学習通信040324
◎「生きる権利、学ぶ権利を全部奪ったわけじゃない」……と。
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科学的真理と価値観
一九九五年に社会問題となったオウム真理教をめぐる一連の事件の中で、私は、折にふれて意見を求められた。中でも多かった質問は、「なぜ高学歴の自然科学畑の人たちが、一見して非理性的・非合理的に見える教団の教義に走ったのか」というものだった。大きく分けて四つの要素があると私は感じている。
第一の要素は、「科学的真理は価値観から自由だ」という問題である。ウランの原子核分裂反応がヒトラーの御世に見つかったからといって、それはヒトラーの施政下の社会だけに通用するのではなく、科学的真理としての有効性は、社会体制を超え、時代を超えて保たれる。科学的な真理は、それがオウム真理教の研究施設で発見されようと、東京大学の研究室で発見されようと、全く同じ重みをもつ。
だから、どこかで割り切りさえすれば、科学者は、より有利な条件で研究ができるのならばオウム第七サティアンの方に魅力を感じることだって十分にあり得るのだ。サリン研究・製造の責任者と報じられた筑波大学出身の化学班のキャップは、「オウムにいると一日二〇時間以上研究できる。大学以上の設備がある」と話していたと伝えられた(『朝日新聞』一九九五年四月二七日付)。
第二には、研究者が現実に置かれている状態の問題である。自分の知的好奇心を満足させることができる程度に研究条件が整い、努力に見合った報酬が与えられ、生活上の必要が充足されていれば、あまり目移りはしないに相違ない。しかし、若手の研究者や一匹狼的な研究者の場合、疎外感をもつことは案外多いものなのだ。
課題意識が明確な有能な研究者ほど、現状に不満をもつ機会は多いかもしれない。そうした疎外感をもった研究者には、自分の創意が存分に発揮できる研究条件が提示されれば大きな魅力として映ったに相違ない。
第三には、オウム真理教がそれらの科学者に、「救済」という価値を提示したことだろう。科学的真理は価値観から自由だが、科学者は価値観から自由なわけではない。科学者は「いかなる価値を実現するために自己の知的能力を役立てるのか」を真摯に考えることが求められる。
ところが、現代科学の研究は細分化され、個々の研究に従事している科学者は、没価値的な意識状況に陥って精神的な空疎感に苛(さいな)まれがちだ。そこに「救済」といった魅力的な価値を提示され、カリスマ性をもった教祖に「その価値の実現のために君は重要な役割を演じるのだ」と訴えかけられれば、十分な説得力をもつ可能性がある。
第四には、オウム真理教団との直接の接触の機会の問題である。先の化学班のキャップの場合は、交通事故のむちうち症に苦しんでいた時期に知人に誘われて同教団関係のヨガ教室に行ったことが契機となったが、ヨガ道場が接点となった例は少なくないようだ。
信教の自由が保障された社会では、科学者がどのような宗教教団に入信しょうとそれは自由だ。しかし、自らが掲げる価値観と合わない人々の人権を平気で奪うような教団は、ある種の社会的な制約を受けざるを得まい。
(安斎育郎著「人はなぜ騙されるか」朝日文庫 p224-225)
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大学側の「拒否」の論理
優先すべきは、多数の学生の利益か。
一人の人権か。教団摘発から9年。
彼女が普通に生きていけるのは、いつのことだろう。
「現時点では諸般の事情により本学に迎えることができないとの結論になりました。ご寛恕(かんじょ)ください」
和光大学は東京都町田市にキャンパスがある。経済学部のほか、表現学部、人間関係学部の計3学部があり、約4千人が学ぶ。
ふだんは静かなこの私学が注目を浴びたのは、オウム真理教(アーレフに改称)の元代表、松本智津夫(麻原彰晃)被告の娘の入学取り消し問題が表面化したからだ。
20歳になる彼女は今春の受験で合格した。大学側は合格通知を送ったにもかかわらず、後で冒頭のような書面を本人に郵送し、取り消した。
大学側は、入学手続きの書類で家族構成の欄を見て、初めて親子関係の事実を知ったという。
三橋修学長(67)は、異例の声明文を出した。こんな内容だ。
「当人が学内外で特異な存在となり、内外の不安や好奇にさらされることを防ぐ自伝を持たない。その結果、学内の平穏な教育環境を乱す可能性が大きい」
実は、彼女は昨年も都内の別の私大に入学を拒まれている。
「広末さんとは別」
教育界には「私学だから学生を選ぶ権利があって当然」との声もある。が、「彼女が、憲法や国際人権規約に基づいて提訴すれば十分争える」(日弁連人権擁護委員会の丹羽雅雄弁護士)という事例でもある。各地の自治体が、裁判で負けながらも、信徒の住民票を受理しないのと似ている。ある意味で確信犯=B学長の声明文にも「社会の批判のありうることも承知の上」というくだりがある。
三橋学長に直接聞いてみた。
──学内で議論は?
「まず全教職員の意見を聴いた。賛否ある中で私が判断し、教授会の支持も得た。夜も眠れぬほど苦しい決断だつた」
──彼女の「人権」は?
「彼女の人生の選択肢を奪ったのは学長である私であり、その責任も私にある。だが、いわゆる人権派の人が言う人権は、大きすぎる。彼女の選択肢の一つを奪っただけで、生きる権利、学ぶ権利を全部奪ったわけじゃない」
「学生だけでなく、その父母にも大きな不安を与える。私大をめぐる今の厳しい状況を考えると、ウチのような弱小大学では無理だ。大きな大学なら可能ではないか」
──他の学生への影響を考慮するのなら、芸能人も同じでは?
「広末涼子さんのことが脳裏をかすめた。しかし、学生たちが、友達になりたくて浮足立つのと、不安におののくのとは次元が違う。当事者になり、腹をくくって考えてみないと答えの出せない問題」
神戸児童殺傷事件の加害男性の社会復帰問題についても触れながら質問した。学長は、
「名前を隠してひっそり生きる少年Aを受け入れるのとも訳が違う。彼女独特の問題です」
オウム関連で言えば、2年前には九州大学が、医学部に合格した元教団幹部の30代男性の入学を取り消してもいる。
東京6大学は「……」
その際は、京都大学の教授ら11人が人権侵害だとする意見書を発表した。その一人、池田浩士教授は批判する。
「確かに私学には、学生を選ぶ権利がある。だが、その選び方で大学の人権感覚が見えてくる」
同じく、河野敏雄教授も、
「『自信を持たない』と言うが、混乱を防ぐのが学長の責任。その責任を放棄し、受験生に負わせるなんて学長失格だ。京大ではありえない」
河野教授は、九大問題のとき、京大ならどうするのかと、学内の幹部に聞いて回った。当時の感触では、京大は「受け入れ可能」だったそうだ。おそらく、大学によって対応は違うのだろう。参考までに、東京6大学に文書で尋ねてみた。オウム関係者の親族が合格したらどうしますか、と。だが……。
「仮定の話にはお答えできない」
いずれも、そんな回答にならない返事しかくれなかった。寂しい結果だったので、池田、河野両教授のいる京都大学にも尋ねてみた。
回答はやはり「仮定の問題なので……」だった。 編集部 佐藤修史
(アエラ 04.3.29 p91)
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残された問題
オウムが語るから詭弁であり、オウムでないものが語れば「正論」として通用する。それがオウムの言説の厄介なところだ。例えば麻原や早川は「亡国日本」「平和ボケした日本人」という、小林よしのり以降、奇妙に復興することになるナショナリズム言語を多用してもいた。彼らはその時点でメディアの中で流通する批評やジャーナリズムのロジックを、脈絡などお構いなしに彼らの中にとり入れていった。
それはすでに述べた中沢新一らのニューアカ的な宗教論に対しても同様であり、ぼくたちはオウムから自らの鏡像をいかに批評しうるかという体験を強いられたのである。だからオウム騒動の末期、オウムについて論じる者たちが瑣末的に他の論者を批判する一種の「内ゲバ」状態になっていったのも、一つには批評の対象を「オウム」からすり替えていく無意識の逃亡であったように思うのだ。
同じ居心地の悪さをぼくは宮崎勤を通じて味わったが、オウムの場合、なまじ指導者層が半端な高偏差値集団であったゆえに、彼らの言葉の水位と批評する側の水位を近くしてしまっていた。
その意味でもオウムは「わかりやすい」存在ではあったが、同時にぼくたちの年代も含めて彼らをいまだ正当な形で言葉にし得ていないのではないか、という思いは残る。だからここでは手短にだが、オウムについて論じ残された問題の所在をメモしておくことにする。
一つは彼らによって失効されてしまった言葉をいかに再生させるのか、という点。例えばオウムの子弟の小学校への入学拒否は明らかに「人権侵害」である。彼らの教育を受ける権利を奪っている。けれどもそれに対して「人権」という言葉を口に出しづらい感情が正直言えばぼくの中にさえある。
けれどもやはり「人権」という言葉はそんなふうに葬り去られてよいものでは決してない。オウムのマスコミ批判も、人権や信教の自由も彼らが語らない限りにおいては正しい、とぼくは記したが、それは彼らの自己弁護の詭弁として借用されてしまう程に、それらの言葉や思想を使うぼくたちの側が未熟であったからではないか。その意味で、オウムを克服する言説をメディアや言葉を業とする者はやはりもう
一度構築しなくてはならない。
二つめは彼らが何故、一線を越えてしまったのだろう、という問題。オウムの始末の悪さはコミケあたりのおたくのサークルが勢いでサリンを製造して散布してしまったごとき点にある。サリンという発想自体、ミリタリーおたく的だが、それと実際にサリンを作り散布するにはやはり越え難い一線があるようにぼくには思える。
坂本弁護士一家の一件にしても、正直言ってまさかそこまではしないだろうと多くの人が思っていたはずだ。その「まさかそこまでは」という一線、いわば世間の暗黙の了解を彼らはあっさりと越えていった。例えばそれは殺人に見えても宗教上は魂の救済である、というロジックによるものだ、と説明されるが、しかし何故、そんな瑣末なロジックで彼らは一線を越えられたのか。
それは神戸の一四歳の少年の事件に関連してなされた「何故、人を殺していけないのかわからない」という若者の問いとその対応にも現われている。それはただのディベート的なロジックであって、そういう物言いそのものが本当は無効なのにもかかわらず、それに真剣に「考え込む」態度を示した人々がいたのはぼくには奇妙だった。
瑣末的なロジックで「一線」を越えてしまいうるその感覚と、それを許容する言語空間に私たちはあまりに鈍感になっていないか。それは一番目の問題とも関わるのだが、そういったディベート的ロジックの上位に来る価値を再確認する必要性にもつながる。再構築と書かないことの意味は敢えて記さないが、オウムはそれをあまりに拙速に「再構築」しようとした集団だった、とだけは記しておく。
三つめはオウムという全体をどう歴史の中に位置づけるかという問題である。ぼくたちの年代はオウムという樹の一本一本、あるいは葉の一枚一枚が余りにくっきりと見えてしまうため、森としてのオウムを言語化できないできた。他方では 「得体の知れないもの」というイメージのみがその全体像を代行し、オウム新法という明らかに「一線」を越えてしまった法律をも許容してしまっている。その意味でもオウムという全体をその身の丈に合う形で記述することが不可欠のように思う。
オウムをいかに歴史化するか
そのための手続きとして必要なのはオウムをいかに歴史化するか、という作業である。彼らがただ八〇年代消費社会の隘路としてのみ発生したのか、それとも彼らの不毛もまたこの国の否応ない歴史的所産なのか。あるいは彼らはすでにある言葉や思想をただ「引用」していっただけだが、それとは別の次元で彼らの行動はこの国の歴史に先例がないものなのか。
その意味では長山靖生『偽史冒険世界』や小熊英二『単一民族神話の起源』といった仕事において国民国家の形成の過程で起きた偽史運動への注目がなされているのは、オウムを近代史の中に位置づける上で重要な視座を提供しているように思う。
「正史」はあらかじめ存在するのではなく、むしろ「偽史」運動との関わりの中で形成されていく側面がある。柳田民俗学は「正史」化し得た「偽史」の一つだというのがぼくの考えだが、教科書批判の運動が「オウム」後に保守論壇の枠を超えた大衆的な広がりを見せてしまったことの説明は、「オウム」を「偽史」運動の一つと位置づけることで初めて可能になってくるように思うのだ。
教科書批判以降の「日本」や「伝統」の奇怪な再構築のされ方は、偽史運動とナショナリズムの言説が表裏一体のものとしてあることの繰り返しに、ぼくには思える。「偽史」を「トンデモ本」として哄笑(こうしょう)の対象とする態度がオウム後には成立したが、それはオウムの歴史化にとっては必ずしも益する態度とは言えない。
あるいはぼくの民俗学の師の一人であった故・宮田登の『ミロク信仰の研究』は、オウムを日本の民俗宗教史の中に位置づける視座を充分に持っていた。宮田はミロク信仰の中に日本人の「世直し」観、メシアニズムのあり方を分析したが、その中で日本人の歴史意識においては「ミロクの世」というユートピアが現実の歴史の延長に想定されず、したがって終末観も希薄である、と指摘している。
「ミロク信仰」とはゆるやかな社会変革を求める「世直し」であり、それは日本における「革命」 の不可能性を民俗学的に立証したともいえるのだが、日本型の「世直し」においては強力かつ現実的なカリスマを民衆は必要としない、というのが宮田の主張である。オウムはその不在の終末を自作自演することで達成しようとした点において、民俗宗教史上特異な存在だったと言えるかもしれない。
島田裕巳がスケープゴートとされたことでオウムへのアカデミズムのアプローチは中断している印象をぼくは持つが、オウムを歴史の中に落とし込む視座を、この国の歴史学や民俗学は持っていないわけではないのである。
八〇年代の陰路としてのオウム、という自明の像からぼくもまた脱却すべき時が来ていることを自分でも感じている。ただぼくたちはぼくたちにあまりに自明なオウムという不毛をそれが自明でない人々に届く言葉を取り戻し、少なくとも模索する責務があるということだけは確認の意味でもう一度、記しておきたい。
(大塚英志著「「おたく」の精神史」講談社現代新書 p364-371)
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