学習通信040314
◎否定の否定……。
 
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生物進化
 「進化」は「進歩」ではない
 
 進化の話をややこしくしている原因のひとつに、進化と進歩の混同がある。混同のもとは世界で最初に体系的な進化論を打ち立てたラマルクにさかのばれる。元来は植物学者だったラマルクは所属していた王立植物園がフランス革命の影響で改組され、新しく設立されたパリの自然誌博物館の無脊椎(せきつい)動物部門の教授となる。
 
 ラマルクは動物の進化についての考えをあたため、一八〇九年に『動物哲学』と題して出版した。くしくもダーウィンが生まれた年だ。ラマルクの基本的な考えは、無生物から自然発生した生物は、単純な秩序をもつものから複雑なものへと必然的に進化していくというものだ。ラマルクの説として有名な「用不用の説」や「獲得形質の遺伝説」は実は補助的な仮説なのだ。
 
 自然発生した生物が一定のルールに従って進化していくと、最初に自然発生した生物は一番高等に、最後に自然発生した生物が一番下等になり、その間にすべての生物は順序よく並ばなければならない。ところが実際は、どちらが高等かわからない生物がたくさんいる。コイとウナギはどちらが高等か。
 
 そこでラマルクは、生物は生きている環境の中で必要な静官を発達させ、不要な器官を退化させ、この獲得した形質を遺伝させることで徐々に環境に適応していくと考えた。その結果、生物は本来の秩序から逸脱し、どちらが高等か判然としない生物が出現する。そうラマルクは考えた。
 
 後年、ラマルクの説(ラマルキズム)と言えば獲得形質の遺伝のみが有名になり、進化は必然的な進歩であるとの考えがラマルクに発することはあまり強調されなくなった。思うにこの考えは、あまりにも当たり前のこととして、多くの人々の心にすみついてしまったのだ。
 
 正統的な進化論の歴史において、ラマルクの説は異端として葬り去られているが、一般の人々の進化観に関する限りラマルクの影響は絶大だ。進化論はダーウィンのものと思っている人でも、話を聞いてみると進化は進歩だと考えている人が意外と多い。
 
 進化は進歩というラマルクの考えに猛烈に反対したのはダーウィンその人だ。ダーウィンは、ラマルクのばかげた考えにはくみしたくない、と言ったと伝えられる。だがダーウィンが反対したのは、進化は進歩という考えであって、獲得形質の遺伝説ではない。余り知られていないが、ダーウィン自身も「パンゲン説」という獲得形質の遺伝説を提唱していた。
 
 しかしダーウィンを有名にしたのはパンゲン説ではない。もっと強力な説明を考えた。それが自然選択説なのである。
(山梨大学教授池田清彦)
(日経新聞 040314)
 
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序章 歴史の見方について
 
 近世史を説く方法的なかぎは、一方で商品生産の発展段階、他方では同じことの他の面であるが、農民分解の度合と農民解放の状態、この二つの基本的な面から見てゆくことにある。
 
 経済史とか風俗史とか、あるいは政治史とか、いろいろな歴史がある。だが一体これほどたくさんの歴史が客観的にあるものか? むろん客観的な現実の歴史はただ一つの歴史があるだけである。そのただ一つの歴史の動き方、それを把握するのが歴史科学である。
 
経済といい、風俗といい、政治といい、それはただ一つの歴史のそれぞれのモメントである。この場合にたとえば政治史──政治史もまたそのような一つのモメントにすぎない。これら一切を綜合した綜合史という概念が成り立つようだし、また同じように社会史という概念が成り立つように見える。ところがもしも政治史が政治の領域だけをかけ巡って、政治以外のたとえば経済については何もしらない。
 
外交と内政とのいわゆる政治──新聞紙の政治欄に載っていることだけをあげつらうことが政治史であるとするならば、その政治史は決して政治現象の歴史の正しい説明には到達することができない。
 
ある政治現象、たとえば日本の敗戦史を、ポツダム宣言を、あるいはまた五・一五や二・二六事件というような一つの政治現象を説明しようとする場合に、いわゆる政治的な出来事のらち内にあるところの材料をかき集めてみても、けっして納得のいく合則的な説明はでてこない。もしもほんとうに正しい説明をしようとするならば、彼は必ず経済の領域、あるいは思想の領域にも入りこまなけれはならないであろう。
 
 そこでここに思想史というものをおいて、たとえば文学史をとりあげてみる。文学史上のある箇所、たとえば二葉亭四迷という作家のことをほんとうにリアルに把越しょうとするならば、文学の世界のことだけ調べたのではわからない。二葉亭四迷を生んだ日本の年代の経済の部面、政治の部面を、日本資本主義の発展段階のすべてのひろがりにわたって調べて、それを文学の領域まで集約してきた時に、はじめて二葉亭四迷の作品の性格がわかってくる。
 
なかんずく経済と政治との関係は、政治は経済の集中的表現であるという言葉があるように、経済はまた政治のための土壌である。作物はもしもその畑から切り離されてしまえは枯れてしまう。政治と経済のこのような関係は、なにもマルクス主義とかぎったことでなく、少しでも科学的にものを観察しょうとするとき、だれでも気のつくものである。
 
そういう見地からすると大体綜合史だの社会史だのというようなものは厳密にはありようがないので、綜合史とか社会史とかいう名をつける場合、社会を構成するいろいろなモメントの間の内面的な関係の全体の脈絡を見ることによってある法則性に到達してしまえは問題はないが、到達できない人々にとってのいわば暗中模索的な一種の気休めの符合のように見える。
 
 本書は政治史といってもかまわない。実はこの政治史こそは文学史や思想史とちがって、最も綜合的な、最も集中的な全体性の把捉を必要とするものである。そういう意味で私の考えでは、いわゆる社会史とか綜合という暗中模索的な言葉でいわれている方法的なものは、実は政治史でなければならないと考える。
 
政治史とは経済史から異なった政治だけの歴史、あるいは思想だけの歴史、文学だけの歴史というようなものでなく、最も包括的な、そして集中的な歴史のつかみどころ──猫の背くびのようなものが政治史であると考える。そこでもし正しい史述とは何かということを判断する場合には、一国の政治の解釈をどれが十分に行ない、どれが不十分に行なっているかということでわかる。
 
つまり、ある書かれた歴史すなわち史述がどれだけ対象としての歴史の法則性を明らかになし得ているか、いいかえると科学的にどれだけ及第点であるか、あるいは落第点であるかということを測る尺度、その歴史家の書いた政治上の見方、過去のことならば過去に起こった政治的な出来事に対する説明がどのように成功しているか、現在のことならばかれの予測がどれだけ適確に証明されてゆくかにかかっている。
 
なぜかというと、社会史、綜合史といわれているものは、究極において政治史にほかならぬからである。
 
 別のいい方をしてみると、現在の政治は将来の歴史をつくりだすためのものであるが、人々の史述としての歴史は、実は過去に向かっての政治にほかならぬからである。そういうと、今までの小学校の歴史から大学の歴史に至るまでの歴史教科書や歴史のノートはあまりに政治史すぎたといわれているが、あれは本質においてなんらの政治史でもない。
 
たかだか政治史の年表にすぎない。出来事を羅列したばかりで説明がない。たまたまあれば、国体の精華といった種類の呪文のような説明がされていたにすぎない。学問の方法論的な手段として年表は作成されなければならない。
 
しかしながら、これは研究の一つの手段であり、材料である。その材料ばかり並べて歴史が書けたと思ってはならない。ほんとうの歴史、科学としての史述は、未来を変革し得るほどの政治的洞察を過去に向かって適用して、脚下の明暗を適確に現象することでなければならぬ。これができていなければ史述とはいえない。
 
これを別の言葉で、現実の問題及び将来に対する態度の上からいってみれば、過去の歴史を適応的に説明し得るほどの見方は、われわれの現在の歴史を貫流する法則を、それだけ発見している見方である。
 
現前のわれわれの課題を解かんとして、われわれが当面している歴史的対象──われわれは日本人だから日本というその一点で把握されるところの現存の世界史、それが今われわれが直面している歴史的・客観的現実、対象としての生きものの歴史であるが、それは近代資本主義の成立とともに、世界史として存在する。
 
その世界史として存在する複雑多岐な現代史の一局部たる日本の位置を精密に測定するための手段の一つとして、これをつくり出してきた過去をわれわれは見る。何ゆえに現前の位置を知らんとするのであるか。現前の歴史としての生きた客観的対象を変革せんとする意図をもつがゆえである。
 
 もしもわれわれが当面の敗戦日本の現状に満足しているのであれば、何もこのんでこれを変革する必要はない。これに満足せず、われわれの後に来る者たちに正夢を約束し、よりよき世界に向かってこれを変革していこうという意図によって、われわれは現実の歴史的対象を動かしてきた法則を知ろうとする要求をもつのである。
 
一切の史述はこの意味でつねに現代史にかかわっており、現代史の否定としての未来の人類史にかかわっているのである。
(服部之総著「近代日本のなりたち」青木文庫 p7-10)
 
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 では、マルクスでは、<否定の否定>はどういう役割を演じているのか? 七九一ページ以下で、彼は、それに先立つ五〇ページにわたって行なった、いわゆる<資本の本源的蓄積>についての経済学的および歴史的研究の結論を総括している。
 
資本主義時代以前には、少なくともイギリスでは、労働者が自分の生産手段を私有していることを基礎とする小経営が行なわれていた。
 
いわゆる<資本の本源的蓄積>とは、ここでは、こうした直接的生産者を収奪すること、すなわち、自分の労働にもとづく私的所有を解消させること、であった。
 
これができるようになったのは、前記の小経営が、ただ生産および社会のせまい自然生的な限界としか両立できないものであって、だから、或る高度に達すると、自分白身をほろぼす物質的手段を生み出すからである。
 
この滅亡が、すなわち、個人的で分散した生産手段から社会的に集積された生産手段への転化ということが、資本の前史である。
 
労働者がプロレタリアに転化され、その労働条件が資本に転化されたとたんに、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになったとたんに、労働のそれ以上の社会化と、土地とその他の生産手段とのそれ以上の〔資本への〕転化とは、だから、私的所有者のそれ以上の収奪は、新しい形をとるようになる。
 
「いまや収奪されなければならないのは、もはや日常的労働者ではなく、多数の労働者を搾取する資本家である。
 
こうした収奪は、資本主義的生産そのものの内的諸法則の作用によって、諸資本の集積によって、行なわれる。
 
どの一人の資本家も、多数の資本家を打ちほろぼす。
 
この集積すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手をたずさえて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態が、科学の意識的な技術学的応用が、土地の計画的な共同利用が、労働手段のただ協同的にしか使用できない労働手段への転化が、結合された社会的労働が共同の生産手段として使用されることによるすべての生産手段の節約が、発展していく。
 
この転化過程のすべての利益を横領し独占する人資本家の数が絶えず減少していくのにつれて、貧困・圧迫・隷属・堕落・搾取の総量が増大する。
 
しかし、絶えず膨張していき資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗も、増大する。
 
資本は、資本とともにまた資本のもとで開花してきたこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集積と労働の社会化とは、これがそうした資本主義的な外被と両立できなくなる一点に到達する。
 
この外被は爆破される。資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る。収奪者が収奪される」〔『資本論』第二版、七九一/九三ページ〕。
 
 そこで、読者にお尋ねする、
 
──弁証法ふうに込み入った錯綜と観念の唐草模様とは、どこにあるのか? 
 
それによると結局はすべてが一つになってしまうという、ごたまぜの間違った観念は、どこにあるのか? 
 
信者たちのための弁証法的奇跡は、どこにあるのか? 
 
デューリング氏によるとマルクスが自分の展開を仕上げるのに欠かすことができないものだという、弁証法の秘密のがらくたとヘーゲルのロゴス説に準拠した錯綜した議論とは、どこにあるのか? と。
 
マルクスは、<むかし小経営が自分自身の発展によって自分の滅亡のための諸条件を、すなわち、小所有者が没収されるための諸条件を、生み出したのとまったく同じように、いま資本主義的生産様式も、自分が没落しなければならないようになる物質的諸条件をやはり自分で生み出したのだ>、ということを、歴史的に立証して、ここで簡潔に総括しているだけのことである。
 
この過程は、一つの歴史的過程であって、それが同時に一つの弁証法的過程であっても、このことは、デューリング氏にとってどれほど不快であろうと、マルクスの罪ではない。
 
 マルクスは、自分の歴史的=経済学的証明が終わったあとで、はじめていま、続けてつぎのように述べる、
 
──「資本主義的な生産様式および取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。資本主義的生産の否定は、自分自身によって、一つの自然過程の必然性をもって、生産される。これは否定の否定である」うんぬん(前に引用したとおり)、と〔同、第二版、七九三ページ〕。
 
 だから、マルクスは、<この出来事を《否定の否定》と言いあらわすことによって、それを一つの歴史的に必然的なものであると証明しよう>、と思っているわけではない。
 
その反対である。この出来事が実際に一部は起こっており一部はこれから起こらずにはいないことを歴史的に証明したあとで、これにつけ加えて、その出来事を<或る特定の弁証法的法則に従って生じる一つの出来事>と言いあらわしているのである。ただそれだけのことである。
 
だから、<否定の否定>が、ここでは、過去の胎内から将来を分娩させる産婆の役をつとめなければならない、とか、マルクスが、<《否定の否定》を信用して、土地および資本の共有制(資本の共有制とは、それ自体、デューリングの言う《肉体をそなえた矛盾》である)の必然性を納得せよ>、と要求している、とか、とデューリング氏が主張しているのは、またしてもデューリング氏のまったくのなすりつけである。
 
 たとえば形式論理学や初等数学は、狭く解すれば、ただの証明の用具と解することができるであろうが、デューリング氏が弁証法を同じようにただの証明用具と見なしていることは、それ自体、弁証法の本性についての認識をまったく欠いたものである。
 
形式論理学でさえ、なりよりもまず、新しい結果を見いだすための、既知のものから未知のものへ進むための、方法である。
 
弁証法も同じものであるが、ただはるかに卓越した意味でそうなのである。そのうえ、弁証法は、形式論理学の狭い視野を突破するものであるから、一つのもっと包括的な世界観の萌芽を含んでいるのである。
 
数学には、これと同じ関係がある。初等数学すなわち不変量の数学は、少なくともだいたいのところは、形式論理学の限界の内部を動いている。
 
微積分学を最も重要な部分とする変量の数学は、本質上、弁証法を数学的諸関係に適用したものにほかならない。
 
ここでは、この方法を新しい研究諸領域にさまざまに適用することに比べて、ただの証明は、まったく背景にひっこんでしまう。
 
しかし、高等数学における証明は、微分法の最初の証明を始めとして、ほとんどすべて、初等数学の立場からすれば、厳密に言うと誤りである。
 
この場合のように、弁証法の領域で得られた結果を形式論理学を仕って証明しようと思えば、そうなるほかはないのである。
 
デューリング氏のような極端な形而上学者に向かって、ただの弁証法を使ってなにかを証明しようと思ったりするのは、ライブニッとその弟子たちとが当時の数学者たちに微積分学の諸命題を証明してみせようとしたのと同じ、むだ骨折りとなろう。
 
微分は、<否定の否定>がデューリング氏に起こさせたのと同じけいれんを、この数学者たちに起こさせたのであった。
 
ついでなから、微分も、この<否定の否定>のなかで、あとで見るように、一つの役割を演じているのである。
 
あの先生たちは、そのあいだに死んでしまわなかった限り、最後にはぶつぶつ言いながら屈服したが、それは、納得したからではなくて、いつも正しい結果が出たからである。
 
デューリング氏は、自身の言うところでは、やっと四〇代であるという。だから、高齢に達したら──そうあってほしいものである ──、まだ同じことを体験できる。
 
 しかし、この恐ろしい<否定の否定>──デューリング氏の生活をこれほどにも不愉快にし、彼の場合、キリスト教において罪が聖霊にたいして演じているのと同じ、なんとも許せない犯罪の役割を演じている、
 
この<否定の否定>──とは、いったいなにか?──それは、非常に単純な・いたるところで日々に行なわれている手続きであって、──古い観念論哲学がそれを覆いかくすのに使い、そして、デューリング氏のようなどうしようもない形而上学者が引き続きそう使うことを利益としている、秘密のがらくたを捨て去ってしまえば──どの子どもにもたちどころに理解できるものなのである。
 
オオムギの粒を一つとってみよう。幾兆個のそうしたオオムギ粒が、碾いて粉にされ、料理に使われ、醸造に回され、そのあと消費される。
 
しかし、このようなオオムギの一粒が自分にとって正常な諸条件に出会えば、つまり、好都合な地面に落ちれば、熱と湿気とに影響されて、独白の変化がそれに起こる。
 
つまり、発芽する。穀粒は、それとしては消滅し、否定され〔初版では「否定され」〕、それに代わって、その穀粒から生じた植物が、穀粒の否定が、現われる。
 
しかし、この植物の正常な生涯は、どういう経過をたどるのか? 成長し、花を咲かせ、受精し、最後にふたたびオオムギの粒を生じる。
 
そして、こうしたオオムギの粒が熟すると、たちまち茎は死滅し、それ自身としては否定される。
 
この<否定の否定>の結果として、ふたたびはじめのオオムギの粒が得られるが、一粒ではなくて、一〇倍、二〇倍、三〇倍、という数で得られる。穀物の種は、ごくゆっくり変化するから、こんにちのオオムギは一〇〇年前のものとほとんど同じである。しかし、改良しやすい鑑賞用植物たとえばダリアとかランとかをとってみよう。
 
種子とそれから生じる植物とを園芸家の技術によって処理すれば、この<否定の否定>の結果として、種子がもっとたくさん得られるだけでなく、これまでのよりも美しい花を咲かせる・質的に改良された種子も得られる。
 
そして、この過程がくりかえされるたびに、つまり、新しい<否定の否定>のたびに、この改良の度合いは高まっていくのである。──たいていの昆虫たとえばチョウでも、この過程は、オオムギの粒の場合に似た仕方で行なわれる。
 
チョウは、卵から卵の否定によって生まれ、そのもろもろの変態を経て性的成熟に達し、交尾し、そして、 ──交尾過程が完了し、雌が多数の卵を生むとすぐさま死んでしまうことによって──もう一度否定される。
 
他の植物と動物との場合には出来事がこれほど簡単にはかたづかないということは、そうした植物・動物が死んでしまう前にただ一回だけでなく何回も種子や卵や仔を生産するということは、ここではまだ、われわれにとってどうでもよいことである。
 
ここではただ、<否定の否定>が生物界の二つの領域において現実に起こっているということを、立証しさえすればよいのである。
 
──略──
 
 歴史でも事情は変わらない。すべての文化民族は、土地の共同所有から始める。
 
或る種の原始段階を越え出たすべての民族において、この土地所有は農耕が発展していくにつれて生産にとっての一つの桎梏(しっこく)となる。
 
それは廃止され否定され、長短さまざまな中間段階ののちに私的所有に変えられる。
 
しかし、土地の私的所有そのもののおかげで農耕のもっと高度な発展段階がもたらされると、そこでは、逆に私的所有が生産にとっての一つの桎梏となる──こんにち小土地所有についても大土地所有についてもそうなっているように。
 
<土地の私的所有を同様に否定してふたたび共同所有に変えよ>という要求が、必然的に現われてくる。
 
しかし、この要求の意味は、<昔の原始的な共同所有を再建せよ>ということではなくて、<或るずっと高度ないっそう発展した共同所有の形態をつくりだせ>ということであって、この形態は、生産にとって制限となるどころか、むしろはじめて生産を桎梏から解き放って、現代の化学上の諸発見と機械的諸発明とを生産に十分に利用できるようにするのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p189-197)
 
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◎マルクスは資本論Ap301で……
「ベンサム! というのは、両当事者のどちらにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。
 
彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。
 
そして、このようにだれもが自分自身のことだけを考えて、だれもが他人のことは考えないからこそ、すべての人が、事物の予定調和に従って、またはまったく抜け目のない摂理のおかげで、彼らの相互の利得、共同の利益全休の利益という事業をなしとげるだけである。」と。
 
未来に対する楽観性の否定の否定≠フ理解からくるのでは……。