学習通信040319
◎暴力でなにごとをも解決しない。イラク戦争の泥沼化も……。

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文明のはじまりを農業がはじまったとき、とします。

 二十世紀は近代工業社会でした。近代工業社会とは何か。私たちは近代工業社会の中で生きてきましたから、これが特別の社会とは思っていません。「近代工業社会的な構造こそ人間の本質である」と考えがちです。

 特に経済学は近代工業社会だけを対象にして、人間はすべて近代工業社会に生きている者のごとく物を欲しがるものだ、経済的利益を追求するものだ、常に合理的に行動するものだ、という前提に立ちます。そして「合理的」という言葉の定義もあいまいなまま、近代工業社会人の好みを「合理的」と称してきたのです。

 ところが、人類の歴史を遡(さかのぼ)ってみると、人間はそう簡単なものではないことが分かります。まず、人類の歴史をどこからはじめるか。八百万年程前に人類がアフリカのどこかで生まれて全世界に散ったという説がありますが、そこには文明はありません。ここでは、文明のはじまりを農業のはじまったときと仮定しましょう。

 これには異論があるかもしれませんが、私は農業以前に文明らしい文明はなかった、と考えています。農業のはじまりに牧畜時代があったという通説は正しくない、と思うからです。

 人類が農業をはじめたのはおそらく一万年ぐらい前。従来メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川の周辺といわれていますが、最近は黄河流域や揚子江の中流あたりでもそれに劣らず古い農業文明があった、という発掘結果が出ています。

 ここでの文明史の場合、年数や地名を覚える必要は全くありません。いつどこではじまったかという話は全部忘れて結構です。とにかく人類の文明は大昔、農業がはじまったときにはじまった、と考えてください。あまり受験勉強のように数字や場所や固有名詞を覚えると歴史が面白くなくなります。「面白くなければ歴史でない」、面白くないことはできるだけ忘れてください。

はじまったばかりの農業は、
農耕というにはあまりにも素朴なものだった

 とにかく、農業がはじまった。大抵の人は、農業がはじまった途端に人類はたいへん豊かになった、それまでとガラリと変わって豊かになったように考えがちですが、決してそんなことはありません。はじまった当初の農業は、農耕というにはあまりにも素朴な、種を蒔いて収穫するだけのものであったろうと考えられます。土地を掘り返す、雑草を抜く、肥料を施すということが見出されるまでには数千年かかります。

 従って、種を蒔いて収穫できるという条件の土地でしか農業は行えません。自然の冠水があって蒔いた種が発芽し、収穫する時には水が引いている、という条件の場所だけです。つまり、可農地は河岸かオアシスの特定の場所に限られていたわけです。

 最初の農業は、非常に限られた土地でしか行われなかった。しかも種を蒔いて収穫するだけであったとすれば、この収穫量は非常に少なかったはずです。十三世紀頃のイギリスやフランスの文献でも、小麦は蒔いた種の三倍から五倍しか収穫していません。

 そういう状態では、農業がはじまったとしても、それほど豊かにはなりません。土地が限定されて収穫が少ないわけですから、物不足の状態でした。

 しかも収穫の多寡は天候に左右される。土地を掘り返すとか雑草を除くことがなかったわけです。だから、人間が働いても収穫が増えるわけではない。天候が良ければ収穫は増える。予定どおりに川の水が溢れてきて土地に潤いを与え、秋にそれが引けば根が腐る前に収穫ができる。そして野獣や周辺の狩猟民に奪われない、そんな条件が揃わなければ収穫は得られないわけです。

 すると人間の労働よりも、条件をつくってくれる神の意志「神意」が重要になります。従って、この時代の人々は物財よりも内面性に、空想的な神に祈ることを大切にしました。その結果、彼らの興味は目の前にある物財から目に見えない神の意志へ、空想的な存在へと移っていきます。このため、この時代につくられた像や祭器はすべて象徴的、もしくは抽象的な造形になっているのです。

農業開始以前を「始代」と呼んでいます

 これ以前、洞窟にひそんで動物を追いかけていた狩猟民が描いたアルタミラなどの洞窟画は、かなり精巧な写実です。けれども、農耕がはじまってからしばらくの間、精巧な写実は見られなくなります。つまり、物財を観察するよりもっと上位の意識、神の意志のようなものに関心がある。だから抽象的な文様、あるいは象徴的な偶像が流行します。

 中国の土器・青銅器、あるいはメソポタミアの彫刻「大地の神」の偶像などの精巧な技術を見ると、あれをつくった人々が洞窟画を描いた狩猟民よりも造形技術で劣っていたとは思えません。けれども、具象的な写実の点では、それ以前の洞窟画の方が徹底している。つまり、初期の農耕民はあえて具象的写実をしなかった、といえるわけです。

 私はこの時代を「始代」と呼んでいます。これまでの歴史学では「始代」という限定した概念はありませんでしたが、私は農業がはじまって土地改良ができるまでの間を「始代」と呼んでいるのです。

 この時代は土地が限られて収穫が少ないから、収穫した分だけ食べてしまう。従って、個人の私有財産というものは生まれません。私有財産がなければ経済的な階級も生まれません。これがエンゲルスのいう「原始共産制」の状態です。それでも国家権力は強大になります。政治的支配は必要だったのです。

国家権力の原点は、
三っの機能(防衛・徴税・治安と司法)です

 始代における国家権力は何のために必要であったか。第一に防衛のためです。限られた土地と収穫を守らなければいけない。それぞれの狭い可農地に定住した集落、「都市国家」の形態です。

 次に、防衛をするためには公平な負担が必要です。防衛・安全は典型的な公共財(パブリック・グッズ)です。公共財とは、誰かが負担してつくれば皆がその恩恵を受ける、というものです。

 経済学で公共財の例としてよくいうのはトウダイです。東京大学ではないですよ(笑)。海に向かって立っている光の灯台です。誰かが灯台を建てれば航行する船舶はみな安全になります。従って、船主は、誰かに灯台をつくらせて自分はタグで使いたいと思うに違いない。こういうものを公共財というのです。

 公共財の典型的なものは防衛・安全です。誰かがお金なり肉体なりを提供して防衛する。敵を防げれば、みな安全になる。あいつは税金を払っていないから、あいつだけ敵にやっっけさせてやろう、というような器用なことはできません。

 防衛は、何らかの方法で負担しなければいけない。けれども、誰もが自分は負担しないで安全でいたい、兵隊に行くのは嫌だけれども、軍事費を支払うのは嫌だけれども、安全でいたい、ちょうど現在の日本のような状態になりたいわけです。そこで、公正な徴兵と徴税が必要になるのです。国家権力の第二は「徴税」です。

 徴税しようとすると当然、税金を取られるのは嫌ですから抵抗が出る。従って、治安と司法が必要です。国家権力の第三は「治安と司法」。つまり警察権と公正を守るための裁判、司法が必要です。
──略──

都市国家の第4の役割は種子の確保でしょう

──略──
 始代の国家も、三つの機能があったでしょう。さらに、私はもうーつの機能があった、と考えています。これは最近世界的にも認められてきたのですが、種子の保存という役割です。

 先程も述べたように、収穫の三割もの穀物を種子として保存することは大きな努力が必要です。特に、食糧不足の時は難しい。こっそり食べてしまいたい、という欲求が働きます。

 江戸時代、享保の大飢饉のとき、麦一俵を枕にして食べずに飢え死にした作兵衛は「義農」として有名になりました。「種子がなかったら来年もわれわれは飢えるから」と麦一俵を残したんですね。その種麦のおかげで翌年みな助かった。作兵衛は地元では有名な人物です。十八世紀でもそうですから、太古の都市(村落)国家の時代に種子を保存することは強い強制権がなければならなかった、と思います。

 こうした権限を強化するために、「祭祀」と「血縁」の二つが強調されました。当時は都市国家というより、吉野ヶ里に見られるような村落国家ですが、その遺跡には必ずお祭りの場所と種子を保存する倉庫が村落の中心にあるという形態になっていました。

 そうであれば、限られた農業可能地に一つずつ国家ができるのも当然でしょう。つまり、階級がないこと、原始共産制であること、領域が限られた都市(村落)国家であること、そして神意と血縁をもとにした政治形態であること。これが「始代」の社会、都市(村落)国家の特徴でした。

農業革命を境に、時代は「古代」へ入ります

 農業のはじまりから数千年を経て、土地改良技術が生まれました。おそらく最古のところでは紀元前二千年紀の初めでしょう。それまで耕作できなかった土地に川から水を引き、洪水を防ぐ堤防をつくり、さらには傾斜地を平らにするなどの土地改良が行われた。

 ほぼ同じ頃に、土を掘り返して空気を入れ、雑草を除くと収穫が増えることも知られるようになりました。すなわち「農業革命」が起こったのです。

 これによって世の中は一変しました。といっても何百年もかけてのことですが。思想と文明が変わったのです。

 今まで役に立たないと思っていた土地を、人間の力によって役に立つように変えられる、耕地に変えることができる、と分かった。自然(神意)を人間が変えだしたのです。これによって人類の文明は全く変わったと考えていいでしょう。私は農業革命以前を「始代」、以後を「古代」と呼んでいます。

 では、何が起こったか。第一に、土地は広い方がいい。今は役に立たなくても、ひょっとしたら誰かが加工して役立てられるかもしれない。従って、隣りの土地も占領しておいた方がいい、と考えられるようになります。そのため都市(村落)国家の領域が広がりだした。領域国家の誕生です。

 一方、収穫が増えると収穫を残す人が出て、「私有財産」ができました。そこで「階級」が登場する。階級が発生し剰余生産が生まれると、これを交換しようと「交易」がはじまります。最初の交易は共同体の中──共同体を構成する家族や個人の間──で行われたのではなく、共同体と別の共同体との交換が先にはじまった、といわれています。

 個人間で起こった最初の「交換」は普通の商業でなく、肉体的サービスと物財を交換する売春でした。売春婦が「人類最古の職業」といわれるのはこのためです。

 イギリスのチャールズ皇太子はかつて、「私がやがて従事するであろう人類最古の職業」といい、王様という職業も売春に劣らず古い、といって笑わせました。

 農業革命が起こると、第一に領域国家になりました。第二に階級が誕生し、第三に交易がはじまりました。これらはそれぞれ限りなく発展し、拡大されました。そのため交易がはじまると領域国家は、さらに交易路を保護しょうとして艦隊と軍団を備えた「帝国」に発展します。

 また、人を働かせてその剰余生産を取り上げ、より金持ちになる、という層が生まれます。人は自分の労働によって自分の生活あるいは子孫の保存に役立つ以上の生産をしだすと、他人を働かせて剰余生産を取り上げることを考えます。つまり、支配−被支配の社会的階級だけでなく、搾取ー被搾取の経済的階級が発生するのです。

 始代における国家の役割は、防衛と安全、徴兵と徴税、治安と司法、種子の確保およびそれを補強する祭祀の五つに限られていました。しかし、ここに経済的な搾取ー被搾取の関係が加わり交易がはじまると、国家の役割は急に複雑になりました。

戦争や犯罪などで身分の落ちた人をそのまま養って働かせ、そこから剰余生産を取り上げて利益を得ようと考えるようになると、階級制が広がり、奴隷制度に発展します。交易が広がって帝国になると、公共事業も必要になります。
(堺屋太一著「東大講義録」講談社 p36-45)強力論

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 「一般政治と経済学の諸形成物との関係は、私の体系では、きわめてきっぱりまた同時にきわめて独特な仕方で規定されているので、勉強を容易にするためにこの点について一つ特別な指示を出しておくことは、余計なことではないであろう。政治的諸関係の形成が歴史上基底的なものであって、経済的な従属は、ただ結果か特殊なケースかにすぎず、だから、いつでも第二次的な事実にすぎない。

近年の社会主義体系のいくつかは、経済的状態から政治的従属をいわば生え出せることによって、或る完全に逆の関係の、目にうつるままの見かけを指揮原理としている。ところで、このような第二次的な作用そのものは、確かに存在しているし、現在では最も多く感じられる。しかし、本源的なものは、直接的な政治的権力のうちに探すほかないのであって、最初から間接的な経済的支配力のうちに探し求めてはならない」。

同じことは、もう一つ別の箇所でも言われていて、そこではデューリング氏は、「<政治的状態が経済的状況の決定的に重要な原因であり、これと逆の関係は、ただ第二次的な反作用を表わすにすぎない>、という命題から出発する。……政治的なグループ分けを、それ自体のための出発点としないで、もっぱら食う目的のための手段であると取り扱う限り、だれでも、どれほど急進社会主義的で革命的であるように見えようと、自分のなかに一片の隠れた反動を秘めていることになろう」。

 これがデューリング氏の理論である。この理論は、ここで、また、他の多数の筒所で、あっさり打ち立てられ、いわば布告されている。それを証明しようとか反対意見を論駁しようとかやってみるほんのわずかな企ても、この三巻の分厚い本のどこにも見られない。

そして、たとえ論拠がキイチゴのように廉価であったとしても〔シェイクスピア『ヘンリー四世』第一部、第二幕第四場でのせりふから〕、デューリング氏は、その論拠を示してはくれないであろう。それもそのはずで、この件は、ロビンソンがフライデーを隷属化させたあの有名な堕罪によってもう証明ずみではないか。

あれは一つの力ずくでやられた行為であり、つまり、一つの政治的行為であった。

そして、この隷属化がこれまでの歴史全体の出発点また根本事実であり、歴史全体に不正義という原罪を植えつけ、しかもこれがのちの諸時期にはただ緩和されて「もっと間接的な経済的従属の諸形態に転化された」にすぎないほど強く深く植えつけたものだから、また、これまでずっと有効であった「力ずくで手に入れた所有」の全体もやはりこの隷属化にもとづいているのだから、すべての経済現象を政治的原因をもとに、すなわち、<強力>をもとに、説明しなければならないことは、明らかである。

そして、これに満足しない人は、隠れた反動家である〔、とデューリング氏は言うのである〕。

 まずはじめに、<このような見解はけっして「独特な」ものなどではないのに、それを「きわめて独特な」ものだと考えるには、デューリング氏ほどのうぬぼれ屋でなければならない>、と述べておこう。

派手な政治劇が歴史において決定的に重要であるかのように見る考えは、歴史叙述そのものと同じくらいに古く、そして、こうした騒々しい諸場面の背後で黙々と行なわれていて真の推進力である諸国民の発展についてはごくわずかな資料しか保存されていない、という事態のおもな原因になっている。

この考えは、過去の歴史把握の全体を支配してきたものであって、はじめてフランスの王政復古時代〔一八一四−三〇〕のブルジョア的歴史家たちがそれに一撃を加えたのである。ここで「独特な」のはただ、こういうことをデューリング氏がまたしてもなにも知らない、ということだけである。

 さらに、ほんのしばらくのあいだ、<デューリング氏がこれまでのすべての歴史を人間が人間を隷属させることに帰着させているのは正しい>と仮定しても、われわれは、これによってけっして事柄の根底に到達したことにはならない。

そうではなくて、まず第一に、どのようにロビンソンはフライデーを隷属させることになったのか、という疑問が生じる。ただの気ばらしのためにか? けっしてそうではない。

その反対にわれわれは、フライデーが「奴隷としてまたはただの道具としての経済的奉仕を強制され、やはりただ道具として養われるだけである」、ということを知っている。

ロビンソンがフライデーを隷属させたのは、ただフライデーをロビンソンの利益のために働かせるためでしかない。そして、どうすればロビンソンはフライデーの労働から自分のために利益を引き出すことができるのか?
 それはただ、フライデーがその労働によって生み出す生活手段のほうが、ロビンソンがフライデーに引き続き労働能力を持たせておくために彼に与えなければならない生活手段よりも多い、ということによってでしかない。

だから、ロビンソンは、デューリング氏の明示的な命令にそむいて、フライデーの隷属化によってつくりだされた「政治的なグループ分けを、それ自体のための出発点としないで、もっぱら食う目的のための手段として取り扱った」わけである。

そこでロビンソンは、自分の主人であり先生であるデューリング氏とどう折りあいをつけるのか、自分でやってみるがよい。

 こうして、<強力>を「歴史上基底的なもの」であると証明するためにデューリング氏がわざわざ考え出した無邪気な例は、<強力が手段にすぎず、これにたいして経済的利益が目的である>ことを証明しているのである。

目的のほうがこの目的を達成するために用いられる手段よりも「基底的」であるが、それと同じ程度に、歴史では、関係の経済的側面のほうが政治的側面に比べて基底的である。

だから、この例は、それが証明するはずのこととは正反対のことを証明しているわけである。

そして、ロビンソンとフライデーとのケースと同じことが、これまでのすべての支配と隷属とのケースにもある。

圧服は、デューリング氏の優雅な表現の仕方を借りて言えば、いつでも「食う目的のための手段」(この<食う目的>をいちばん広い意味にとって)であった。

いつでもまたどこででも、しかし、「それ自体のために」導入された政治上のグループ分けであったためしはない。

<租税は国家において「第二次的な作用」にすぎない>、とか、<支配するブルジョアジーと支配されるプロレタリアートというこんにちの政治的なグループ分けは、「それ自体のために」あり、支配するブルジョアジーの「食う目的」のために、つまり、利潤獲得と資本蓄積とのために、あるのではない>、とかと考えるのは、デューリング氏でなければやれないことである。

 しかし、もう一度われわれの二人の男のところへもどろう。ロビンソンは、「剣を手にして」〔デューリングのことば〕フライデーを自分の奴隷にする。

しかし、このことをなしとげるためには、ロビンソンには、剣とは別のまだなにかが必要である。

だれにでも奴隷が一人ついているわけではない。奴隷を一人つかうことができるためには、二とおりのものが意のままにできなければならない。

それは、第一には、奴隷の労働のための道具と対象とであり、第二には、奴隷がやっと命をつないでいけるだけの生活手段である。だから、奴隷制が可能になるためには、その前に、生産が或る段階に達していなければならず、分配の或る程度の不平等が生じていなければならないわけである。

また、奴隷労働が一つの社会全体で行なわれる生産様式になみわめには、生産と商業と富の蓄積とがもっとはるかに高度に増大していることが必要である。

土地を全員で所有している八代の自然生的な共同体で、奴隷制は、まったく生じないか、もしくは非常に従属的な役割しか演じないかである。農民都市である原初のローマでもそうであった。

ところが、ローマが「世界都市」になり古代イタリアの土地所有が少数の途方もなく富んだ所有者の階級の手にますます握られていったとき、農民人口は奴隷の人口に駆逐された。

〔さかのぼって〕ペルシア戦争の時代〔前四九二から前四四九まで〕には、奴隷の数がコリントスでは四六万であり、アエギーナでは四七万にものぼり、自由民人口一人あたり一〇人の奴隷がいたという。

こうなるのには、まだなにか「力ずく」以上のものが、つまり、高度に発展した工業および手工業と広がった商業とが、必要であった。

アメリカ合州国における奴隷制は、<力ずく>にもとづいていたというよりは、はるかに多くイギリスの綿工業にもとづいていた。

綿花が栽培されていない地方や、〔南北の〕境界諸州でとは違って綿花栽培諸州むけの奴隷飼育をやらなかった地方では、奴隷制は、強力を用いるまでもなく、引き合わないという単純な理由でひとりでに死滅してしまった。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p223-227)

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◎どのようにして奴隷制が生まれ、そして死滅するのか。

「ロビンソン・クルーソー」中谷巌著「痛快 経済学」でも登場します。