学習通信040320
◎労働者の誕生……。

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明治維新と農民

農村から都市へ
 日本の有業人口のうち、労働者階級(プロレタリアート)がもっとも大きな比重をしめるようになったのは、それほど古いことではない。昭和三五年(一九六〇)以前には、農漁民と都市自営業者よりなる旧中間層が有業人口の五〇パーセント以上をしめており、労働者は半分にもみたなかった。ところが、昭和三〇年を起点とする日本経済の高度成長の過程で農村から都市への急激な人口流出がすすみ、ほぼ昭和三五年を画期に、労働者階級は有業人口の半数をこえる(五一パーセント)にいたった。

そして、この年以降、巨大企業による若年労働力の吸収にますます拍車がかけられ、昭和四〇年には、労働者階級は有業人口の五七パーセント(二七四六万人)、昭和四三年には六一パーセント(二九三〇万人)と、増加の一途をたどる。

 こんにちでこそ、労働者の数がもっとも多いことを当然のように思うだろうが、それはこの二〇年間ほどの現象にすぎないのである。一世紀まえの状態をみると、明治五年(一八七二)から五か年の平均有業人口は一九六六万三〇〇〇人をかぞえるが、その内訳は農業七八・〇、商業六・七、工業三・六、雑業九・四、雇人二・〇、その他〇・三パーセントという割合であって、有業人口の八〇パーセント近くは農民がしめていたのである。

 その後、資本主義の発展とともに労働者の数はしだいに増大してゆくが、それでも労働者の数が自小作・小作農民の数をしのぐようになるのは、大正三年(一九一四)から大正九年にかけてのことである。大正三年は第一次世界大戦の勃発した年であり、それから数年間、日本経済は戦争景気のおかげで未曾有の好景気を満喫した。現代ふうにいえば、高度成長期である。

 日本資本主義はこの時期をさかいとして、産業資本主義段階から独占資本主義段階へと移行した。しかも、この時点においてさえ労働者の大部分は製糸・紡績・織物工場の女工であり、鉱山・炭鉱の坑夫がこれについでいたことに注意しなければならない。

 大橋隆意編『日本の階級構成』(後藤靖執筆部分)によれば、従業員数五〇〇人以上を擁する官営工場や民間の造船・電力・機械製作・肥料製造などの大工場に働く労働者は、大正四年になって、はじめて全労働者の三〇パーセントに達する。

日本経済の急成長にもかかわらず、労働者階級の形成のされかたは、ひじょうにテンポがおそかったといえよう。また、労働者の構成をみても、女工に代表されるように一人立ちの労働者ではなく、農家の家計補充的な軽工業労働者が圧倒的に多く、重工業関係にしても飯場・納屋制度下の坑夫が中心をしめていたのである。

 日本資本主義が独占段階に到達した大正末期においてすら、労働者階級がこのように独特の構成をしめしていたのには、それなりの理由があった。このことを知るために、そもそも労働者階級はどのようにして形成されたのかを、まずさぐってみることにしよう。
(中村政則著「労働者と農民」小学館ライブラリー p37-39)

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 下層農民の娘たちがねらわれた

 輸入綿糸との競争という条件のなかで紡績業が企業として成りたつことができるようになったのは、大資本の投入による大規模工場の設置にもとづいた大量生産の有利さもさることながら、もっとも大きな要因は、二四時間操業制の採用であった。

原料の綿花を輸入にあおぎ、工場の機械すべてを輸入にあおぐ紡績業としては、賃金を安くする以外に価格を大幅に引下げることはできない。そこで、できるだけ低賃金の労働力を使うことになる。

 低賃金の労働力といえば、棉(めん)作農業が盛んなころ、副業に糸の手紡ぎ仕事でいくらかの手間賃をかせいで家計をたすけていた下層農民の娘たちが、棉作の衰退とともに副業を失い、農家経営内部に余剰労働力として滞留していた。

この労働力を紡績工場の労働力として動員すれば、家族持ちの一人前の労働者に払う賃金とちがって、かつて家計の赤字をうずめるために副業でえていた収入と同程度の賃金ですむ。こうして、年若い貧しい農民の娘たちが紡績女工とされた。

 明治三〇年(一八九七)当時の紡績労働者の約八割は女工であり、紡績女工の六・五割が二〇歳末満、約二割近くが実に一四歳未満であった。このような幼少女労働力は、たしかに副業を奪われた下層農家内部の余剰労働力であった。

しかし、あくまで農家経営の一員であり、農繁期には農業労働にも従事し、季節や天候によっては副業ばかりに専念していたわけではなかった。したがって、そのまま紡績工場の労働力に転用したばあい、農繁期には工場が動かなくなる恐れがある。

そこで、賃金は農家副業なみに低くおさえ、労働力としての身柄は農家経営から切りはなし、資本の命ずる労働規律に完全に服従する、いわば農工分離を完了した労働力にしなければならないという矛盾が生ずる。

「女工哀史」のはじまり
 本来、原蓄とは、完全な農工分離、しかも生産手段と労働力の分離が実現され、資本に労働力を売り、したがって売った分だけ資本の命ずる労働規律に服する、つまり工場の労働過程で、生産手段である機械の運転速度にあわせて労働する自由な労働者をつくりだす過程であった。

しかるに、日本の原蓄過程は、地租改正を起点として、生産手段と労働力を分離せず、土地所有者である地主が生産手段と労働力をあわせもつ小作農を支配するという関係をつくり出した。だから、こうした小作農家のなかから工場労働力をひきだしてくるとなると、あらためて、個別的に、農工分離・生産手段と労働力の暴力的分離という過程をとおらねばならなかった。

 紡績女工のばあい、製糸女工のばあいもまったく同様であったが、この暴力的分離が、女工募集人制と寄宿舎制という制度によって、女工一人一人について個別的にくり返されるかたちで行われたのであった。募集人は、甘言と前借制で幼少女を紡績女工として獲得し、農家経営から切りはなし、農家経営から切りはなされた女工を家計赤字補充程度の低賃金で労働過程に拘束しつづけるために、企業はこれら女工を寄宿舎に拘置し、監視し、脱走を防ぐ。

女工の足を引きとめるためには、暴力の使用はもちろん、監督係の男工による複数女工に対する性的関係までもが公然と利用された。ある大紡績工場で、このような性的関係の利用の結果、複数の女工が妊娠した事件がおこったが、当の男子職員は会社のためにやったことであるというので不問に付され、しかも同時期に、平男工と平女工のまじめな恋愛に対して、風紀を乱したという理由で二人ともに首を切ったという記録がある。こうして、納屋制・飯場制の女工版である寄宿舎制のもとに「女工哀史」がつづられていったのであった。

インドより劣る日本の生産性
 こうした性格の労働力であるから、極端な未熟練労働力である。未熟練労働力であるから、当然、機械の回転速度が遅い。事実、植民地インドの紡績工場より遅かったのであるが、それはインドの紡績労働者が、家族を養育する成年男子労働者、したがって賃金は植民地とはいうものの、日本の幼少女工よりも高く、勤務年数も永く、熟練度が高かったからである。仮に一日の労働時間を同一とすれば、一台の紡機の生産高は機械の回転速度に比例するから、日本の一日当り生産高はインド以下となる。

 機械はおなじイギリス製であるから、価格に差はない。機械の価値は、科学技術の発展にともなって、新しい機械の出現とともに古い機械の価値が無くなる。つまり、運転しなくとも、時間とともに価値を減ずるのであるから、一台の機械あたりの一日の生産高が少なければ、一定量の綿糸あたりの機械の減価率は大きくなる。

たとえば、一年に一万キロしか走らない日曜ドライバーの乗用車も、五万キロ走る商用の乗用車も──時間による減価より早く耐久力が無くなるタクシーは別として──、同年式同型のものであれば五年後にはスクラップとしての価値しかなくなり、したがって日曜ドライバーの車の走行キロあたりの減価率が高くつくのとおなじである。

 いうまでもなく、この機械の減価分は製品の費用に加算されて回収されなければ損失となってしまう。したがって回転速度の低さは生産費の高さとなり、製品価格を高める。当時、日本の紡績業が競争しなければならなかったのは、輸入綿糸のなかでもイギリスの植民地インド産の太糸(ふといと)であり、イギリス本国産の高級細糸生産は、幼少女工の未熟練労働力では技術的にも生産不可能であった。

地元産の豊富な綿花を使うインド紡績業との競争に打勝つためには、低賃金労働力を使用するとともに、一日の機械回転数をふやすしかなく、しかも運転速度でインドに劣るとなれば、運転時間を延長するしかなかった。

低賃金労働の犠牲の上に…
 こうして、一日二四時間操業、二交代制というやり方が大阪紡に採用されたのであった。成長期の幼少女が、一二時間連続の徹夜労働を一週間継続させられるのであるから、健康に及ぼす悪影響は想像を絶する。

もうもうたる綿ぼこりを吸い、太陽をあびることのない苛酷な労働にくわえて、寄宿舎の大部屋に大ぜいの女工がつめこまれ、昼番の女工が起こされたあとの体温と湿気が残るせんべいぶとんの万年床に倒れこみ、菜の味噌汁と麦飯という粗食の生活をつづければ、当時不治の病とされた結核にかからない方が不思議であった。

 製糸女工のばあい、綿ぼこりのかわりに繭を煮る熱湯による高温多湿と悪臭があり、しかも製糸工場は紡績工場にくらべて資本がずっと零細であっただけに、設備、待遇はいっそう劣悪であった。このような幼少女工の犠牲の上に、日本資本主義の成立をささえる二大産業、紡績と製糸は発展したのであった。

 インドと日本の明治二四年(一八九一)における綿糸生産費をくらべると、金利と諸雑費を除いては、すべて日本の方がはるかに安い。とくに工賃の安さは低賃金女工によるものであり、石炭代の安さも炭鉱における低賃金の囚人労働、納屋制・飯場制労働によるものであり、要具代の安さは二四時間操業による運転時間の長さによるものである。荷造費が安いのは、日本の国内消費であるからであるが、この分は輸入綿花の荷造費を差引すれば、原綿代に上積みされている綿花荷造費の方が高いかもしれない。

 つまり輸入綿花による原料高という不利を補つて輸入綿糸と競争できるだけの条件をかたちづくったのは、炭鉱をもふくめての低賃金であり、苛酷な長時間労働であった。こうして、明治二三年(一八九〇)をもって、国産綿糸の生産高は、綿糸輸入高を上まわり、逆転したのであった。
(大江志乃夫著「入門 日本資本主義(上)」大和出版 p147-152)

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 機械の導入以前には、原料を紡いだり織ったりする仕事は労働者の家でおこなわれていた。妻と娘が糸を紡ぎ、夫がこれを織った。あるいはその家の主人が自分で織らないときには糸を売った。

これら織布工の家族は、たいてい都市の近くの農村に住み、その賃金で十分に暮らすことができた。というのは、織物にたいする需要では、まだ国内市場が決定的で、ほとんど唯一の市場であり、外国市場の獲得や商業の拡大とともに、のちになって急激にはいりこんでくる競争の圧倒的な力は、まだ賃金にあまりはっきりとした圧力を加えていなかったからである。

そのうえ、国内市場の需要は、人口の緩慢な増加と歩調をあわせて、継続的に増大しつづけ、すべての労働者に仕事を与えていた。また労働者は農村に分散して住んでいたので、労働者同士のはげしい競争もおこりえなかった。

こうして、織布工はたいていいくらかの貯えをもち、わずかな土地を借りて、ひまなときに──彼は好きなときに、好きなだけ織ることができたので、思いどおりにひまをもつことができた──耕していた。もちろん彼は農民としては劣っていて、その耕作も粗末であり、実際の収益も多くはなかった。

しかし彼は少なくともプロレタリアではなく、イギリス人の表現を借りれば、祖国の土地に杭をうちこんでいたのである。彼は一定の土地に住み、現在のイギリスの労働者よりは一段高い社会的地位にいた。

 このようにして労働者はきわめて快適な生活をのんびりとすごし、たいへん信心深く、まじめに、正直で静かな生活を送っており、その物質的な状態は、彼らのあとをついだ人びとよりもはるかによかった。彼らは過度に労働する必要はなく、働きたいときだけ働き、それで必要なものは手にいれていた。

彼らは自分の庭や畑で健康的に働くひまがあり、その労働自体が彼にとって気晴らしとなったが、さらにそのうえ隣人との休養や遊びに加わることもできた。そしてボウリングや球技などの遊びが彼らの健康をたもち、身体を丈夫にするのに役立った。彼らはたいていがっしりとした体格の人びとで、その体格は近所の農夫と、ほとんど、あるいはまったく、違いはなかった。

彼らの子どもたちは自由な農村の空気のなかで育ち、両親の仕事を手伝うようになっても、それはたまに手伝うだけで、一日八時間とか一二時間も働くというようなことは、問題にもならなかった。

 この階級の道徳的知的性格がどんなものであったかは、推測できる。糸や織物は巡回してくる代理商に賃金支払いとひきかえにひきわたされたから、彼らは都会に足をふみいれたこともなく、都会からはなれて暮らしていた。

それは、都会のすぐそばに住んでいた老人でさえ、ついに機械によってその職を奪われ、仕事をもとめて都会へいかぎるをえなくなるまで、都会へ足をふみいれたことはなかったほどであった。したがって彼らは、その小さな小作地をつうじてたいてい直接に結びついていた農民と、同じ道徳的知的段階にあった。

彼らはスクワイア──その地方のもっとも有力な地主──を自分たちの当然の主人と思い、彼に相談をもちかけたり、ささやかなもめごとを解決してもらったりして、こういう家父長制的な関係につきものなのだが、彼をたいへん尊敬していた。彼らは「立派な」人びとであり、善良な一家の主人であり、道徳的な生活をしていた。

というのも、近所には酒場も売春宿もなかったので不道徳になる機会もなかったし、彼らがたまに飲みにいく宿屋の主人も立派な人物で、たいていは比較的大きな小作農であり、おいしいビールや、きちんとした店のきまりや、店じまいの早いことを守っていたからである。彼らは子どもたちを一日中、家で自分のそばにおき、従順で神をうやまうように育てていた。

家父長制的な家族関係は子どもたちが結婚するまではつづいていた。若者たちは結婚するまで素朴で純真で、遊び仲間と仲よく暮らして成長していた。結婚前に性的関係をもつことはきわめてふつうのことであったけれども、それは結婚をするという道徳的な義務を双方がみとめていた場合にかぎられ、その後の結婚によってすべてはうまく解決された。

ようするに、当時のイギリスの工業労働者は、精神的な活動も生活状態のはげしい変動もなく、都会からはなれて、ドイツでいまなおあちこちで見られるのと同じようなひっそりとした暮らし方、考え方をしていたのである。彼らのなかで字の読めるものは少なく、字を書けるものはもっと少なかった。

彼らは規則正しく教会へ通い、政治を語ることも陰謀を企てることもなく、考えるということをせず、身体を動かすことをたのしみ、先祖伝来の信心深さで聖書の朗読に耳を傾け、つつましく謙虚に、社会の名望家階級と仲よく暮らしていた。

しかしその代わりに彼らは精神的には死んでいた。彼らは自分たちのささやかな個人的な利害と、織機と小庭園のためにだけ生きていて、人類全体におよんで進行していた強力な動きについては、なにも知らなかった。彼らは自分たちの植物のような生活が気にいっていて、もし産業革命がなければ、こういうきわめてロマンティックで居心地はよいけれども人間には催しないような生活から、ぬけだすことはなかったであろう。

彼らはまるで人間ではなく、これまで歴史をみちびいてきた少数の貴族に奉仕する働く機械にすぎなかったのである。産業革命はこういう状態の帰結をさらにいっそうすすめたにすぎないのであって、それは労働者を完全にたんなる機械に変えてしまい、彼らの手中に残されていた自立的な仕事をすっかり奪いとってしまったのだが、しかしそのことによって彼らに、ものを考え、人間的な地位を要求する刺激を与えたのである。

フランスにおいては政治が、そしてそれと同じようにイギリスでは工業とブルジョア社会の運動全体が、人類の普遍的な利害にたいする無関心のうちに埋没していた最後の階級を、歴史の渦中にまきこんだのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -上-」新日本出版社 p22-24)

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◎「フランスにおいては政治が、そしてそれと同じようにイギリスでは工業とブルジョア社会の運動全体が」と。

日本は
「欧米諸列強の圧力によって早産を強いられた日本の資本主義は、未熟児でありながら、生まれたときから、すでに成年に達している欧米の資本主義諸列強を追いかけるために、無理に無理を重ねて」(大江志乃夫著「入門 日本資本主義(上)」大和出版 p6)と戦時景気……。