初対面で印象づけるための鉄則を探った。
「00社の××です。どうも。あ、これ名刺です」−−。
こんな挨拶(あいさつ)では何度会っても、覚えてもらえない。
年間で約二百五十日、企業などでコミュニケーションを手ほどきするグローバリンク(東京都渋谷区)の大串亜由美社長は研修のはじめに課題を与える。隣の人同士で十五秒間の自己紹介をしてもらう。多くの人が何を話せばいいのか悩み、自己紹介後「ところで隣の人はどこの会社の何さんですか」と聞いても、覚えていないという。
何が足りないのか。自己紹介はすべてのプレゼンテーションの基本ともいえ、「相手の目を見て、表情豊かに。最初に自分を印象付けるキーワードを」と大串さん。
若手社員ならういういしさ、やる気を前面に出す。「とことん信頼できるビジネスマンを目指す00社の××です」といった選挙演説風もいい。氏名や社名に珍しい字が入っていれば、その説明や来歴を披露し「一度頭に描いてもらう」のが有効。
人の第一印象は六、七秒で決まるという。この時間との戦いを制すため「印象深いキャッチフレーズ、会社名、自分の名前、会社や自分の特徴(特技や興味を持っていること)、締めの言葉」からなる、十五秒の基本形を考えておく。もっと時間があるときのために特徴を裏付けるエピソードを盛った一分間バージョンも用意する。
締めは「またお会いしたい」と次につながる言葉を心がける。「大事なのは十五秒版でも一分版でも声に出し、鏡を見てリハーサルすること」(大串さん)という。
自分を売り込むだけではまだ不十分。一方的にしゃべると勝手な人間と思われかねない。相手と共通する話題を見つけ、会話に巻き込む。
「お話するチャンスをいただきありがとうございます。二ケタ増の売り上げで進化するアイルの串戸一浩です」。コンピューター関連会社アイルの串戸マーケティング本部長はこんな挨拶とともに「自己紹介シート」を渡す。海外で言葉に苦しんだ経験から、紙にしてわかりやすくという手を考えついた。
同社社員の大半が用意しているという自己紹介シートは名前などの基本情報に加え、趣味や最近興味を持った話題を盛り込む。会社の紹介部分は売り上げの伸びをグラフにして載せた(図参照)。実際のシートでは簡単な財務指標の裏付けも載せている。
自己紹介はほほ笑ましい私的な情報を載せるのがコツ。健康のため、酒は焼酎にしていることなど。「ここから、僕も最近は芋焼酎で、と話が広がる」。また、会社の東阪の住所欄にチェックボックスを作っておき、相手が関東の人なら東京に、関西の人なら大阪に連絡先としてチェックを入れてもらう。相手に何か作業をしてもらうことで、印象に残るようにする。
もっとも「相手との距離感をつかむこと」は大事だ。自分をさらけ出し、親近感を強調するのも相手次第。相手が「私的なことはいい、仕事の実力を見せてくれ」というタイプと分かっていれば、自己紹介シートは使わない。
冒頭の「二ケタ増の売り上げ」も、虚勢や自慢に聞こえない室戸さんのさわやかな雰囲気があってこそ。人により、このあたりの物の言い方も当然変わってくる。
大串さんと串戸さんは年齢や肩書が上の相手にも、変にへりくだってはいけないと口をそろえる。「謙虚さ、マナーは大切だが、自分もビジネスマンとして対等の関係にあるという意識で」。初対面の挨拶を軽く流されないようにするためのポイントだ。
(日経新聞 040313)序章にかえて
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なぜ私たちは、こんなにも孤独な存在になってしまったのでしょうか。
三万ニー四三人。これは、二〇〇二年(平成十四年)に日本で自殺した人の数です。
交通事故死の約三倍に当たり、そのうち七割以上を占めるのが男性、それも中高年が中心で、三〇代よりは四〇代、四〇代よりは五〇代と、年代が上がるに従って、自殺者数は増えています。
自殺した理由は、残された遺書によれば、「健康問題」や「経済・生活問題」「家庭間題」「勤務問題」など、さまざまです。しかし、一つ、彼らに共通していたことがあります。
それは、死を選ばざるをえなかったほど、「孤独」だったということです。
誰も助けてくれない、誰にも頼れない ──。そんな孤独感が彼らから生きる気力を奪い、死に向かわせたのです。
この自殺者の問題に限らず、鬱(うつ)病患者の増加や社会人にも広がる引きこもりなど、このところ、現代人の「心の問題」をどう解決すべきかが大きな社会問題になっています。私のところにも、ずいぶん、こうした心の問題に関する相談が増えました。そして、そのどれもに共通するキーワードが「孤独」です。
確かに人間は、誰しもが強烈な孤独感を抱えています。この孤独感を他人に分かってもらおうとするのは、なかなか難しいものです。古今東西、孤独をテーマにした文学や音楽が数多く生み出されてきたことは、その難しさの象徴とも言えるでしょう。
また最近は、自分と他人の間には理解しがたい「壁」があるのだから、最初から理解しようと努力することが無駄であるという厭世観(えんせいかん)のようなものがはびこっています。
けれど、思い出して欲しいことがあります。私たちには、コミュニケーションという道具があります。コミュニケーションは、自分と他人をつなぐ懸け橋になるものです。私たちは人類が長い年月をかけて培ってきた、このコミュニケーションという道具を今、あまりにもないがしろにしているのではないでしょうか。
コミュニケーションというと、すぐに「相手に話しかけること」と解釈する人がいます。会話をはずませることが、コミュニケーションの成功と考える人たちです。その結果、どういうシチュエーションで、どのような相手のときに、どういった言葉を選ぶのが適切か、という会話のテクニックを学ぶことに熱心になってしまうことが往々にしてあるものです。
しかし、それはあまりにも短絡的な発想と言わざるをえません。言葉はなぜ発せられるのでしょうか。それを考えてみれば、短絡的と私が指摘する理由が分かるはずです。
言葉の背後には、伝えたいメッセージがあります。喜怒哀楽の感情があります。その心の動きがない言葉は無味乾燥で、何の意味もありません。つまり、心の動きを伴った言葉でなければ、いくら美辞麗句を並べても、自分の気持ちや意見を伝えたり、相手の心を動かしたり、行動に結びつけることはできないのです。
コミュニケーションは、自分の心と他人の心が出会うことです。その原点に立ち戻り、コミュニケーションの意味を深く考えてみることは、孤独感や厭世観が蔓延しつつある現代において、非常に意義のあることです。そして、コミュニケーションの意味が理解できれば、おのずとその場で今、何をすべきか、どうすればよいのかが分かってきます。
「デキる人」とは、コミュニケーション上手な人です。そして、人に信頼され、愛される人です。孤独な人間は、「デキる人」にはなれません。
コミュニケーションとは何か、自分はなぜコミュニケーションを欲しているのか、コミュニケーションに何を求めるのか、その意味をこの本を通じて、振り返ってみて欲しいと思います。そうすればきっと、この先行きが不透明な世の中を自信を持って突き進むことができる、勇気を持った本物の「デキる人」になれるはずです。
(富田隆著「「ハナシ上手」になる心理術」角川oneテーマ21 p9-11)
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若者の揺れる自画像
学生と接していて、だいぶ前から、興味深いことに気がついた。学生に、たとえば、「今の若者は、自分をさらけだして、悩みをともにする友達ができなくなっていると言われるが、本当だろうか」と問うと、「そのとおりだ」と言う。
初めは、私の話に合わせているだけかなと考えてみた。そこで、意地悪く「本当にそう思っているのか」と念を押しても、「そのとおりだ」と言うばかりだった。しかも、全く別の文脈で、「今の学生は、何を考えているのか、わからない」と言ってくる者もいた。どうも、彼らは、本当に、「今の若者は何を考えているのか、わからない」と考えているようであった。
私は、「今どきの若い者は」などという言いかただけはしたくない、そんなふうに老けたくはないと思っていた。また、若者にしても、そんな言われかたをしていい気持ちがするわけがないだろう。だから、若者が同じ若者に対して、「今どきの若い者は」などと言うはずがないと思っていた。だから、正直なところ、驚いた。若者は自分たちのことをどのように見ているのであろうか。
「みんなはそうだが、私は違う」という若者
今度は、私のゼミで、一人ひとりに、「今の若者は、自分をさらけだして、悩みをともにする友達ができなくなっているというが、本当だろうか」と、問いかけてみた。すると、やはり「そのとおりだ」という返事が返ってきた。隣のひとにも聞いてみた。すると、再び「そのとおりだ」という返事が返ってきた。結局、その場に居合わせた全員が「そのとおりだ」と答えた。
そこで、今度は、最初のひとに、「それでは、君自身はどうか。自分をさらけだすことができず、悩みをともにする友達がいないのか」と聞いてみた。すると、驚いたことに、「ぼくは違う。自分のことを本音で語っているし、悩みを聞いてくれる親友がいる」と答えた。
「そうか、君は違うんだな。例外なんだな」と聞いて、念のために、次のひとにも聞いてみた。すると、「私も違う。私にも友達がいて、人生のこととか悩んでいることとか、いろいろなことを話す」ということだった。結局、全員が「自分は違う」ということだった。
そこで、私は次のように言ってみた。「今の若者は、自分をさらけだして、悩みをともにする友達ができなくなっているだろうかと問うと、みんなそのとおりだと言うのに、自分はどうかと聞くと、みんな違うと言う。今の若者というのは君たちのことで、その君たちが違うと言うのだから、結局、今の若者は、自分をさらけだしたり、悩みをともにする友達がいるということになるんじゃないか」と話した。
すると、「私たちのまわりにいるひとはそうだが、そうじゃないひとのほうが多いに違いない」という。「どうしてそう思うのか」と聞くと、「大阪教育大学へ来る学生には教師希望のひとが多い。だから、まじめなひとが多い。でも、他の大学のひとは違うだろう」という他の大学のひとを知っているのかというと、知っているというひともいるが、大半は知り合いはそれほどいないようだった。
だから、自分が直接見聞した体験に基づくものではないように思われた。まるで、メディアの流す評論家の若者論を、若者が自分の考えであるかのように話しているように私には聞こえた。そして、若者が若者を評論する時代になってしまったように感じた。
その原因のひとつには若者がバラバラになってきていることがあるのかもしれない。世代としての連帯性というか、共同性がなくなっているのだろう。そのために「他人は自分と違う」という意識をもっているからかもしれない。
あるいは、彼らが新聞や雑誌をよく読んでいるようにも思われないから、メディアの影響というよりも、大人の一般的な考え方に近いともいえる。つまり、評論するときの見方が意外と「保守的」だったり「古風」だったりする。
それとも、仲間内で親密さを交換しあうことばはもっていても、自分たちを社会に表現するためのことばはもちあわせていないからなのかもしれない。そのために、若者の実感とは微妙に異なるにもかかわらず、社会の見かたがそのまま若者に入り込んでしまっているのかもしれない。その結果、「みんなはそうだが、自分は違う」というズレを含む言いかたとなってしまうかもしれない。
(白井利明著「大人へのなりかた」新日本出版社 p38-41)
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わたしの考えを採用しながらも、問題はただ青年を相手にいきあたりばったりの話をすることだ、それで、万事すむのだ、と考える読者は一人にとどまらないだろう。ああ、そんなことで、人間の心を導いていけるものではない。話をする時を準備したうえで話さなげれば、話すことにはなんの意味もなくなる。
種を蒔くまえに土地を耕さなければならない。徳の種はなかなか芽を出さないものだ。それに根をもたせるには長い準備が必要だ。説教をこのうえなく無益なものにしていることの一つは、見わけもせず、選択もしないで、だれにでもかまわずに調教することだ。
さまざまの素質をもち、精神、気分、年齢、性、身分、意見がまったくちがった多数の聴衆に同じ説教が適当だとはどうして考えられよう。すべての人にむかって述べていることがぴったりあてはまるような人はたぶん二人といないだろう。
また、わたしたちの感情はすべて、いつまでも変わらないでいることはほとんどないから、同じ話が同じ印象をあたえるような時はそれぞれの人の生涯にたぶん二度とないだろう。
燃えあがった官能が悟性を失わせ、意志を押さえつけているとき、それは重々しい知恵の教訓に耳をかたむけるときかどうか考えてみるがいい。だから、理性の時期にあってさえ、まず理性を聞きわける状態に青年をおいてからでなければけっしてかれらに道理を説いてはならない。
話をしてもむだになるのは、たいていのばあい、弟子が悪いからではなく、むしろ先生が悪いからだ。衒学者も教師もほぼ同じようなことを述べる。ただ、それを、衒学者はあらゆる機会に述べる。教師はその効果が確実と思われるときにだけ述べる。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p231-232)
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経営での活動上のいくつかの問題点
「紋切り型」でなく職場の条件をとらえた効果的な活動を
そういう情勢のなかでの活動の問題ですが、経営でなにをやるかということでは、そう複雑なことはありません。私たちの大衆活動は、どんな場合でも、だいたい宣伝と組織と闘争にまとめられます。ただその活動のやり方は、それこそ、多くの工夫が必要になっているのが、いまの時代です。
さきの七中総(第十八回党大会 八九年十二月)や八中総(九〇年三月)の決定でも、党活動における「紋切り型」のやり方や杓子定規(しゃくしじょうぎ)主義をきびしくいましめました。実際、みなさんの報告をきいても、それぞれの経営・職場のおかれている条件には、随分大きなちがいがあります。
労働組合との関係をとっても、組合の右傾化は全体に共通する傾向ですが、それでも、労働組合の機関に、階級的・革新的な勢力がある程度進出することができて、その条件を活用している職場もあれば、労働者の声を組織してその圧力で組合組織を動かし、そういう形で労働組合に要求実現のための仕事をさせているところもある、あるいは、組合組織を労働者の要求実現のために活用する条件などまったくなくなっている職場もある、といった調子です。
職場での労働生活の条件もたいへん変わってきています。昔は、多数の労働者が職場であつまって仕事をするのが当たり前でした。そういうなかで、日本共産党員を大衆から切り離すために、仲間の一人もいない倉庫番などに追いやることが、迫害の重要な方法になったりしました。
ところが、最近では、ハイテク化が高度にすすんだ経営では、労働者が集団で、たがいの姿が見えるところで仕事をするなどはむしろ例外になって、労働者が巨大な機械や装置を一人であつかって、仲間の顔を見たり口をきいたりする機会がないといった状況が、職場の一般的な姿になってきたりしています。もちろんこうした変化も一律ではありません。もっともハイテク化がすすんだといわれる経営でも、無人化率は一〇%程度だといった報告もありましたから。
相手の攻撃の仕方にもその経営なりの特徴があります。社会党を「会社派」にひきこんで、それで結構といったやり方をしているところもあれば、経営者側が社会党系の勢力はどんなに右寄りでも大目に見ないというところもあります。
このように、条件のちがいはいろいろありますが、われわれの活動としては、そのなかで労働者大衆のあいだでいかに効果的に宣伝し、大衆をいかに効果的に組織し、さまざまな要求闘争を大衆自身がやって経験をつうじて前進するように援助するか、ここに知恵と工夫のだしどころがあります。
労働者がおかれている「事実」から出発する
日本共産党の経営での活動というのは、なにも、その経営にいる労働者にむかって、日本共産党が考え出した目標や要求をむりやり押しつけて、そこへきてくれとむりやりがんばるというものではありません。
マルクス、エンゲルスは「共産主義とは教義ではない、事実から出発する運動だ」ということをくりかえし強調しましたが、経営での私たちの運動も、労働者がおかれている「事実」から出発するというところに値打ちがあります。
労働者がおかれている現実から出発して、その経営の労働者の利益の守り手として労働者とともに力をつくす、これは経営における日本共産党の存在と活動の根底をなす問題です。
もちろん、資本のほうは、日本共産党のそういう役割が、多くの労働者に理解されると困りますから、反対の宣伝をさかんにします。日本共産党に近づくと会社からひどい目にあわされる、逆に日本共産党からはなれて「インフォーマル組織」(職場の反共組織)にはいればよい待遇をうける、こんなやり方で日本共産党孤立化政策に狂奔した時代もありました。
しかし、経営者側がこういうことをやるのは、労働者を無抵抗にして、より過酷な搾取や抑圧をやるためですから、多数の労働者に「よい待遇」が保障されつづけるはずはなく、そんな宣伝がいつまでも通用するものではありません。
人間は複雑な存在ですから、自分がおかれている客観的な立場や本当の利益がすぐそのとおりに自覚されるわけではなく、それには、時間がかかります。
他の資本主義国には例のないようなひどい搾取や抑圧にさらされていても、その状態を「会社意識」だとか、「企業中心主義」だとか、いろいろなものでごまかしている。
そうしたごまかしにとらわれないで、労働者が自分のおかれている地位を客観的に冷静に見て、自分の利益を本当にまもるにはこのままでよいのかということを真剣に考える──こういう階級的な自覚の発展をたすけるところに、労働者のなかでの日本共産党の役割があるわけです。
党の都合で、労働者の利益にあわない見当違いのところにひっぱってゆこうというのではなく、労働者が自分の客観的な地位、本当の利害を自覚するのをたすけようというところに、労働者階級の党としての日本共産党の役目があるのですから、そこには無理なことはなにもないのです。
ですから、どんなに困難はあっても、職場の労働者の真の利益にそくして事態を見るなら、最後に多数者の支持をえられるのは私たちだという、大局の確信をしっかりもって活動することが、まずなによりも大事だと思います。
(不破哲三著「経営の中の日本共産党」新日本出版社 p157-160)
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◎3〜4月私たちのまわりには、新しい出会いを求める労働者・青年が溢れています。働きかけ≠フ哲学を磨いてチャレンジです。
「人間は複雑な存在です」……働きかけの側の力を高めないと。