学習通信040315
◎コトバ……「演説家として身振り、表情、言葉の三つのすべてが驚くほど調和して」
 
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「伸一会」とユーゲント
 
 「共産党にあんな組織がありますか」と、創価学会元幹部が言いました。電話盗聴犯にして「ヤフーBB」事件の竹岡誠治容疑者が所属する学会内組織「伸一会」について聞いたときのことです。
 
 ○…「伸一会」の由来は小説『人間革命』の主人公山本伸一で、山本は池田大作名誉会長のことだから、実は「大作会」。指導者の名を冠した組織内グループをつくり、指導的役割を与える。近代的、民主的組織にはなじまない発想です。
 
 ○…池田氏はその「伸一会」に「将の将」の語を贈りました。つまり指導者のなかの指導者。奇妙なのは竹岡容疑者の立場です。メンバーの大半が副理事長、副会長、県長など公的な部署の幹部であるのにたいし、同容疑者は宮本顕治宅電話盗聴が発覚して以降、表の役には就いていません。「将の将」たる同容疑者は、学会内部でどんな任務を負ってきたのでしょうか。
 
 ○…電話盗聴につづき捜査中のNTTドコモ通話記録盗み出しと今回のヤフーBB。巨大集団の周辺につきまとう疑惑です。捜査すればするほど醜悪な実態が見えてくるのがこの種の事件。「政権」を握る集団がらみの事件に、捜査当局はどこまで迫れるのか。
 
 ○…それにしても、と思います。指導者の名を冠した組織内エリート集団。そんな前例はあるのだろうか。実はあります。例えば「ヒトラーユーゲント」。ナチス親衛隊として、国民監視と支配の一翼を担いました。それとこれとがまったく同じだとまでは言いませんが…。(虎)
(しんぶん赤旗 040313)
 
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「オレオレと凶悪の大変異
 
 家族の偏愛につけいるすきを与えたのは携帯電話という現代ツールか、コミュニケーション不足か。オレオレ詐欺は様々に形を変え、今年も猛威をふるっている。
 
 ピアノの教師をしている横浜市の女性(47)。自宅に電話があつたのは1月26日の月曜日、サラリーマンの夫が出勤して間もなくだつた。電話口の男は、夫の名前と勤める会社名を挙げ、「00警察署の道路交通課のイトウヨシオ(仮名)です」と、きっちりフルネームまで名乗つた上で、切り出した。
 
「ご主人が事故に遭われました。横からぶっかって相手の奥さんが重傷です。今、警察病院に運んだところです」
 
「後遺症」「業務上過失傷窒巳「勾留」……。次々と耳に入ってくる言葉に、女性は呆然となった。
 
名簿流出の不気味さも
 
 そのうち、夫らしい男が電話口に出た。だが泣いていて声を発しない。再び「イトウ」という警察官を名乗る男に代わり、「先方は示談をのぞんでいる」ことなどを伝えると、「被害者から電話させます」と言つて電話を切った。その直後、「被害者のスズキ」と名乗る男から電話があった。
「妻は今、病院で検査をしている。警察のイトウさんの言う通りにしてください」
「すみません」「できる限りのことはいたします」
 動揺している女性は、電話口でひたすら謝ると、イトウから教えられていた携帯電話にかけ直した。
 
イトウは、
「示談金は200万円。奥さんすぐ銀行行きますよね? 着いたら電話を下さい。口座番号を教えるから」
 と言い、こうも付け加えた。
 
「示談だから、もれてしまうと心証が悪くなる。守秘義務があるんだからあちこちに電話をしないように。ご主人は取り調べ中だから電話しないように」
 
 家にそんな大金はない。冷静さを取り戻したのは、お金を借りるために夫の弟に電話してからだ。彼は「夫に電話してみなさい」と落ち着いてアドバイス。夫の携帯に電話し、やっと騙されていたことがわかった。
 
 後で判明したことだが、夫の会社では同じ時期、全く同じ手口で他にも何人かが同様の電話を受けて、そのうち一人は200万円を騙し取られていた。
 
 女性は振り返る。
「とにかく呆然として言われるままになってしまった。オレオレ詐欺は、おじいさんやおばあさんを騙すというイメージしかなかつた。
 
それにしても不気味」
 
 会社関係の名簿でも漏れていたのだろうか。
 名古屋市郊外に住む主婦(55)は昨年12月1日の午前9時前、電話を受けた。朝の家事を終えて一息ついたときだった。
 
「お母さん、やってしまった」
《息子? 事故? え?》
 頭の中が大混乱していると、「ゴトウです」と名乗る男が電話口に出た。
 ゴトウは続けた。
「(愛知県)安城市内で私の車に衝突した」「借りた車だから返さないといけない」
 30代とおぼしき落ち着いた声。20分近く話をしたが、内容は理路整然としていて、修理費312万円を要求された。
 
「息子役」は泣くだけ
 
 再び息子らしき声が聞こえたが泣いていて、よく聞き取れない。
 続いて電話口に登場したのは、安城警察署交通課のスズキ。
「今、事故の現場検証中です」
 
 すっかり信じ込み、預金通帳を持って玄関まで来たところで立ち止まつた。27歳の営業マンの息子は兵庫県姫路市にいる。改めてゴトウに電話をし、息子と名乗る男に代わってもらつた。男は、
「先輩に代わって営業で御殿場まで来て、戻る途中だった」
 主婦が、
「オレォレ詐欺じやないかと思ったの」
 と言うと、男は、
「何を言つているんだよ、こんなことになっているのに」
 と再び泣き出した。
 
 半ば信じ、でも半ば不安で、安城署に2回、電話をした。回答は──。「当署管内で今、そんな事故は起きていません」「交通課にスズキという警察官はいません」
 
 夫と2人暮らし。社会人になった息子がふだん電話をしてくるのは月1回程度だという。
 警察庁によると、「オレオレ詐欺」は類似の脅迫系を含め、正式に届け出があったものだけで昨年1年間に全国で約6600件、うち4366件で実際に被害があった。被害総額は44億円。被害者の7割が女性で、半数以上が高齢者。「交通事故の示談金」「サラ金への借金返済」「妊娠の中絶費用」の三つが多い。
(「アエラ」NO.7 p22-24)
 
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私は演説ができたのだ
 
 この書簡が明示しているように、彼はドイツ労働者党の委員会に加入した後、一意専心に、かつ目的意識的に行動する活動家になったことは間違いない。怠惰、人付き合いを避けること、芸術家としての才能──一度も認められはしなかった──を鼻にかける態度、こういったかつての勝手気ままな生き方は、蛇の抜け殻のように棄て去られた。
 
 この宣伝担当者は党の愚鈍な幹部たちが息を呑むほどのやる気を発揮した。とりわけ、彼は夕暮れ時にくだらぬ討論に耽る自己満足的なサークルを世間に引きずり出し、闘争可能な政治的手段に鍛え直した。その最初の成果は一九一九〜二〇年の冬に現れた。
 
 彼は「当時、私が一番悩んだ、党のまったくの無名さ」を終わらせ、徐々にミュンヘン市民の関心を党に向けさせることに成功したのである。その一例として、一一一人の聴衆を集めた、ホーフブロイハウスケラーでの集会のことが語られている。
 
私は三〇分話をした。そして、私が以前から、よくは分からないが、ただ内心で感じていただけのことが、いまや現実によって証明された。私は演説ができたのだ。三〇分後、小さな部屋に集まった人々は深く感動させられたのである。
 
 この集会でヒトラーは自分の演説家としての才能を発見したと述べているが、それは後からうまく整合したレトリックであって、彼の何度も用いた常套手段にすぎない。
 
 ランツベルクでの服役中に『わが闘争』を口述筆記させた際に、彼は軍隊での国家主義的啓蒙活動の体験を述べた、ずっと前の箇所でほぼ同じことを語っていたのに、それを忘れてしまっている。
 
 つまり、レヒフェルトの帰還兵収容所で「教育係将校」〔これはヒトラーの自称であって、事実と異なる〕として働いていたときに、彼は演説できることに早くも気づいていた。彼の新たな発見は、もはや軍隊の保護のもとではなく、何の束縛も受けずに多様な見解を述べられる、勝つか負けるかの世界で、使命感に燃えて国家主義的信念のために宣伝活動できることだけであった。
 
 その意味では、厳しい条件のもとで自分の演説家としての才能を再発見したことは成功を予感させる感動的な体験であり、状況を打開する突破口となった。それ以後、彼は何かに駆り立てられるように、人々を「獲得する」ための手段をためした。
 
 大衆集会で瀑布(ばくふ)的論陣を張り、汗を流し、我を忘れる熱中を示したのである。疲れ果て、数ポンドも体重を減らして演壇を去る彼に送られる万雷の柏手は、麻薬のような幸福感を与えたに違いなく、何度でもそれに浸りたいと熱望したことであろう。演説できないことは、死んだも同然であった。ヒトラーは権力掌握前の「闘争時代」に何度も大衆の前に登場し、数百万人の支持者を獲得するために演説し続けたのである。
 
身振り、表情、言葉の驚くほどの調和
 
 ところで、ヒトラー時代の後に生まれた今日の若者たちが彼の話を聞いても、その煽動的なしわがれ声に対する反応は、面白がるか、反発するかのいずれかに分かれる。
 
 この男が一つの時代に感銘を与えたことは実感できないのである。
 まず第一に、この男の絶大な言葉のすべては煙と炎のなかに消え去ってしまったために、今日のわれわれは彼に対してずっと醒めた態度が取れるからである。
 
言葉に影響を受けやすかっただけでなく、国家的、経済的苦境に見舞われていた数十年間のなかで突出した激情の痕跡は、今では跡形もない。今日の安定した生活のなかで熱狂的な煽動などは、ちょうどバルコニーの花を消防ホースで栽培するみたいなもので、現実には考えられない。煽動政治家が成功するためには、非常事態、拠り所の喪失、困窮、幻滅などの前提条件を必要とするからである。
 
 さらに、第二に言えることは、ヒトラーの示唆は耳で聴いてもよくは分からないが、かつてそれを聴いた人にとっては特別の意味があったのであり、彼らの多くは今日でもそのように証言している、ということである。彼は大衆との感情の交流のなかで全力を傾注して絶大な力を放出したのであり、彼らはそれに魅了されてしまった。
 
 歴史の教訓によれば、古代ローマの偉大な護民官たちもこれと同様の、合理的に説明できない現象を利用して成功を勝ち得たのであり、それは昔から有効な手段であったといえよう。
 
 史上もっとも才能豊かで危険な演説家の一人と断言できるヨーゼフ・ゲッベルスは、ヒトラーに魅了されるやいなや、「自分と同類の」彼の比類ない強力な武器を認め、次のように述べた。
 
 演説家として身振り、表情、言葉の三つのすべてが驚くほど調和している。生まれながらの魅力的人物だ。この人となら、世界を征服できよう。釈放されたならば、彼は腐敗した共和国を大いに動揺させるだろう。
 
 ヒトラーは自分のカリスマ性を確信していただけでなく、演説家に不可欠な手段を入念に研究した。一時期、彼はオペラ歌手から発声の講義を受けた。
 
 鏡の前で、効果的な手の位置や表情の動きを練習した。彼は演説家としての外見を磨き上げ、できるだけ多くの人を自分の虜にしようとした。さらに、喜怒哀楽の表現方法にも工夫を凝らした。
 
「戦時宣伝」と言葉の魔力
 
 それだけで満足せず、彼は大衆の意思を操作する原理を適用しようとした。彼は早くもシューネラーとルエーガーから大衆の人気を獲得する術を学んでいただけでなく、当時すでにフランス人〔社会心理学者〕ル・ボンの『大衆心理』をも読んでいたと推察できる。この本のドイツ語訳初版は一九〇八年に出され、その後何度も再版されていた。
 
 さらに、ヒトラーは第一次世界大戦でのイギリスの「残虐宣伝」〔自国の兵士に敵を野蛮人と思い込ませ、敵愾心を煽る巧妙な戦時宣伝の方法〕を高く評価していた。この戦時宣伝に関して、一九三八年にハロルド・ニコルソンはイギリス下院で、「われわれはひどい嘘を流し続けた」、と証言した。ヒトラーは、このイギリスの戦時宣伝から、「計り知れないほど多くのものを学んだ」のである。
 
 この発言がみられる『わが闘争』の「戦時宣伝」という章で、ヒトラーは余儀なくされた禁固刑で演説が中断されていた時に、夜ごと学んだ成果を次の原則に要約している。
 
 いかなる宣伝も大衆に好まれるものでなければならず、その知的水準は宣伝の対象相手となる大衆のうちの最低レベルの人々が理解できるように調整されねばならない。それだけでなく、獲得すべき大衆の数が多くなるにつれ、宣伝の純粋の知的程度はますます低く抑えねばならない。
 
……大衆の受容能力はきわめて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、すべての効果的な宣伝は要点をできるだけしぼり、それをスローガンのように継続的に用いて、それによって最後の一人までもが目的としたものを明確に思い浮かべられるようにしなければならない。この原則を犠牲にして、いろんなことを取り入れようとすれば、宣伝の効果は瞬時に消え失せる。というのは、大衆は提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。
 
……大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮ではなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎か、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しくて半分は違うなどということは決してありえないのである。
 
 『わが闘争』でのヒトラーの煽動方法の公表は大衆にとって不愉快だったが、彼らの多くはそれにすっかり参ってしまった。この演説家が獲得すべき大衆を軽蔑していたのは間違いない。
 だが、彼にはそれを公表しても損にはならないとの完全な自信があった。その理由は、次のような歴史の教訓を確信していたからである。
 
この世界におけるもっとも偉大な変革は、決して鵞鳥(がちょう)の羽ペンで導かれはしなかった。……宗教的、政治的たぐいの偉大な歴史的雪崩を引き起こした……力は、大昔から語られる言葉の魔力だけであった。
(ハラルト・シュタラファン 滝田毅訳「ヒトラーという男」講談社選書メチエ p108-115)
 
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コトバについて
 
青い山はミドリ
 
 先日、山口県にいって、帰りに寝台車に乗った。眠り薬にと、駅の売店で買った酒の名は、なんと「山頭火」とあった。
 なるほど山口県は、酒を愛した放浪の俳人山頭火にゆかりの地だったな、と思いながら口にふくむと、辛口の味がたいへんによかった。
 
 ほろはろ酔うて木の葉ふる
 しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
 分け入っても分け入っても青い山
 
 山頭火の句をいくつか、頭のなかにうかべてきて、ふと「待てよ」と思う。「青い山」とあるが、この「青」とはじつはミドリのことではないか。
 
 そういえば、交通標識の「青信号」、あれもたしか、じつは「ミドリ信号」のはず。ほかに似た例はないか、と考えてみると、ある、ある。ぞろぞろと思いうかんでくる。
 
 「青菜に塩」「青田刈り」「青物市場」「青汁」などの「青」。これほみな、ミドリのことだろう。「青大将」の青だって、「青ジソ」の青だって、みなミドリ。「見ずや夕ぐれ、手をのべて、われさしまねく青柳を」という、隅田川の柳の青もやはりミドリであるはずだ……と考えているうちに眠ってしまった。
 
ことばと感覚
 
 ミドリをアオということにこだわったのは、ある心理学関係の本(千葉康則『脳と現代』法政大学出版局)で、つぎのような話を読んだことがあるからだった。
 
 すなわち「ミドリ≠ニいう言葉を知らぬ人はミドリをアオ≠ニして認識し、実際のミドリとアオの区別も十分できない。もちろん、無理に見わけさせれば、二つの色がちがうことは認めるが、どうちがうかはわからない。したがって、その色を目の前にしていないと、両者は混同されてしまう」という話。これは、コトバと感覚との関係についてたいへん大事なことを暗示していると思う。
 
 私たちはミドリのことをもしばしばアオという。つまり菜っぱの色をも澄んだ秋空の色をも、ともに「アオ」と記された分類箱のなかに投げこむわけだ。
 
 しかし同時に私たちは、そのなかに投げこまれたものを、アオとしか呼べないアオと、ミドリとも呼ばれるアオとに区別することをも知っている。つまり「アオ」の大箱のなかにはさらに小箱が二つあり、一万には「アオ」他方には「ミドリ」と記されていて、空の色や海の色は前者に、若葉や菜っぱなどの色は後者にと入れわける。
 
 こうした小箱のもちあわせがあればこそ、私たちは両者のちがいをハッキリと感じわけることもできるのだ。
 
 もちろん、そのミドリならミドリと記された小箱のなかにも、さらに小さな箱がいろいろとありうる。たとえば、草色・若草色(=黄緑)、柳葉色(=にぶい黄緑)、苔色(=暗い黄緑)、萌葱色(モエギイロ=緑みの黄緑)、松葉色(=にぶい緑)、若竹色(=わずかに青みのうすい緑)、青竹色(=青緑)、鉄色(=暗い青緑)、等々。
 
 こうした「小箱」の用意が豊富であればあるだけ、それだけその人の感覚のはたらきはゆたかさ、鋭さ、深さをます。じっさい、「なにやらアオッポイ色の鎧」というのと「萌葱縅(もえぎおどし)の鎧」というのとでは、なんというひらきがあることか!
 
 注意すべきこと、一つ。それは、これらの「小箱」、すなわち感覚を整理してとらえる枠ぐみとしてのコトバは、たんに個人的な体験の産物ではなく、民族の体験のなかから歴史的に結晶してきたものだということ。だから、ライト・グリーンとアサギイロとは同一ではありえず、ライト・ブルーとアサギイロとは同一ではない。グリーンとミドリとも同じではありえない。
 
 武井邦彦氏の『色彩の再発見』(時事通信社)によると、国鉄車両の等級をはじめ、企業広告のキャッチ・フレーズなどに「グリーン」という語がはんらんするようになった時期は、私たちの生活環境から自然のミドリが急速に消えていった時期と「見事に一致している」という!
 
 風の声、波の音
 
 イヌはワンワンとなき、ニワトリはコケコッコーとなく。そう私たちの耳にはきこえる。
 
 しかし、イギリス人・アメリカ人の耳には、イヌのなき声はバウワウ、ニワトリの声はコッカドゥドゥルドゥーときこえるらしい。
 
 日本のイヌやニワトリと、イギリスやアメリカのイヌやニワトリとで、なき声がちがうわけではない。ただ、イヌの声をほうりこむ整理箱のレッテルに、わが国では「ワンワン」、イギリスやアメリカでは「バウワウ」と記してあるというだけのちがいだ。
 
 だが、虫の声や波の音、風の音などについては、私たち日本人の場合、特別に微妙な「整理の小箱」が、古くから多様な発達をとげており、また、日々にあらたに創造可能である。
 
 マツムシはチンチロリンとなき、スズムシはリーンリーンとなく。春の小川はサラサラ流れ、春の海はひねもすのたりのたりかな。
 
 月さす背戸(せど)のすすき原は、わたる野分にサラサラと。ささの葉は万葉の昔より、み山もさやにさやいできたし、そして──小草までともにぞよめく月見かな。
 
 というぐあいなのが伝統的な日本的感性であるけれども、たとえば宮沢賢治の童話をくぐることによって私たちは、さらにあらたな感覚が自然にみちみちているさまざまな音声にむかってひらかれる体験をもつだろう。
 
  火はどろどろぱちぱち
  火はどろどろぱちぱち
  栗はころころぱちぱち
  粟はころころぱちぱち
 
 こんなのが宮沢賢治によってひらかれる世界だ。
 
 あるいは、草野心平の詩(「夜の海」)をくぐることによって、私たちは九十九里浜のなぎさによせてはかえし、かえしてはよせ、徹夜してとどろく波の音を、つぎのようにききわける耳を与えられるだろう。
 
  づづづづ づわーる
  づづづん づわーる
  ぐんうん うわーる
 
九十九里の夜の浜辺で、ある夏、たしかに私は波の音をそのようにきいた!
 
モノスゴークなる話
 
 「たっぷり」「ほんのり」「きっちり」──これが好きなコトバだと、いつだったか詩人の土井大助さんが『学習の友』誌に書いていた。
 
 ほんのりわかるその感じを、もっときっちり知ろうと辞書にむかった。「ほんのり」は古語ではたしか「ほのか」だったな、と『岩波古語辞典』で「ほのか」をひくと、「光・色・音・様子などが、うっすらとわずかに現われるさま。その背後に、大きな、厚い、濃い、確かなものの存在が感じられる場合にいう」とあった。
 
 「ほんのり」の背後には「たっぷり」したものがあるのだ。コトバのにおいとは、その背後にあるたっぷりとした民族の歴史的体験がにじみでたものだろう。「たっぷり」「ほんのり」「きっちり」には、まさしくそのようなにおいがある。
 
 きっちりした感覚はコトバをつうじてだけ生じる。それは、コトバの背後にあるたっぷりしたものによって、私たちの感性がすきまなくみたされるためだろう。「すきまなくつまっているさま」とは「きっちり」というコトバについての『広辞苑』の説明。
 
 だから──コトバを大切にしよう。なにかというと「モノスゴーイ」を連発する人がいる。たいしたことでなくとも「モノスゴーイ」とくる。それがその人のもっている唯一の感覚の整理箱らしい。こんな調子でいると、ほんとうにその人の感覚自体がモノスゴークなってしまいそうな気がする。
 そんなふうにならないために ──そのためにコトバを大切に!
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p133-139)
 
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◎「すげェ〜」「すげェ〜」を連発する若者を見かけます。どう凄いの? と。
 
「「小箱」の用意が豊富であればあるだけ、それだけその人の感覚のはたらきはゆたかさ、鋭さ、深さをます。」と。
 
「ヒトラーの活躍」する事態をゆるしてはなりません。