学習通信040321
◎卒業のない人生でありたいと思います。

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 「で、叔父さんは、いつになってそれがわかったの。」
と、コペル君はたずねました。おなかの中では、いったい叔父さんは、自分ぐらいな年には、もうそれがわかっていたのか、どうか、そのことが気になっていました。

 叔父さんは、また話しつづけました。
 「それが妙なんだよ。小学校の上級になって、僕もまあ、地球と月との関係とか、太陽系のこととか、昔、君のお母さんが僕にわからせようとして手こずった事柄を、大体呑みこんだし中学にはいってからも、それについて、いろいろなことを教わって、一通りの常識は出来た。

しかし、そうなっても、林檎の落ちたことが、どうしてニュートンの頭の中で、万有引力の思想にまで展開していったのか、そいつは、やっばりわからないんだ。万有引力とはどんなものか、天体の運動がどうなっているのか、そういうことが大体呑みこめても、今いった疑問は、相変わらず疑問のままだった。」

 「で、いつわかったのさ。」
 コペル君は、しきりにそれを聞きたがりました。叔父さんは答えました。
 「叔父さんは、それを疑問には思っていたけれど、なんとかして知りたいというほど熱心じゃなかったんだね。とうとう大学生になるまで、その疑問をもちこしてしまったんだよ。」

 「え、大学生?」
と、コペル君は眼を丸くしました。北見君も笑い出しました。
 「そうだよ。大学生になるまでわからないままだった。漠然とこう考えてすましていたんだね。多分物理学の問題を深く考えこんでいたとき、突然、林檎があたりの静けさを破って落ちた。それに驚いて、ハッと我にかえったとき、すばらしい思いつきが、稲妻のようにひらめいたんだろうと。」

  「そうじゃないの?」
と、今度は北見君がたずねました。

 「うん。実は、専門家の話だと、いったい林檎から万有引力を思いついたというこの話が、どこまで確かか疑わしいともいえるんだそうだから、はたして実際にどうだったのか、よくはわからないんだ。しかし、僕が大学生になってから、あるとき、理学部にいっている友だちに聞いたら、その友だちは、多分ニュートンの頭の中では、こういう風に考えが動いていったのだろうと、説明をしてくれた。それを聞いて、僕は、はじめてなるほどと思ったね。」

 「どんな説明だったの。」
 「僕たちにもわかるの。」

 コペル君と水谷君が、つづいてこうたずねました。叔父さんは、ゆっくりとタバコをふかしてから、また話しつづけました。
 「ああ、わかるとも。──もちろん、林檎が突然に落ちたとき、まず、ある考えがひらめいたには相違なかろうというんだ。しかし、肝心なのはそれからなんだ。

 林檎は、まあ三メートルか四メートルの高さから落ちたのだろうが、ニュートンは、それが十メートルだったらどうだろう、と考えて見た。もちろん、四メートルが十メートルになったって変りはない。林檎は落ちるにきまっているね。では十五メートルだったら? やっぱり落ちて来るね。二十メートルだったら? 同じだね。百メートル、二百メートルと、高さをだんだん高くしていって、何百メートルという高さを考えて見たって、やはり、林檎は重力の法則に従って落ちて来る。

 だが、その高さを、もっともっと増していって、何千メートル、何万メートルという高さを越し、とうとう月の高さまでいったと考える。それでも林檎は落ちて来るだろうか。──重力が働いている限り、無論、落ちて来るはずだね。林檎には限らない、なんだって落ちて来なければならないはずだ。しかし、月はどうだろう。月は落ちて来ないじゃあないか。」

 今度はコペル君も、水谷君も、北見君も、ひとことも言い出さずに、叔父さんの話のつづきを待ちました。四人は、このとき、もうケヤキの並木を出て、原ッぱのわきの道を歩いていました。原ッぱの向こうの二階家の上には、月が相変わらずシーンと、黙って四人を眺めていました。

 「月は落ちて来ない。──これは、地球が月を引っぱっている力と、月がグルグルまわる勢いでどこかに飛んでいってしまおうとする力と、二つの力がちょうど釣合っているからだね。ところで、こういう風に、天体と天体との間に引力が働いているという考えは、何もニュートンがはじめて考え出したわけじゃぁない。

星と太陽との間に引力があって、そのために星がちゃんと一定の軌道を守ってまわっているのだという考えは、ニュートンよりもずっと前に、もうケプラーの時代からあった思想なんだ。また、支えがなくなれば物が落ちるということなら、ガリレイの落体の法則で、これもニュートン以前にわかり切っていたことなんだ。

 じゃあ、ニュートンの発見というのは何かというと、地球上の物体に働く重力と、天体の間に働く引力と、この二つを結びつけて、それが同じ性質のものだということを実証したところにあるんだ。だから、この二つの力が、ニュートンの頭の中で、どうして結びついたか、それが問題だというわけだね。」

 叔父さんは、こういってタバコを吸い、灰を落としてから、またつづけました。

 「ところが、今いったように、ニュートンは林檎の落ちるのを見て、その落ちる高さを、どこまでも、どこまでも延ばして行き、とうとう月のところまで考えていった。元来、重力の法則というのは、地球上の物体についての法則だろう。ところが、落ちる物体をぐんぐん地面から離していって、月のあたりまでもっていったとすると、その物体と地球との関係は、もう地上のものじゃあない。もうそれは天界のことになってしまう。つまり、天体と天体との関係に等しくなるわけさ。

 さあ、こう考えて来ると、──コペル君、──天体と天体との間に働く引力と、落体に働く重力とが、頭の中で結びついて来るのは、ごく自然のことじゃあないか。ニュートンは、この二つのものが同じ性質のものではないかと考えついた。そして、それを証明することが出来るだろうと考えて、その研究にとりかかったんだ。

 それから、月と地球との距離を計算したり、月に働く重力や地球の引力を計算したり、長い間、たいへん苦心して、とうとうそれを証明してしまった。その結果、とてつもない広い宇宙をぐるぐるまわっている星の運動も、草の葉ッぱからポロリと落ちる露の運動も、同じ物理学の原則から、きれいに説明されることになった。つまり、一つの物理学が、天界のことも、地上のことも、同じように説明出来ることになったんだね。これは、もちろん、学問の歴史からいえば、非常に偉い事業だった……」

 叔父さんは、こういって、吸っていた巻タバコをほうり投げました。赤い火が、スーツと抛物線(ほうぶつせん)を描いて消えてゆきました。
 「どうだい、コペル君、わかったかい?」

 コペル君は、それに答えるかわりに、黙ってうなずきました。北見君も、水谷君も、やはり黙っていました。三人とも、いまの自分の気持をなんといって口に出したらいいか、わからなかったのです。すると、叔父さんは、ふたたび話しはじめました。

 「ニュートンが偉かったのは、ただ、重力と引力とが同じものじゃないかと、考えついたというだけじゃあない。その思いつきからはじまって、非常な苦心と努力とによって、実際にそれを確かめたというところにあるんだ。これが、普通の人にはとても出来ないようなむずかしい問題だったのだね。

 しかし、また、最初の思いつきがなかったら、それだけの研究もはじまらなかったんだから、この思いつきというものも、どうして、なかなかたいへんな思いつきだ。

 ところで、友だちから今いったような説明を聞いたとき、僕はつくづくそう思ったんだが、そういう偉大な思いつきというものも、案外簡単なところからはじまっているんだね。そうだろう。ニュートンの場合、三、四メートルの高さから落ちた林檎を、頭の中で、どこまでも、どこまでも高くもちあげていったら、あるところに来て、ドカンと大きな考えにぶつかったんじゃないか。

 だからねえ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶっかるんだね。こいつは、物理学に限ったことじゃあないけど……」

 月は、もうだいぶ高くなっていました。遠くの風呂屋の煙突の、斜上のところから、相変わらず黙って、四人の方を見ています。頭の上には、広大無辺の夜の空がひろがって、星がしきりにまたたいています。こんな晩に、遠く天体の世界のことを考えるのは、なんだか自分が大気の中に消えてゆくような気のすることです。

 コペル君たちは、青い光を浴びながら歩いてゆきました。四人が歩いてゆく往来には、敷きつめた砂利が月光に濡れて、美しく光っていました……

 それから、しばらくして、叔父さんとコペル君の二人は、同じ道をうちの方へ、急ぎ足で歩いていました。水谷君と北見君とを、停車場に送っての帰りです。もう、夜気が身にしみて来ました。二人はほとんど口をききませんでした。空には月が、相変わらず怒りもせず、笑いもせず、嘆きもせず、静かな顔つきで、屋根を越え、電信柱を越え、ケヤキの枝をくぐりながら、二人といっしょに歩いていました。

 コペル君の家の前まで来ると、叔父さんは足をとめて、
 「じゃあ──」
といいました。二人は挨拶をかわしました。
 「叔父さん、おやすみなさい。」
 「ああ。君もおやすみ。」
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p75-83)

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ある画家の話

 画家の永井潔さんが書いていらっしゃった話です。──永井さんがまだ中学生だったころ、近くに若い画家が住んでいて、その画家が中学の同窓会に出ての感想を、永井さんにむかって次のように語った、というのです。

 「みんな、もう勉強しなくなっている。卒業してしまったんだね。でも、画かきには卒業がない。卒業のない職業をえらんだことを、ぼくは幸せに思うよ」(『いのちある言葉』童心社)

 私はこの話が好きです。中学生の永井さんにむかってこう語ったというその若い画家が好きであり、その言葉を何十年もおぼえていて、「いのちある言葉」として私たちのために書きとめてくれている永井さんが好きです。

 もちろん、画かきであるかぎり「卒業生」は一人もありえないか、といえば、そういうわけではあるまいと思います。画かきとしての職業上の地位・名声が確立し、それとともに生活も安定した大家ほど「卒業生」になりやすい、ということもあるかもしれません。

 これはまた、画かきだけが「卒業のない職業」だということでもないでしょう。どんな職業だって、本気でとりくむかぎり「卒業のない職業」でありうるはずで、へんな例をもちだすみたいですが、泥棒稼業だって例外ではなかろう、と思います。

 さらにまた、これは狭い意味での職業についてだけの話でもない、と思います。たとえば労働組合活動だって、卒業のない仕事、不断の学習を必要とする仕事であるはず、そうでなければならぬはずですが、それは職業的組合活動家(つまり専従活動家)にとってだけのことではありえないでしょう。

 卒業のない人生でありたいと思います。卒業のない生活でありたいと思います。卒業のない人生、卒業のない生活とは、つねに学習のある人生、つねに学習のある生活ということです。そうであってこそ、つねに進歩する人生であることができ、つねに進歩のある生活であることができるのだ、と思います。

青いリンゴをかいて「おかしい」といわれた子どもの話

 「学習のある生活」というのは、「学習とかかわりのある生活」というのと単純に同じではありません。たとえば、組合で教宣部担当の役員をしているとか、分会の学習係になっているとかいう場合、それは確かに「学習とかかわりのある生活」をしているわけではありますが、それだけでその人が「学習のある生活」をしているということにはなりません。

 次のような話を何かで読んだことがあります。

 ──学校の図工の時間、ある子がリンゴの画をかいた。リンゴを緑にぬっていたら、先生が近づいてきて「リンゴの色は赤でしょ」といった。でも、その子は青いリンゴをかきつづけた。あとで、家庭訪問に来た先生が、「お宅のお子さん、少しおかしいんじゃないですか」といった……。

 その少し前、その子の家に青いリンゴがおくられてきたのだったそうです。

 この先生は、教師という「学習ともっとも深くかかわりあった生活」の場にいるわけですが、自分自身はとっくに学習を卒業してしまっているのでしょう。

飲み屋の壁にも「青いリンゴサワー」といった品書きがさがっているこの頃だというのに、「リンゴの色は赤にきまっている」という固定観念も相当なものだと思いますが、その固定観念を改めるせっかくの機会を子どもが与えてくれたのに、それに学ぶことをせず、反対に「お宅のお子さん、少しおかしいのでは」というのは、それ以上にスサマジイ、と思います。

そして、この種の教師をどんどんふやしていこうというのが、政府・自民党の教育政策であるらしい、とつけ加えておきたいと思います。

 以上のことを私は、たんに他人事としていっているのではないつもりです。

というのは、私は、働く人びとの間での学習・教育活動に日常的にかかわってきたものの一人ですが──そしてそこで主として講師活動を(つまり教育者としての活動を)うけもってきたのですが──はたして「リンゴの色は赤だよ」式の教え方をしてはいないか、そして青いリンゴをかく人に出会ったとき、それに学ぶことをせず、「お宅のお子さん、少しおかしいのでは」式の対応をしていることがはたしてないか、ふりかえってみる必要がつねにある、と思うからです。

自分の生活が「学習のある生活」であるための、それは最低の必要条件であると思います。

ピカソの画の話

 画にかかわる話を、もう一っ。
 「リンゴの色は赤だ」というのが通り相場であるように、「ピカソの画はすばらしい」というのも通り相場であるようです。

 そのピカソの画について、地質学者の井尻正二さんが、「私はピカソの画はきらいだ」と書いていらっしゃいます。「ピカソのデッサンは美しいし、その抽象力もすばらしい」ことを認めながら、「いわゆるピカソの画はきらいである」というのです。

 「ピカソはファシズムに、一人だけで、画だけで闘った。いびつを正常と強要する権力にたいして、逆に、いびつの画をもって正常を主張しつづけてきた。その長い闘いの結果、いびつが正常である、というピカソの感覚が定着してしまったように思われる」──これが、井尻さんの意見です。

「私はピカソの画の前に立っても、なんの感動も湧いてこないのを、如何ともしがたい。そこには、闘い終わったドンキホーテの形骸を見る思いがするだけである」とも書きそえられています(『銀の滴金の滴』築地書館)。

 ピカソもどこかで学ぶことをやめてしまった、ということでしょう。

 井尻さんのこのピカソ評それ自体については、「異議あり」「反対」「大反対」という人が、たぶん、いらっしゃるだろうと思います。「ピカソの画の前に立っても、なんの感動も湧いてこない」というのは、若干の例外をのぞき、じつは私もほとんど同じなのですが──そしてその「若干の例外」のなかには、友人の家でその大きな複製を見かけた、やせ馬ロシナンテにまたがるドンキホーテの画が入るのが、この場合、何とも妙な気がするのですが──どちらのうけとり方のほうがどうだとかどうでないとか、ここで論じようとは思いません。

画についての自分の鑑賞能力を、あまり信用することができないからです。ある子どもむけ漫画のなかに、「これでも学生時代は現代のピカソといわれてたんだぞ」「そんなにうまかったの?」「いや、なにが描いてあるかわからないからなんだけど……」

という親子の対話があったのを思いだします。これならば、じつによくわかるのですが

 しかし、井尻さんのピカソ評それ自身の当否がたとえどうあろうと、先に引いた井尻さんのことばが大切な問題提起をふくんでいることは確かだ、と思います。「闘い終わったドンキホーテの形骸」なんかには断じてなりたくない、と思うのです。そのためにも、「学習のある生活」というスローガンを、どこまでもかかげつづけたい、と思います。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p10-16)

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◎「「闘い終わったドンキホーテの形骸」なんかには断じてなりたくない、と思うのです。」……と。

何もいうことはありません。それぞれのこれまでとこれからを……。