学習通信040316
◎「人間、この素晴らしき生きものは、美しく、また、おぞましい」……と。
 
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はじめに
 
「誰よりも理想に燃え上った君は 誰よりも現実を知ってゐた君だ。君は僕等の東洋が生んだ草花の匂のする電気機関車だ」(芥川龍之介)。これはロシア革命の指導者レーニンを歌った詩の一節である。
 
 天(あめ)が下に新しきものなし。古今東西を問わず、この世に生を享(う)けた人間は、誰でも前途に光明を求め、内なる理想の実現を期し、希望を抱いて生きる。しかし、人間社会は修羅の巷だ。この世に天国などはない。
 
人間、この素晴らしき生きものは、美しく、また、おぞましい。互いに、わが内奥を恐れず覗き込めば、深淵は暗く、深い。誰が石もて他人の額を打ち割れるか。穢溜(わいだめ)にひしめく人間の集まりが現実だ。この現実をまじろぎもせず直視し、理解することなしに、理想の実現を夢に見、口走るのは、乙女の祈りに過ぎない。可憐な砂上の幻覚である。
 
 芥川は、この世に立ち向かう自身のダイナモの衰弱を自覚した時、ロシアの大地を驀進(ばくしん)するレーニンのすさまじいリアリズムに満身の嫉妬を感じたに違いない。彼は、その思いを切なく歌ったのである。
 昭和六十三年十月 晩霜の夜      早坂茂三
(早坂茂三著「駕籠に乗る人担ぐ人」祥伝社 p3)
 
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僕の瑞威(スヰツソル)から
 
信條
 
婆婆苦を最小にしたいものは
アナアキストの爆弾を投げろ。
 
婆婆苦を婆婆苦だけにしたいものは
コミュニストの棍棒をふりまはせ。
 
婆婆苦をすっかり失ひたいものは
ピストルで頭を撃ち抜いてしまへ。
 
レニン 第一
 
君は僕等東洋人の一人だ。
君は僕等日本人の一人だ。
君は源の頼朝の息子だ。
君は──君は僕の中にもゐるのだ。
 
レニン 第二
 
君は恐らくは知らずにゐるだらう、
君がミイラになったことを?
しかし君は知ってゐるだろう、
誰も超人は君のやうにミイラにならなけれ
 ばならぬことを?
 
(僕等の仲間の天才さヘエヂプトの王の屍骸のやうに美しいミイラに変わってゐる。)
 
君は恐らくあきらめたであらう、兎に角あらゆるミイラの中でも正直なミイラになったことを?
 註 レニンの死体はミイラとなれり。
 
レニン 第三
 
誰よりも十戒を守った君は
誰よりも十戒を破った君だ。
 
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
 
誰よりも理想に燃え上った君は
誰よりも現実を知ってゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。
(芥川龍之介集・日本現代文学全集(24) p468-469)あとがき
 
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 人は誰しも理想と現実の狭間を往きつ、戻りつして、生きている。理想を神、現実をサルと言い換えてもよい。人は神にもなれるし、サルにもなる。サル以下にもなれる。
 
 生身の人間を精神と肉体に分離することはできない。本当の人間は、精神と肉体が渾然と融合した合体物であり、大小の矛盾の塊である。こうした人間が建前と本音を使い分け、ソロバンと嫉妬を発電機にし、火花を散らして、ぶつかり合っているのが、世の中である。
 
 この世は壮大な人間喜劇の舞台だ。バルザックの描いた喜怒哀楽が織り出すフランスの人間社会と、二十一世紀を目前にした日本のムラ社会も、ひと皮むけば同じである。
 
お互いは、それぞれが自分の人生の演出家であり、シナリオライター、主役を演じ、精一杯に振る舞っている。人は栄光と挫折、自足と平安の谷間で、知恵と人柄、エネルギーを総動員して生き続けるしかない。人間は草花に似て、春の栄えを競い合っている。今も昔も変わらない。
 
 この人間社会の実態を正面から受けて立ち、在るべき生き方を求め、汚濁の真っ只中を駆け抜ける時の万象を解釈し、一つの生きた行動学へ導くものこそが「人間学」である。「人間学」は雑菌のない、蒸留水のような「哲学」や「人生論」の世界ではない。
 
「泣く子と地頭には勝てぬ」とか、「長いモノには巻かれろ」式の安直な処世術とも無縁である。私たちは過去、厳密な意味で「人間学」に出合ったことがあるだろうか。『ナポレオン言行録』、『孫子』は、さしずめ、その典型かも知れない。わが国で挙げれば『葉隠(はがくれ)』か。
 
「人間学」とは、人生の最深部、何よりも厳粛な領域に属している。現代をもっとも激しく、ドラマチックに生きている人間群は政治家だ。政治家は宗教家、教育者ではなく、孤高は許されない。
 
毀誉褒貶(きようほうへん)の十字路で逃げ道を断たれ、修羅の業火をくぐり抜けなければならない。その政治家の生きざまにスポットライトを当て、彼らの行動の軌跡を判読し、解釈したのが本書である。よくも悪くも、政治家の世界は、この世で毒、緊迫感に満ちたドラマの連続だ。
 
それは現代に生きる私たち自身の生きざまを象徴化した世界とも言える。政治を軽蔑し、無視しても、得るものは互いに何もない。政治家の「人間学」の中にこそ、私たちが生きていくための宝が隠されている。生きにくい世に羅針盤を求める多くの方に本書を贈りたい。
──略──
 昭和六十三年 秋日和の日   早坂茂三
(早坂茂三著「駕籠に乗る人担ぐ人」祥伝社 p223-224)
 
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人間の問題を真にとらえるみち
 
 フォイエルバッハがふみださなかったあゆみ、それをふみすすめたのがマルクスとエンゲルスでした。人間をそのあたえられた歴史的現実のなかで行動しているありのままの姿でとらえること、抽象的人間の礼拝のかわりに、現実の人間とその歴史的発展についての科学をうちたてること、マルクス主義はこのようにして成立したのです。
 
 「マルクス主義には人間不在だ」という、古くからある、しかもつねに新しくくりかえされる攻撃がどんなにでたらめなものであることか。マルクス主義はその形成のそもそものはじめから、人間の問題を真正面からみすえ、その真の解決としてきずきあげられたものなのです。
 
 「マルクス主義には人間不在」といういいかたには、人間というものをなにかわりきれないもの、わりきってはならぬもの、解明不可能なあるものとする考えかたが背後にあります。しかし、人間とは不可解なものだと理解することが人間理解の条件だとは、どういうことでしょう。これは論理的にいって背理であり、内容からしうならば、理性ではとらえられぬもの、つまり神秘こそとうといもの、ありがたいものとするあの原始的蒙昧ののこりかすといわねばなりません。
 
それだけではありません。「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさになみだこぼるる」というこうした原始的蒙昧ののこりかすは、そこでじっさいになにごとがおこっているのか、その真相を神秘のとばりのもとにおおいかくして、そこでおこっているできごと──人間が人間をくっているという現実のできごと──がやすんじてつづけられることを保障するという客観的なやくわりをになうものです。どうしてこれが人間をたいせつにすることでありうるでしょうか。
 
 人間、人間とやたらにいいたてることが真に人間を問題にし、真剣に人間の問題をとりあつかうゆえんではありません。これはフォイエルバッハのばあいに即してわたしたちが具体的に確認してきたところですし、また、口をひらけば「人間尊重」という政府自民党や独占資本がじっさいにはなにをやっているかということに即して、わたしたちが日々におもいしらされているところです。
 
 いやしかし、という人があるかもしれません。「人生はなんのためにあるのか」「人はなんのために生きるのか」といった問題にマルクス主義はこたえることができないではないか、と。
 
 これについては、ふたつのことをいわねばなりません。まず、こうした問題のだしかたはいかにも深刻そうにみえますけれども、そのじつ、きわめて浅薄な、むしろ無意味なものであり、それ自身、あの原始的蒙昧の尾をひくものであるということです。
 
「大地はなんのために存在するか」「動物はなんのために存在するか」というふうに問題を拡大してごらんなさい。大地は人間をすまわせるために、動物は革をひっばつたり食料となったりして人間に奉仕するために存在するのだ、とかつてキリスト教神学は説いたものです。こうした考えかたを「目的論」といいます。
 
では、人間はなんのために存在するのか──神の栄光をあらわすためにだ、とこういうのです。石ころはなんのために存在するのか、うさぎはなんのために存在するのか──こうした問題のたてかたになにか具体的な意味がありうるでしょうか。問題のたてかたに問題があるのです。つまり、なんらかの神秘、なんらかの宗教的な観念をかつぎだしてこなければこたえがでてこないように、そもそも問題がしくまれているのやす。
 
 では、人生にはなんの目的もないというのだね、それがマルクス主義のこたえなのだね、という人があるかもしれません。しかし、はやがてんしないでください。そういういいかた自身がいま指摘したような抽象的な問題のたてかたのわくのなかにはまりこんでいるのですから。
 
 では、どのように問題をたてたらよいのか。マルクス主義はどのように問題をたて、どのようにこたえるのか。これがいわねばならぬ第二のことです。
 
 現実の人間に目をむければ、ただちにつぎのようなことが、事実としてうかびあがってくるでしょう。
 
 すなわち、人間はつねに「人生とはなにか、なんのためにあるのか」といった問題を提出するわけではないということ、ある特定の時期、特定の条件のもとでのみ、こうしたことを問題にするのだということです。
 
真に充実した人生をおくっているとき、具体的な目的──それが恋愛であれなんであれ──をもって生きているとき、人は「人生の意義」について抽象的なかたちで疑問を提出することをしはしないのです。そもそもそんな必要を感じないのですから。
 
しかし、具体的な目的を喪失したとき、生活に具体的なハリをうばわれたとき、人は「人生というもの」の意義について疑問をだし、疑惑を表明するのではないでしょうか。すなわち、こうした抽象的な問題のたてかたは、それ自身が具体的な目的をうしなった──あるいはみうしなわされた──人生という現実の反映にほかならないのであり、それゆえにこそ解決不能でもあるのです。
 
 とすれば、なによりもまず問われねばならないのは、こうした問題を提起させるもとになっている現実の諸条件そのものではないでしょうか。そして、そのような現実の諸条件をなくすみちを究明することではないでしょうか。
 
そのみちをすすんで、こうした問題をうむような現実の諸条件を具体的に変革しおえたとき、あのような問題は問題のたてかたぐるみきえてなくなるでしょう。これが真の解決です。こうした真の解決をめぎすこと、そこにわたしたちはわたしたちの人生の具体的な目標を確固としてもつことができるのではないでしょうか。
 
 こんにち「生きがい」の問題が人びとのあいだで、とくに青年のあいだで、おおきな問題になっています。それは生きがいがうばわれているという現実の反映です。人生の花さく時期にあるはずの青年から生きがいをうばってきた、またげんにうばいつつある現実の力、諸条件、それはなにか。わたしたちはそこに目をむけ、具体的にそれをあきらかにしなければなりません。
 
そのことによって、同時に、わたしたちはそうした現実をくつがえす力、諸条件がどこにどのようにそだちつつあるのかをも、具体的につかみとることができるでしょう。じつは、こうしたことからわたしたちの目をくらますためにこそ、わたしたちから生きがいをうばっている張本人のがわからの、すなわち資本のがわからの「生きがい」論が「人生の意義」とか「人生の目的」とかを抽象的に論じたてながら、いまさかんにふりまかれているのであり、そこにこうした抽象的な「生きがい」論の具体的な本質があるのです。
 
しかし、わたしたちがこうした「生きがい」論のおおいかくそうとしているものについてのしっかりとした認識のうえにたって、たくましくそだちつつある新しい現実の力の一部分として自分たちの人生を自覚的に位置づけるならば、歴史のすすみゆく方向はとりもなおさずわたしたちの人生の目的そのものとなり、わたしたちが歴史のなかに生きるとともに、歴史がわたしたちのなかに生き、わたしたちの人生ははかりしれず充実したものとなるでしょう。
 
人生への疑惑が頭をもたげる余地がどこにあるでしょうか。それがわたしたちの生きがいです。
 
 マルクス、エンゲルスがきりひらいたみち、すなわち現実の人間とその歴史的発展についての科学はわたしたちのためにこうした視野をきりひらくものでした。そこに、そのたぐいない力があるのです。
(高田求著「マルクス主義哲学入門」新日本出版社 p182-187)
 
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マルクス「人間は自分で自分の歴史をつくる」
 
 私の好きなマルクスの言葉に、「人間は自分で自分の歴史をつくる」という言葉があります。一人ひとりの人間の力は大きいものではありません。毎日苦労して生活し、苦労して活動しても、なかなか世の中というものは、思うように動くものではありません。
 
その活動のただなかにいると、「歴史を人間がつくる」と言つても、その実感はなかなかわかないかもしれません。しかし、その活動の積み重ねを、一つの長い視野でしめくくってみると、人間の働きによって歴史が確実に前進していることが分かるものです。
 
 二〇世紀をふりかえってみてください。綱領にも書かれているように、この世紀には、二つの世界大戦があり、軍国主義とファシズムの支配があり、広島と長崎があり、ベトナム侵略の戦争やアフガニスタン侵略の戦争があり、その惨禍は文字通り全世界に及びました。
 
その間の一日一日をとれば、それこそ人間にとって苦闘の連続だったと言える、と思います。しかし、二一世紀を迎えて、過ぎ去った百年をふりかえってみると、民主主義の面でも、民族独立の面でも、人間社会がすばらしい進歩をとげてきたことがあらためて分かります。人間は、自分たちの力で、二〇世紀に、こういう歴史をつくってきたのです。
 
 二一世紀は、「自分で自分の歴史をつくる」人間の力が、二〇世紀よりももっと積極的に、もっと大規模に発揮されなければならないし、その条件のある時代だと思います。
 
 若い世代のみなさんが、新しい綱領がしめす未来社会への展望も力にしながら、科学的社会主義の理論をしつかりと身につけ、当面の課題に一つひとつしっかり取り組み、一人ひとりの生きがいを「歴史をつくる」仕事に結びつけて、この時代を生き抜くことを願って、話を結びたいと思います。
──略──
(不破哲三「新しい世紀と新しい綱領」前衛 〇四年四月号 p50)
 
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「日本共産党綱領改定の討論についての不破議長の結語」
 
 私たちは、いまむかえた二一世紀という新しい世紀が、二〇世紀のこの巨大な変化をふまえた、人類社会がさらに新たな躍進にむかう世紀となることを、確信しています。(拍手)
 
 私たちは、空想的社会主義者ではありませんから、そのシナリオをここで描きだすことはいたしませんが、この世紀に人類社会が歩んでゆく方向が、人間の自由と解放の新しい時代への接近となることは、間違いないと思います。
 
 たしかに日々の現実では、私たちは多くの困難にぶつかります。しかし、その困難は、滅んでゆくものが自分の歴史の最後の時期に経験するような困難ではありません。
 
 共産主義者は、新しい時代を開こうとする開拓者の集団であります(拍手)。私たちがぶつかる困難とは、未来を開く開拓者が経験する困難であります。これは、いわば人類の「本史」を生み出す“産みの苦しみ”にほかなりません。(拍手)
 
 だからこそ、私たちの活動には、この会場で多くの発言者が語ったように、困難な日々のなかにも、多くの笑いとユーモアがあり、豊かなロマンがあるのではありませんか。(拍手)
 
 新しい綱領をふまえて、こういう日本と世界の未来を、大いに語ろうではありませんか。
 これを、もって討論の結語とするものであります。(拍手)
(「しんぶん赤旗」040117)
 
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◎君は21世紀の「草花の匂のする電気機関車」……と。
 
※早坂氏は23年間、田中角栄の政務秘書をやった人物です。